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銀河英雄伝説 異伝、フロル・リシャール

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第1部 沐雨篇
第1章 士官学校
  006 策士とお菓子

 宇宙歴784年の晩夏のことである。
 フロル・リシャールの予想通り、ヤン・ウェンリーが2学年を終える3か月前ほどに戦史研究科の廃止が決定された。それはつまり、戦史編纂室研究員への道が閉ざされかけた憐れな青年士官候補生が一人生まれたことを意味したが、当人以外にしてみればむしろ喜びを感じた人間も多かっただろう。そもそも戦史研究科は国防軍士官学校の中でもハズレの科であり、そこの科が廃止になった代わりに他の科に転科できることを喜ぶ学生の方が多かったからである。多かった、というのは適切な表現ではない。人数にして、2人以外は、概ね好意的にこの決定を受け取っていたのだ。
 だがここで、ヤン・ウェンリーは彼の人生において一定量しかないバイタリティの数割を消費するという冒険に出た。

 戦史研究科の廃止撤回運動を開始したのである。

 このささやかな抵抗運動は主にヤン・ウェンリーとジャン・ロベール・ラップによって主導されたが、恐らくもっとも活動的、かつ効果的に協力してくれたのは、部外者のジェシカ・エドワーズであった。彼女はその組織力、指導力、説得力、さらにその美貌を以てして、戦史研究科に席を置きながらそれに矜持を持たぬ一般学生に誇りを持たせんとしたのである。夏から秋にかけて士官学校の校門前には、持ち前の二枚目と笑顔でビラを配るラップ、カリスマ性を発揮しながら力強い檄を飛ばすジェシカ、そして<戦史研究科廃止反対!>の旗を所在なさ気に持ったヤンという三人の姿が連日見受けられたのだが、結果としては、廃止撤回を成すことはできなかった。

 この活動の際、ヤンとラップ、そしてジェシカの予想を裏切って戦史研究科の廃止を肯定した者がいた。フロル・リシャールである。
 彼の弁を借りるならば、
「ヤンもラップも、戦略研究科に転科できるだろう。俺の後輩になるんだし、俺としてはその方が嬉しいんだけどなぁ」
という妙に素直な個人的な理由であって、これにはヤンも説得の言を持たなかった。ヤンが戦史研究科の撤回を求めるのも、突き詰めれば戦史を勉強したいという彼個人の私的な理由であったからだ。
 フロルの言葉が効いたのかは知らないが、結果的にヤンとラップの活動は過激な展開を迎える前に終焉を迎えた。本来、このような活動をすれば、停学あるいは退学を言いつけられかねないところであったが、シトレ校長はむしろその自主性を尊重し、ほとんどの学生に罪を問わなかった。首謀者二人はさすがに処罰を食らったが、そも戦史研究科図書旧館の蔵書リストを半年間かけて作製するというものであって、戦史研究科図書館が閉館になったあとの書物の行方を確認できたことは、むしろ彼らにとっては褒美とも言えるものであった。この気の利いた処置に、ヤンは今後、シトレ校長に足を向けて寝られぬだろう。

 
 時は過ぎ、9月を迎え、新学期。
 国防軍士官学校に二人の人物がやってきた。
 一人は、ヤン・ウェンリーの二つ下の後輩として入学してきた、ダスティ・アッテンボロー。
 もう一人は事務局次長として赴任して来た、アレックス・キャゼルヌ大尉。
 どちらも将来のヤン・ウェンリーにはかかせない人物であって、そしてフロル・リシャールにとっても終生の友人であり続けることになる、二人であった。



***



 午後のダイニング・キッチンには、日の光が存分に入って、冬も深まるその季節であっても、過ごしやすい暖かさだった。
 白を基調にした壁紙に、濃い茶色を中心とした派手すぎない家具は、そこに住む人のセンスの良さを如実に表している。壁際に置いてある小さなテーブルには、TVフォンの受話器、空のインク・ボトルに入ったカリフラワー、三人家族の笑顔が収められた写真立て。
 フロルは自分で持ってきたエプロンを身につけると、Yシャツの両腕を捲る。写真の中の人物を見ると、やはりフロルが士官学校で見たことのある事務局長が映っていた。ジェシカの家に来ているのだから、違う人物が写っているはずは、そもそもなかったのだが。

「いい写真だな」
 フロルは自分の家族を思い浮かべながら、そう呟く。思い返してみれば、自分の士官学校の部屋には、写真も置いていない。持ち歩いている携帯端末には、もしかしたら家族で映った写真が入っているかもしれないが、それも定かではなかった。フロルの部屋にはコルクボードが架けられている。メモを貼り付けるだけでは味気ない。写真をプリントして飾るのも、悪くないアイディアだった。
「でしょう? 音楽学校に入学できた年に、家族で旅行に行ったの。その時に撮ってもらった写真。写真は何枚も撮ったのに、三人一緒に写った写真はそれしかないの」
「よくあることだ」
「でも、気に入ってるから文句はないわ」
 手を洗ってきたジェシカが、フリルに縁取られた白いエプロンを身につけ、現れた。フロルも既に手は洗っている。

 二人は、これから養護施設に持っていくカップケーキを作ろうとしているのだった。
 季節は10月末。
 世に言う、ハロウィンであった。

 かつての時代に比べ、さまざまな宗教行事はその宗教色を失い、ただ人が楽しむだけのイベントとして存在している。ハロウィンもまた同じく、仮装をして「Trick or Treat!(お菓子くれなきゃ悪戯するぞ)」と子供たちがはしゃぎ回るだけの年間行事であった。それがかつてイギリスの民族宗教から始まった魔除けの儀式であることなど、宗教学者か歴史学者くらいしか知りえない。
 ちなみに養護施設にカップケーキを持っていくということは、フロルが毎年好きでやっていることだった。フロルの趣味、と言っても良い。
 
 フロルの前世は、パティシエ見習いだった。

 そして彼がトラックに轢かれた時も、彼が海外での修行から帰ってきてすぐだったのである。かつての彼がなぜ菓子作りを職業にしたのかと問われれば、それは美味しい菓子を食べた人の表情が好きだったからだ。今の彼は、時代と世界のために、軍人の道を歩まんとしていたが、彼の忘れきれない気持ちが、その慈善行為を行わせていた。
 それを聞きつけ、一緒にやろうと言ったのはジェシカ・エドワーズである。彼女もまた子供が好きで、時間のある時にはピアノ演奏のボランティアなどをしている。料理はそれほど得意ということではなかったのだが、カップケーキであればさほど難しいものでもないと知ってか、共同作業に名乗りを挙げたのである。
——それだけれはないだろう。
 とフロルも気付いていたが。

 ジェシカは部外者であるから、士官学校の調理室は使えない。すると、使える場所はジェシカの家しかなかった。ジェシカは両親と同居していた。その両親も、今日は出かけていないということだった。

 
 大きな紙袋にたくさんのバターや、卵、小麦粉、ベーキングパウダーを買い込んで、二人はカップケーキを作り始めた。
 基本的、料理の時のフロルは無口だ。
 普段のフロルが、爽やかな青年で、ついでに皮肉屋で、言わなくてもいいことを言うような人間であるから、知らぬ人が料理時のフロルを見れば驚くかもしれない。爽やかな皮肉屋、とはヤンの命名であって、
「リシャール先輩は本人の前でその人の皮肉を言いますからね、いっそ清々しいですよ」
とのことであった。フロルは彼独特の、悪戯っ子が悪戯をする時に浮かべるような笑みで、あけすけに物を言うため彼の皮肉が根に持たれることは少なかった。
 対してもう一人の隠れた皮肉屋、ヤンはというと、人前では温順な士官学校生を装い、裏で皮肉を溢すタイプであった。溢す相手はそれなりに気の知れた人物に限っているため、その顔を知る人間は数少ない。後年になって彼の階級が上がるにつれ、彼に反論や批判を言う目上の立場の人が少なくなると、その心遣いも小さくなっていったから、皮肉屋の称号は、専ら彼が有名になってからのことである。
 そもそもヤンの皮肉は、鋭すぎる彼の極論や推論を、揶揄の衣で包んだ一種の自己思索の表れであったため、聞く人が聞けばそれが誰も気付かぬような事実の一面を表していることに気付く類の物言いなのだが、それを真面目に発言しないところにヤンのヤンらしさがあると言えよう。もっとも、後世の民衆がやたらとそれを褒め立て、<ヤン・ウェンリー語録>としてそれらを持て囃したという事実は、ヤンに苦笑を与えたという。
 ヤンにとっては、ただの皮肉に過ぎない故である。

「ヤンとラップに聞いたわ。彼らには昨年もクッキーあげたんですってね」
「ああ。ヤンは人生初のハロウィンだったらしいがな」
「人生初?」
 ジェシカが小さく笑いながら、そう言った。振り向かなくとも分かる。言葉に、笑みが乗せられた声。
 ヤンは、彼が士官学校に入る直前まで、父親の宇宙船の中で宇宙を旅し続けていた。そして原作を識っているフロルならば、それがいったいどういう生活だったのかがわかる。ヤンの父親ならば、ハロウィンのためにクッキーを買うくらいならば、壺を磨くための布を与えたであろう。
「まぁ、他にも色んな人に上げているよ」
「なんで?」
 ジェシカはボウルを泡立て器で混ぜながら、目を離さないままに尋ねた。逆に尋ねられたフロルが、彼女を見る。
「みんなが美味しいって言ってくれるってのが一つ」
 邪魔にならないように、と後ろで括られた金髪。エプロンの下は、動きやすいようにジーンズとポロシャツを着ている。その襟から覗くうなじが色っぽい。
「もう一つは?」
 彼女がこねるその腕、その指は、ピアニストの指だった。白く、長く、そして細い。フロルは古い修飾語を思い出す。

——白魚のような指。

「何かを善意で贈り物をしておくっていうのは、例えそれがなんてことのないことであっても、周りの心象を良くするものさ」
「打算的ね」
 フロルの視線を感じたように、ジェシカがこちらを向いた。
「ああ、女の子にも受けがいいしね」
「よく言うわ、彼女もいない癖に」
「彼女がいないからって女にもてないわけじゃない」

 ジェシカはほんの少しだけその言葉に反応した。ただ顎が小さく引かれた程度の反応である。だがフロルは自分が言葉を選び損ねたことに気付いた。
 言い訳が出来るならとっくにしている。だが言い訳は、相手のためにするものではない。どこまでいっても、自分のために紡がれる言葉なのだ。

「・・・・・・もう、十分だろう。カップに小分けに入れれば、あとは焼くだけだ」
 ジェシカはそれに視線を戻して、そう、とだけ言った。
 それがいったい何に対する応えなのか、フロルには分からない。



***



 この頃のフロル・リシャールについて述べたい。
 フロル・リシャールが一般的に認知されるようになるのは、後年のアルレスハイム遭遇戦を待たねばならないが、少なくともハイネセン国防軍士官学校においては既に有名人であった。その有名は善良なる変人、というイマイチ評価に困る代物であった。それを高評価と捉えていたのは、フロルくらいのものであったろう。
 成績は概ね優秀と呼ばれるラインを保っており、特に実技、中でも格闘訓練における成績は学年随一の声も名高い。戦術や戦略について知識レベルこそ及第点といったところであったが、戦術シミュレーションにおいては勝率8割を超える勝負強さを見せている。
 その一方で、彼にはまったく特性のないものもあった。
 戦闘艇操縦である。
 彼はどうやら人よりも三半規管がデリケートらしく、急激な宇宙軌道は彼にとって鬼門であった。平常の戦艦航行では酔いがないため、艦隊指揮に関しては支障をきたさないことが救いであったが、スパルタニアン乗りには決してなれないと教官に言われたことは、フロルにとっても少なからずショックな出来事であった。もっとも、あまりに酔いすぎて、訓練後すぐに医務室に運ばれたことから、彼自身「二度と乗るか」という思いも強かったのだが。
 つまり、フロル自身の認識はさておき、この時代の彼は前途有望と評される一士官候補生であったのだ。
 彼の一つ下の後輩、ヤン・ウェンリーにとってもフロル・リシャールは良き先輩であった。彼とジャン・ロベール・ラップが戦略研究科に転科したのち、先達としてよく指導したし、また私的な付き合いにおいてもフロルとヤンらは波長がよく合ったからである。
 
 対してヤン・ウェンリーだが、彼は彼の在籍する学年においても悪い意味で有名な学生の一人であった。興味のある教科はほぼ満点をとる一方、他の教科や実習は赤点ぎりぎり、その癖、昨年度の戦術シミュレーション試験では学年首席を破るという快挙を成し遂げ、色んな意味でよくわからない変人と捉えられている。
 だが彼を敵視しようとしても、そんな張り合いもなんのその、ヤンはマイペースにのほほんとしているものだから、対処に困る難物である。
 表面上は学者のたまごといった毒にも薬にもならないような顔をしているが、彼を凡人と見る人間は既に士官学校にいなかった。フロル・リシャールという変人と仲が良いという事実も一役買っているだろう。
 また、この時期は入学したアッテンボローや、ジェシカの父経由で知り合ったキャゼルヌとの交友を持っている時期でもあった。いずれの人物も、王道を行くというよりは愚痴をこぼしつつ少数派を気取る者たちであって、そしてフロルと気の合う仲間であった。かつては門限破りなど数えるほどしかやらなかったヤンも、この面子に巻き込まれて何度も門限破りをさせられる始末である。ちなみに、どちらかというと教官側の立場であるキャゼルヌが一緒の時は、キャゼルヌの名で正門から入ることができるため、自然門限を破る時はキャゼルヌ同伴が多くなっていったのは、キャゼルヌにとって迷惑な話であったかもしれない。もっともそのことを毎度揶揄しながらも、一緒に飲み食いに付き合っていたのだがら、独り身のキャゼルヌにとっても楽しいひとときだったのだろう。
 原作ではどういう繋がりで交友を持ったのかフロルは知らななかったが、少なくともこの世界では、フロルがヤンやアッテンボロー、それとキャゼルヌの橋渡しをしたというのが実情だった。原作でも無二の関係を築いていった者たちであったので、フロルが顔合わせの場を作れば、あとは勝手に彼らは仲良くなっていく。誰が言い出したか知らないが、士官学校のフロル派と言えば、この面子が主軸であった。
 士官学校を出た後も、ヤンがミラクル・ヤンとしてフロルの名声を上回るまでは、フロルが頭の、フロル派として彼らは見られていたのである……。



***



 最後の一つをラッピングして、フロルは一息吐いた。一つ一つを透明な袋に入れ、可愛らしいリボンをつけている。カップケーキを渡すだけならば、その必要もないのだが渡される側の子どもの気持ちを考えれば、これくらいの手間を厭わないところだった。
「これで終わりね」
「ああ、付き合ってくれてありがとう、ジェシカ」
「私も楽しかったから、いいわ」
 彼女はエプロンを脱ぎながらそう言った。シンクによしかかりながら腕を組む。
「そう言ってもらえると、俺も嬉しい。このキッチンも使いやすかった。ありがとう」
「いえいえ、私も先輩の役に立てたならそれで十分よ」
 彼女はにこりと笑ったが、それで十分だとは思っていないのがバレバレであった。目が笑っていない。

 フロルは目ざとくそれに気付くと、誤魔化したように一つ笑った。自分のエプロンを手早く畳み、持ってきた調理器具を片付け始める。片付けている背中に、冷たい視線を感じた。
「ねぇ、先輩」
「なんだい、後輩」
 ジェシカは片付けをしているフロルに近づくと、調理台にまたよしかかって、背中を反らすようにして、片付けをしているフロルの顔を覗き込む。髪の毛が広がって、微かな芳香がフロルの鼻をくすぐった。

「今度、一緒にデート、どうですか?」
 この台詞はフロルのものではない。
「魅力的な提案だね」
 フロルは彼女の碧い瞳にちらりと目をやって、そう言った。
「先輩は女の子がお好きよね」
「デートをする相手なら、女の子がいいかな」
「19歳の男の子と、17歳の女の子がデートするのはどうだと思う?」
 フロルは一瞬、片付けをする手の動きを止めたが、すぐに動き出した。
「……お似合いじゃないかな」
「じゃあ一緒にデートしませんか、先輩」
 その言葉で、とうとうフロルは片付けを諦めた。
 調理台から離れて、右手で鼻の頭を掻く。搔いてから、右手には小麦粉が付いていたことを思い出す。きっと鼻が白くなってしまっただろう。
「普通に考えて、両親がいない花も恥じらう女の子の家に、フロル先輩みたいな男子が遊びに来るって、他の人からだとどういう風に見えるのかしら」
 ジェシカは人差し指を自分の鼻に押し当て、小さく首を傾げた。
 可愛い。
「さぁ、どうだろうね」
「きっとただならぬ仲だと、思うんじゃないかしら?」
 フロルは袖で鼻を拭った。もっとも、それで粉がとれたかはわからなかったが。
「一緒にお菓子を作ってるだけかもしれないじゃないか」
「実は友達に、今日フロル先輩が遊びに来るんだって言ったのよね」
「へ、へぇ」
 ジェシカの口は弧を描いている。
「しかも、なんの偶然がお父様もお母様もいないのよ、ってね」
 フロルは今更ながら、そこにいる少女がヤン並みの策士であることに気付いた。彼女が軍人を目指したならば、少なくともフロルを超える傑物になりえただろう。
 フロルの識っている歴史であれば、彼女が同盟反政府派の旗印となって、議員としてその組織をまとめあげていく手腕が、ここでその片鱗を見せたということなのだろうが、無論フロルにとってしてみれば見せなくていい片鱗である。

 困ったことになった、とフロルは気付いていた。前々から彼女の好意に気付いていたが、ここまでの行動に出るとは思っていなかったのだ。きっとジェシカの喧伝によって、フロルが学校に戻った時には、フロル・リシャールに年下の見目麗しい彼女が出来たことが学校中に広まっているに違いない。ジェシカとフロルの学校が違おうが、そんなことは関係ない。ジェシカはしっかりこちらの一手先を読んで、手を打っている。それに、先の廃止撤回運動でジェシカの顔は学校中に知れ渡っているし、もしかすればあの運動すらこの展開を見越してのことだったかもしれない。
 そうだとすれば彼は随分前から、ジェシカによって罠に誘い混まれていたのだろう。ラップやヤンと遊ぶ時にジェシカがついてくることが多かったのも、キャゼルヌ先輩やアッテンボローともいつの間にか意気投合していたことも、みんなで遊ぶ時ジェシカとフロル以外全員に急用が入ってなぜか二人だけでデートすることになったことも、すべてジェシカによって仕組まれていたに違いない。
 ラップとヤンにジェシカが付いてくることを、仲良くなって結構、などと満足していたフロルは、今更自分の間抜け具合に気がついた。
 好意を持っているどころではない。
 完璧にフロルは罠にかかったウサギだった。

「フロル先輩は私のこと、嫌い?」
「まさか!」
 フロルは即座に否定した。
 そんなわけはない。こんな可愛くて美人な後輩が、先輩先輩と慕ってくれることを嫌う人間がいようか。金髪で碧い目を持った、将来美人確定の美少女である。人を罠にかけようが、悪女になる資質が見え隠れしようが、やはり嬉しいものは嬉しい。原史——原作の歴史——の登場人物である以上に、今ではフロルの大切な友人なのだ。
 問題は、フロルにとっては後輩、友人というカテゴリを超えないということだったが。

「私はフロル先輩のこと、好きよ。だから付き合いましょう?」
 彼女は彼女は白い歯を見せながら、微笑みながらそう言った。綺麗な歯並び。言葉を発する度に見え隠れする赤い舌すら、やたらと蠱惑的に見える。
「それは嬉しいなぁ」
 フロルは自分の圧倒的な劣勢を自覚した。目の前のお嬢さんに、ドギマギしている時点で、敗北間近である。艦隊戦で言うならば、旗艦に敵の揚陸艦がツッコみ、陸戦部隊が攻め込んできた段階である。いや、それはどこのローゼンリッターだ。
 いやいや、そういう問題ではない。
「嬉しい?」
「も、もちろん」
「それだけ?」途端に、ジェシカの目が潤んできた。「先輩にとっては私の告白も嬉しいだけなの?」
「いや、そんなことは」
 涙が一筋、左の目から零れ落ちた。彼女は笑ったまま、泣いていた。
 器用だな、とフロルはどこか他人事のように頭の片隅で思っている。それと同時に、もうフロルはポリシーを曲げざるを得ないということも、理解していた。
 そうと決まれば、覚悟も決まる。さきほどまでの動揺は、すっかり消えていた。
 右手を伸ばし、彼女の涙を拭った。
「我が儘な後輩だな」
「失礼ね」
 その右手で彼女の頬の輪郭を撫でる。
「後悔しないでくれよ」
「それは私がするものよ。先輩が気にすることじゃないの」
 フロルは一歩、ジェシカに歩み寄った。
 ジェシカは目を瞑り、顎を少し上げた。
 フロルはそのまま顔を近づけ——ジェシカの額にキスを落とす。
「今はここまでだ」
 ジェシカはぱっと目を開くと、口を尖らせた。
「へたれ」
「段階を踏んでってのが好みなんだ。だから今度デートに行こうか」
——可愛い彼女さん。
 使い古された表現が頭に思い浮かんだ。まるで、雨の後に花が咲いたような、そんな綺麗な笑顔。
 ジェシカはひとつ、頷いた。





































 
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