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無明のささやき

作者:ミジンコ
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第十一章

 飯島は男泣きに泣いた。この度は、風呂ではなく居間のソファで声をあげて泣いたのだ。
 この世に、自分ほど惨めな男はいない。和子を失ったことは、片肺を無理矢理もがれたも同然だったのだ。激痛に胸が締め付けられた。
 飯島はこれまで頑なに或る感情を無視し続けて来た。それが可能だったのは異常な出来事が相次いだからだ。女房、坂本、そして石倉、彼らの思いもかけない事件が立て続けに起こった。飯島はただただ驚き、うろたえた。
 敢えて心の片隅に追いやったわけではない。自分の内面に向き合う暇がなかったのだ。その現実が今日初めてまともに目に飛び込んで来た。それまで頑なに無視してきたその感情とは、和子への未練に他ならなかったのである。
 かつて飯島の妻であった女が、幸せそうに他人の妻に成り切っていた。それを目の当たりにして、失ったものの大きさを実感した。この時、内に秘めた未練とまともに向かい合うはめになってしまった。
 じわじわと広がる孤独感は、心にぽっかりと風穴を開けた。をまるで木枯らしが吹きぬけて行くように、もの悲しげな音を響かせている。
「和子、和子。」
飯島は力なく呟いた。
 二人にマンションの玄関まで見送られた後、飯島は八王子の街をさ迷った。どこをどう歩いたか覚えていない。自動販売機を見つけては日本酒を買い、その都度一気に飲み干した。どれほど飲んだのだろうか。少なくとも飯島の許容範囲を越えていたのは確かだ。
 自宅に戻ったのは、午前2時を過ぎていた。ふと見ると手の甲がべったりと血で濡れている。故障中の自販機に殴りかかったのことを思い出した。馬鹿なことをしたと、へらへらと笑いながら傷口を舐めた。
 どれほど泣いていただろう。意識は朦朧とし、絶望が心を覆い尽くした。死のうと思った。死んでしまえば、この苦しみから逃れられる。死ぬ方法は以前から決めていた。実行するための条件は揃っている。その条件とは、泥酔していることである。
 飯島は背広を脱ぎ、ネクタイをはずして、よろよろと風呂場に向かった。裸になって湯船に体を沈めた。温度を45度にセットし、目をつぶった。湯はどんどん熱くなり、心臓は激しく高鳴なった。
 しばらくして重い疲労感が襲って意識が遠のいた。どのくらい時間がたったのだろう。ふと目覚めると、顔は汗でびっしょり濡れている。しかし、このままでは死ねない。湯船から這い出ると、今度は氷のように冷たいシャワーを浴びた。体ががたがた震えるまで浴びた。そしてまた湯船に。これを何度も繰返した。
 これは以前読んだ小説の中に描かれた自殺の方法である。確か主人公は心臓病だったが、これほどの泥酔状態であれば同じように死ねる。何度目か分からなくなっていたが湯船に入った瞬間、後頭部に引きつるような感覚が走った。がくっと意識を失った。
 ふと気付くと、飯島は、水の中に漂っていた。広い湯船にあお向けに寝ている格好である。最初、視覚はぼんやりとした青色を捉えていた。何を見ているのかを認識するまで時間がかかった。
 飯島は顔を傾け浴槽のブルーのタイルを見ていたのだ。タイルを縁取る白い目地まではっきり見える。夢か?いや違う。意識の明瞭さ、目に映る現実は夢とはまるで違う。ふと、水面を見上げた。タイルの色に照らされ水面が青く輝いて見える。
 さらに水面の上に視線を移すと、水道の蛇口があり、そこから水滴が落ちた。水滴は水面を突き抜けたがすぐに押し戻された。と同時に、水面に小さな輪が生じ、それが同心円状に広がって行く。
 じっと見ていると、再び水滴が零れ、水面を揺らした。またしても同じ情景が目の前に映し出されてゆく。静寂の世界で繰り広げられる周期的な波動。この世のものとも思えぬ美しさが広がっていた。飯島は飽かず眺めた。
 その時、自分が息をしていることに気付いた。水の中で息をしている。何故そんなことが可能なのか、不思議に思った。けれど、そんな現実を自然に受け入れた。恐らく死にかけているのだう。死の淵に一歩足を踏み入れていると直感した。
 甘美な感覚が体全体を包んでいる。この感覚をどう表現すれば良いのだろう。肌と、それを包む液体との境がしだいに消えうせて行く。液体に体が溶けてゆくようだ。甘美な感覚はさらに増している。
 瞼が重くなり目を閉じた。恍惚が体全体を包んでいる。えもいわれぬ恍惚、今まで味わったことのない悦楽、いったいこれをどう表現すればよいのだろう。肉の悦楽ではない。むしろ肉から開放される悦楽なのだ。
 末端が周囲に溶け始めた体は広漠たる宇宙に浮かんでいる。毛細血管があたりに散らばって、心臓の鼓動とともに血の飛沫が空間に吸い取られて行く。なんという悦楽だろう。何と言う開放感だろう。
 このまま死ぬのも悪くはない。そう思った時だ。
「駄目よ、仁、起きなさい。自殺は駄目。」
脳内にその声は響き渡った。
 飯島は現実に引き戻された。お袋の声が聞こえたのだ。水面から顔を出し、回りを見回した。誰もいない。そこには、いつもの見慣れた風景が広がっているだけだ。湯船に続く青いタイル、目の前にはあの蛇口、洗い場には石鹸が転がっている。
 ぼーっとして殆ど朦朧状態だが、あれはお袋の声に違いなかった。幻聴なのだろうか。目の前に蛇口からぽたりと水滴が落ちた。あれは幻視などではない。間違いなく水中からこの蛇口を見上げていた。
 その瞬間、尻が滑って、お湯をしこたま飲んだ。気管にお湯が入って咳き込んだ。水飛沫を飛ばして、飯島は立ちあがると、バスタブから這い出た。喉が詰まりゲーゲーという往復の呼吸の音が響くだけで、空気は少しも肺に入ってこない。苦しさが極限に達し、悲鳴とともに苦い液体を吐き出した。
 這いつくばり、肩で息をし、尚も吐き続けた。見ると嘔吐物に血が混じっている。まだまともに息が出来ない。ぜーぜーという息を繰返した。死を意識した時は悦楽、生を意識した途端、苦しみ。生きるということは常に苦しみを伴うようだ。
 飯島は洗い場で呼吸を整えた。立ちあがってシャワーの蛇口を取り、血の混じった嘔吐物を流した。そして温水を体全体に浴びた。苦しさが去るのをじっと待った。10分もそうしていただろうか。
 面白いと思ったのは、鏡に映る自分の顔がまるで他人のように感じられ、しかも、その顔を自分の目で見ていないことだ。頭の10センチほど上からそれを見ている。徐々にそれが降りてゆき目に重なった。くくくと笑った。そうか、魂が体から少し離れかけていたのだ。
 飯島は、朦朧とした頭で考えた。死は甘美なのかもしれない。死の予感を感じてから、恍惚が体全体を包んだ。それまで経験したこともない感覚を味わった。お袋の声で湯船から顔を出さなければ、更なる恍惚が待ちうけていたかもしれない。
 神は優しい。神は人間の体を優しく包んでいる。死に際しては、苦痛を和らげるように配慮している。飯島はそう直感した。脳内麻薬物質が分泌され、死に伴う苦痛や恐怖を、えも言われぬ恍惚へと変貌させてしまうのだ。
 飯島は或るシーンを思い出した。それはテレビで見た野生動物のドキュメンタリー番組だった。インパラの群れに一頭のライオンが近付いてゆく。インパラは一見小鹿のような外見をしているが、抜群の跳躍力と瞬発力を持った小動物である。
 とその時、一頭のインパラがライオンに近付き、その目の前で踊るような仕種をみせた。なんとライオンを兆発しているのである。さあ、捕まえられるものなら捕まえてごらん、とばかり二本の前足を前後左右に踊らせているのである。
 この無謀な挑戦は、何を意味しているのだろう。このインパラは恐怖以上の感情に突き動かされたのは確かだ。最後は無残な結果に終わったのだが、ライオンの鋭い牙に喉を刺し貫かれた時、彼の脳は恍惚に満たされていたのではなかろうか。
 飯島は居間に戻るとウイスキーの瓶を取りだし、グラスに注いだ。それを一気に飲み干し、酔いの冷めかけた脳に再び本物の麻薬を流し込んだ。そして呟いた。
「分かったよ、お袋、死ぬまで生きてやる。」

 佐久間の脳の片隅に残された正気が一瞬蘇った。記憶を手繰り寄せれば、飯島の表情は嘘を言っているとは思えない。飯島は種がないと叫んだ。本当なのだろうか。もし本当だとするなら、愛子の父親は誰なのか?
 だが、眠っていた狂気が再び目を覚まし、正気は急激に萎む。いいや、飯島は嘘をついてる。愛子の父親は飯島に違いない。もし、そうなら、どんなことがあっても許すわけにはいかない。どこかに、その証拠が、その痕跡があるはずなのだ。
 いや、そんな証拠も痕跡も、どうでも良い。殺してしまえ。佐久間の狂気が叫ぶ。佐久間には、その絶望に見合うだけの犠牲、流血が必要ななのだ。事実、佐久間の予定表には飯島殺しが記載されており、その方法も考えていた。その方法とは撲殺である。
 昔鍛えた拳で、あの端正な顔が跡形もなくなるほど殴る。気を失えば水をぶっ掛け目覚めさせる。そしてまた…。想像するするだけでエクスタシーを感じてしまう。紫色に腫れ上がる顔、飛び散る血、うめき声。
 今日、外から戻ると、留守電に竹内のメッセージが残されていた。結論が出たと言うのである。当初、竹内は飯島殺害には気乗りしないようだった。と言うより、石倉殺害に荷担して以来、佐久間との関わりを避けるようになっていた。
 佐久間はその理由に気付いていた。簡単なことだ。佐久間が、もう金を持っていないことを知ったからだ。竹内は石倉殺害を1000万で請け負った。その後、飯島殺害を渋っていた竹内は、その報酬として1200万を要求してきたのだ。
 確かに会長から5000万を強請り取り、竹内と山分けにした。だから竹内の要求額は本来払えない額ではなかった。しかし、実を言うと、佐久間は資材物流センターの佐藤電算室長に700万もむしり取られていたのである。
 復讐を遂げるための安全装置作ってもらうためだ。最初、佐藤は手間賃程度と言っていたが、中身を知って1000万円まで吊り上げてきた。その妥協点が700万だったのだ。いつもの佐藤の悟りきったような顔が歪んで、卑しさが滲み出ていた。
 竹内の要求は佐久間の取り分全てを吐き出させることだった。手元にある500万で交渉したが拒絶された。まさに金の切れ目が縁の切れ目である。この時、竹内は、佐久間に金がないことを察知したのだろう。
 そんな膠着状態が一週間続いた。そして、竹内は、つい最近、意外な提案をしてきたのだ。それはDNAによる親子鑑定である。当初、佐久間はそれを拒絶した。それをはっきりさせるのが怖かったのである。
 しかし、その提案に徐々に心惹かれていった。復讐にも大義名分が必要なのだ。狂気が勝った。佐久間はそれにゴーサインを出した。そして、竹内のメッセージは、その結論が出たということなのだ。受話器を持つ手が震えていた。
「もしもし、竹内です。」
いよいよ運命の時が訪れようとしていた。佐久間は身構えた。
「佐久間だ。」
「よう、佐久間さん。メッセージを聞いたわけだ。そう緊張するなって。或る程度、覚悟は出来ているんだろう。」
「ああ。」
「ここに診断書がある。その業界では有名な鑑定会社の診断書だ。後でファックスする。いいか、よく聞け、読むぞ。」
「ああ。」
「サンプルA、つまりあんたの毛髪に付着していた毛根だ、と、サンプルC、つまり愛子ちゃんのだ、とのDNA配列は一致せず。これに対し、サンプルBとサンプルCは、その配列の類似から親子と断定。」
佐久間は押し黙った。サンプルBは、佐藤が飯島の頭から引き抜いた毛髪である。憎悪が心の中で増幅されて行く。血圧が上がって、更に憎悪が増す。佐久間が叫んだ。
「みんなして俺をコケにしやがって、みんなぶっ殺してやる。殺す、飯島を殺す。竹内、俺に力を貸してくれ。頼む。」
「ああ、いいよ。だけど500万じゃ、話しにならない。分かるだろう。俺だって、事務所を構えるのにコストがかかっているんだ。そんな金額で危険を犯すわけにはゆかない。さて、どうする。」
 佐久間は黙っていた。竹内が何を言わんとしているか分かっていたからだ。沈黙が続いた。
「まあ、ゆっくり考えるんだな。」
竹内の冷たい声が響いた。

 飯島は電話のベルで起こされた。目を擦りながら、受話器を取った。懐かしい声が響いた。名古屋支店の石川である。
「ああ、なんだ石川か。どうした。それより、今、何時だ。」
「もう昼過ぎです。会社に電話をしたら出て来ていないって。どうしたんです。」
「もう、会社には行く気がしなくなった。で、どうした。もうヨシダに移ったのか。」
「ええ、1週間前に。本社採用ですからすぐに移りました。淺川は未消化の有給休暇をこなしていますよ。実は、あいつを㈱ヨシダ建設の東京支店に紹介したのは私なんです。」
「ああ、そうだと思ったよ。ところで何か俺に用事か。例の件はお断りだぞ。もう会社とは縁を切ることにした。」
「ええ、それは淺川から聞いています、でも、ちょっと気になることがあって。実は、臼井の爺さんが、この前、南常務と竹内を名古屋市内で見掛けたと言うんです。それも接待用のクラブで一緒に酒を飲んでいたそうです。」
「ほう、それで。」
「それが、変なんです。まあ、臼井の爺さんがそう言っていたんですが、どう変かと言うと、南常務が竹内にお酌していたそうです。しかも、両手で。更に言うなら、ビール瓶の底に左手を添えてですよ。」
これを聞いて、飯島は笑った。声を上げて笑った。石川もつられて笑っている。竹内相手に南がそこまでやるとは想像も出来なかったからだ。
「石川、いったいどうなっているんだ。」
「私にも分かりません。部下を自分の奴隷だとしか思っていない南常務が、竹内にお酌するなんて考えられませんよ。まして、自分が首にした男ですよ。」
ふと、もしやという思いが過った。南に弱みがあるとすれば、例の女房のあられもない写真である。もし竹内が佐久間と組んでいると仮定すれば、竹内の破格の扱いも理解出来る。 
 南常務が、竹内にそこまでおもねるということは、その可能性も考慮すべきであろう。だとすれば南常務に対する脅迫はまだ続いており、さらに竹内は和子襲撃にも関与している可能性がある。
「それでですねえ、」
押し黙る飯島に対し、石川が待ちかねたように声を掛けた。
「実は、私、先週行ってきたんです、竹内の事務所に。中町の交差点近くの雑居ビルで、まあまあのオフィイスでしたよ。女の子と若い営業マン一人置いていました。」
「へえ、それで。」
「社長のことを聞くと、東京に行っているって言うんです。それで、何時帰るかって聞くと、さあっと言って、分からないと答えたんです。で、詳しく聞くと、しょっちゅう東京に行っているそうです。」
「なるほど、そう言う訳だ。」
「何か心あたりでも、あるんですか。」
「ああ、ある。今は詳しく言えないが、竹内は佐久間と組んでいる可能性があるってことだ。」
「えっ、佐久間とですか。佐久間と組んで何をしようと言うのです?」
「実をいうとな、いいか、石川、石倉が自殺しただろう。あれは自殺じゃあない。殺されたんだ。しかも佐久間に殺された。」
「まさか、そんなこと。」
と言って絶句した。
「まあ、信じられんだろうな。しかし、佐久間はあることで、会長を脅迫していた。そして5000万円を脅し取っている。これは南から聞いた話だから、確かな情報だ。もし竹内が佐久間と組んでいるとすれば、会長を脅迫した材料を竹内も持っているってことだ。南が竹内にぺこぺこしていたのは、脅迫されているのかもしれない。」
「しかし、考えられませんよ。飯島さん、冗談言ってるんでしょう。まさか殺人だなんて、そこまでやりますか。確かに悔しい気持ちはわかります。でもそこまで・・・・。」
「いいや、冗談なんかじゃない。実は佐久間は狂っている。憎しみで頭がいかれちまった。殺人なんて気でも狂わなければ出きっこない。」
石川は押し黙った。飯島が続けた。
「そこで相談だが、お前の助けがいる。実は、佐久間はあることで俺を恨んでいる。奴が何をするか、今のところ分からない。しかし、実行者が竹内ということも考えられる。だから、竹内が名古屋にいれば、俺も少しは安心できるわけだ。」
「つまり、竹内が名古屋を離れたら、飯島さんに電話すればいいんですね。」
「そういうこと。頼むよ。」
「ええ、分かりました。あの女子事務員となんとかコネをつけますよ。兎に角、気をつけて下さい。」
「どうも有難う。」
 飯島は電話を切ると、ウイスキーの瓶を引き寄せ口飲みした。アルコールの熱い感覚が体内にじわじわと広がり、荒んだ心に一時の安らぎを与えた。時計を見ると午後1時を回ったところだ。酔いが急激に回り瞼を重くする。飯島は再び深いまどろみに落ちていった。
 
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