~烈戦記~
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第十話 ~捜索~
星々が散らばる夜空。
辺りを覆うように生い茂る木々達。
本来なら静寂に包まれているはずのこの村は今兵士達の怒号と剣撃のぶつかり合う音で溢れかえっていた。
『同胞の仇!生きて逃がすな!』
小高い丘の上では月明かりを背に受ける騎馬武者、蕃族の将にして部族の王の第一子形道晃がその手をこちら側へ振りかざし、彼の後ろからは続々と兵士達がこの陣、または村跡地へ向かってなだれ込んでくる。
『前衛は何をしておるか!敵の突破を許すな!』
そしてそれを迎え撃つは零の属州、烈州本土より派兵された賊軍掃討軍部隊将、黄盛。
そして。
『蛮族なんぞさっさと蹴散らせ!』
掃討軍部隊長にして烈州州牧が第二子、洋班。
彼らがこの戦闘の引き金を引いた主謀者達だ。
戦闘は我々官軍側が占領した村に立て籠もり、それを蕃族側が攻める形になっている。
だが、官軍側は不意を突かれたという事もあり防衛線を整える前に戦闘が始まり、早くも蕃族の陣中への侵入を許してしまう。
そして今陣中は敵味方入り乱れての白兵戦になっている。
一度白兵戦となってしまえば将の用兵知識、経験よりもその兵士達自身の戦闘能力や訓練度、つまり"質"に頼る他は無いのだが…。
『はぁ…はぁ…』
『くっ…!』
周りの兵士達を見る限り、ここ連日の行軍や戦闘、軍事行動によって兵士達の疲労は限界にきているようだ。
そんな状態ではいくら兵士達の質が良くても敵に当たる事など到底できない。
…それに。
『うぐぁ!』
『ぐふ!』
『た、助けて!』
戦闘の様子を見る限り、その質でさえ蕃族に劣っているようだ。
これではいくら2000もの兵を集めた所で精々訓練経験の無い村々を襲うか、良くて同数の賊の集団と戦うので精一杯といったところか。
『おりゃ!』
『くっ!こいつら他の奴らとなんか違うぞ!』
だが、今は私が関から連れてきた800の兵が何とか陣中に散り散りになりながら蕃族の兵に対して抵抗はしている。
しかし、それもいつまで続くかわからない。
関軍800に寄せ集めの官軍2000で何とか兵数は多いものの、形道晃のいる丘からは今もなお次々と兵士達がその姿を現していて、これでは我が方の壊滅は時間の問題だ。
『どりゃぁ!』
『邪魔だぁ!』
ザシュッ
『ぐえッ!』
そんな戦闘の最中、私は陣内の敵味方を避けながら馬を走らせていた。
理由は一つ。
この陣内の何処かにいる豪帯様を見つけ出す為だ。
本来なら軍権が無くともこの壊滅の危機の中、全軍に撤退命令を出して我が部隊が殿を務める間に早々に官軍を引き上げさせる所だ。
だが、今は陣中のどこかに豪帯様がいる。
こんな状況で撤退を叫べば、兵士達は命令の混同で更に混乱し、皆一心不乱に逃げ惑うに決まっている。
そうなれば豪帯様を連れ帰らせるどころか、陣中に置き去りにされかねない。
そうなるくらいなら兵士達には悪いが、現状のまま私が豪帯様を陣中で見つけるまでの囮になってもらおう。
だが、きっと壊滅する前に兵士達には撤退命令が出てしまうはずだ。
洋班も黄盛も壊滅するまで気付かないなんてことは無いはず。
だから私はそれまでに何としても豪帯様を見つけ出さなければならない。
そうした結論が出た事によって私は敵味方が剣を交える中、ただ一騎誰とも剣を交えずにこうして陣中を駆け回っている。
『豪帯様!』
私は手近にある天幕を開く。
『げぇ!?』
『み、見つかった!?』
『…』
だが、そこに居たのは官軍の兵だった。
見たところこの混乱に乗じて盗みを働いているようだ。
…しかも味方の。
『で、出来心で…あれ?』
『こ、こないのか?』
命乞いをしている傍、もう一人は健気にも剣を私に向けて来る。
だが、こんな小物共に今は構っている暇は無い。
私はその天幕を後にした。
『…』
私は丘の上で敵陣内で行われている戦闘の様子を見ながら、関とのこれまでの関係を振り返っていた。
異質だ。
それが彼らと初めて会った時の印象だった。
私と彼らが出会ったのは八年前で、その頃の蕃族はまだ零とは対立しており、父と共に対北前線になっていたニ城にて零と対峙していた時だった。
"形道雲様!"
"なんだ?敵襲か?"
"い、いえ!何やら北国より使者が来ているとか…"
"…何?"
私達はこの報せに驚いていた。
元々蕃族と北の国々とは昔から対立の関係にあったからだ。
しかもその歴史はとても古くからで、零以前の烈王の時代、さらにはそれ以前にまで遡る。
それまでに何回かは外交も行われてきたようだが、それも記録に残るものは指を折る程度のものだった。
それだけに私達は戸惑った。
"ふむ…"
"ど、どうなさいますか?このまま使者を斬り捨てて…"
"いや、待て"
この時父上は伝令の提案に待ったをかけた。
"…父上、まさか北国からの使者に会われるのですか?"
"…あぁ"
"何故です!?彼ら北国との交渉など無意味です!現に今までだって使者のやり取りなど…"
"確かにそうだ。奴らとは遠い先祖の代より外交を断絶し、武力で領土を争って来た。だが、それは使者のやり取りがなかったからではないのか?"
"それは…"
"正直ワシにもわからん。今まで生きてきた中でこんな事はなかったからな。だが、断言はできない分今ここで会いもしないで使者を斬ってしまってもいいものだろうか"
"…"
"なに、心配するな晃よ。会ってみるだけ会ってみてその使者がふざけた事をぬかす様なら直様斬り捨てればよい話だ"
"父上がそう言うのでしたら…"
そして私達はその使者に会う事になるのだが…。
"旧陵陽関関主馬索より対蕃族防衛の任を引き継ぎました豪統にございます"
その使者は護衛ただ一人を従え、敵陣真っ只中で自分が敵国の前線拠点の大将だと名乗った。
それが彼ら豪統殿と凱雲だった。
当然私達は皆騒然とした。
"…ふむ。して、豪統殿。其方は何をしに参られた?まさかそれだけを伝えにわざわざ敵陣真っ只中に来たわけではあるまい"
"えぇ"
皆が固唾を飲む。
いったい彼らはこんな危険を犯してまで何を交渉しに来たのか。
"では、要件を聞こうか"
"単刀直入に言います。我々と同盟を組んでくださらぬか?"
"なに?"
それは誰もが予想だにしない事だった。
"ご、豪統様ッ…!。確か今回の使者は停戦の筈では…"
そしてそれは護衛に着いて来た凱雲すらも予想外だったようだ。
"お互い長い戦の中で勝敗はつかず、兵は疲弊し、国は安定せず、今や我らの陵陽関と貴方方のここニ城との間で悪戯に少数の兵をぶつけ合っているのが現状であります。そこで、今一度は積年の恨みを忘れ、互いに民の生活に目を向ける機会を作るのは如何でしょうか"
豪統殿の言い分は"このまま泥沼化した戦を続けても民の生活が良くなる訳では無いから戦を互いに止め、内政をしよう"との事だった。
確かにこれは我々にとっても都合がいい事だ。
昔からこの国では北への牽制用の軍事費に半ば習わしの様な感覚で国庫を割いて来たのが歴史の中である。
だが、北国が小国の集まりから戦国六雄の傍、烈に纏まってからは北からの圧力が増し、此方は本格的に軍事力を持たねばならなくなる。
更にその烈すらも呑み込み広大な領土を有した零と隣接してからは尚更だった。
しかもその頃の北国零は更に膨張を続け、いつの間にか北の国々を統一してしまっていた。
その間にも我々は牽制や防衛の軍事費に国庫を蝕まれ続け、零には遠く及ばないにしてもそれなりの領土を有していた筈の我が国は栄えるどころか、発展は遅れ、内需は安定せず、挙句に敵国の商人達との交易によってなんとか国を保っている有様だ。
そして、その商人との交易によって国の情報が漏れてしまっているようだ。
…だが、我々には商人達を規制する事はできない。
そんな状況下では豪統殿の話しは渡りに船だった。
…だが。
"豪統殿、貴方の言い分はわかりました。確かに、我々はその領土には見合わない程の軍事費に頭を抱えております"
"そのようで"
"しかし、それでもこの話しはお受けできませんな"
"…何故です?"
そうだとも。
我々は誇り高き民族、蕃族なのだ。
北国では敵国の人間を拉致しては犬馬の如く奴隷として扱うのが習わしのようだが、そんな下劣な民族に屈する様な我々では無い。
現に今までの戦の中で我ら同胞もその奴隷の一部として連れ去られているのだ。
だからこそ我々は苦しい中でも国庫を割き続け、ひたすら同胞を助ける為、またこれ以上同胞に手を出させない為だけに兵を出し続けているのだ。
それが我々と北国との歴史であり、払拭できない関係なのだ。
停戦は勿論、同盟などは言語道断だ。
"…我々との歴史は知っておりますな?"
"…えぇ"
"仮に我々は最後の一兵になろうとも、その信念を、同胞の恨みを忘れる事はござらん"
"…そうですか。では再び戦場でお会いしましょう"
"あぁ、何時でも参られよ"
"…では"
交渉は決裂。
短い言葉を交わし、豪統殿は我々に背を向け内宮を出ようとする。
"待たれよ、豪統殿"
"…"
だが、それを父上は制しされた。
"敵国の、しかも大将首がわざわざ敵陣ど真ん中まで護衛一人で来るとは…覚悟はして来ただろうな"
父上が宮座から腰を上げて腰から剣を引き抜いた。
そして、それを待っていたと言わんばかりに内宮にいた重鎮達も剣を引き抜く。
それもその筈。
敵国の大将が護衛一人で我が国に乗り込んで来たという事は"貴様ら何ぞ護衛一人で充分"と言っているようなものだ。
皆舐められたものだと言わんばかりに目をギラギラとさせてその瞬間を待った。
それを察し豪統殿の傍らにいた凱雲が持っていた長柄の獲物の刃から布を取り払い大薙刀を構えた。
その時の彼から怯えたなどは一切感じられず、迫り来る者全てを薙ぎ払ってやると言わんばかりの不動の面様をしていた。
その気迫に冷や汗をかいたのを今でも覚えている。
"形道雲殿…敵国の使者に刃を向けてもよろしいのですか?"
一触即発の空気の中、豪統殿が背中越しに父上に話しかけられる。
"何分、戦育ちの性分でしてな。敵国の人間相手に対する礼を私はこれしか持ち合わせておらんのだ。悪く思うな"
そう口元を釣り上げながら父上は言われた。
決定的かと思われた。
私はこれから始まる戦闘に備えて構えを更に深くする。
…だが。
"でしょうね。実を言うと私達も武官の出でしてね。わざわざ敵国まで赴いて喋るだけの役には些か心残りがありましたゆえ…"
豪統殿はゆっくりと腰から剣を引き抜いた。
"しかし、もし来られるのでしたら用心なさいませ。私はともかく、この護衛凱雲はそう安安とは打ち取れませんぞ"
"何?凱雲だと?"
明かされた護衛の名で私を含めて周りがどよめいた。
我々の所には今の北国に三人の鬼神がいると伝わってきていた。
まず、初めにこの国より北に位置する場所に住む騎馬民族、荒涼蛮の王、鄧旋。
次に零国の将軍にして旧戦国六雄"童"の武門名家、乱家の若武者、乱獲。
そしてその彼らと互角に渡り合った無名武官の懐刀…。
それが三人目、凱雲だと。
"…果たして、今ここにいる武官で足りますかな?"
顔は知らないとはいえ、まさかこんな所で北国の武の頂点の三人の内の一人と対峙する事になるとは。
豪統殿の言葉に私達の緊張は一気に高まった。
…だが。
"ふふっ、ふははははっ!!"
"ち、父上!?"
その緊張は父上の豪快な笑声と共に消し飛んだ。
皆が皆どうしたと言わんばかりに父を見る。
"いやいや!何とも清々しい武者振りではないか!"
"そ、そんな事言っている場合ですか!奴らを早々に…"
"よいよい。皆、剣を下げろ"
"父上!?"
そしてその父からは思わぬ言葉が飛び出した。
皆が渋々と剣を下ろしていく。
"…刑道雲殿、これはどういうおつもりで?"
"いやなに、そなたらの豪胆振りに敵ながらに惚れましてな"
"父上!何を言われますか!"
"お前は黙っておれ"
"…ッ"
"…ワシは歳を取りすぎたのかもしれん。そなたらの姿に胸が空いてしもうたわ"
"…情にございますか?"
"いや、勘違いしてもらっては困る。ワシはただ、そなたらの首をここではなく戦場で奪いたくなっただけの話しよ"
"…そうでございますか"
そして豪統殿は納得したように剣を納めた。
そしてそれに続いて凱雲もまた薙刀の刃を宙へ逸らす。
"行け"
"では…"
最後は短いやり取りだった。
"父上!私は納得できません!"
そして豪統殿が内宮を出た後、私はすぐに重鎮達の前で父上に噛み付いた。
納得ができなかった。
何故敵国の、しかも大将首を目前にしながら刃を納めねばならなかったのか。
しかも、そうさせたのは他らぬ自分の父の酔狂によってだ。
これでは下について来る者はどうなる?
私は父の軽率な行為を攻めた。
だが。
"心配するな晃よ。何もワシはさっき言っていた理由だけで奴らを逃がしたわけじゃない"
父上にはそれとは違う理由があると言われた。
"では何故!?"
"…なぁ、晃よ。奴らを見てどう思った?"
"はい?"
そしてさらに問い詰めてみれば、唐突に質問を突きつけられた。
最初ははぐらかそうとしているのかと思った。
だが、父は大事をはぐらかすような人ではないし、宙を見据えるその鋭い眼差しは意味深に何かを察しているようだった。
"…どうと言われましても"
だが、質問の意味がわからず、私はそう答える事しかできなかった。
"彼奴らがどうしたのですか?まさかそれが彼奴らを逃がした理由にはなりますまい"
"直にわかる"
"…"
そして私を含め重鎮一同は何とも言えない空気になった。
いったい父上は何を考えられているのか。
敵大将を自分達の大将自ら逃がした事実は大きい。
だが、父上はこの国切っての読みの深さと手腕をもっているのもまた事実だった。
ださらこそ、重鎮達も父上の判断の意味を必死に探っていた。
"刑道雲様!"
そんな内宮の空気の中に兵士の声が響いた。
皆が一斉に内宮に入ってきた兵士に視線を向ける。
"なんじゃ?"
"じ、実は…"
"北国の使者は引き返していったのですが、彼らが引き連れて来た荷車が何十も我らの陣に放置されていて…"
"な、なんだと!?"
"敵の策略だ!直ちに陣から遠ざけろ!"
"やはり奴らはこれを狙ってッ…!"
"慌てるな!"
兵士からの報告で騒然となった重鎮達に父上は一喝した。
皆焦りの表情を隠せないまま父上の指示に従う。
"…して、中身は確認したか?"
"い、いえ!まだ敵国の荷車ゆえ兵士の身で勝手に確認はできませんので指示を仰ごうかと…"
"…ふむ。皆、ついて参れ"
"え?"
"ワシが直々に確認する"
皆この日何度目かになる驚きを見せた。
何故、危険かもしれない敵の荷車を大将自ら確認しに行くのか。
父上は軽率な行動を何より嫌って来たのに、どうしてここでこうまでして行動理念が狂うのか。
皆動揺していた。
"直にわかる"
そう言って父上は内宮を出られた。
そしてその後父上と私含めた家臣団が荷車の確認をしたところ、中身は全て今までに北国に連れ去られていた同族達だった。
皆やはり騒然としていたが、その中でただ一人父上だけが豪快な笑い声を上げていた。
それから父上は国の軍事優先の方針から内政優先へと切り替えた。
最初は家臣一度反対が多かった。
私もその内の一人だ。
仮に同族達が帰ってきて、北国側にも攻める意思が無いにしても、あくまで一時的に過ぎず、信用するのは危険だと何度と無く家臣を引き連れて父上に上訴した。
しかし、父上は"時が経てば人が変わり人が変われば方針は変わる。一時的だと言っていては何も変わらない。彼らは大丈夫だ。私が保証しよう"と聞き入れられなかった。
しかし、その結果私達は疲弊した内政を立て直す事ができた。
民は安寧を取り戻し、内需も安定。
商人を介した交易はその後も続ける事にはなったが、それにより北の文化の恩恵も受ける事ができた。
そして極め付けは父上が保証した通り、彼らはこの八年間の間本当に我々に害を成す事が無いばかりか、一度蹴った友好の使者を度々に出してきた。
流石に自らこの国に乗り込んでくることは無くなったが、それでも私含めた家臣達の中にも今までの北国の印象を、そして何より北国の人間である豪統殿に対しての印象を改め始めるようになる。
そして3年前等々いがみ合い続けた両国は同盟を結ぶにいたった。
『…』
だが、その尊い同盟は今正に目の前で崩れ落ちている。
しかも、それは彼らからの裏切りによってだ。
私は家臣の中でも最後まで主戦派の立場をとっていた人間だが、その分自論を曲げるに当たって誰よりも北国との関係を期待していた人間になっていた。
だからこそ尚更この現実が悲しくてならなかった。
だが、父上が言われた"時が経てば人が変わり、人が変われば方針が変わる"の言葉は何と無く開戦前のやり取りで理解できた。
豪統殿はきっとこの流れに抗っただろう。
そういうお方だ。
『刑道晃様』
『…なんだ?』
隣に馬を並べた"奴宮"(ドグウ)が声をかけてくる。
『敵陣内は既に敵味方の入り混じる混戦状態にございます。ですので、一旦残る兵を温存するのが上策かと…』
『いや、このまま一気に攻めて早期に次戦に備える』
『ははっ』
そうだ。
これからが本当の戦なのだ。
小競り合いに時間を割くつもりはない。
『…北国は変わりませなんだな』
奴宮が深いため息の後に言葉を並べた。
『…あぁ』
『も、もうダメだ!』
ある兵士とのすれ違い際にそんな言葉が聞こえた。
横目に見えたその兵士は味方側だ。
敵前逃亡。
戦闘中に一人でも逃げ出す者が現れればたちまち周りを巻き込んで一気に敗走の流れが出来上がる。
だからこそ一軍を率いる将はこの一人を出さない為に日々の訓練や兵士達の信頼を勝ち得ていなければならない。
そして戦闘中にもしも現れてしまえば"死"をもって厳罰に処さねばならない。
それが強兵を率いる軍律というものだ。
だが、今の私にはその兵士を厳罰に処すよりも今の目的の為に背律行為を見逃す事を選んだ。
理由は簡単だ。
元々練度が低く、上の将が上の将なだけに日常の酷使が予想できるこの部隊で高々一人を見せしめにした所で効果が無いと踏んだからだ。
もう時間がない。
今はその事実だけが私を焦らせた。
私は既に何回と繰り返した行為を続ける。
天幕の入り口に薙刀の刃を引っ掛けて中に入る。
『豪帯様!』
中では敵兵と味方兵が刃を交えていた。
その光景に何度目かになる冷や汗をかいた。
急いで豪帯様の姿を探す。
…だが、それらしき人影は見当たらない。
良くも悪くもここにはいないようだ。
私は心の中で安堵しながらも急いで天幕を出た。
『待たれい!』
だが、天幕を出ると同時に敵意の篭った声で静止をくらう。
そして声の方へ振り返れば馬に跨り槍をこちらへ構える敵将の姿があった。
『名のある武将とお見受けいたす!』
厄介な事になった。
私は今もなお増え続ける逃亡兵の中で急がねばならないのに敵将に構っている暇などない。
かといってこの陣内を敵将を巻きながら探すには余りにも狭すぎる。
『我が名は牌豹(ハイヒョウ)!いざ!』
そうこう悩んでいる間に敵将はこちらへ馬を走らせてくる。
…ならば。
私もそれに合わせて敵将に馬を走らせた。
どれ程の手合いかはわからない。
だが、打ち合うその数合すら今の私には惜しい。
だからこそ、この一刀に渾身を込める。
敵将との距離は僅か。
もう少しで互いの間合いに入る距離。
私は駆ける馬の上で薙刀を頭上高くに構えた。
『好きあり!』
敵将は私の構えを見てすぐ反応し、槍の握る位置を浅くし、間合いを伸ばてガラ空きになる胸元に向けて槍を突き出してくる。
その間僅か。
間合いに入るギリギリの瞬間だった。
…成る程、自ら敵将に挑むだけあって中々な手合いだ。
これでは避けるか中途半端に凪ごうとすれば馬上での体を維持できなくなる。
はたまた並の手合いではそのまま間合いを見誤り突き崩されてしまうだろう。
…だが。
『フンッ…!』
私はそのまま渾身を込めて薙刀を振り下ろした。
ガキンッ
『…え』
それがすれ違い際に聞こえた彼の言葉だった。
私は後方の敵将には目もくれずに馬を走らせた。
グサッ
微かにだが、私の後ろからは槍の先端が地面に突き刺さる音が聞こえた。
それを聞いた後、私は天幕と天幕の間をすり抜けて唖然としているであろう敵将の視界から逃げた。
私の槍捌き完璧だったはずだ。
間合いギリギリで見せた敵将の隙。
そしてそれに乗じて意表を突いた間合い詰め。
自分の腕に自信があった分、槍が届かぬ内に勝利を確信していた。
…だが、気付いたら敵将は私の横をすり抜けていた。
また、敵将の胸元を貫くはずだった私の槍はいつの間にか矛先を失っていた。
呆然。
まさにその言葉が当てはまる状態に私は陥っていた。
私は矛先を失った槍を眺めながら、間合いの瞬間に起きた出来事を思い返す。
"フンッ!"
その声はまさに敵が持っていた得物を振り下ろした瞬間だったのだろう。
…だが、それが私の槍の矛先を斬り落としたのか?
…あり得ない。
経験からしてあの間合いでは彼の得物が私の得物を捉えるより先に胸元を槍が貫いていたはずだ。
振り下ろす動作、しかもあんな胴が隙だらけになる程掲げた薙刀が私の槍を捉えられる訳がない。
それこそ彼の薙刀が私の槍の突きを上回る高速の斬撃でなければ…。
『…ッ』
だが、私はふと見た地面に突き刺さる槍の矛先を見て背筋が凍った。
その地面に埋まる刃が、事実に起きてしまったのだと物語っていたからだ。
『…化け物だ』
そんな言葉が漏れてしまっていた。
『はぁ…はぁ…!』
何とか先程の敵将を巻いたようだが、随分と陣より端の方に来てしまっていた。
そこには既に敵の姿は薄く、また、敗走兵の姿を良く見かけるようになる。
…だが、何故かその敗走兵達に違和感を覚えた。
何というか、逃亡にしては数が多く、退却にしては数が少ないというか…。
だが、どの道時間が無い事だけは察する事ができた。
私は縋る思いで天幕の入り口を広げた。
『豪帯様!』
…だが、そう上手くいくわけも無く、そこには微量の兵糧があっただけだった。
『…クッ!』
私は苦々しくも天幕を離れようとする。
『ま、待ってください!』
『!?』
だが、突如気配の無い天幕の中から声がした。
私は薙刀を構えた。
『そこにおるのは誰だ!』
『わ、私は味方です!』
すると、兵糧の山の影から数名の兵士が出てきた。
だが、見た所兵糧番の様には見えない。
…では略奪か?
だが、ならば何故私を引き止めるのか。
私は不思議に思いながらも近付いて来る兵士達から少しでも情報を引き出せないかと内心すがり付く思いで訪ねた。
『お前達はここで何をしておる?見た所兵糧番では無いようだが…』
『はい、我々は前線で洋班様の側で共に敵兵に当たっていたのですが…』
そこで兵士達の顔色が歪んだ。
なんだ?
『…洋班様は戦況が芳しくないと見るや否や撤退命令は出されず、我々に殿を任せると言って黄盛様と共に退却されて…』
『…なんと愚かな』
先程の違和感の原因はこれだったか。
部隊の大将の敗走を知らぬ者が健気にも敵に当たり、偶然にも敗走途中の大将を見かけた者が逃げ始めている状況らしい。
そして彼らが撤退命令を出さなかった理由は、統率が取れなくなってバラバラになった部隊の中で殿を任せられる戦力がなく、変わりに"囮"という方法で残った兵士達に時間稼ぎを期待したからだろう。
…しかし、戦の大将が2000もの自分の兵士を戦場に置き去りにして逃げるとは。
人の事は言えないが、上がこれではついていく兵士達の事を思えば不憫でならない。
そしてそんな人間の為に駆け付けた我々は一体…。
『…あの』
『ん?なんだ?』
私が頭を抱えている所に先頭の兵士が声をかけてくる。
そうだ、まだ本題を聞いていない。
我は直ぐに頭を切り替えた。
『先程の…豪帯様と呼ばれる方は子供でございますか?』
『何!?お前達!豪帯様の場所を知っておるのか!?』
失礼だが"子供"と呼ばれて間違い無く豪帯様だと確信できた。
私は思いもよらない情報に内心歓喜した。
『え、えぇ…。実はそちらに…』
『なに!?』
兵士が先程出てきた兵糧の影に指を指す。
すると兵士数人がその物陰へと姿を消し、何やら大きな物を運んでくる。
『あ、豪帯様!』
そしてその大きな物は紛れもない豪帯様であった。
だが、その姿は両足と両手が縄で縛られ、目には周りが見えないように目隠しがされていた。
私は直ぐに駆け寄った。
『な、なんとおいたわしい…ッ!』
『こ、これは洋班様の命で仕方なく…ひっ!』
私は兵士の言葉に思わず睨んでしまっていた。
だが、冷静に考えてみれば兵士達はあの洋班に逆らえるわけもなく、また相手が洋班であればこれくらいするのは予想できた事だ。
私は私自身を宥めた。
『…直ぐに縄を解け』
『は、はい!』
目の前で兵士達が縄や目隠しを緩める。
しかし、冷静になってみれば尚更この兵士達が豪帯様をこの天幕で保護していた理由がわからない。
敵兵に降伏の手土産にするにはこの者達は豪帯様を知らないようだが…。
『お主ら、何故豪帯様をここで?』
『は、はい!実は我々も真っ先に逃げようとはしたのですが、このままではこの方が陣内に置き去りにされてしまうのでは無いかと思い…かと言って彼をここまで連れて来たはいいものの彼を連れて逃げ切れるかどうか…』
成る程。
要するに彼らは豪帯様を連れて逃げ切れるかどうかがわからずここで手をこまねいていたという事か。
そのまま豪帯様を連れてさっさと逃げてくれていれば良かったのだが、そうで無くてもこの兵士達には感謝せねばな。
『…お主ら、先程はすまなかったな。改めて礼を言うぞ』
私は馬から降りて首を垂れた。
『い、いえ!とんでもございません!頭をお上げください!』
兵士達は自分よりも上の人間に頭を下げられて慌てていた。
…だが、いつまでもこうしてもいられない。
私は改めて頭を上げた。
『…して、そんな主らに頼みたい事がある。良いか?』
『は、はい!何でも仰せください!』
兵士達は先程の行為に相当感慨深かったのか私の頼みにしっかりと反応してくれた。
これなら任せて大丈夫そうだ。
『主らに関まで豪帯様の護送を頼みたい。頼めるか?』
『はっ!…ただ、貴方様はどうなさるのですか?』
兵士は最初から私が豪帯様を引き受けるものばかりと思っていたのか、豪帯様を預けた後の事を聞いてきた。
『私はここに残ろう』
『…殿ですか?』
『あぁ』
そうだ。
私の任務は最初から味方部隊の援護、または殿なのだ。
それに豪帯様も見つかった今、尚更馬を持たない兵士達に任せたのだから時間を稼がなくては。
兵士達の顔には"心配"の二文字が浮かんでいた。
『なに、気にするな。私はこういった事は慣れておる。それに私一人では無いからな』
兵士達の心配を除くと同時に頼れる自分の部下の存在も知らせておく。
これなら万が一何か退却に不具合が起きても豪帯様を足手まといと道に放置する事は無いだろう。
まぁ、彼らにいたってその心配は必要なさそうだが。
『…わかりました。どうか御武運を』
『あぁ』
私はそう言って天幕を出た。
さぁ、ここからが腕の見せ所だ。
今までは平和の中で必然的に振えなくなっていたこの薙刀。
そして今最重要であった豪帯様の護送も任せる事ができた。
これで久々に武将としての本懐を成す事ができる。
殿。
それは敗軍の中でただ唯一敵に当たる役目。
死亡率で言えばそれこそ常戦の比では無い。
しかし、だからこそ勝戦よりも重責であり、また武将の武が最も輝く瞬間でもある。
私はこの殿の中で何とも言えない高揚感に見舞われた。
私は勢い良く馬に跨ると、陣内に散開した味方勢を集めに中央へと馬を走らせた。
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