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Epilogue

作者:深里けい
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Epilogue(全文)

【プロローグ】

 夕暮れの空に鳴り響いていた銃声は、すぐに耳の中で背景になった。
 耳元で弾ける音にも、隣の叫びにも、遠くからの咆哮にも聴覚が慣れる。息づかいや味方の足音が細かく聞こえてくる。頭の中の熱も手の中の銃に吸い込まれ、空の薬莢と一緒に放出される。鉄の弾丸が弾き出されると、次第に頭は冷えた。自分の弾丸が誰かの命を毟り取ったとき、すぐにそれを感覚した。
 砂漠の外れにある街も、日が暮れて冷気を纏おうとする。石と砂でできた壁に身を隠し、彼はマガジンを交換する。黒の小銃は砂を浴びるが、それに構っている暇はない。彼は細い道へ飛び出し銃弾を放って、次の壁に背中をつけた。いつの間にか近くの仲間がいなくなっていた。自分とは別の道で戦っているのかもしれない。あるいは死んだのかもしれない。目に見えずとも味方の銃声は聞こえてくる。
 頭だけを出して彼は通路の先を確認し、彼はそこに地面に立つ小さな円盤を見つけた。
 すぐに身を隠した。鉄でできた円盤が、同じく金属性の四本の足で自立する。大きめのフリスビーのような体の側面には赤色のカメラ、上部には二つの自動小銃。砂漠の街には不似合いな殺戮ロボット。耳を澄ませば、銃声の背景の上でカメラが散策する音とモーターの駆動音が聞こえてくる。カメラは三百六十度全方向をカバーする。
 彼は壁にあけられた穴と窪みを使って砂の家の上へ登った。うつ伏せに這って、狙いを定める。トリガーを引き込むと、鉄のボディに穴をあけてロボットは倒れた。最後に可動式のカメラが仇の姿を探そうとするが、見つける前にシステムがダウンする。彼は安全を確認して地面に降りた。
 砂漠の街に夜が訪れる。あちらこちらで光が夜空を照らし、叫びが沈黙を払ってのける。軍隊から支給された暗視スコープを装着し、彼は索敵を続ける。遠くのマズルフラッシュと銃声を頼りに敵を探した。次の敵を撃ち殺すまでに、三回地面の死体で転びそうになった。死体のうちの一つは鉄でできた機械の死骸だった。
 彼は加速する世界大戦の真っ直中にいた。


【第一章】

 舞う砂はアスファルトを覆い、高層ビルを破壊し、都市を砂漠に変えようとした。視界いっぱいに広がるのは地上十階を越えるビルが林立する大都市。その遺骸。どこからともなく風に乗って運ばれてきた砂が地面を、突発的に降るスコールが建物を侵食した。破壊された建物は長年の風雨に晒され角がとれる。焼け跡からの煤の臭いが流れ去っても、崩れた建物を直す者も、そこに住む者もいない。
 一面、砂色の世界に思えた。生きている色はどこにもなかった。運ばれてくるのに風で飛ばされない砂色と、朽ちたコンクリートの鈍い色。上を見上げて得られる空の色も、心なしか荒んでいる。かつての大都市は空襲に遭い、ロボットに襲撃され、命を失った。人の一人も見あたらなかった。街は時間とともに姿を変えていく。そこに人がいてもいなくても。風化した街は時間的な感覚を与えた。長い長い年月の経過を。実際にはほんの最近まで、そこは人に溢れる生きた都市だったのに。
 ナツメは空を見上げて、そろそろ昼がくることを知った。彼は真夏のような日差しを受けて、しかし厚い灰色の軍服を脱ごうとしなかった。袖を捲ることもしない。彼が背負っているバックパックに他の服が入っていなかったからであり、どんな環境でも支給された装備でいることに慣れきったせいであった。ナツメは適地へ侵攻する兵士のように、ミリタリーウェアに身を包み、無光沢の黒い自動小銃を構えて歩く。味方の銃声は聞こえない。敵の息づかいも感じられない。他の人々にとっての戦争はもうとっくに終わっていた。
 それでも彼は耳を澄まし、感覚を研ぎ澄ませた。電気モーターの駆動音が風に乗って聞こえてくる。ナツメは身を低くして半壊したビルの外壁に背を任せた。数秒の間幻聴かと考える。しかし風は確かに音を運んでくる。ナツメは装填されたバレットを確認した。銃弾の金色は彼の命の色だった。
 彼は音の方向を認知してから、頭の半分も出さずにビルの陰からそちらを見た。アスファルトに描かれた白線や標識は確認できず、中央分離帯が残っていた。かつてのメインストリートだった。片側四車線、南北に真っ直ぐ、障害物のない道が一キロ以上続いている。ガソリンエンジン車もEVも見受けられない。その残骸ですら。
 その中に動くものが一つだけあった。それはナツメと同じように敵を探していた。固定カメラと可動式カメラの両方を駆使して。敵を見つければ、相手が誰であろうと背中の二丁の銃で穴を穿つのだとナツメは知っている。その殺戮ロボットは、味方認証システムを搭載していないイレギュラー――物資節約という意味をもって意図的に生産された欠陥品だった。
 ロボットは四本の足の先にあるローラーを回して、ビルの日影を避けゆっくりと道路を南へと走っていた。ロボットの装甲には光発電パネルが張り付けられている。いつまでも、誰からのエネルギー供給もなしに稼動できるように。自分が発見されるまで三十秒、ナツメはそう判断する。彼はここのところ雲行きの怪しい日が続いたことを思い出した。殺戮ロボットは残り少なくなった電力を蓄えることを最優先に行動しているはずだった。
 ナツメはセレクターレバーをオートにセットして機を待った。いつもそうしてきたように。三十メートルほど先にいるロボットには合計五つの目があることを彼は知っている。そのうち四つが固定された四方を見る目で、一つが円盤の周りを回りながら詳細に認識するメインカメラだった。メインカメラが自分から遠ざかるのを待って、ナツメは襲撃した。
 銃弾の使用を最小限に留めようとした。無駄だった。陰から飛び出したナツメはロボットを中心に円運動するように走りながらトリガーを引き続けた。銃はロボットが銃撃に倒れ動かなくなるまで弾を吐き出す。脚部に三発、円盤ボディに七発の弾丸を受けた穴だらけのロボットは、ナツメに銃口を向けられないまま沈黙した。ナツメの通った道には、排出された薬莢が足跡のように転がる。命中した弾丸の三倍を越える数の薬莢が。
 ナツメは朽ち果てたダストボックスの向こうに駆け込んだ。安い鉄板で拵えられたそれが銃弾を防げるとは思えなかったし、ロボットは完全に機能を停止している。しかしナツメは国の兵士として戦った頃の習慣として身を隠した。それから円盤ロボットの死を確認して、ようやくその遺骸の方へと向かった。
 ナツメはダストボックスからロボットまでの二十五メートルでさえ、細心の注意を払って歩いた。ロボットは群を成すことがある。プールの端から端までの距離だったが、底に足がつかないプールを泳ぎきるよりもずっと時間をかけた。
 ちょうど半分ほど進んだところで、彼は動きを止めた。息が続かなかなくなった水泳選手のように。だが実際はそのときになってナツメは息を止めた。聴覚が異変を知覚したのだった。またどこからか物音がする、と。
 ナツメは耳を澄ませて音を聞いた。ビルとビルの合間を駆け抜ける風の音が聞こえた。それに混じって、確かにさっきまではなかった音色が伝わってくる。ナツメは聴覚からの警告を無視することはできなかった。耳が最も広範囲の情報を収集できる感覚器官であり、見通しの悪い都市部では何よりの頼りだった。
 彼はロボットから離れて音源の方へ向かった。ビルの陰から陰へと渡り、あたかも建物の屋根から屋根へと飛び移るスーパーヒーローかのように彼は地上を走った。
 近づくと音の正体が次第に明らかになる。足音、衣擦れの音、そして液体の撓む音。それ以外にも音は複雑に混じり合っていた。今彼が背中を預けるビルの向こうだとわかった。
 ナツメは自分の呼吸を飲み込み、陰から飛び出して人差し指に力を込めた。


 光を反射しないよう加工された小銃は昼の日光に影を落とすが、それだけだった。銃弾は吐き出されず、人差し指は極度の緊張に痙攣を起こした。ナツメは身を強ばらせ、身動きのできないまま石像と化す。
 彼は銃口の先に、幼い少女と、さらにその奥の巨大な影を見つけた。
もしその少女がただの張りぼてで、その背後の巨大兵器から気を逸らすための囮だったなら、ナツメはこのとき死んでいた。事実、そういうチョウインアンコウのようなロボットの開発計画を軍隊で耳にしたことがあった。
 だがそうではなかった。双方が手を伸ばせば届くような距離にいる少女は、瞳を瞬かせ、確かに息をしていた。その背後の影も、視界を覆うほどに巨大な殺戮兵器などではなく、ただのバリケードであった。
 少女は、光に照らされて微かな藍色を放つボブカットと無表情が印象的な女だった。年齢は十五かそこらだとナツメの目には映る。白いワンピースと肌が日の光に溶けるようだった。彼女は無感情にナツメを見つめ、黙っていた。銃口を向けられたままだというのに。
 少女と目が合っていることを知って、ナツメは金縛りからようやく解放された。すぐに銃を下ろした。時折彼女が瞬きをするだけで、それ以外はすべてが止まっているように見えた。
その感覚に自分まで引き込まれてしまいそうで、ナツメは言葉をかけた。
「ここで何をしている?」
 少女は一拍の間をおいてから、
「水を汲んでいます」
 動くのは口元だけで、表情は一切変化しなかった。
 言う通り、彼女はビルとビルの間にある古い井戸から水を汲み上げているようだった。痛んだバケツが井筒に立て掛けられ、彼女の手元には半透明のポリタンク。
 しかしナツメが問った理由は違った。彼女が何をしているのかよりも、彼女がその場所にいることそのものが問題だった。一人の幼い少女が、戦場も同然の街中にいるということが。
 そこで彼は少女の背後の影に気がつく。古い看板やアルミのベンチを組み合わせて作られた、廃品バリケードだった。板と板が絡み合っただけの簡単に崩せそうな高さ三メートルほどの壁が、視界を塞いでいる。ナツメは知っていた。そのバリケードが防いでいるものが、外からの攻撃ではなく、外からの視線だということを。彼には見覚えがあるのだった。その場所を訪れたことはない。他の場所で同じものを目にしたのだった。その場所は山の中だったり浜辺だったりしたが、即席で築かれた壁と、その中にあるものはどれも同じだった。
 誰に問うでもなく彼は呟く。
「ポリスか」
 少女がそれに答えた。
「はい。ここはポリスです」
 廃墟都市に吹く風のように乾いた声音が、ナツメにだけ届いて消えた。


【第二章】

「学校を使うといい」
 顔にいくつもの皺を記憶とともに刻み込んだ老人はナツメにそう言った。
 朽ちかけの畳の上で胡座を組み、彼は囲炉裏の火を眺めてナツメの方を見ようとしなかった。まるで最初の一見で彼のすべてを見透かしたかのように。最初にナツメが彼のいる古屋に入ったとき、彼はナツメを一瞥し自らをシゲイと名乗った。
 どこか住める場所を貸してほしい、というナツメの言葉に、シゲイは答えたのだった。
「南の隅に学校がある。そこなら誰もおらん」
 シゲイの住む家は小さく、部屋は狭かった。だが八十過ぎの老人が一人住むには広すぎるように思われる。しかしナツメの目にはシゲイ一人の六畳一間が寂しいとは不思議と感じられなかった。それは彼が廃墟となった住宅街の中で彼の家を見つけたときも同じだった。寂れた印象を抱かせない何かがそこにあるのだった。
「近くに誰か住んでいるか?」
「おらん」
 シゲイはナツメに目を向けない。
「その方が都合がよかろう」
 何もかもを見通した瞳が、もうほとんど開かなくなった細い双眸から覗いていた。シゲイはナツメを再度一瞥した。反応を視覚で感覚しようとする。
 ナツメはシゲイがこのポリスの権力者であることを実感し、その深い黒の瞳で見られるのがたまらなく嫌になった。
「助かる。そこを使わせてもらう」
 彼はそう言って立ち去ろうとした。ベルトで肩からぶら下げた銃ごと、彼はシゲイに背を向けた。
「待て、軍人」
 シゲイは嗄れた声で呼び止めた。老いた声だが、その鈍重さがナツメの足を重くする。
「俺はもう軍人じゃない。軍隊はとっくに壊滅した」
 ナツメの視界の外でシゲイが頷く。
「いつまで、ここにおるつもりか」
「予定はない。計画も」
 パキ、と囲炉裏の炭が音を立てた。
「農作業の手伝いくらいはする。体力には自信がある」
 それだけ告げると、ナツメは今度こそナツメは土間から去った。竹で編まれた簾を頭で押し退け、すぐにシゲイの視界の外に出る。彼を見ている限りでは幾度しか目が合わなかったのに、背を向けると常に睨まれているような感覚があった。彼の視線から解放されても、まだ何かを彼に握られたような心地の悪さがあとを引いた。
 廃品バリケードの中でも風景は変わらなかった。崩れかけのビルと一戸建て住宅が並ぶだけだった。ただし偶然か必然か、バリケードの外と比べれば一戸建ての建物が多いように見受けられる。しかしそこは寂れた廃墟群にしか映らなかった。身を寄せ合い、戦争から生き残った人々が死に物狂いで生活を続けているのだとしても。
 ナツメは青い空に昼の太陽を探した。


 日常的に使われている道とそうでない道とはすぐに見分けることができた。使われている道にはゴミが少なかったし、人の気配があった。広い道が好んで使われているわけではないことも歩いてみればわかる。ナツメが殺戮ロボットと対峙した主要道の先がこのポリスの中にあったが、そこには砂がたまり、ガラクタで溢れていた。不必要なまでに広い空間は、その寂れた印象を余計に加速させるのだった。
 元来た道を戻るようにして、ナツメは学校を目指した。途中出会った幾らかの住人に道を聞いた。年齢はナツメよりも年下から老婆まで様々だったが、皆女性だった。ナツメは、男はどこか別の場所で農作業でもしているのだろうと想像する。彼女らはナツメを見ると、一瞬だけ肩からかけられた銃に視線を泳がせて、それから彼の話を聞いた。道を訊ねて答えない者は一人もいなかった。
 シゲイの住む家から出て十分ほど歩くと、ナツメは紹介された学校を見つけることができた。かつては描かれていたであろう二百メートルトラックの白線が風に消されたグラウンドの向こうに、鉄筋コンクリートの校舎がぽつんと座っている。学校の名はわからなかった。校門には札が立て掛けられていた跡だけが残っていた。ナツメはしばらく様子を見ていた。校門から校舎まで百メートル近い距離があったが、それでも時間と人間が与えたダメージの大きさを測り知ることができた。黄ばんだコンクリートには幾つもの大きなヒビが走り、窓ガラスはすべて取り外されている。前者は時間と自然による破壊であり、後者は資材を求めた人間による強奪の結果であった。風通しがすこぶるよくなった校舎からは、強い風が吹くと悲鳴のような唸りが聞こえるのだった。
 グラウンドを真っ直ぐ横切ってナツメは玄関から土足で校舎に入った。げた箱は持ち去られていたし、屋外と屋内の区別などつかないほどだった。広めの玄関ホールを右手に曲がって伸びる廊下の床には、元々がなんだったのかわからない廃材で埋め尽くされていた。木の板の欠片だったり、何かの布だったりした。ナツメは微かに覗くリノリウムを渡って歩いた。そんな惨状であっても、鉄筋コンクリートは強かった。
 まずは寝床を確保しなければならなかった。校舎は三階建てだったが、出入りの容易さからナツメは一階部分の他を使用することを考えなかった。階段を登ることなく素通りする。部屋を一つずつ見て回った。何もない――廃材の他には――部屋がいくつか続いた。部屋の名を示す札が「一ーA」と教えてくれる。ナツメはかつて幾人もの子供が集っていたであろう教室を眺め、通り過ぎた。
 何もない教室が四つ続き、その奥は倉庫だった。そう記されていただけで、実際には何もなかった。
 その奥は保健室だった。ナツメは学校に通ったことおがあるはずだった。ほとんど記憶にはない。戦場での記憶が、それ以前のすべてとそれ以降の細々を消し去っていた。それでも保健室の内装についてイメージはもっていた。清潔で、南向きで、ベッドがあるというイメージを。
 しかしその漠然としたイメージは、時間の経過によって実体を伴わない単なる「イメージ」へと変わっていた。十二畳ほどのその部屋には、清潔感も、ベッドもなかった。代わりに植物の緑があった。部屋の南向きの窓の外から、植物の蔓が広がっていた。まるで部屋そのものを喰らうかのように。
 ナツメは札の「保健室」という文字をもう一度確かめる。そこは「保健室」だったが、今真に名乗るべきは「植物園」だった。
 部屋に入ることにナツメは躊躇いを覚えた。一歩踏み入れれば、部屋と一緒に自分も喰われてしまう気がした。一方、そんなことはないという現実的な思考が彼を立ち留まらせ、ナツメに観察をさせた。窓から進入し、壁と天井を這う蔓は朝顔のものだった。青みがかった花が、昼の光を浴びて縮こまっている。今朝は開いていたかもしれない。数十もある朝顔の花が日の出とともに開き、生え揃った鋭い牙で襲いかかってくる――そんなビジョンがナツメの脳裏に浮かんで消えた。それほどまでに朝顔が成長したのは、独特の環境のせいか、あるいは偶然の突然変異の結果だと彼は考える。同時に、人為的な環境整備の影があるようにも見受けられた。
 しばらく茫漠と観察し、それからナツメは錆びついて開いたまま動かなくなったドアの前から去った。寝床にはなりそうもなかった。
 その奥に、古い畳の六畳間があった。「宿直室」と札にあった。水洗トイレやシャワー室も隣接していたが、ライフラインが完全に停止している中で機能するはずもない。けれど窓は南向き、畳も朽ち果ててはいない。他の部屋と比べれば良好な環境といえた。ナツメはしばらくの寝床をそこに決めた。
 銃とリュックサックを下ろして、彼自身も壁にもたれて座った。畳はしなっても壁が音を鳴らすことはなかった。リュックサックを開けると、彼の記憶通りの荷物が収納されている。一番手前にあるのはランプだったが、窓からの日差しだけで部屋は十分に明るかった。他には最低限の工具やなけなしの食料が入っていた。リュックサックは当時軍隊から支給されたものだが、軍が崩壊してから数年の間に中身は様変わりしている。今では軍人であった一年間、そのリュックの中に何が入っていたのかナツメ自身にも思い出すことはできなかった。
 リュックサックの中身を一通り確認した彼は、それを元に戻すことをせずに銃を手に取った。よく磨かれた銃だった。彼の粗暴な身だしなみには似合わないが、それが彼の生命線であるという意味で、手入れされているのは当然のことだった。銃弾が装填されていることを確認して、彼はそれを握ったまま腹に置いた。
 まぶたを閉じて、ナツメはしばらく日影で眠った。


 目を覚ましたナツメは、食事の必要も感じず、銃を持ったまま学校を出た。出くわした住人に道を聞いて、ポリスの中の農場へと向かう。ポリスでの生活には慣れていた。今まで幾つものポリスを渡り歩いてきた。その数と同じだけ、ポリスを追い出されるか、出ていなければならない事態に陥っている。身内の争いごとでポリスが崩壊したり、関わるべきでない類の人間に目をつけられたりしたが、ナツメは慣れていた。仕方がないことだった。なんとか生き残った人々がその日暮らしの自給自足をするポリスという共同体において、新参者を受け入れるというのは自らの首を絞める行為。門前払いを喰らうことも一度や二度はあった。
 今まで渡り歩いてきたポリスと比べると、とナツメは思う。このポリスに漂う空気は穏やかな印象だった。人々の様子は変わらない。継ぎ接ぎだらけの衣服を纏い、痩せ細り、虫食いだらけの小さな野菜を井戸水で洗っている。けれど、争いごとは見受けられなかったし、他人のナツメを無視することもなかった。砕けたアスファルトの上で駆け回る子供の姿も見た。ひっそりと暮らすその様子に、彼は人類が確実に退行しているのを感じた。このまま衰退して地球から人類が絶滅する日はそう遠くない、と。
 ナツメが訪ねた農夫は、訳を話すとすぐに木製の古い道具と耕すべき土地を与えてくれた。任された土地は雑草の処理が終わったばかりの荒れ地で、ナツメにはとても肥沃そうには見えなかった。砂の粒は大きいし、水分が少ない。そんなでも野菜は育つのだと農夫は言った。彼――タナベと名乗った――は、そのたくましい腕に野菜を抱えていた。実りの悪い土色の根菜だった。ナツメがそれに目を向けていると、タナベは笑顔で「こんなでも食べられる。収穫しないと、今日食べるものがなくなってしまう」と豪快に笑った。三十代に見える彼には歳相応の苦労と、どこか遠くを見ている目を垣間見ることができた。ナツメは黙って仕事に就いた。
 日が傾くまでナツメはひたすらに荒れ地を耕し続けた。都市の外れの農地。西ろ都市と東の山々に挟まれた郊外だった。森との境には都市にあったのと同じく廃品のバリケードが組まれている。ポリスは完全に外部との交流を遮断されていた。都市の隅っこと一部郊外を囲う脆い壁によって。森に住まう動物たちの気配を感じることは叶わない。あるいは、かつて森にいた動物たちはとっくに死に絶えているかもしれない。
 空の赤色が徐々に深みを増してきた頃、タナベの妻が彼女らの娘とともにやってきた。夕飯の準備ができたことを教えるために。このポリスでは、住人全員分の食事を一つの場所で一斉に作っているのだった。
 タナベは戦争が始まる前なら初等学校に通い始めているであろう娘をナツメの前に連れてきた。長い髪をおさげに結った少女は、人見知りをしてタナベの背後に逃げ込んだ。
「ほら、コウメ。挨拶をしなさい」
 父親にそう言われ、コウメはタナベのズボンを握りしめたまま片目だけでナツメを見上げた。
「……こん、にち、は」
 それだけ言うと、彼女はすぐに目を伏せた。
 ナツメは棒立ちのまま、
「ああ」
 とだけ。タナベが苦笑する。
 淡泊ながらも反応されたことに自信を覚えたのか、コウメはもう一度顔を出した。
「コウメね、コウメっていうの」
 それから、またすぐに隠れる。
「ナツメだ」
 名乗られたコウメは少しだけうれしそうな表情を見せ、今度こそ父親の背後から出てきた。彼女はナツメを黙って観察し、ナツメはそれを見下ろした。
 タナベがコウメの頭を力強く撫で、彼女が少しだけ痛そうな顔をし、
「さ、夕飯だ。きみも行くだろう?」
「ああ」
 ナツメは農具を生まれたばかりの畑に刺した。コウメが母親の元に駆け寄り、ナツメと目が合うと母親はやんわりと笑顔を見せる。ナツメの肩には今も銃がぶら下がっているが、誰も何も言わなかった。
 ナツメは笑い合う家族の後ろを、少しだけ離れて追った。


「あんた見ない顔だけど、最近ここに来た?」
 食事の配給場所になっている古い工場で炊き上げられた穀物と野菜の入ったスープを受け取ったナツメは近くのビルの玄関口に座り込んでいた。誰も使っていない雑居ビルのようで、少ない街灯を頼りに集まる住人の様子がよく見える。
ナツメに慣れ慣れしく声をかけたのは、彼より少しだけ若く見える男だった。
「ああ」
 男は男だと判別できる程度に女のような顔をしていた。栗色の天然パーマがよく似合う。顔と体格との間に年齢差があるように見受けられた。童顔だった。
 彼はナツメの前で口を噤んでいる。
「何か用か?」
 近づき難くなるような素っ気のなさだったし、ナツメは半ば意図的にそうした。元より彼の人相は他人にとって心地よいものではない。生まれつき睨むような視線を放つ彼は、その素っ気なさも相俟って、他人から近づかれない性質を持っている。ナツメ自身、他人に近づかれる必要を感じていなかった。
 けれど男は笑顔を見せた。この時代には不釣り合いなほど、屈託のない笑顔を。
「隣、いいか?」
 ナツメは小さな驚きを鉄面皮で隠した。
「ああ」
 顔を上げることもないナツメに彼は不振な顔の一つもしない。目にすることなくナツメにもそれはわかった。
 男が隣に座り、ナツメは自分と比べてみて初めて彼の腕がか細いことに気づいた。十分な食事がとれないだけが理由ではない血色の悪さもあった。ナツメはそれについて問わなかった。
 彼は金属のスプーンでスープを混ぜながら話しかける。
「おれ、ユーリ。あんたは?」
「ナツメだ」
 ふーん、とユーリはスプーンの先を口に運ぶ。さほどの興味もないように。ナツメは彼を危険視した。向こうから近づいてくる他人は、大抵問題を抱えていて、故意にしろそうでないにしろナツメに危害を加えるのだった。ユーリからはひどく純粋無垢な印象を受けた。それが本物だとは感じられないほどに。ナツメとそう変わらない年頃で、戦争に駆り出されたはずなのに、彼には訓練を受けた形跡も戦場を歩いた過去もないように思われた。
 ユーリはナツメがそこにいないかのように食事を続け、時折思い出したように言葉を放つ。
「軍人?」
「元、な」
「どっから来たの?」
 かと思えば、彼は急に質問を並べる。
「遠いどこかだ」
「どこかって?」
「俺も憶えていない」
 ナツメは嘘をつかなかった。その純粋な瞳には――それが偽物であったとしても――すべてを見透かされるかのような恐ろしさがあった。
「そんなことを訊きにきたのか」
「まぁ、ね」
 ナツメは意図して少しだけ呆れた顔をした。
「だって久しぶりに見たから、同じくらいの歳の男」
「お前の他にはいないのか?」
「男はおれ一人」
「女は?」
「いるよ、いっぱい。ここは戦場に行かずにすんで生き残った人たちのポリスだから。そこでも働いてたろ、女の子」
 言って、ユーリは食事を受け渡す工場を指した。今配給をしているのは五十過ぎの女性だったが、その奥に厨房が見えるのをナツメは憶えていた。今ナツメが腰掛けている場所からでは、距離がありすぎてよくわからない。
「お前は戦場に行かなかったのか」
「体が弱いんだ、生まれつき。幸か不幸か、ね」
 それで徴兵から逃れられたんだ、と彼は自嘲的に笑った。
 それを聞いてナツメにも納得ができた。彼のどこかずれた純粋の正体に。それと同時に、ユーリは羨ましがられただろうと思う。ナツメは彼を羨ましいとは思わなかった。彼には彼なりの苦労があったことを想像できるからだった。
 ナツメは欠けたプラスチックの容器を空にして、そこを立った。容器は返却しなければならない。彼が歩き出すと、背後でユーリが「じゃあな」と小さく手を振った。ナツメは何も応えず去った。それが悪意や敵意からの無視ではないことを、ユーリは不思議と理解する。ナツメがユーリの言葉にしない苦悩を感じたのと同じように。
 ナツメが見やると、古い工場を再利用した厨房には、確かに皿を洗う少女の姿があった。


 秋らしさを得始めた夜は少しばかり肌寒く、ガラスのなくなった窓から入る風がいつの間にか伸びた髪を撫でていく。雲の少ない夜だった。窓から月の姿は見えずとも、宿直室は月光にほんのり照らされる。部屋の内外を繋ぐのはその窓だけであった。廊下に繋がる扉も、グラウンドへ繋がる裏口も閉じられている。ナツメは主に裏口から出入りしていたが、夜になる前に錆びついた扉を力ずくで閉めた。そうして唯一開いた窓の正面で縮こまる。訪問者がっあったとしても、気づけるように。
 銃はいつだって、手に届く場所にあった。道を歩いているときも、訊ね事をしているときも、農作業をしているときでさえ。いつどんな危険に晒されるかわからなかった。ナツメがポリスの外から来たせでもあった。外は危険で溢れている。ただ、このポリスの住人は平和を過信しすぎていると彼は感じた。ポリスの中が絶対に安全とはいえないことを、ナツメは経験上よく知っている。
 安全な場所はどこにもない――そんな世界で、ナツメはいつしか銃に依存していた。銃は安全を保証してくれる万能の道具ではない。銃を撃ちながら殺された仲間も、銃を撃てずに撃たれた女子供も、彼は多く見てきた。けれど銃はいつもナツメを守ってきた。どんな仲間よりも確実に。
 周囲に警戒網を張りながら浅い眠りにつき、秋の夜は過ぎた。
 ナツメが目を覚まし行動を始めたのは、朝顔が花開いているであろう日の出の直後だった。眠りについていたはずだが、彼にはその実感がない。銃を片手にうずくまったまま、ずっと虚空を見つめている記憶があった。浅い眠りのせいだった。行く宛もなく放浪する日々が続いたせいで、体は眠ることを忘れかけている。
 農場へ向かうための準備をしていたナツメは、保健室の朝顔のことを思い出した。朝日に照らされるグラウンドを窓の外に見つめ、きっと今ならつぼみは開いているだろうと思う。けれど彼はそれを見に行くことをしなかった。行ってしまえば、本当にその藍色の花に喰らわれる気がした。
 ナツメが先日と同じ農場についたとき、目で見てわかるほど痩せた畑にはすでにタナベがいた。彼はナツメが問ってもないのに、彼に気づくと近寄ってきて今朝の食事の分を採ってるんだ、と言った。それからナツメもそれを手伝った。名前も知らない葉物野菜を土の上から毟る。葉は一枚がナツメの手のひら大で、色は白から緑。戦争が始まる前にはなかった品種かもしれなかった。できるだけ少ない手間と時間で、できるだけ痩せた土地でも育てることのできる作物が、遺伝子操作によって開発された。あたかも自動車部品を作るような工場で、あたかも新しいエンジンを作り出すかのように。
 ナツメは昔の戦友が言っていたことを思い出す。人は世界を変えすぎた、だからこの戦争は世界を滅ぼすために神様が仕組んだ戦争だ。彼はそう言って、戦争末期、ナツメの知らないところで撃たれて死んだ。世界は終わるのだと彼は信じ、怯えていた。どんな薬をやっていたのかは知らない。彼はそのカルト宗教のような妄想を一人で信じ、そしてナツメは今、それが間違っていなかったことを感じる。人間の世界は衰退し、終わろうとしていた。
 戦争の最中、核爆弾で地球全土が死の大地になることはなかった。どこかの連合がどこかの大陸で高性能原子爆弾を使用したという噂話を聞くことはあったが、彼にとってそれは噂に過ぎなかった。地球は生命が存続できる環境のまま、しかし人類は徐々に滅亡への道を進んでいる。
 人はそれを受け入れた。人類がかつての繁栄を取り戻す日はこない。それは誰の目にも明らかだった。それでも彼らは生きるのだった。生存本能がささやくままに。
「ナツメは、どうしてこのポリスに来たんだい?」
 隣のタナベが問った。
「偶然見つけたからだ」
 ナツメは興味を示さない。
 それでもタナベは問いを続けた。ナツメの心内など知ったことではないというように。
「それまでは、ずっとポリスの外に?」
「他のポリスにいたこともある」
「どんなところだった? ここよりも裕福だったか?」
 タナベがナツメに顔を向けることはない。感情を感じさせない表情のまま、野菜を採った。
「ここよりも資源に恵まれていたポリスはたくさんある」
 ナツメの頭の中では、今までに訪れた幾つものポリスの情報が混ざり合い、形を失っていた。記憶は混濁を極め、しかしその中から彼は情報の一片をつまみ出す。
「だが、ここよりも平和に恵まれたポリスを俺は知らない」
 タナベが乾いた笑みを見せる。
「そうか。気に入ってくれたようで何よりだ」
 ここを気に入ったわけではない、ナツメはそう言おうとしてやめた。
 収穫を終え、ナツメはタナベについて市街地へ向かった。配給所の老婆に野菜を手渡し、空になった手で朝食を受け取る。昨晩のようにタナベの妻子が迎えに来ることも、ユーリと名乗った少年が話しかけてくることもなかった。タイミングのせいか人は疎らで、ナツメはタナベと話の続きを交えながら食事をとった。薄味のスープが体に染みた。
 それから農場に戻って昼まで作業を続けた。ナツメにその義務はなかったが、ひとまず他にやることがないのだった。
 農場に現れたユーリが彼に声をかけたのは、ナツメが井戸の水で顔を洗っているときだった。
「やあ、ナツメ」
 真っ白な七分袖のシャツを来た彼は、そのシャツに負けぬほど爽やかな笑顔を見せた。両手ですくった水が、どぼんと落ちた。
「なんの用だ」
 ナツメは彼が彼であることを認めると、すぐに顔を背けてもう一度顔を洗った。ユーリはポリスの情報を聞き出すには便利な人物かもしれないが、自ら進んで話しかけてくるような者に禄な人間がいないのも事実だった。
「別に用なんてないけどさ」
「なら帰れ」
 首からかけていた黄ばみの残るタオルを顔に当て、ナツメはくぐもった声で言う。
「ひどいな」
 ナツメがタオルを再び首にかけて見回しても、辺りにいるのはユーリだけだった。タナベは用事で少し遠い場所にいた。そこは都市郊外の平地を切り開いて作られた農地であり、緑と土色の大地を見渡すことができたが、やはりナツメにはユーリの姿しか映らなかった。
「何しに来た。お前にも仕事があるはずだ」
 彼が誰かの頼みを聞いてやってきたのではないか――ナツメはそう考えたが、確証は得られない。
「大丈夫、今暇だから」
 ユーリは笑顔のままだった。
 ナツメは人相が悪い。常に睥睨するように人を見る。それを指摘されたこともあったし、そのせいで避けられることも女子供を泣かせることもあった。大人や男でさえ、ナツメに愛想を見せるのは最初だけだった。自分に進んで声をかけるユーリを彼は疑うしかなかった。
「おれ、みんなの分の洗濯を任されてるんだ。ほら、こんな体だし」
「そうか」
「そいや、ナツメの分は何も聞いてないな」
「自分でなんとかする」
「そうか?」
 ふーん、とユーリは引き下がった。
 彼はすぐに話題を変える。ナツメの思考を断ち切らせるように。
「それ、ずっと持ち歩いてるのか?」
 ナツメは言われてから彼の視線に気がついた。ベルトによって肩からかけられている銃。マガジンが銃身の下部から差し込まれ、その中には銃弾も詰まっている。レバーを引き、セーフティを解除すれば鉄の弾を吐き出せる
 ナツメはユーリの前から立ち去る準備をして、答えた。
「ああ」
「重くない?」
 ユーリは初めてナツメに会ったときのような目で自動小銃を見つめた。未知に対する好奇心。それが纏うはずの恐れはなかった。戦場を駆け抜けたことのある人間は死んだ目でそれを見る。戦場から遠く離れた者は恐れと嫌悪をもってそれを睨みつけ、目を背けるはずだった。
 彼はそのどちらも含まない顔で、それがさも常套句かのように、
「ちょっと撃たせて」
 と言った。
 ナツメは呆れる演技をするのも忘れた。
「ダメだ」
 ユーリは、えー、と拗ねるような顔を見せたが強請りはしなかった。
「なんで持ち歩いてんの?」
「安全のためだ」
「重いのに?」
「命には代えられない」
 ナツメは自分が任された農場に向かって歩いた。ユーリがそのあとを追う。おれだったら絶対手放してると思うけど、と自分勝手なことを呟きながら。
「もしかして、形見とか? 死んだ戦友の」
「そんなものじゃない」
 悠里は何度も手直しした跡のある靴をぺたぺたと鳴らしながら歩いた。
「じゃあお守り?」
「銃は撃つものだ。撃って、敵を殺すものだ」
 しばらくユーリは口を噤んだ。一定の調子で聞こえる彼の足音だけが、その存在を証明し続けた。ナツメの歩みと同じ周波数で銃は揺れ、動き、マットな表面が光を受け流す。銃口は明後日の方向を向いたまま、誰にも向けられることはなかった。
「ここじゃ、敵なんてどこにもいないのに」
 その言葉を最後に、足音は聞こえなくなった。


【間章1】

 戦争が始まった。それを少女は自分の屋敷の中で知った。
 屋敷は都市の郊外にあった。鉄道の駅を中心にして広がる内陸の都市が窓から見える。周りは森に囲まれて、都市と屋敷とを繋ぐのは最近舗装されたばかりの道が一本あるだけだった。森から動物が迷い込んでくることもあった。少女は動物たちと遊ぶのが好きだった。屋敷には忙しい両親と自分しかいなかったから。彼女は自分の部屋の窓から見える街のことも好きだった。その賑やかで活気に溢れる様子が気に入っていた。
 春になれば、彼女はその街にある学校に通うはずだった。歩いては行けないから、送り迎えの車とその運転手も決まっていた。しかし戦争が始まって、両親は彼女が学校へ行くことを許さなかった。屋敷の庭に一本だけある桜の木が咲く頃になっても、少女はずっと屋敷から出られなかった。そのうち、誰も登校しなくなって学校がなくなったことを知った。
 その頃には屋敷の中に大きな大人の男がたくさん出入りするようになった。母親は屋敷の地下に逃げ込む場所を作っているのだと言った。都市が戦争に巻き込まれても、家族と街の人のいくらかはそこでやり過ごせるように。
 彼女は広い屋敷の中で一人だった。戦争が始まって、知らない大人が出入りするようになって、両親はますます忙しそうにしていることが多くなる。屋敷から出かけていることも増えた。少女はその度に自分も連れて行ってくれと頼んだが、一度として外へ出ることは叶わなかった。
 少女は部屋に一人でいることが多くなった。食事も自分の部屋でとった。どうせ食卓には誰もいないから。一日中泣いて身の回りの世話をしている人を困らせることもあった。そんな日が数日続くと、使用人は困り果てて父親を呼び戻した。
 仕事から戻ってきた父親に、彼女は何も言わなかった。自分の父が大切な相談事を放り出して帰ってきてくれたことはわかっていた。同じように、すぐに戻ってしまうことも知っていた。
 父親は日が暮れると使用人に任せて仕事に戻ってしまった。少女はベッドに潜り込んで泣く他なかった。年老いた使用人にとって、幼い少女の機嫌を取るのは容易なことではなかった。
 それから数日。疲れて涙も出なくなった朝だった。
 少女の元を、知らない女が訪ねてきた。女は少女にそっくりだった。顔の形も髪の色も。着ている服さえ似通っていた。歳だけは違うように思われた。女の方が、少女よりもいくつか年上だった。
 女の後ろにいた父親が言った。
「きみのお姉さんだ」
 父親は満面の笑みだった。少女の姉だと紹介された女は、父親を真似するように笑った。
 自分に姉がいることを、少女は聞かされたことがなかった。本当に姉なのかどうかは、直感的にはわからない。けれどそれは些細なことだった。彼女はいつでも少女と一緒に遊んだ。毎日一緒に食事をとった。父がいなくても、母がいなくても、彼女だけはずっと一緒だった。少女にとっては、それ以外のことはすべて些末なことだった。
その日から、少女には姉ができた。
 二人はいつも一緒だった。部屋のベッドを二段に作り替えてもらって同じ部屋で寝た。姉は優しく、少女のことを一度も叱らなかった。
 少女よりも年上とはいえまだ子供なのに、姉はなんでも知っていた。少女の知らないことはなんでも教えてくれた。けれど、彼女はただ一つ、自分の名前を知らなかった。彼女のことを「お姉ちゃん」と呼んでいた少女は、そのことをあとになって知った。どうして名前がないのか訊ねても、姉は答えてくれなかった。
「じゃあ、お姉ちゃんの名前は『アサガオ』にしましょう」
 少女は姉にそう言った。彼女の大好きな花と同じ名前だった。
 姉は庭で大切に育てられた朝顔の花を見て笑った。
「ありがとう」
 少女は、そんな姉が大好きだった。


【第三章】

 雨が降った。
 ナツメがポリスに来て、五日目のことだった。ナツメは宿直室の窓から雨によって霞む景色を眺めていた。雨は朝方降り始め、少なくとも昼過ぎまでは降るようだった。心地の良い土の香りが広がる。雨は遙かな太古から恵みであったが、この時代を降る雨に何が含まれているのか誰も知ることはできなかった。濃度を増した二酸化炭素と、化学物質、それを含んだ埃や砂。人間に対してどんな影響があるのかわからない。けれど人々はその水を飲み、その水で育てられた野菜を食べた。そうしなければ、明日生きていられないから。
 その日のナツメは、耳元で聞こえる規則的な音に目を覚ました。憶えのない音は彼の浅い眠りをすぐに奪う。
 水滴が、天井から古い畳に向かって一滴ずつ流れ落ちた。声も上げられずに泣く戦場の人々の涙のように。
 雨漏りをしていた。天井のひび割れから、雨粒が一滴一滴流れていく。周期はナツメの瞬きよりもずっと長い。けれど水は畳に染み込み、心なしか冷気を呼ぶように感じられる。畳は極地的に朽ちていた。ナツメは三階建ての校舎の一階部分まで流れる雨に驚愕し、自らの観察不足を悔いた。
 眠るだけの部屋として欠陥にはならない。けれど不快ではある。彼はもう一度校舎を回って、雨漏りをしていない寝床を探すことを決めた。
 ナツメはいつものように銃だけを下げて校舎を回った。このときは銃を手に持って歩いた。死角の多い学校という建物は、あまりにもかつての戦場を彷彿とさせた。
 子供の学び場であった教室は、ほとんどが宿直室と同じく雨を降らせていた。大粒の雨が、リノリウムの床を変形させている部屋さえあった。職員室と札にある大間も同じだった。他にも部屋を探したが、雨漏りをしていないのは倉庫らしき場所だけで、住めそうな場所はなかった。
 最後に残ったのは保健室だった。
 朝顔の花に食われた部屋は、雨漏りをしていようとしていまいと、とても住める環境ではない。何度か彼はその前を通り、開かれたまま動かなくなった扉に無意識に目を背けて歩いた。感じているのは薄らとした畏怖と確かな不気味さである。自然の前に人間はひれ伏す他ないことも、彼はかつての戦場で学んだ。
 宿直室への道のりで通りかかったとき、彼は最後にその扉の向こうを見た。
 驚く必要はなかった。どれだけ奇怪であっても、予想できるものに人は驚かない。過去の驚愕のせいでナツメは警戒を怠った。それ故に彼は扉の向こうの光景に驚愕し、反射的に銃を突きつける。引き金を引こうとさえした。それから一切の身動きがとれなくなった。
 部屋の中には、座り込んで朝顔の花に触れる少女の姿があった。
 ナツメの思考回路は一瞬にして混線し、バラバラになる。少女は朝顔の蔓が氾濫した保健室の中で一人、それに食われるのを待つようにして座っていた。白いワンピースの裾を敷き、膝をついて。彼女は右手の細い指で藍色の朝顔に触れたまま、ナツメに気づいて顔をあげた。洞窟のように真っ暗な瞳がナツメを捉えた。
 その白い肌と、深い色のボブカット、遠くを見ている瞳、機械のような無表情――ナツメはすぐに彼女が誰なのか思い出そうとする。思考は混乱し、不要な記憶が次々と蘇る。戦争が始まる前の友人であった少女、戦場で出会った敵の国の少女、野戦病院の少女。そのすべての顔が朧気ながらに再生され、同じ顔だと判明したのは、ごく最近の記憶だった。
 ポリスに着いたときに出会った少女。ナツメが銃を突きつけた少女だった。
 ナツメは銃を下ろした。
「お前……」
 少女は黙っていた。立ち上がることも怯えることもせずに、ただナツメの言葉を待つ。その様子は朝顔から生まれた妖精のようでもあった。表情は何も語らなかった。
「ここで何をしている?」
 威圧的な声色だった。彼の心が揺らいでいるせいで。
 少女は口を開け、一度閉じ、それから再び開口して、
「朝顔の世話を」
 平坦な言葉。ひどく無機質な音だった。たった一言だけでも、それが伝わった。
「これはお前が育てたのか」
「はい」
 ナツメは再び彼女と取り囲む朝顔の群を見た。朝方の花は大きく開いている。ナツメが一歩足を踏み入れた瞬間に、その開いた花弁から鋭い牙が生えるビジョンは消えない。けれど少女には牙を向けていないように思われた。蔓の根は部屋の外にあり、それが今土の中で雨水を受けている。
 雨足が二人の間から静寂を遠ざける。
「誰かに頼まれたのか」
 会話の中でナツメの緊張と混乱は解消される。それが消え去ると、今度は疑問が浮かんだ。彼女の透明すぎる瞳に。
「いいえ」
 少女は答える。
「お前の意志か?」
「はい」
 彼女の瞳は澄んだ水のように透明だった。透明な海のように、深く、底は見えない。ナツメはそこに恐怖を感じた。群がる朝顔の蔓に感じていたのと同じ恐怖を。ますます彼女が朝顔の物の怪か何かに思われる。
 ナツメは黙って彼女を見た。少女も黙ってナツメを見上げた。何かを考えている風ではなかった。
 少女はその人間味のない表情のまま、再び何かを告げようとした。
「……これは、」
 表情は変わらない。けれど小さな躊躇いが見受けられた。一瞬だけ彼女の言葉が止まる。
「これは、私の主人が大切に育てていた花ですから」
「主人? お前はどこかの使用人か?」
「いいえ」
 少女は頭を振った。
「なら主人とはなんだ?」
 彼女一人――ロボットのように感情の感じられない少女が一人、この校舎に出入りしているのなら、ナツメはそれを容認することができた。シゲイは彼女のことを知らなかったのだろうし、少女がナツメに危害を加えるとは思えない。だが他にも誰かがいるというのなら話は別だった。
「私を管理されていた方です」
 管理、という言葉にナツメは違和感を覚える。
「その主人は今どこにいる?」
 ナツメはその問いへの答えを予想して訊いた。
少女は彼の予想の通りに言う。
「空襲で亡くなりました」
 その無表情さえ、ナツメの想像するままだった。
 ナツメはしばらく何も言えなかった。戦争の中で近しい者を失うのは珍しいことではない。しかし彼女からは悲しみも、それを忘れようとする努力さえも感じられなかった。
「そうか」
 言うと、少女は変わらない顔つきで頷いた。
 ショックで心が死んでしまったのかもしれない、とナツメは思った。今までにそういう子供を見たことがないわけではなかった。
「身寄りは? 他に誰か、この場所に来る者はいるのか?」
「私は見たことがありません」
「お前一人だな?」
「はい」
 答えは至極単純で単調だった。彼女はしゃがみ込んだままナツメの問いに答えるだけで、何もナツメに訊かない。名前も、出身も、そこにいる理由も、何も。
 透明な瞳。死んでしまった心。ナツメはそこに、一つ別の可能性を見出した。それを思案すると、その方がずっと現実的に思える。彼は改めて少女を観察した。線が細く、肌は白い。白のワンピースも、肩まで届かないほどのボブカットも、少女らしさを感じさせる。
「?」
 ナツメの視線に、少女が小首を傾げた。人間らしい仕草だった。
 しかし、とナツメは思う。
 彼は無表情な瞳に問った。
「お前は、ロボットか?」
 その瞳は答えた。透明な瞳の中の影で何かを揺らめかせ、透明な透き通るような声音で。
「はい」
 単調な、たったの一言。
 彼女は隠していたのではなく、ナツメが気づかないだけだった。少女が「ロボット」であるという事実に。
 ナツメは彼女のような人型ロボットを見たことがなかった。軍隊の中で雑務を任される人間の形をしたロボットを見たことはあるが、彼らは最低限の言葉しか話せないし、人間のような滑らかな動きをしなかった。ただ一つ、愛想という面においてのみ目の前のロボットはナツメが見てきた他の人型ロボットに劣っていた。
 かつての人間の技術はそれほどまでに発展し、それ故に崩壊したのだった。
「今は誰かに仕えているのか?」
「いいえ」
 目の前にいるのはかつての技術の残滓でしかなかったが、それは人間に他ならなかった。ナツメは意識して彼女をロボットだと思わなければならなかった。
「エネルギーの補給は?」
「食事で」
 人間と同じように口でものを食べ、有機物からエネルギーを作り出す技術も、ナツメが戦場で戦っている間に作られたものだった。彼女は完全に自律して、たった一人で生きているのだった。誰かに尽くすために開発されたロボットであるのに。
 ナツメは瞬きする彼女を見て、
「そうか」
 とだけ言った。それから踵を返した。
 シゲイの言葉も理解ができた。ロボットは人間ではない。この学校にはナツメの他に誰も住んでいない。ロボットは無感情で素直。壊れている様子はないし、危害を加える風にも見えない。ナツメが心配すべきことは何もなかった。そこに「ある」彼女よりも、寝床の雨漏りの方が、彼にとってずっと重要なことであった。
 ナツメの姿が見えなくなるまで少女は彼の背中を見つめていた。壁の向こうにナツメが消えると、少女は立ち上がって朝顔の花に目を戻す。かつての主がどんな顔でその花を愛でていたのか思い出そうとして、できないことに気がついた。
 保健室の窓の外――雨を浴びて揺れる朝顔の蔓を、彼女はじっと眺めた。


 今日は雨だから休んでいなさい――誰もいない農場に行き、それから向かったタナベ邸でナツメはそう言われた。タナベは家族と一緒に家の中で何やら作業をしていた。彼の妻はナツメを見ていつもの愛想のよい笑みを浮かべ、娘のコウメは父親とともに玄関まで出てきた。彼の自宅は戦争の前に建てられた平屋である。家族三人で住むには少々狭いように見受けられたが、物のない暮らしには狭いくらいがちょうどいいのだと、以前タナベはナツメに言った。
「傘ぐらい差しなさい。出てきてもらったのに悪いけど、今日は帰って休むといい」
 申し訳なさそうな笑いでそう告げるタナベに、ナツメは彼の言葉を無視して畑に出ようとかと考えた。雨の日の方が捗る作業もある。しかし彼はそれをやめた。一家の優しい雰囲気が、彼の勝手を止めた。
 ナツメが立ち去ろうとすると、タナベは思いついたように彼を呼び止めた。
「ちょっと待って。今日、これから予定は?」
「ない」
 それを聞くとタナベは一度妻の方を向いて、何かを確認した。妻は変わらない笑顔で頷く。タナベもつられて笑顔になった。
 彼はコウメをナツメの眼前に連れてきて、
「よかったら、少しの時間この子を預かってもらえないかな?」
 コウメは父親の言葉に驚きの表情を見せ、なんで、と唇を動かす。
「私はこれから用事がある。妻も一緒なんだ。ほんの小一時間なんだが、どうかな?」
 ナツメは躊躇った。子守などしたことがなかった。コウメは七、八歳の、それも女の子。子供と関わる機会さえほとんどないナツメが簡単に請け合えるものではない。しかしタナベが本当に困っているのも伝わった。そうでなければナツメに預けようと考えるはずがなかった。
「いいのか?」
 とナツメは問った。タナベに、ではなく彼の前でどうともいえない顔をしているコウメに。
「……うん」
「大人しくしていられるか?」
「うん」
 二度目は力強く、真っ直ぐナツメを見て言った。ナツメは引き受ける他なかった。
「わかった」
「ありがとう。用事が済んだら迎えに行くよ」
「ああ」
 タナベはコウメに靴を履かせ、薄手の上着を渡してから彼女をナツメの方にやった。コウメは寂しげな様子を見せることなくナツメの隣に立つ。彼女がそれをねだったので、ナツメは彼女と手を繋いでやった。
 タナベが古い傘をナツメに貸し、ナツメはタナベの妻の少々不安げな笑みを一瞥して家の扉を閉める。重い木の扉は大きな音を立てて閉じた。外はまだ雨足が激しい。学校から濡れて歩いたナツメは肌寒さを感じた。
 錆びついた傘を開くのは簡単ではなかった。コウメが楽な開き方を教えてくれる。ナツメは彼女の舌足らずな説明をなんとか理解し、言う通りにビニール傘を開いた。ナツメが手を引いて、誰もいない道路を歩き出す。
 透明感を失いつつあるビニール傘が、二人の上で怒鳴るような音を立てた。


 道中、コウメは親の姿がなくなった途端によく喋るようになり、ナツメに向かって何かを話した。騒がしい雨足のせいで、ナツメにはほとんど聞こえない。彼はなんとなくの意味を汲み取って、それなりの相づちを打った。コウメは話を聞いてもらえるのがうれしいようだった。
 雨が降っていても、町を歩けば人に出会った。ナツメと同じように錆びついた傘を差して歩く者だったり、屋根のある場所で仕事をする者だったりするが、ナツメを見て不審がらなかった。そろそろ慣れたのだろうと彼は思うが、実際は、タナベがナツメは真面目な青年だという評判をあちこちで喋っているからだった。
「ナツメ」
 声を張って、コウメが呼んだ。彼女は頬を膨らませて彼を見上げる。
「どうした」
 ようやくナツメは彼女を見た。
「コウメの話聞いてる?」
「ああ」
「うそ」
「そうかもしれない」
 ナツメは前を向き直した。まだ慣れない土地である上に、兵士として鍛えられた感覚が長時間のよそ見を許さない。
 内弁慶な少女は、そんなナツメの態度が気に入らない。
「ナツメのおとーさんとおかーさんは?」
「知らない。顔も憶えていない」
「どこにいるの?」
「さぁな。もう死んでるかもしれない」
 コウメはふーん、と言うだけだった。親や子の死んだ家庭は少なくない。一家全員が殺され、誰の記憶からも消えてしまうようなことも平然と起こった。誰か一人でも生き残っているだけで幸運だった。
「じゃあナツメは一人?」
「そうだな」
「だったら、うちに来ればいいのに」
 コウメは笑った。屈託のない笑顔だった。年相応の、何も知らない、それ故に眩しく純粋な。
 ナツメはそれを見て立ち止まった。彼女がどういうことを言って、自分はどう言えばいいのかわかっていたのに、彼はしばらく口を開けなかった。傘を持つナツメが足を止めたことでコウメも歩くのをやめた。彼女は視線を上げながら首を傾げる。
「ナツメ?」
 学校が見える距離まで帰ってきていた。もう少しで傘を置いて屋根のある部屋に入ることができる。
 彼は歩き出した。
「なんでもない。それは無理だ」
「どうして?」
「どうしても、だ」
 ナツメは学校の裏門から庭に入り、ぬかるんだ土に足跡を残して宿直室へ直接繋がる扉へと進んだ。コウメは納得ができない様子のまま黙って彼の横を歩いた。そうしなければ濡れてしまうから。
 ナツメの頭が正常な働きを取り戻してから、彼は宿直室までの道に自分のものではない足跡があることに気づいた。
「よう、ナツメ」
 青年が一人、傘を差して宿直室に座り込んでいた。ユーリだった。
「どうした?」
 彼が差しているのも、ナツメが借りたものと同じく金属部に錆の走ったビニール傘。透明だったはずのビニールは煤けたように濁っていた。
 土臭い学校の庭で、ユーリは立ち上がる。ナツメを待っていたかのように。
「暇だろうな、と思って」
 答えてから、彼はナツメの隣に目を向けた。ひどく不審げに眉をひそめ、
「どうしたんだ、その子?」
「預かっている」
「タナベさんとこの娘さんだっけ」
「ああ」
 決して広くないポリスの中で、住人全員の顔を憶えるのは難しいことはではない。しかしユーリは彼女の名を知らず、コウメはユーリを知らないようだった。コウメがナツメの左手から離れ、ユーリから隠れるようにナツメの背後へ回る。
「誰?」
 ナツメにだけ聞こえるように訊ねる。
「怖い人じゃない」
「本当?」
「ああ」
 ユーリはゆっくりとナツメの方に歩いていき、腰を下ろした。コウメと同じか、より低いところから視線を合わせられるように。
「お名前は?」
 慣れた調子でユーリが笑顔を浮かべる。わざとらしい仕草がコウメの緊張を少しだけ解いた。
「コウメ」
 頭だけをナツメの陰から出すコウメ。ナツメと出会ったときにそうしたように、彼女は人見知りをした。ナツメは彼女の父親のようにうまく促そうともせず、ただただ突っ立っている。
「おれはユーリ。よろしく、コウメちゃん」
 ユーリが満面の笑みで言うと、コウメはナツメの後ろから出て頷いた。
 それが済むとナツメは扉を開けてコウメを宿直室に入れた。薄暗い部屋からは湿った臭いがする。ナツメのリュックサックの中身が散乱し雑多な印象だったが、コウメは見たこともない道具や食べ物に興味をもったようだった。傘を閉じ、靴を脱いで彼も室内に入る。
 まず最初にランプに火をつけた。雨の日は少し肌寒い。コウメがそれに見入っている間に、ユーリが部屋に上がる。
 初めて会ったときのように、ナツメがユーリに目を向けた。
「なんの用だ?」
「だから、暇だろうと思って」
「思って?」
「遊びに来た」
 ユーリは悪戯がばれた子供のような顔をした。そのくせまったく悪びれた風ではない。かつては窓がはまっていた穴から聞こえる雨足に紛れ込ませるように、ナツメは小さくため息をついた。それからランプの光に興味をもったらしいコウメに「触ると火傷するぞ」と注意する。
 コウメの隣に座ろうとするユーリを見下ろして、
「仕事をしろ」
 とナツメ。
 ユーリは言い訳をするように、
「休憩中なんだよ」
 雨だから洗濯もできないし、と口を尖らせる。本来の仕事がないのはナツメも同じだった。けれど彼に同情することはできない。
 どうして俺に構う?――ナツメはそう言おうとして口を開いたが、叫ぶようなコウメの声がそれをかき消した。
「ナツメとユーリはおともだちなの?」
 口を開けたまま唖然としてしまったのは、ナツメではなくユーリだった。ナツメは表情一つ動かさず、その黒の瞳の奥で煙のような感情を燻らせる。ユーリが大きく頷いて見せた。
「そうだよ。お友達」
「違う」
 呆れた口調で彼は否定した。そこに強い感情は感じられなかった。照れ隠しのようでもあったが、実際はそうではなかった。
「ひどいな」
 ユーリが腰を落ち着け、天を仰ぐようにしてナツメを見上げる。しかし神に祈るような思いはなく瞳は抗議した。
 事実だ、とナツメも腰を下ろす。雨漏りしている場所を避けて三人座り込むには六畳の間は狭かった。それでもナツメは銃を邪魔にならないよう寄せるだけで、それを置こうとしない。両親に何かを言われたのか、コウメは銃に興味を示さなかった。あるいは、なんの道具なのか知らないのかもしれなかった。
 ランプは焚火のように音を立てない。囲炉裏のように鍋を置くわけでもない。しかし自然と三人はそれを取り囲むように座った。しばらくは誰も何も言わなかった。風や吐息によって微かに揺れる火に見入った。家族のように。しかしナツメはそう感じなかった。彼が自分の家族というものをほとんど憶えていないせいで。
「ナツメはここに住んでるの?」
 コウメは自分が眠りそうになっていることに気づいて、会話をしようと思い立った。眠ってしまうことは許されない。彼女にとってその場はそれほど有意義だった。家族以外の誰かと話せるという場が。
「そうだ」
「狭くない?」
「寝るだけの場所だ、狭くはない」
 コウメはふーん、と気の抜ける声を出す。それを聞いて、ナツメにも彼女を睡魔が襲っていることに気づいた。
 それにつられたのか、ユーリが大きく欠伸を漏らす。
「ナツメ、いつまでこのポリスにいるつもり?」
「予定はない」
「じゃあ永住するかも?」
「否定はしないが」
 ユーリもコウメの真似をしてふーん、と言って見せる。
「永住すればいいじゃん。いいとこだろ、ここ」
「そうだな」
 他のどのポリスよりも平和で居心地がいい――それはナツメも認めるところだった。しかし同様に彼は思う。それ故に、他のどのポリスよりも危険だと。
 その思考が顔に出たのか、ユーリが鋭く察した。
「もしかして、平和ボケしてるとか思ってるか?」
「そうかもしれない」
「平和で何がいけない? どんなにピリピリ備えたって、死ぬときは死ぬんだ」
 ユーリが不機嫌そうに眉をひそめるのをコウメは黙って見ていた。眠気でほとんど頭の回っていない彼女には彼が何を言っているのかわからなかった。どうして機嫌を悪くしたのかも。
「だったら、死ぬときまで平和に幸せに暮らすのが利口ってもんだろ?」
「お前は戦場を知らない」
「知ってるさ」
 彼はすぐに言い返した。そこで一度口を噤んだ。頭の中の靄から言葉を探しているか、そうでなければ言うべきかどうかに悩んでいるのだった。
「おれも、別のポリスから来たんだ。二年くらい前に」
 告白するようにユーリは言った。ナツメは黙って耳を傾ける。聞いているのかいないのか、わからない程度の仕草で。狭い部屋では小さな声もよく響いた。雨足に遮られることもなく、彼の言葉はランプの火を揺らしながら伝わる。
「元々住んでたところが内乱でバラバラになったんだ。命からがら逃げてきた。運よくここにたどり着かなかったら、途中で死んでた」
 コウメはなんとか薄らと目を開けているだけで、脳も聴覚もほとんど眠っていた。ナツメはそれを認めて彼女に毛布を掛けてやる。古い布きれのような毛布だったが、ないよりはマシだった。彼女は小さく身じろぎをして、それから完全に眠った。
「だからわかる。ここはいい場所だ。おれはずっとここにいることに決めた。お前もそう思うだろ?」
 ユーリは話を聞いているのかどうかもわからないナツメに向かって語り続ける。彼が何を考えているのか理解できずとも、そのときのユーリにできるのは話すことだけだった。自分の意見と言い訳を。
 ナツメはコウメの様子を眺めているだけだった。間違っても風邪を引かせてタナベに返すわけにはいかない。雨の日の廃墟は冷えた。廃墟都市を放浪してきたナツメにとって、もっと過酷な環境で雨をやり過ごさなければならない日は多くあった。その都度彼は体調を崩すことなくうまくやり過ごした。けれど幼い子供の体力がどれほどのものなのか、彼にはわからない。ナツメはそればかりを心配しているように瞳を定めた。
 ランプの火が二人の顔を朧気に照らした。雨水が天井から落ちる。小さな音が響く。言葉はなかった。
 肌寒さにユーリが身震いをして、膝を抱えるように座り直した。


 雨はそれから小一時間で不意に止んだ。
 コウメはまだ眠っていた。そろそろタナベが迎えに来る頃だろううかとナツメは立ち上がって窓の外を見た。草木の影の方向から時間を知ることができる。ナツメは以前彼に問われて自分の住む場所を答えた。タナベはこの場所を知っている。
 もうしばらく待つことを決めてナツメがずれた毛布をコウメに掛け直してやると、今度はユーリが腰を上げる。
「おれ、コウメちゃん届けてくる」
 そう言うと、彼はナツメが言葉を放つ前に毛布を剥いでコウメを抱き上げた。彼の腕力は男性として非力といえたが、子供一人を抱き上げるのに難はない。コウメは抱き上げられても目を覚ますことはなかった。
 ナツメはタナベが迎えに来ることをユーリに説明しようとした。しかし喉まで出かかった言葉を彼はそのまま飲み込んだ。
「そうか」
 ナツメは彼に背を向けてランプの火を消す。混ざりものの多い低質な油を断たれた炎は、最後まで揺らめいて消えた。ナツメは炎に焼かれた視界の染みを見続けた。ユーリが苦労してドアノブを回し、扉を開放する。
 じゃあな、と言おうとした彼をナツメが呼び止めた。背を向けたまま。
「ユーリ」
 彼も振り返ることはなかった。雲の切れ間から差す日差し眩しさでそれどころではない。ユーリは自分にそう言い聞かせた。
「このポリスにはロボットがいるのか?」
 ナツメがランプを部屋の隅に寄せる。元々散乱していた道具も、コウメの手によってさらに散乱した道具もかき集めて一まとまりにする。そのすべてをリュックサックに戻すには、立体パズルを組み立てるように整理しなければならなかった。
 ユーリの目がようやく外界の明るさに慣れ始める。
「ロボット?」
「人の形をしたやつだ」
「ああ……いるな。女の子だろ? 見かけたのか?」
「今朝な」
「みんなはアサガオって呼んでる。けど、おれはよく知らない。会うこともないし」
 ユーリは久しぶりにその名を口にした。存在と名前を憶えている自分に驚く。
 彼の口振りにナツメは小さく安堵した。安直につけられた名だが、それは住人の間で認められている証拠だった。
「危険じゃないんだな?」
 確認するナツメ。
「大丈夫だと思う」
「そうか」
 彼はユーリの方に顔を向けた。ユーリは立て掛けてある傘を取ろうしていた。自分が使っていたビニール傘を。ナツメが「その傘もタナベに返しておいてくれ」と頼み、ユーリがもう一本も手に取った。
「じゃあな」
 二本の傘と少女を腕に去っていくユーリを、ナツメは「ああ」と見送った。天井から落ちる雫が畳を濡らす。ナツメは流れ続ける雨水を一滴だけ手に取った。透明な雫は、ナツメの手のしわを伝ってすぐに畳に落下する。新たな染みができた。
 部屋に残った毛布を手に取ると、微かな熱が指を伝って感じられた。


【第四章】

 湿った空気が砂を纏うことなく廃墟を突き進む。雨に洗われた空気はきれいで、目に見えて透き通っていた。どこかの大陸から風によって運ばれた砂に少しずつ砂漠へと導かれる廃墟都市も、雨のあとは独特の様相を見せた。土の匂い。塊になった泥。朽ちた屋根から滴り落ちる雫。雨水はコンクリートを削り、かつて人間が建てた建造物をゆっくりと着実に破壊していく。雨のあとは物音が多かった。どこかで軋みが生まれ、どこかで耐えられなくなった柱が折れて建物が崩れる。徳のある者は雨のあと出歩こうとしなかった。
 ナツメはポリスの外の廃墟都市にいた。その危険性を熟知していながらも。
 砂と錆の色に染められた街は呻き声を上げる。しかし生き物の気配はなかった。死んだ街に野生の生き物は寄り付かない。呻き悶えるのは死んだビル群で、砂に埋もれたアスファルトも、乗り捨てられた自動車も黙っていた。降った雨は地下に溜まった。かつては鉄道が走っていた地下の巨大空間に。そこへ通ずる穴からも呻きは聞こえた。生気を失った大都会は我慢強く危険だった。
 太陽が傾きを増しつつある。日が暮れるまでにそう長い時間は残されていない。ナツメは周囲を警戒し、銃を構えて歩き進む。数日で軍人であった頃の感覚が消えることはなかった。ポリスから百メートルもない場所。そこを目指すのは難しことではなかった。それも雨上がりの夕暮れに。
 ナツメはすぐにその場所にたどり着いた。雨のあとの独特の匂いを嗅ぐ。耳を澄ましても音は聞こえない。ビル群でさえも沈黙していた。赤く染まった空に飲まれるような街が、このときばかりは彼の味方だった。
 鉄くずをナツメは拾い上げた。動かなくなったEEにもガソリン車にも、彼は目もくれない。その中身が――生きる上で物資として再利用可能な部分が――すでにほとんど持ち去られていることを知っているからだった。彼が苦労して背負ったのは死んだロボット。ポリスにやってきた日、彼が撃ち殺した殺戮ロボットだった。
 ロボットは足の四本しかない蟹のような姿のまま横たわっていた。甲羅にあたる部分だけで一メートル、伸ばした両足を合わせれば二メートル近い大きさがあったが、ナツメは子供を負うように背中に乗せる。ナツメがロボットを背負い、ロボットは二丁の小銃を背負っていた。
 彼はそこから無防備な状態でポリスまで戻らなければならなかった。両手をふさがれ、彼の銃はベルトで下げられているだけ。別の殺戮ロボットと遭遇したなら恰好の標的になる。荒野を渡り歩くたちの悪いギャングに見つかったとしても。だからこそナツメはその時間を選んだのだった。殺戮ロボットは雨に濡れて身が錆びることを恐れた。雨が降り始めるとロボットはそれをしのぐために建物の影に入る。雨が上がっても、彼らはしばらく出てこなかった。本当に止んだのかどうか確かめるために。都市が唸りを上げている間はギャングたちも雨上がりの物音を気にしない。それらをナツメは経験で知った。軍人として戦場にいるときには知らないことだった。
 ナツメは急いで戻り、ポリスを囲う壁を見つける。あり合わせのパッチワークのような防壁。ナツメはロボットを置いた。壁を作っている古い看板の一つを彼は器用に取り外し、人が一人通れる穴を穿つ。そこからロボットの死骸を放り入れ、自分の中に入った。看板を元に戻して、ナツメはロボットを背負い直す。
 廃材パッチワークの壁は、防壁というより目隠しだった。殺戮ロボットを寄せ付けないための。背中に二丁の銃を背負った殺戮ロボットは人間を見つければ見境なく殺すが、彼らに見つからないようにするのはそう難しいことでない。事実、こうして脆い壁を築くだけでロボットのカメラを誤魔化すことができた。
 ナツメはランプに火を灯した。油は残り少ない。ほとんど日が暮れて、藍色の空に浮き出るように並ぶポリス内のビルを目印にしてナツメは歩いた。学校からポリスの防壁まではそう離れていない。薄らと地上を照らし始めた月が高く昇る前には戻ることができると彼は推測する。
 学校の校門からグラウンドに入ったとき、彼は何かの足音を聞いて歩みを止めた。夜の巨大な校舎は独特の凄みがあった。見上げるだけで睨み返されているような気分になる。風が雲を運び、雲は月を隠した。ナツメはグラウンドを広く照らすためにランプを高く掲げる。
「誰だ?」
 答えはなかった。ナツメはロボットを背負う両手の力を緩める。いつでもそれを放り出し、腰の銃を構えられるように。
 止まっていた足音が再び響き、ランプの光の中に影が現れる。影が小刻みに揺れた。朧気な幽霊か何かのように。ランプの炎が揺れているからに過ぎなかった。
 影の主は遠くからの鈴の音のように細い声で言った。
「こんばんは」
 影は揺らぎ、やがて少女の形に定まる。
「アサガオか」
「はい」
 少女は自分がアサガオであることを認めた。自身がそう呼ばれていることを。
 ランプの光に浮かび上がる彼女は、彼女の肌は白く、このときも白のワンピースを着ていた。そうでなければナツメはアサガオがそこにいることに気づかなかった。彼女の深い色の髪は闇に紛れる。瞳は宵よりもさらに深い闇を思わせた。
「おかえりなさい」
 彼女が頭を下げた。
 遅れて、ナツメはそれが誰かに仕えるべくインプットされた業務的な挨拶であることを悟った。
「ただいま」
 ナツメも業務的に言った。
「どこへ行く?」
 彼は彼女の目を見た。透明な瞳。彼が問ったことに大きな意味はなかった。人は普通日が暮れてから外出したりしない。夜目が聞かないから。アサガオはロボットで、彼女の目には暗視カメラも埋め込まれているかもしれなかった。 
 アサガオはそれに答えようとしてナツメの目を見返した。その日は特別風の強い日ではなかった。
「はい――、」
 風が吹いた。突然に。
 野分のような突風だった。空が鳴き、アサガオの前髪が揺れた。ナツメは反射的に目を閉じた。一秒か二秒か、一瞬とはいえない時間、彼は視覚と聴覚を奪われる。
 最後に一際強く吹いて、風は去った。風が吹くのは地上だけではなく、空では雲が突風にさらわれた。隠れていた月が出る。半月だった。
 半分だけの月が地上を照らした。
 アサガオの絶叫が聞こえた。
 金切声ではなかった。声にもならない、喉が痙攣するような叫びだった。目を開けたナツメが見たのは無表情な彼女ではなかった。少女の瞳は見開かれていた。明らかな色をもっていた。
 その恐怖が、彼の初めて目にするアサガオの表情だった。
「どうした?」
 ナツメの言葉にアサガオは答えない。彼女は涙を流して怯えた。銃口を向けられても怯えることのなかったロボットが。痙攣し、硬直し、ただ一点を凝視する。最初ナツメは自分を見ているのだと思った。しかし違った。
 ナツメは背負っていた死骸を地面に放った。
「こいつか?」
 アサガオの目は殺戮ロボットの遺骸を追った。恐怖に見開かれたまま。
 地面に横たわるロボットに、アサガオは後ずさろうとしてバランスを崩して転んだ。尻餅をついて、立ち上がることもできずに泣く。
「大丈夫だ。もう壊れている」
 無造作に転がる、生気の欠片も感じられないロボットを目の前にしても、アサガオは変わらなかった。森の奥で鬼に出くわした子供のように、しゃくり上げて震えた。鬼はとっくに死んでいるというのに。
 ナツメは困惑した。ロボットが怯えることが理解できなかった。彼はロボットを専門的に学んだわけではないし、ロボットについて知っているのは軍隊に配属されていたものを見たことがあるからであり、上官のうんちくを聞かされたことがあるからだった。ナツメの上官は言った。軍用の人型ロボットと民間用の人型ロボットは大きく違うと。ハード面でもソフト面でも。ナツメは、民間のロボットには怯えたり泣いたりする機能が備わっているのかもしれないと思った。そう考えて結局は困惑する。どうやって止めればいいのかわからなかった。
「落ち着け」
 厳しい口調でナツメは言った。コマンドとして認識されることを期待した。だが無駄だった。
 ナツメは首の後ろをかいて辺りを見回した。子供に泣かれた気の弱い大人が大抵そうするように。ランプの光を反射する何かをグラウンドの隅っこで見つけた。ナツメはそれを拾いに行き、殺戮ロボットを覆い隠すように被せた。変色してボロボロになった、ビニールのブルーシートだった。ブルーシートはすっぽりと遺骸を隠してくれた。
 しばらくアサガオは泣き続けた。それでも少しずつ嗚咽はおさまる。機会を伺いながら、ナツメはその姿をじっと眺めていた。
 彼は何度も錯覚しそうになった。目の前にいるのが人間の少女であると。透明な涙を流す姿は人間そのものだった。人間らしさを見て取ることはできても、そのときのアサガオにロボットらしさは見つけられなかった。きっと肌や髪も人間そっくりに作られているのだろうと想像できる。普段の無表情こそが彼女のロボットらしさであり、彼女が本当にロボットなのかどうかは体をかち割ってみない限りわからないようにナツメには思われた。
 それでも彼女はロボットだった。彼女が自分をロボットだと言い、それをナツメが認める限りは。
 再び月が雲に隠される頃になって、アサガオは残った少しばかりの涙を指で拭き取った。
「……ごめんなさい」
 声は聞き取れないほどに細かった。彼女の四肢のように。静寂に包まれた夜でなければ、ナツメはきっと聞き漏らしていた。それほど小さく、また起伏のある言葉だった。
「いや」
 ナツメは短く言う。
 アサガオが彼を見上げた。透明な瞳で。
「ごめんなさい」
 ナツメは何かを言おうとして、できなかった。二度同じ言葉を言われたことに彼は一瞬気づけなかった。二度の謝罪は大きく違っていた。その言葉がもつ起伏や感情の面について。二度目の謝罪は謝罪でありながら無感情だった。
 アサガオがナツメの言葉を待つことなく彼の隣を通り過ぎた。校門へと向かう。その影は次第にランプの光から離れて薄くなる。幽霊のように。
 ナツメはアサガオの後ろ姿をじっと見つめていた。それ以外にできることがないように思われた。そのときのナツメには、彼女が人間なのかロボットなのか、あるいは幽霊なのか、判断がつかなかった。
 風がブルーシートをさらった。ランプに照らされた殺戮ロボットがガラクタ同然の体を晒す。ブルーシートがランプの光の外に消え、アサガオの背中も出ていった。彼女がどこへ行ったのか、ナツメにはわからない。
 ナツメは校舎を見上げた。闇夜に佇む校舎なら、アサガオがどこに行くのかも知っているような気がした。けれど校舎は重々しく鎮座するだけで、ナツメに何も与えなかった。
 彼はロボットの死骸を背負った。


【間章2】

 彼が最初に戦場に出て戦ったのは、母国から海を渡った先にある外国だった。
 兵士としての訓練を受け始めてから半年も経たない朝。彼の部隊は敵からの攻撃に、応戦を余儀なくされた。まだ慣れない銃を手に、言われた通りの場所へ行き、言われた通りに撃った。誰かを狙う余裕はなかった。ただ銃弾を、明後日の方向ではないどこかへ放っていればよかった。つい数か月前まで平和な国の学校へ通っていた彼らにとって、受け取った銃弾をすべて使い切ることがノルマのように思われた。銃弾は余るほどあった。戦争が始まる前は、世界中で物資の枯渇が問題視されていたというのに。
 彼は初めての戦いで仲間を失った。襲撃に備えて築き上げた腰までの高さのバリケードに隠れて銃を撃っていた。すぐ隣に味方がいた。同じようについこの間まで学生だった男。その男が、絶え間なく響く銃声の中で、不意に倒れた。最初はふざけているのだと思った。戦場を初めて経験する彼にはその程度の感覚しかない。緊張はしていても、その緊張をリアルとして受け止めるだけの心がない。男は倒れたまま動かなくなった。そのうち血だまりができた。
 部隊を指揮していた上官が叫んだ。休む暇があったら撃てと。悲しかったら撃ち殺せ、仇をとれ、と。彼は言いようのない気持ちになった。戦争が始まる前、彼が人の死を肌で感じたのは一度だけだった。近所に住んでいた祖父が死んだとき、その一度だけ。葬式にはたくさんの人が来た。それが彼の知る命だった。しかし目の前で友は一瞬にして殺される。当たり前のように、卵を割ることよりも簡単に。
 初めての戦場、彼は運よくかすり傷の一つもなく生き延びた。叫んだ上官は腕に弾丸をもらっていた。弾丸を摘出したあと、上官は利き腕じゃない、まだまだ銃は撃てると言って笑った。その日のテントで、誰も死んだ者の話はしなかった。
 そんなことが何度も続いた。時間の感覚が麻痺するほど長い戦いで、何度も何度も。人間に殺された仲間がいた。流れ弾に運悪く命を落とす者もいた。ロボットに撃たれる友もいた。ロボットとロボットの争いさえあった。どちらかが動かなくなるまでロボットは戦い続け、逃げも隠れもせず、その流れ弾に多くの人間が死んでいくのだった。
 彼が受けた傷といえば、数え切れぬほどのかすり傷と、転んだ拍子に負った骨折だけだった。銃弾に頭を打ち抜かれることも、爆弾に体を粉々にされることもなかった。口にくわえた手投げ弾で、自分の頭をズタズタにすることも。仲間の中には酒や薬で死んでいく者もいた。彼はどちらもダメだった。酒を飲んでも嘔吐するだけだったし、薬も大して効かなかった。一番仲がよかった戦友が、薬のやりすぎで人として使い物にならくなるのを見たときに、彼の心は薬物を受けつけなくなった。
 そうして彼は生き延びた。そういう天命だった。あるとき周りの者は彼の幸運を称え、羨ましがった。それに縋ろうとして近づく者もあった。奇妙なことに、そういう者から順に死んでいった。
 だが彼自身は幸運を憎んだ。それを与えた主さえも。
 誰もいない夜になると、聞こえてくるのだった。亡者の嘆きが。亡者は彼の耳元で囁いた。どうしてお前だけ生きているのか、と。彼はその度に沈黙した。気を紛らせるために仲間と騒いでみても、ちっとも気分はよくならない。酒を飲んでも戻すだけ。薬も彼をハイにすることはできなかった。暗がりに潜んで無心でいるしかなかった。眠っているふりをして。
 亡者は時折明確な輪郭を伴って彼の前に現れた。彼の記憶通りの戦友の姿を何度も見る。彼らと対話できることは一度もなかった。薬に脳みそをぐちゃぐちゃにされたように、ただただ自分の主張だけを繰り返すのだった。お前だけ生きていることが卑怯だ、と。
 それは毎晩のように続いた。同じような夢ばかりを見た。
 彼は死にたくなるほどに苦しんだ。精神を削られて、心がその言葉にどんな感情も示さなくなるまで。
 それでも、彼が死ぬことはなかった。


【第五章】

 ポリスに降った雨は、長くは続かなかった。
 翌日の朝には、雲はほとんど東へ流れている。いつもの霞んだ青い空が廃墟都市を覆う。濡れた廃墟は軋み、崩落していく。その光景は世界の滅亡を思わせた。それを間近で見るときだけは、人の社会の衰退から目を背けて生きるポリスの住人も、現実を感じずにはいられない。その朝も、ポリスの中で、老朽化して誰も住んでいなかったビルが一棟崩れた。大地を伝う地響きに、皆が祈りを捧げるのだった。捧げるべき神もわからないままに。
 ナツメもその地響きを聞いた。ポリスの中心部で。だが彼は祈ることをしない。祈るべき神を見出すには、彼の過去は痛烈すぎた。
 湿った地面の上を歩きながら、彼は人の住んでいる家を探した。人がいれば声がしたし、戸を閉めている家はほとんどなかった。彼の背にはリュックサックがある。不格好な形に膨れ上がったそれが、ナツメの両肩を圧迫する。だが、やはりそれは彼にとって些末なことだった。食糧と武器を背負って、雨の沼地を進んだ戦場の記憶と比べれば。
 彼はトタンの屋根を貫いて煙突を生やした建物を見つける。かつては倉庫か何かだったこと、煙突だけをあとになって取り付けたことがわかる。穴を穿たれたトタンはひび割れていた。そう長くない煙突の先から煙が絶えず吐き出される。その町工場からは、金属で金属を叩く甲高い音が聞こえてきた。
 彼はシャッターが開かれたままの搬入口からその建物に入った。内部は蒸し暑かった。広い空間に、使える工具も動かなくなった機械も鉄くずのように並べられている。ナツメの靴に鉄の削りかすが刺さる。継ぎ接ぎだらけの床の向こうに、彼は人の姿を見つけた。女が長い髪を首の後ろで束ねて、鉄を鍛えていた。赤熱した鉄片がハンマーで叩かれるごとに大きな音を上げ、蒸し返すような熱気を放ち、集中する女はナツメに気づくことがなかった。ナツメは彼女の近くまで進んだ。
 彼がリュックサックを彼女の目の前で地面に下ろしたとき、女はようやく顔を上げた。顔には煤汚れが目立ったが、ナツメと歳はそう離れていないように見受けられた。
「今、忙しいんだけど」
 彼女は驚くでもなく言った。握られた鉄が熱を放射し続ける。
 ナツメはリュックサックの口を開いて、彼女に中身が見えるよう傾ける。
「これを買い取ってほしい」
 女はまた何かを言おうとして、リュックサックの中身を見て口を閉じた。それから雨水の溜められた桶にその鉄片を投げ込み、ハンマーを置いた。鉄は音を立てて水を蒸発させ、熱を失う。
 彼女は椅子に座ったままリュックサックの中を注意深く眺めた。
「こんなもの、どこで手に入れたんだい」
「拾った」
 リュックサックの中身は解体された殺戮ロボットだった。ネジというネジを外され、皮を剥され、臓物のような電子基板やコードを抜き取られたロボット。目玉のようなカメラも底の方に埋もれていた。原型が何とも知れないほどに解体されたロボットは、工場に転がる鉄くずと見分けがつかない。
「銃弾に穴をあけられたロボットを、拾った?」
 品定めをするように女は睨み付ける。リュックサックの中身ではなくナツメを。
「ああ」
 ロボットの外殻であった鉄板には、確かに穿たれた無数の穴を見ることができた。ナツメは今も肩から銃を下げている。だが彼は何も言わなかった。その交渉に、彼がどういう経緯でそれを手に入れたのかは関係がなかった。
 女はしばらく鉄くずを見て考えるように黙った。その鉄くずの有用性を考え出しているわけではないことが、見ていて推し量れる。彼女はナツメほどに慎重な女だった。兵士に特有の臭いさえ感じた。戦場を知り、そこで生きながらえる術を見出した者の冷たい瞳があった。
 やがて彼女は結論を出したように立ち上がる。
「こいつと、何を交換してほしいんだ? 旧時代の金かい?」
 彼女はナツメを見上げる。女性にしては背が高かった。
「そんなものはいらない。なんでもいい。使えるものをくれ」
「食べ物でも布でも?」
「そうだ。工具でもいい」
 女は服についた砂埃を払った。それから踵を返し、工場の隅に目を向ける。
「わかった。少し待ちな」
 ナツメはその場で待った。女は工場のあちこちから物を引っ張り出し、工具を手にとってはそれが自分に必要かどうかを定めた。開け放たれた扉から入る光と炉の炎だけに照らされた建物は暗く熱かった。換気扇は回らない。時折湿った風が吹き抜けて、鉄粉を舞い上がらせていった。
 品定めをする女の後ろ姿を、ナツメは黙って見た。


 工場の女は解体された殺戮ロボットのパーツのほとんどを物々交換というかたちで買い取った。ナツメが得たものは、保存食や布や動物の皮、それから工具だった。彼女が初めに提示した物品で交換は成立した。ナツメはリュックサックにそれらを詰め込み女がパーツを工場の隅に放り投げる。いつかその鉄板から何か別のものが作られる日まで、そこで眠るのだった。
「あんたみたいなのは初めてだよ」
 ナツメが立ち去ろうとすると、女は言葉でそれを止めた。
「どういう意味だ?」
 彼女はユーリやタナベのようにナツメとの人間的な関わりを求めない。その必要がないことを、ナツメと同じく知っているからだった。そして同時に、ビジネス・パートナーとして自分たちの間に繋がりが必要だということもよく理解している。
「ロボットを壊して腹の足しにしようなんてやつを、私は聞いたことがない。現代の狩人ってわけだ」
「そうすることでしか、俺は利益を得ることができない」
「命の危険を冒してる。怖くないのかい、ロボットが?」
「そんな感情は戦場で失くした」
「兵士か」
「昔はな」
 今もそうだろうよ、と女は苦笑した。
「外には、こんなことをしているやつがたくさんいるのかい」
「そうはいない。一人や二人なら見たことがある」
 女は炉に鉄片を入れて、熱し始める。ナツメが来たときに打っていた鉄だった。そこから何が生まれるのか、彼にはわからない。ナツメは自分の使っている農具の先端を思い出した。旧時代の機械で大量生産されたものではなく、人の手で形作られたものだった。
「いつまでこのポリスにいるんだ?」
 女は問う。
「去らなければならなくなるときまで」
「そうかい」
 鉄片が赤みを帯び始める。
「ここで鍛冶をやってるのは私だけだ。また獲物が上がったら持ってくるといい」
「ああ。助かる」
「お互い様さ」
 ナツメは今度こそ立ち去ろうとした。リュックサックを背負って彼女に背を向ける。薄暗いところにいたせいで、外から差し込む日差しが瞳を焼くようだった。
 女はそれを知って、彼の背中に言った。
「ナツメ、っていうんだろ。ユーリから聞いてる。不愛想だけどいいやつだってね」
「そうか」
「私はナズナ。憶えておいてくれ」
「ああ」
 かーん、と鉄を叩く音が響いた。ナツメは工場の外に出た。
 ポリスは狭い。誰にも知られないよう生きるにはあまりにも。ナツメはポリスの外で行く宛なく放浪するとき、常に自分を見失い、現実は現実味を失っている。戦場にいる間、誰も自分のことを知らない。戦場では、味方の元に帰ってこなければ兵士は戦死と判断された。捕虜になっていようとも、どこかで生き延びていようとも。ポリスの外でナツメは自分が死ぬことにどんな感慨も抱かなかった。死ぬのは一瞬で、誰の目にも留まらないことを知っているから。しかしポリスの中では違った。死者を供養する習慣も埋葬する習慣もあった。
 ナツメはポリスの中を歩いて、ナズナから貰った品の中で不要なものをまた別の誰かと交換して回った。大抵の住人は交渉に応じた。昼を過ぎた頃になって、ナツメのリュックサックは幾分か軽くなる。殺戮ロボットであったパーツはほとんどなくなっていた。それが装備していた弾丸を残して。まだ弾頭と火薬の残った銃弾は、ナツメが自分の銃に装填して使うのだった。
 昼からはタナベの元へ行って農耕をした。先日コウメを預かったことの礼に、彼は保存食を分けてくれた。ナツメは遠慮なく受け取る。それから彼にはユーリと出会った経緯などを根掘り葉掘り問われた。タナベにとっては、ナツメもユーリも息子のような存在だった。事実その歳頃の子供がいてもいい年齢だった。タナベ夫妻と比べてコウメは幼すぎる。タナベは自分が兵士として戦場をと飛び回っていたことを語った。ナツメと同じ戦場にいたこともあるようだった。戦争が終わってから故郷に戻ってきたのだった。そこでポリスを築き、今の家庭を作った。自分は運がよかった、と彼は言う。
「ナツメくんの故郷は?」
 タナベは同じ畑を耕す間、ずっと話し続けた。
「戻っていない。もうどこにあるのかも憶えていない」
「そうかい。じゃあ家族とも?」
「会っていない。お互い、もう誰だかわからないだろう」
 タナベは笑わなかった。
「私も、故郷に戻ってきても家族には会えなかった。知り合いは今の妻だけで、あとは皆いなくなっていた。疎開したんだ。妻が言うには、近所の資産家がシェルターを作っていたけど、結局使われなかったそうだ」
 タナベは口を動かしながらも手を働かせ続ける。彼はその言葉と同時に過去を回想し万感を抱いていたが、手際はナツメよりもずっといい。そこには経験の差しかなかったが、それだけにナツメは未熟であった。どれだけの死から逃れてきたのだとしても。
 日が大きく傾く頃まで作業は続き、収穫した食材を食堂に持っていったところでナツメはタナベと別れた。タナベはナツメを引き留めたり、家族に会わせようとすることはなかった。
 ナツメは給仕場の近くのビルの外付け階段に座って食事をとった。毎日変わり映えのない献立だったが、食べるものがあるだけマシだった。
 足音が小走りに近づいてくる。
「ナツメ」
 ユーリはタナベと違い、自分からナツメに関わろうとした。そのときも彼は一人でいたナツメに声をかけた。ナツメと同じ内容の夕食を両手に持って。
「探したよ」
 彼は断りもなくナツメの隣に座った。外付けの非常階段は、大人の男二人が腰かけるには狭い。
「なんの用だ」
「ナズナから聞いたよ、お前と会ったって」
 ナツメが眉をひそめる。薄暗いせいでユーリはそのことに気づかない。
「あの女はお前の恋人か何かか?」
「違うけど?」
「そうか」
 話が広まるのがあまりにも早い。ナツメの面持が強張る。いいことではなかった。自分という存在が周りに認知されすぎるのは。
 ユーリが木のスプーンで穀物を口に運ぶ。
「お前がナズナに渡したもの、見せてくれた。あんなもの、どこで見つけたんだ?」
「ポリスの外だ。ここへ来る前に」
「この近くで?」
「そうだ」
 スプーンの動きが止まる。
「やっぱり、外に出たらあんなのがうろうろしてるのか」
「ああ」
 空になった皿を手にナツメは立ち上がった。
「本当に拾ったのか? お前が撃ったんじゃなくて?」
 ユーリが食事を中断する。スプーンを置く。そうしなければならないことをナツメに示した。ナツメは一度立ち止まる。
「お前には関係ないだろう」
「気になるだろ?」
「俺は気にならない」
「けど」
「じゃあな」
「おれが気にしてるんだよ!」
 急にユーリが怒声を上げた。人気の疎らな廃墟街では、悲鳴のような叫びはよく響く。ナツメ以外には誰もそれを聞いていないように思われた。誰かが様子を見に来ることも、怒声を聞いてその場を去ることもなかった。しんとした夕暮れだけがそれに耳を傾け、それでいて何も語らない。
「拾った。それでいいだろう」
「なんだよ、それ」
 ユーリが皿を置いて立ち上がる。くせ毛が揺れた。
「言葉の通りだ」
 ナツメには彼の怒りの原因がわからないではなかった。人は隠し事をされるのを好まない。特に余裕がない環境では。けれどナツメは本当のことを言わなかった。
「どうして隠すんだよ」
「本当のことを言ったところで、何になる?」
「どうにもならないかもしれないけど。おれは知りたい」
 ナツメは立ち去ろうとした。
 声が彼の歩みを阻む。
「隠さなくてもいいだろ!」
 ユーリはそれで彼を引き留めたつもりだった。しかしナツメは歩き出した。その場にいる理由は何もなかった。
「話さないことが、俺やお前のためだとしても、か?」
 ナツメは最後にそう言った。問いかけに対する答えは求めなかった。
「当たり前だろ!」
 そのユーリの言葉に彼は反応を示さない。ユーリは彼のあとを追った。
「理由があったって、嘘をつかれるのは嫌だ。当たり前だろ」
 ナツメにはわからなかった。どこか懐かしい感じもした。戦争が始まる前の、幼すぎた自分を彼の中に見出す。無力な正義感だけを称える瞳。それが正しいと感じるだけの心。戦争の中で誰もが失ったものだった。
 ナツメは思う。それでも。
「拾った」
 ユーリはそれを聞いて立ち止まった。彼を追うのをやめた。
 そのときの彼の表情を、ナツメは見なかった。大きく見開かれた瞳とそこに溜まる涙は、彼が想像しているものとは大きく違った。ナツメは背を向けて歩き続ける。突き放すように。
 ユーリは遠くなる背中を追った。目だけで。そのうち、その背も建物の陰に消える。息遣いは聞こえない。足音も遠ざかる。
 それから、足音も何もかも、ナツメの残滓が消え失せてから彼は立ち尽くした。
「……そうかよ」
 風が吹く。誰もないところに砂を運び、誰もいないところの砂をさらっていく。埃が舞う。
 その存在をもみ消すように、風は二人の足跡を拭い去った。


【第六章】

 秋の空は高く、雲は山よりもずっと上を走っていた。
「ナツメくん?」
 タナベの声が朝の農場から聞こえた。
 干した竹で作られた細い柱に緑色の蔓が絡む。かさついた土から伸びる蔓は大きな葉と果実をつける。そんな光景がしばらく続く。しかし果てはすぐそこで、その先は何もない荒野。誰の手もつけられていない土地は戦場の表情をそのまま残している。壁の外の廃墟群のように。
 ナツメは反応を見せない。呼びかけが聞こえていても。
 荒野には何もなかったが、木を伐採して切り拓いた跡はあった。戦争の間に何かの工場を作ろうとして、そのまま放置された土地だった。兵器の工場に決まっていた。戦争が世の中を支配する間、人が作るものは兵器と憎しみだけだった。その代りに戦争は多くを奪っていった。命や財産や、正気を。
「疲れているなら、帰って休んだ方がいい」
 タナベは言った。
「作業は私だけでもできる」
 ナツメは応えなかった。死んでしまったかのように。聞こえていないわけではない。それはタナベにもわかる。
 彼はしばらく作物の収穫を続けていたが、突然に手を止め、収穫した果実を放り込んでいた竹籠を置いた。タナベの妻が編んだ籠だった。
 言葉もなく、タナベにどんな表情も見せなかった。どこか遠い目をしていることと、彼がそれを意図していることをタナベは読み取る。ナツメはそのまま彼に背を向けて立ち去った。腰で銃が揺れる。タナベは何も言わなかった。置き去りにされた籠と彼の背中とを何度も見比べて、それが語ろうとしていることを知ろうとし、できなかった。ナツメは無気力に、しかし確かな足取りで去って行った。
 ナツメが視界から消える前に、タナベはそちらを見るのをやめて作業を再開する。まだ昼までには時間がある。
 置かれたままの籠に、タナベはしばらく触れなかった。


 ナツメは心ない面持で宿直室までの帰路をたどった。その間誰かに話しかけることはなかったし、話しかけられることもなかった。彼自身は誰かとすれ違ったかどうかさえ記憶していなかった。砂に埋もれたアスファルトの上には自分しか歩いていないような気がした。同時に、誰かが自分に声をかけようとしてやめるところを見た気もする。どちらにしろナツメは誰とも言葉を交わさなかった。その日の朝から、ずっと。
 ポリスに住まう人々にとって、世界はそのポリスの中だけで完結していた。ほとんどが戦争の前の世界を知っていながら、それを忘れている。生きている人類はこのポリスで生きる者たちだけで、これからもずっと、世界はポリスの中だけで続く。外からやってきたナツメも、いつしか最初からそこにいたと錯覚し始める。
 人々がそうであるように、ナツメもまた同じ錯覚を抱いていた。ポリスから出る必要はない、という錯覚を。
 ナツメは徐々に雲に覆われようとする空を見上げて、学校を囲うフェンスの中へと入る。
 視線を下ろすと、目の前に少女の姿があった。
 アサガオが仰々しく頭を垂れた。
「おかえりなさい」
 明な瞳がナツメを見つめる。彼女は彼が入ってきた裏門から外へ出ようとやってきたようだった。
 ナツメは銃に伸びかけた右手の力を抜く。
「ただいま」
 そう言うしかなかった。そう言えばロボットは何事もなかったかのように作業に戻るのだった。ナツメの記憶にある限りでは。
 彼はアサガオを見ていた。どこか一つでもロボットらしいところを探そうとした。女の瞳と心は確かにロボットのそれであった。けれど瞳は時として色を変えることを彼女の悲鳴から知った。電源を得るためのプラグや、そのカバーが首筋にないかと観察する。それらしき窪みや跡は見当たらない。
 校庭の土の上で、宿直室の入り口を背景に彼女は首を傾げる。
「何か、ご用ですか?」
「いや」
 ナツメは反射的に視線を下げる。
 アサガオの瞳と髪は濃い色をしていた。代わりに色素を吸い上げられたように肌は白く、身に着けているワンピースもいつも飾り気のない白。その真っ白な体に、一際目を引くアクセントがあった。鮮血の赤だった。
「切ったのか」
 アサガオの右足の脛に、横一直線の切れ目があった。皮膚だけを切り裂かれた傷口からは赤い液が一筋流れ、ほとんど布でできた靴に染み込む。華奢で白い体に切り傷は目立った。
「はい。さっき、廊下のガラスで」
 アサガオは自分の傷口から流れる液に気づき、それを手で拭う。液が手にこびりつき、彼女はそれをワンピースの裾で拭き取った。
 ナツメは校舎の廊下の割れたガラスの欠片を思い出した。いつ割られたかもわからないガラス片が、廊下のいたるところに転がっている。
「ロボットでも血を流すのか」
 それは血液にしか見えなかった。傷口で固まりかけている。あるいはバイオ系の素材を使っているのかもしれない。人間の皮膚に質感を似せるために。ナツメが知る軍用のロボットは違った。腐る可能性のある素材を体に使ってまで人間らしさを追求する必要がなかった。
 アサガオはしばらく何も言わなかった。そのことに初めて気づいたように、自分の傷を見た。
 それから、彼女は小さく口を開ける。
「そうかもしれません」
 自分でも疑問を抱いているような調子だった。ナツメは不思議に思う。普通、ロボットは自分の機能を完璧に把握している。作られた経緯から、壊れた際の修繕方法まで。
「痛むか?」
 アサガオは顎を引く。
「少し」
彼女の細い足の傷は痛々しかった。染みの一つもない白い足に赤は映える。そこに異常があることを鮮烈に伝えてくる。
 ナツメは自分が傷を負ったときどうするかをイメージした。戦場にいれば、かすり傷を負わない日はなかった。
「来い」
 彼は踵を返す。元来た道、ポリスの北へと続く道へ。
「どこへ?」
「黙ってついて来い」
 ナツメは背後を確認することなく歩いた。アサガオは一瞬の逡巡の後、言われる通りに口を噤んで彼の背を追う。ロボットは命令に従う他なかった。
 二人は北へと進んだ。道中幾らかの人が二人を見かけて、珍しい組み合わせに驚く。けれど彼らは声をかけることをしなかった。ナツメの瞳もアサガオの瞳も、それを拒否していた。大きな通りを行き、そのうちナツメは脇道に入った。車線は少なくなったが、かつての二車線分はあり、生活感がある。それから少し進んだ場所に井戸があった。古い時代に掘られた、ポンプ式の井戸。その奥は小さな竹林。ポリスの中にある井戸のうち、最も学校から近い場所だった。
 ナツメはアサガオを近くの段差に座らせる。
 金属のポンプは錆びついていたが、人々が使い続けているおかげで滑らかに動いた。重い金属のポンプから透明な水が吐き出され、道を流れる。吐き出される水を手ですくって、彼はアサガオの傷を流した。キメの細かい肌が水をはじき、傷口の赤黒い血が少しずつ消えていく。彼女はほんの数瞬だけ痛みに顔をしかめたが、何も言うことなくその様子を眺めた。それをもう一度繰り返して、
「少し待っていろ」
 彼はアサガオの返事を待つことなくその場を離れた。アサガオも返事をすることはなかった。
 ナツメは竹林の周囲を見回す。地面に近い場所を。名もわからぬ草が生い茂る。一種類だけではなかった。葉の形も色も違う。風に乗ってどこからともなく運ばれ、土と水によって自然に生えた草は、人が社会を失っても力強く生きた。竹林の中は戦争が始まる前とほとんど変わらない。
 ナツメはその草の中から、記憶にある一つを見つけ出した。その葉を五枚ほど毟る。
 竹林から戻ってくるナツメの姿を、アサガオはずっと見つめた。初めて会った日と変わらない濃い鼠色の服を着る彼は、初めて会った日と変わらない表情をしている。その日のことを、彼女は鮮明に憶えている。朝顔の花に与えるための水を汲みに行った日。
 ナツメはアサガオの傍まで来ると、井戸水で濡れた手で葉を五枚一緒に絞った。腕が小刻みに震えた。濁った汁が傷口に滴り、広がり、そして肌を伝って足元に流れる。アサガオの足に再び微かな痛みが走った。彼女はそれを表情に出さない。ナツメも顔色を伺うことはない。
 ナツメがポケットから白い布きれを取り出した。彼はそれを手と口で破り、細長い紐状にする。薄い布は簡単に切り裂かれ、ハンカチ大の正方形がすぐにリボン状になった。リボンに汚れは見当たらない。彼はそれも井戸水で湿らせ、アサガオの足に巻き付けた。傷口を覆い隠すように、包帯代わりとして。何重かに巻き付けられた布から赤い血が染み出ることはなかった。きつく縛る。
 ナツメは立ち上がる。作業の終りを告げるように。
 アサガオが巻き付けられた布を観察し、自分で少し直し、それから自分を見上げるのを確認して、
「きついか?」
 とナツメは問った。手馴れているのは、戦場で何度も同じようなことをしたからだった。時には仲間の体に抉りこんだ銃弾を引き抜かなければならないこともあった。悲鳴を上げる戦友を押さえつけて。
 アサガオは彼を見習って立った。痛みは気にならなかった。
「大丈夫です」
「そうか」
 ナツメの目にも、アサガオが不快に感じているようには見えなかった。彼は学校へ戻ろうとする。だがアサガオがそれを許さなかった。彼女はじっとナツメの姿を見ていた。透明な瞳で。ナツメが彼女に目を向けると、視線は合ったまま外れなかった。アサガオが目を逸らさず、ナツメにもそれができなくなった。
「あの」
 アサガオが言った。
「私、ロボットですから」
 透明の中にわずかな困惑が混じっていた。それをナツメは読み取る。目の前にいるアサガオの瞳の中はよく見えた。それが映し出す表情も。けれど底は見つけられない。人の心が見当たらない。カメラにも見えず、人の目にも見えず、それは磨かれた水晶のように透明に輝いた。
 ナツメはやっと視線を外した。
「バイオ系の素材は、環境によって腐敗する」
 アサガオは応えない。その事実を知らなかったかのように。
「お前のは、そうじゃないのか?」
 ナツメの又聞きの知識は、知識というには煩雑だった。巷に広がる噂程度の信憑性しかない。
 少女はしばらく黙った。
「そうかもしれません」
 視線を彷徨わせ、一点に定めようとしない。
「そうか」
 アサガオはロボットだったが、自分の機能や体について詳しく知らなかった。ナツメの知る人の形をしたロボットは、皆自分の故障を自分で発見し、それを可能な限り直すことができた。アサガオのメモリ領域に故障があるか、あるいは民間のロボットには最初からそういったプログラムが含まれていないのだと彼は思う。
 ナツメは彼女に背を向け、学校へと戻るために歩き始めた。アサガオはしばらくその背中を見つめた。
 彼にはどうだってよかった。アサガオがどんなことを知っていようが。ただ彼女がロボットであることが重要だった。その点についてのみ彼女はポリスに住まう者と違うのだから。
 アサガオはナツメのあとを追わなかった。代わりにその広い背中を食い入るように凝視した。透明な、色のない瞳で。


【間章3】

 屋敷に住む少女の姉はロボットだった。見た目は少女よりも年上のようでも、生まれてから経った時間はずっと短い。最初から彼女には大抵のことがわかっていた。自分がなんのために外観をオーダーメイドされたのか、自分の主が誰であるのか。自分の基礎システムが雑務用ロボットであることも知っている。膨大な知識があり、十数か国の言語を喋り、百種類以上の料理を作ることができた。
 少女は――妹は、姉を大切に扱った。妹は姉がロボットであることを知らされていないのだった。しかし気づいていないわけでもなかった。ただ、彼女にとって姉の正体が些末なことであり、姉にとっても妹にどう見られているのかは重要ではなかった。妹はただ遊び相手を欲し、姉はただ命令のままに働くのだった。
 妹は姉を愛していた。姉もそう努めた。けれどロボットに人の心はわからない。妹を大切にしようとするだけで精一杯だった。妹は、そんな姉から愛情を感じることができた。両親から得られる愛情が極端に希薄だったせいで。二人はいつでも一緒だった。敷地の外に出ることは許されなかったが、姉といるだけで妹は世界が広がるような気がした。使用人たちも妹に手を焼かなくなった。両親はさらに多忙になり、彼らの娘と会う機会は一層少なくなったが、彼女は姉と二人で耐えることができた。
 姉の存在は幸福をもたらした。妹だけでなく、彼女と関わるすべての人に。
 屋敷の工事も終盤に差し掛かり、慌ただしく、部屋から出られない日さえあった。そんな日の食事は、運ばれてくる料理を姉と二人だけで食べた。姉はひどく小食だった。彼女は妹に、自分はあまり食べる必要がないのだと言う。それは妹が心配になるほどの小食だったが、彼女が特別痩せているようにも、病気のようにも見えなかった。妹はそれでも心配な思いがして、姉が食べない分、自分がたくさん食べるようにした。
 二人の姉妹は戦争とは無縁だった。屋敷の中に弾丸が飛んでくることはなく、戦車が乗り込んでくることもなかった。けれど一歩屋敷の外に出れば様子は変わる。街の工場では武器を作っていた。彼女の両親も、それに関わるせいで忙しくなった。彼らは娘に向かって言うのだった。パパとママは、人の命を守るために働いているのだと。
 かつては別のものを作っていたはずの工場も日に日に武器ばかりを作るようになる。屋敷の地下のシェルターも完成が近づく。内部はほとんど完成していた。あとは頑丈な自動扉を備え付け、保存食や物資を搬入すればいつでも人を守る殻になるはずだった。
 空襲に世界中の街が焼かれる映像が、毎日のように流れた。高性能な爆薬を防ぐ方法はない。彼女の両親は娘にテレビを見せることをしなかった。姉にもよく言いつけた。妹は何も知らないのだった。屋敷の外で、どんなことが起こっているのか。
 空襲は彼女の住む街にもやってくる。周りの大人が想像していたよりもずっと早く。
 初めて空襲警報が鳴った。仮設のスピーカーが高い音を鳴らし、人々は緊張に身を震わす。ほとんど全員が、どうしていいかわからなかった。配られたヘルメットをかぶり、少しでも街を離れようとした。山の中の屋敷にあるシェルターへ向かおうとする者もいた。それが完成しているのかどうか知りもせずに。
 音は屋敷にも届いた。部屋の中で妹は首を傾げ、その妹の手をとって、姉はすぐに部屋を飛び出した。妹は何度も転がりそうになりながら走った。姉は何も教えてくれなかった。屋敷の中から出ていないはずなのに、自分がどこにいるのかわからない。気づいたときには、彼女は普段入ってはいけないと言われていた工事現場に来ていた。地下への大きな穴があって、大勢の大人の男が何かを叫んだ。姉は妹を男たちに任せる。そして自分はすぐに屋敷の方へ戻って行った。妹にはわからなかった。何も。波に流されるようにして、男たちに連れられて彼女は地下への穴の奥へ。そこにはコンクリートで囲われた大きな部屋があり、それしかなかった。彼女と彼女を案内した三人の男以外には誰もいない。途切れることのない喧噪と、混乱と、その広すぎる空間に彼女の足がすくんだ。
 何があったのかと男たにちに訊ねようとして、轟音と悲鳴が、地上へと繋がる口から聞こえた。
 初めて地上へ出たとき、彼女はそこに地獄を見た。


【第七章】

 秋めいた山は鮮やかな色を見せ、空を高く持ち上げた。
 山から降りてくる風は冷たく、砂の香りがする。近くに海はないようだった。日差しも力強さを失い、東の太陽は暖かく輝く。足元の土さえどこか秋を感じさせる。実りの季節。ナツメは今朝も痩せた土地を耕す。開けた農地には、彼が土を抉る音だけが響く。彼の他には誰の姿もなかった。タナベはどこか遠くで作業をしていた。住人に振舞う料理の食材を集めるために。農業に従事する男はたくさんいるはずだが、ナツメは一人だった。
 彼は昼を迎えると遅れて食事の配給所へ行った。ほとんど誰とも顔を合わせずに平らげると、すぐに食器を返して学校へ戻る。宿直室はナツメが初めて訪れたときと変わらない姿をしていた。彼の荷物が隅っこに投げられている他には。腰かけたナツメは何をするでもなかった。うたた寝をしたり、銃を磨いたりを繰り返す。それは軍隊にいた頃の彼の姿だったが、彼自身がそれに気づいていなかった。
 ユーリが訪ねてくることはない。アサガオの様子を見に行くことも。ポリスの外でロボットを撃ち殺すこともなければ、ナズナのところへその死骸を運ぶこともなかった。
 ガラスのない窓から覗く空は、高く青かった。
 ナツメはうたた寝から目覚め、校舎の影が目に見えて傾いてきていることを知って立ち上がった。外への扉を解放し、日差しに目を細める。
 物音がした。彼は銃を手に取りかけて、その人差し指が引き金に届く前にその正体に気づく。
 明るさに慣れた目は、ちょうど裏門から校庭を出ようとしているアサガオの姿を映した。少女は首だけをナツメの方に向け、いつもの透明な瞳で彼を認める。二人以外には誰もいない場所でさえ消え入りそうなその存在感。
「これ」
 彼女はナツメに寄った。手の中に最初から持っていた白いものを差し出す。ナツメには最初それが何なのかわからなかった。純白と、擦れたような赤黒い染みが見えた。それだけだった。
「ありがとうございました」
 受け取ってから、彼はそれがアサガオの足の傷に巻き付けられていた布きれだと気づく。赤い染みは固まった人間の血液のようだった。彼女の足にある、かさぶたの剥がれ落ちた傷跡も。
 ナツメはしばらく何も言わなかった。手のひらの上のそれを見つめるだけで。何も言わなければ、アサガオも何もしない。帰っていくこともなく、命令を待つように彼の様子を伺う。
 その布きれを、ナツメは彼女に突き返した。
「必要ない。処分してくれ」
 アサガオが両手で受け取る。さもそれが貴重な宝物であるかのように。
「わかりました」
 やってきたときと同じように彼女は布きれを手の中におさめ、再び言葉を待った。
「もう行け」
 そう言ってやると、アサガオはお辞儀をしてナツメに背を向ける。彼女は校庭の隅っこまで歩き、何に使われていたのかわららない段差の上に座った。ナツメの目には、かつての花壇のように見えた。
アサガオはそこで手を広げ、紐状の布きれをきれに伸ばすとそれをまた足に括り付け始めた。傷口の塞がった足に。ナツメはその様子を遠目に見ていた。そうするアサガオは、おまじないに願いを託す少女のようだった。
 ナツメよりも不器用な括り目で結びつけられた布を、アサガオは大切そうに撫でた。無表情のまま。それから彼女は校庭を出ていく。
 ふくらはぎの布は、ずれ落ちることなくそこにあり続けた。


「……くそ」
 男の呟きは、朝の静寂に飲み込まれる。
 今は誰にも使われていない建物の壁に身を預け、ユーリは高い空を見上げた。空には青と白しかなかった。比べて、彼の心はたくさんの色が混じり合って何色なのか判断もつかない。絵具筆を洗う水入れのように。彼はその水入れの中から自分も本心をすくい出すことができなかった。それでいながら、最後には必ず、それは苛立ちの色に変わる。
 両手で頭を掻く。元々くせのついた髪の毛がそれ以上に乱れることはない。すぐに元に戻る。
 彼は洗濯を終えて、これから干した服が乾くまで別の仕事をするはずだったが、その道中で足が止まった。思考はいつだって上の空。いつしか歩こうと考えることさえできなくなった。日影の壁にもたれかかっていた彼は腰を下ろす。井戸水で洗濯をしていたせいで微かに濡れたままの手のひらに砂がこびりつく。
 ナツメと最後に話をしたのが遠い昔のことのようだった。事実、それからかなりの時間が経っている。ユーリはその数字を記憶していない。指を折って数えいているわけにはいかなかった。
ユーリがナツメを訪ねることは一度もなかった。彼とすれ違うことも。彼の顔を忘れそうになりながら、その仏頂面と広い背中をユーリは鮮明に思い出す。
 四肢を放り出して座った。言葉はなく、漏れるのは小さな嘆息だけだった。道には誰もいない。普段人が通る道ではなかった。誰にも見つけられず、しばらくはサボタージュしていられるはずだった。
 だが、小さな足音が聞こえてくるのを、彼の耳が感じた。足音はすぐに寄ってきた。
「ユーリ?」
 ずいぶんと低いところから聞こえる声に、ユーリは顔を上げる。座り込む彼の目線よりも少しだけ高いところから、コウメが見下ろしていた。彼女は一人で、近くにタナベはいなかった。
 ユーリはその姿を認めると、小さく息をついた。
「コウメちゃん一人? お父さんは?」
「お仕事してる」
「コウメちゃんは?」
「お散歩してるの。お母さんもお出かけしちゃったから」
 困った風に彼女は言う。ユーリも苦い顔を浮かべた。
「ダメじゃないか、お留守番してないと」
「でも……」
 ユーリにはコウメの寂しさが理解できたし、子供一人を置いて家を空ける両親に文句もあった。けれどそうする他なかったことも想像できる。子守を頼める相手は、もういないのだった。
 ユーリは立ち上がって尻についた砂を払ってから、コウメの手を取った。
「おうちに帰ろう」
 コウメは抵抗しなかった。
「……うん。わかった」
 彼女は肩を落としたが、自分の過ちを知っていた。ユーリに相手をしてくれとせがむこともなかった。ユーリにもやらなければならない仕事があったし、コウメの両親もそう長い時間家を空けるはずがない。
 手を繋いで歩く間、コウメはほとんど口をきかなかった。ユーリも進んで話かけることをしない。
 もう少しで家が見えるところまで歩いてから、コウメが顔を上げた。
「ねぇユーリ」
「何?」
 彼は視線を合わせようとしなかった。
「ナツメは?」
 彼女はそれでもユーリの目を見続けた。何かを祈るように。
「ナツメ、どこかへ行っちゃったの?」
「そんなことないよ」
 ユーリは遠くにタナベとその家族が住む家を見つけた。古い家だった。周りの家屋と見比べても一世代古いように見受けられるその一軒家は、しかし時間や風雨に負けることなく鎮座している。何度か補修をした跡もあったが、しばらく崩れる危険はないように思われた。少なくともユーリが暮らしている共同住宅よりはずっと安全そうに見えた。
 彼はコウメの視線を感じて、彼女の手を握る指に少しだけ力をこめた。
「そんなことない」
 コウメはそれから何も言わなくなった。
 彼女はユーリに連れられて自分の家の前までくると、その中に誰もいないことを確認して中に入った。一瞬だけもの寂しそうな顔をして、ユーリが「ちゃんとお留守番するんだぞ」と念を押すと、小さく頷いてから玄関扉を閉めた。扉が施錠されるのを音で確認してから、彼はその一軒家に背を向け戻って行った。
 ユーリはポリスの中心部へ、自分の仕事場へと戻ろうとした。そこには洗濯以外の仕事があって、娘や老婆が細々と作業をしている。どこへ行っても、人々はせっせと働くのだった。早朝から、日が暮れるまで。
 彼はその途中で足を止めた。
 しばし視線を彷徨わせて、それから彼は空を仰いだ。高い空だった。目が痛くなるほどに青い。
 ユーリは踵を返した。中心部から遠ざかるように。
歩みは徐々に歩幅を広げ、小走りになり、やがて彼は走り出す。痩せ細った弱い体で、息を切らし、息ができなくなるまで走った。最初の目的地から遠ざかるごとに、意識まで遠くなった。彼は、ただただ南を目指した。
 足が止まるのは彼が想像していたよりもずっと早かった。まだ走り出した場所が目で見えるところで、彼は一度足を止めなければならなかった。息を整え、意思を確認するために。膝に手をついて荒い息を繰り返す彼を目眩が襲う。倒れそうになるのを必死に踏みとどまった。砂埃を吸い込んで咳き込んだ。息を吐き出すのと同時に胃の中のものまで吐き出した。ほとんど水のような嘔吐物が砂の上に広がり、染み込み、悪臭を発する。口の中に残った苦い味を吐き出すと、彼はようやく落ち着いて顔を上げた。
 普段誰も使わない道路の真ん中だった。誰にも見られているはずがなかった。出したものもそのまま放っておけばよかった。
 息が整い、再び歩き出そうとしたところでユーリは視線を感じた。誰もいるはずのない道で。
もし誰かがいるのなら、水を一杯もらおうとユーリは思った。
 そこには誰もいなかった。けれど、視線は確かに彼を射抜いていた。
 ユーリの黒い目が、その目を見つけた。目はまっすぐに彼のことを見ていた。赤色をした、透明なプラスチックで包まれた目だった。
 声を上げるのも忘れて、ユーリはその目に釘づけになる。目眩を感じた。赤い目は朽ちたビルや家屋を背景に、無機質にただ彼を観察する。しばらく時間があった。ユーリは一歩も動くことをしなかった。
 赤い瞳も、鉄の口も、真っ直ぐにユーリを見つめる。
 彼は、火薬の弾ける音を聞いた。


 目の前の朝顔の花よりもずっと薄い青空を見上げて、彼女は水やりをする手を止めた。プラスチックの如雨露にはあちこちに穴が開き、ビニールテープで補修されていた。そのビニールテープも古い。アサガオは井戸から汲んできた水を、朝顔の根が埋まる土の上にかけ続けた。それが終わると、余った水で花や葉を洗う。一つずつ、一枚ずつ。赤子の体を洗うように繊細で丁寧な指使いだったが、その表情は何も表さなかった。
 水はポリスの外から汲んできたものだった。学校が建っている場所からは、ポリスを囲う壁の外にある井戸が一番近い。その次に近いのは、ナツメが傷を洗うために彼女の連れて行った井戸だった。彼女はいつも、自分以外は使わない外の井戸を使う。
 如雨露の水がなくなると、ポリタンクから水を入れた。ポリタンクからも水がなくなったところで、彼女はようやく如雨露を置いて朝顔の花を眺める。朝露のように、花弁の上に残った水滴が昼の光を反射する。小さな宝石のように思われた。アサガオはその水滴をしばらく見つめては、花びらを指で押さえて雫を地面に落とした。
 屋内であっても、昼間の保健室の中は大きな窓のおかげで明るかった。南向きの窓からは日の光と風が入ってくる。窓から見えるのは広いグラウンドで、風は砂を巻き上げていく。せっかくきれいにした花も、すぐに砂にまみれてしまった。アサガオはそれを無感情に見つめた。
 彼女はその場を離れようとして、自分の足に目を奪われた。巻き付けられた白い布に。水やりのせいで、傷跡を隠す布にも――ほとんど傷跡は目立たなくなっていたが――水が散って、砂がこびついた。湿った砂は手で拭うだけではとれなかった。
 布についた砂を取り除くための水を求めて、アサガオは立ち上がる。
 ポリスの外にある井戸へ行くには、学校の校庭を出てすぐにある壁を超えればよかった。壁には簡単に穴をあけることができる。それを構成している廃材の一つを取り外すことで。彼女が取り外す廃材はいつも決まっていた。アサガオはそこを目指して学校を出た。
 ポリスの縁はいつだって静かだった。外と繋がる壁には誰も近寄ろうとしない。人々はできるだけ囲いから離れた場所に住もうとした。安全を確認するために壁が崩れていないか確かめて歩く者もいたが、彼らが望んでそれをすることはなかった。
 風の音しかしないはずの場所で、アサガオは何かの音を聞いた。
 それはものの弾ける音に似ていた。耳を澄ませる。それを察して風も静まった。
 同じ音が聞こえた。ずっと遠くで。
 音はずっと遠くから、青い空を伝って響いた。聞き覚えがあるように思われた。しかし思い出せなかった。彼女は足を止めて、もう一度聞こうとする。しばらくして、また同じ音が聞こえた。音はさらに遠ざかっていた。やはりアサガオには思い出せなかった。
 彼女は空を仰いだ。
 空は恐ろしくなるほどに青く、澄み渡っていた。


【第八章】

 何かの弾ける音を、ナツメは農耕に向かう道中で聞いた。
 彼は一人だった。普段誰にも使われない道は砂にまみれ、ナツメが歩いたあとには彼の足跡がくっきりと残った。それ以外の足跡は一つもなかった。耕さなければならない土地まであと少し。そこにいけば、どんな雑念もなくひたすらに作業することができる。
 音は連続して響いた。ナツメは何かの合図だと思った。遠くから空を伝って聞こえるそれは、劣化しナツメの知る本当の音とは違って感じられた。何かを知らせるために、どこかで誰かが空砲を撃っているのだと、彼は思った。
 しばらく歩くと、今度は喧噪が風に運ばれてくる。音はまだ続いていた。ポリスの中央の辺りで何か祭事のようなことが行われているのかもしれない――彼は考える。最初は空耳を疑うような小さな騒ぎも、次第に大きくなり、ポリス中に広がっていった。何か集まりがあることをナツメは誰からも聞いていなかった。聞いているはずがなかった。ここ数日、彼はアサガオ以外の誰とも目を合わせていないのだから。
 一際近くで、音が爆ぜた。
 ナツメは立ち止まる。
 彼の右手は、彼の意識とは無関係に伸びていた。ベルトで肩からぶら下がっていた小銃に。
 その意味を体が反応してから彼は考えた。すぐ近くから、もう一度音が聞こえた。
 ナツメが息を呑む。周りには誰の気配もなかった。崩れかけのコンクリートビルが佇むだけ。
 彼の指が、銃のセーフティを解除した。


 一人目、二人目、三人目。
 四人目、五人目、六人目、七人目、八人目、九人目。
 ナツメがようやく足を止めたのは、十人目のときだった。
 額には大粒の汗が浮かんでいた。肌寒ささえ感じる秋だというのに、汗は彼の顎を伝い、砂だらけの地面に落ちる。黒い銃を握る手のひらも濡れていた。動機が激しく、感覚は研ぎ澄まされ、内臓さえも可能な限りの活動をしているというのに、頭だけはうまく回らない。物音が聞こえ、脊髄反射で銃口を向け、そして銃を下ろした。
 歩いた距離はそう長いものではなかった。街の中心に向かうようにして少し進んだだけ。誰ともすれ違わなかったし、目を合わせなかった。音は遠くから聞こえるばかりで、周囲は静まり返っている。それでも十人の人を見つけた。言葉を喋らない、地面に伏せる人々を。
 目の前では今も人が仰向けに転がっている。真紅の血だまりと一緒になって。
 数秒の間をおいてナツメは駆け寄った。
腹に銃創を刻まれたユーリだった。
「ユーリ!」
 反応はなかった。動きも声も。腹に穿たれた穴から流れた血が、小さな円を描くようにして広がる。白いシャツにも広がる。飛び散った赤は、茶色のくせ毛さえ染め上げようとする。口は半開きで、まぶたは下がっていた。
「聞こえるか、ユーリ!」
 膝をつき、ナツメは銃を手放して脈と呼吸の有無を調べた。顔に血の気はなかった。一目見た瞬間に、彼はもうその体から命が抜け去っていることを直感した。それでもナツメはの手首で脈を、口元に唇を近づけた。
 ナツメの指に微かな反応が、唇に暖かい息が感じられた。
「ユーリ!」
 命は赤い血と一緒に腹から流れ出してはいなかった。けれど虫の息だった。
 ユーリが言葉を返すことはなかった。死にかけているのは自分だとナツメは錯覚する。彼の頭に走馬灯が流れる。目の前で死んでいった戦友の姿、守れなかった町娘の表情、自分をかばって弾丸に貫かれた友の背中。現実が過去に追いつかれる。二つが重なろうとする。
 ナツメは彼の名を呼んで、その体を揺さぶり続けた。息はあるのだった。反応を示さないだけで。このまま眠ったまま時間が過ぎれば、その虫の息さえ途絶えてしまうことをナツメはよくわかっていた。
 ナツメは死んでいたかもしれなかった。このときユーリが彼の名前を呼ばなければ。
「……ナツメ」
 彼が微かにまぶたを上げた。光を浴びた瞳孔が絞られる。
「ユーリ!」
 ナツメが彼の耳元で叫ぶ。現実と過去が乖離する。
ナツメの声は耳元で聞くには大きすぎた。しかしそのときのユーリにはそれくらいがちょうどいい。感覚器官はほとんど機能していなかった。痛みさえなかった。
 ユーリの瞳が確かにナツメの顔を見た。口とまぶた以外はどこも動かなかった。ユーリの顔にナツメのあごから汗が落ちる。
 彼は安らかな表情をしていた。何か漠然とした満足感に満たされているような。自分でつくった血だまりの中の人間が大抵そうするように。
「何してるんだ、お前……」
 彼は二言目にそう言った。助けを請うでも、走馬灯を語るでもなく、ユーリは呆れるように口元を歪めるのだった。
 ナツメは応えなかった。
「止血する。痛むぞ」
 彼は自分の服とユーリの服の一部を破り取って長い包帯を作った。弾丸が彼の腹を貫通しているかどうか確認することもなく、彼はすぐにそれをユーリの腹に巻き付ける。それ以上血を流せば彼が絶命することは目に見えていた。
 治療というにはあまりにも乱雑で清潔感に欠けている。それでも、彼はその方法で何人かの瀕死の戦友を救ってきたのだった。彼は何度も戦場で命の抜けた体を見た。そのポリスの中でも九人見た。その内には顔を見知った人間もいた。タナベやナズナのように。だが彼は死んでいると見てわかる人間に近寄ることをしなかった。それがまったくの無駄だとわかっているから。
 けれどまだ生きている命は救わなければならない。戦場でそう教えられ、体がナツメにそう言うのだった。
 即席の包帯を巻き付けられながら、彼はナツメを見上げ続けた。
「おいナツメ……わかってるだろ」
 ナツメは応えない。
「早く、逃げろ……」
 ユーリは震える声で言った。祈るように。
 巻き付けた布から赤い染みが広がる。どれだけきつく縛ろうと染みは広がり続け、ナツメの指を染める。汗の臭いと血液の臭いが混ざり合う。戦場の臭い。死の臭い。
 それでもナツメは縛り続けた。ユーリの息は次第に浅くなる。何度も意識が途切れる。ユーリは自分の意識の断絶に気づくこともなく、遠いどこかを眺めるような気持ちでナツメの顔をじっと見た。音は聞こえなかった。
「なぁ……ナツメ」
 自分の声さえ聞こえなかった。ナツメは反応を見せない。言葉が届いていないのかとユーリは思った。しかし続ける。
 口の中からも血が溢れ出し、真っ赤に染まっていた。ユーリはそれにも気づかずに、ほとんど回らない呂律で喋った。
「ごめんな」
 この間、怒鳴ったりして。その言葉は動かなくなった舌のせいでナツメが聞き取れる発音にならなかった。ユーリにはわからなかった。ナツメがその言葉を理解できたのかどうか。もう一度言おうとしても、今度こそ唇さえ動かなかった。ナツメは止血を続ける。言葉を発することもできなくなった口から、血が吹き出す。ナツメの服を鮮血が染め上げ、頬にも赤い雫が飛び散る。ユーリはそれをきれいだと思った。
 彼がまた何かを言おうとした。ナツメにもそれがわかった。
「喋るな!」
 機能しなくなったユーリの耳は、ほとんどその叫びを聞き取ることができなかった。彼の口からは血が漏れるだけで、言葉は出なかった。
 聞き取ることができずに、しかしユーリはナツメの願いを聞き入れた。従順すぎるほどに。彼の意思とは関係なく。
 彼は喋らなかった。もう二度と。
 ナツメが呼んだ。誰の耳にも届かない。砂を纏った風が吹く。抜け落ちる命をさらっていく。
 高い空に、ナツメの絶叫が届いた。


 どういう経路をたどって、どうやって移動したのかわからない。どれほどの時間が経ったのか、それは手のひらで固まりつつある赤い血が教えてくれた。血はほとんど固まって黒ずんでいた。ナツメはいつの間にか宿直室にいた。
 遠くからは今も大きな音が聞こえた。微かな悲鳴とともに。殺戮は続いている。わけもわからず人が死んでいく。今までに見た十人と同じように。ポリスの住人は抵抗力を持たなかった。今までがあまりにも平和だった。彼らはその赤い瞳で見つめられて、なす術もなく撃ち殺される。その様子がナツメには鮮明に想像された。彼自身、何度もその光景に居合わせ、武器と運で生き延びたのだった。
 ナツメの頭は何も考えなかった。散らかった部屋を茫漠と見つめるだけで、何もしなかった。体が憶えている。生から死へと移り変わるものを。その感触を。拳を握ると、固まった血液が剥がれて落ちた。そのすべては落ちなかった。灰色の服に染み込んだ赤黒い模様は、当分取り払うこともできそうになかった。
 彼の頭はなぜこうなったのかを考えようとした。答えはなかった。いつかこうなる運命だった。
 それを受け入れようとしたとき、彼は戦場で死にゆく友の気持ちを知った。彼らはこうして死んでいったのだった。諦念にも似た満足感を得て。ナツメの指が腰の銃に伸びた。まだ弾丸は残っていた。部屋にもいくらか転がっている。
 耳が思い出したユーリの言葉が、その指を止めた。彼は最後にナツメに言った。ごめん、と。早く逃げろ、と。
 ナツメは小銃から手を離す。部屋の中を見た。初めて来たときよりも散らかっていた。片づける必要はなかった。彼は金色の弾丸がいっぱいに詰められた弾倉を一つずつ、上着の左右両方のポケットに入れる。銃に装着されている弾倉もいっぱいだった。セレクターレバーはフルオートにセットされたままだった。
 部屋を出ようとする。
 出ようとして、足が止まった。
 ナツメは群れを成す朝顔の花を思い出した。


 少女はそこにいた。
 世界から切り取られたように、保健室の花は昨日と同じ昼の光を浴びて萎んでいた。そこだけは外界の喧噪とは無縁だった。青空を渡って響く音も、そこでは聞き取れない気がした。ナツメは保健室に足を踏み入れることを躊躇う。服を赤く染めた彼には不釣り合いな場所に思えた。
 いつかのように少女はナツメを見上げる。
 彼女は立ち上がると、深く上品にお辞儀をした。
「こんにちは」
 彼女はナツメの体中に飛び散る血痕を一瞥し、しかし何も言わなかった。ロボットは余計な詮索をしない。
 ナツメは自分がどうしてそこに足を運んだのかわからなくなった。逃げなければならないはずだった。そうしてまた放浪し、別のポリスを見つけるのだった。今までそうしてきたように。信頼できる人間なら旅の友とすることができる。しかし彼女はロボットだった。ともに生きることは不可能だった。最初から生をもっていないのだから。
 彼女を連れ出す必要があるのか、ナツメにはわからなかった。
 そのとき、彼は音を聞いた。
 何かの滑る音、回る音、誰かの声、低い銃声。
それから老いた男の叫び。それが最後だった。音はぴたりとやんだ。今までの音よりも、ずっと近かった。
「屈め!」
 保健室の中に飛び込んだナツメがアサガオの頭を押さえつけた。彼女は小さな悲鳴を上げ、わけもわからず座り込まなければならなかった。ナツメは彼女を押さえつけ続ける。大きな窓の外から、その赤い瞳に見つけられないように。
 アサガオがナツメを見上げて、彼が何か焦っていることを理解する頃には、物音は去った。ナツメはしばらくその姿勢を崩さない。屈んでいろ、と告げるとアサガオの頭から手を離し、銃を握って身を低くしたまま窓の方へにじり寄る。朝顔の花や蔓が邪魔で窓のある壁に身を寄せることはできない。
 アサガオが体を動かすことなく問った。
「どうかしましたか?」
 ナツメは彼女に目を向けることをしない。
「非常事態だ。黙っていろ」
 アサガオはそれを命令だと認識する。
「わかりました」
 音はしばらく聞こえなかった。それから最初に聞こえたのは、それまでと同じような遠くからの銃声。近くでは車輪が地面を滑る音も聞こえない。ナツメは一度落ち着いた。自分のただならない様子にアサガオが怯えているのも感じていた。
 ナツメは逃げることだけを考える。校舎を出て、細い道だけを伝ってポリスの外壁まで行くことができないかと地形を想起する。不可能だった。必ず一度は、太い道を横切らなければならない。
 ナツメは萎んだ花をじっと見つめた。
「俺は、ここを出る」
 言った。
 返答はなかった。アサガオはナツメを見た。けれど口を開けることをしない。「黙っていろ」という命令を聞いたがために。それにナツメが気づくのに数秒かかった。
「お前はどうする?」
 アサガオは自分が言葉を発する許可を得たことを理解したが、今度は口を開けても言葉が出なかった。
「私は……」
 戸惑いを孕んだ瞳がナツメを見る。それから視線を彷徨わせた。部屋中にある朝顔の花の一つ一つを確認していくように。どうしていいかわからないのだった。何が起こっているのかさえわからない彼女には。
「今、ポリスの中は危険だ」
 アサガオは神妙に頷く。
「殺戮ロボットがうろついている。見つかれば殺される」
 彼女は一瞬だけ言葉を詰まらせた。表情は何も変わらずとも、ロボットの心ながらに衝撃を受けたようだった。
「誰かが、そう仕向けたのですか?」
 か細い声で彼女は問いかける。瞳はナツメだけを見る。助けを請うように。
「何?」
「ここに暮らす人々を殺害するために?」
 彼女が怯えていることをナツメは知った。言葉は小さく震えていた。人の心に似せようとして作られたロボットのプログラムが、彼女の思考をナツメに教える。あまりにも微細な主張だが、彼はそれを感じるしかなかった。
「わからない。そうかもしれないし、偶然かもしれない」
 いつかこうなる運命で、その「いつか」がやってきた――ナツメにはその認識しかなかった。原因や理由は些末なことだった。
「俺は外へ逃げる。逃げるのなら連れていく。ここに残ってやり過ごすのなら、それもいい」
 ナツメは判断を急かす。ポリスの外へ出るのは早い方がよかった。せめて、殺戮ロボットがナツメとアサガオ以外の住人を殺し終える前に逃げなければならない。
「他の人たちは、どうするのですか」
 少女は不安げだった。問うことで自分の決断を先延ばしにしているようにも思われる。
「他のやつらのことは、そいつらに任せておけばいい」
 ナツメに他の住人まで連れ出すつもりはなかった。アサガオだけが、ロボットであるという理由において一定の信頼を抱けるのだった。
「どうする?」
 彷徨っていた少女の視線が、あるとき一点に定められる。朝顔の青い花だった。小さな手が強く握られた。
「私は」
 アサガオがナツメを見た。
「私は、ここに残ります」
 彼女は不自然に力強く告げた。自分に迷いがないことを彼に示すように。ナツメには何が彼女に決意させたのかわからなかった。ナツメが無理に彼女を連れて逃げることはできないように感じられた。そのつもりもなかった。
「そうか」
 ナツメは顎を引くと、すぐに視線をアサガオから外して校舎の外へ向けた。すべての感覚を周囲の状況を知るために使おうとした。アサガオのことを感覚する必要はなかった。音は何も聞こえない。窓から見える範囲には、何も異常は見当たらない。
 彼はタイミングを伺う。勘を頼りにする他なかった。ほとんどそれ次第で、ロボットと遭遇して撃ち殺されるか否かが決まるのだった。
 口を噤んでひたすらに待つナツメに、アサガオが言った。
「あの、」
 ナツメは集中を切らしたが、振り向くことをしない。
「どうした」
 短い間があった。言葉にすることを躊躇うような。
「あなたは、どこへ行くのですか?」
「さぁな」
 誤魔化すのではなかった。ナツメに行く宛はない。今までと同じようにどこか別のポリスに行き当たるか、それともすたれたコンクリートジャングルの中で野垂れ死ぬのか。
「今はとにかくここを出る。それからのことは、それから考える」
「ここを出ていくのは、危険なのではありませんか?」
「危険だ。だが、隠れていてもいずれ見つかるかもしれない」
 ナツメが淡々と告げると、アサガオは口を閉じた。それは沈黙であったが、彼女が何かを深く考えていることはナツメにもわかった。表情からは読み取ることができない彼女の思いを、表情さえ目にしていない中で感じることができた。
 彼女はしばらくして結論を出した。
「わかりました」
 少女の視線はナツメの背中に真っ直ぐ向けられていた。彼が振り向くことはないとわかっていても。
 その言葉の真意がナツメにはわからなかった。考えようとすることなく彼は機を待った。何か超自然的なものが囁くのだった。狙っていたタイミングは今なのではないか、と。
 彼はほんの少し腰を高くする。
「もう行く」
 アサガオは動かない。
「はい」
 そうか、とナツメの口が小さく動いた。彼女を置いて行くことに後悔を感じるとは思えなかった。逃げた自分が生き延びて残った彼女が死ぬのだとしても、その逆だったとしても。
 窓からは普段の景色以外に何も見えなかった。雑多な廃墟群。空が青い。
 ナツメは告げる。
「じゃあな」
 彼は返事を待つことなく駆け出した。窓を抜け、朝顔の根元を超え、グラウンドの隅を駆けていく。最初に思い浮かべていた進路通りに、彼は走り抜けた。警戒することも躊躇うこともなかった。男の背中は、グラウンドの向こうですっと消えた。
 一瞬の出来事を眼前にして、アサガオただ一人が取り残される。しゃがみ込んだまま、いつまでも彼が消えた場所を見つめる。何もない建物の陰。ロボットの心が寂寥を感じることはない。それでも彼女は目を逸らさない。
「さようなら」
 誰もいなくなった場所に向かって、そう言った。
 小さな返事は、誰に届くこともなく風に乗って擦り切れ消えた。


【第九章】

 街は時間の流れから独立した。その数年の間に。誰も空地に高層建築を建てず、誰も古い木造の建物を解体せず、誰も森を切り開かない。雨と風だけが少しずつ街を枯らせていく。時間は以前ほど容易に都市を変えることができない。枯れた都市に生き物はいない。いるのは鉄のロボットだけ。彼らは食べることよりも殺すことに飢えている。殺したくて殺したくてたまらない。生きているものを探し求めて死んだ街を徘徊する。時間から切り離された街。ロボットは永遠に彷徨い続ける。
 音は鳴りやまない。どこかで大きな音がして、またしばらくすると同じ音が別の方角から聞こえる。時折悲鳴も混じった。ポリスの中は騒がしかった。それだけの生がそこにあるのだった。今まさに一つずつ刈り取られているのだとしても。
 アサガオはその喧噪を耳にしながら、大切そうに朝顔の花を撫でた。一つ一つにお別れを言うように。昼の花は朝ほど美しくない。安い紙染み込んだにインクのような青。決して拭うことのできない色。
 彼女は可能かぎりすべての花に挨拶を終えると、その両足で立ち上がった。傷口を隠す布は、まだ右足の脛に巻き付けられたまま。そこにも小さな染みがあった。固まった赤黒い染みが。アサガオは一度屈みこんでその布を縛り直した。きつく、二度とほどけないように。少し痛いくらいが彼女に実感を与えた。
 寂しがるような素振りはなかった。決別するように、彼女は保健室から立ち去る。廊下を抜け、グラウンドを抜け、学校を取り囲むフェンスの外に出る。ここに残る、ナツメに告げたその意思を曲げることなく、彼女は校舎を背にして行くのだった。ポリスの中は生暖かい屍で溢れかえっている。そんなに多くの人間がポリスで生活していたことを彼女は知らなかった。一つ、また一つと血沼に浮かぶ屍とすれ違う。歩みを止めず進む。瞳は真っ直ぐ前だけを見据えていた。
 アサガオは一人、産声を上げたばかりの地獄を行く。


 崩れた木造建築の裏を抜け、血のような赤錆を踏みつけ、ナツメはコンクリートの壁に身を隠した。
 息はしていなかった。聴覚はストライキしていた。銃声も悲鳴も聞こえない。それでもわかる。まだ惨劇は終わっていないことが。自分の走る足音まで聞こえない。空の青さばかりが目に付く。感覚のすべてが混同し始める。目で音を見、鼻で景色を嗅ぐ。体は耳で呼吸しようとする。できないことに気がつくまで、肺の中で空気が腐っていく。
 彼は物音一つさせずにビルの陰に身を潜めた。感情が疑問を訴える。どうして自分はこんなことしなければならないのか。感覚が否定する。ただ生き残るため。息を整える。吐き出した息が回りの空気と混じる。吐息を通してようやく辺りの様子が見えてくる。崩れかけた双子のようなビルの谷間。深い日影。来た道は日の当たらない細い路地、これから向かうべきは幹線道路。誰にも使われることのない太い道は、砂に汚れ、砂漠のように広がる。その道を超えた向こうに壁がある。ポリスの内と外とを繋ぐ壁。
 ナツメは背中をコンクリートの壁に預ける。最初で最後の賭け。そこを凌げばポリスの外に出られる。タイミングを間違ってはいけない。
 音を聞こうとした。殺戮ロボットの四本足が奏でる走行音を。あるいは背負った銃の炸裂音を。けれどできなかった。どんな音も聞こえてこない。今までの喧噪が嘘だったかのよう。陽炎に取り囲まれたかのように揺らぐ視界で道を見る。
 風が凪いだ。
 機を伺う。
 風が吹いた。
 誰かの声が聞こえる気がする。
 聞き覚えのある声、かつての戦友の、ユーリの、アサガオの、すべてが混じり合った声。
 風が去る。
 体を壁に押さえつけていた圧力が消える。体の重心が動く、転がるように足が回る。銃を構えるのも忘れてビルの陰から飛び出す。
ちょうどそのとき。
 死角から、金属光沢が現れる。


 井戸のある十字路で野菜を洗う女と洗濯をする女が鉢合わせるように、ナツメは走るロボットと大通りで出会う。
そのときでさえ音は聞こえなかった。足音も、殺戮ロボットの車輪が回る音も、自らの鼓動さえも。鼓動はすでに止まっているのではないかと思う。時が止まったかのような感覚を覚える。走馬灯は流れない。ほとんど止まってしまった時間がナツメにロボットを観察させる。フライングディスクのような胴体、細い四本の足、その先端の車輪、背負う二丁の小銃。その銃から放たれた弾丸に自分の頭蓋骨が砕かれる瞬間を想像する。眉間に食い込む金色の弾丸が皮膚を焼き切り骨を穿つ。砕けた骨が飛び散り、弾は脳みそを掻き回す。ごちゃごちゃになった脳みそと一緒に弾丸は後頭部から抜け、背後のビルの壁に突き刺さる。自分は脳みそを垂れ流しながら前のめりに倒れる。
 音は聞こえない。時は進まない。
 死ぬまでに残された時間。ナツメは思う。自分がここで死ぬのなら、隠れることを選んだ少女は生き残るのだろうか。
 答えは出ない。その未来は想像されない。
 時間の流れが戻る。
 ナツメの足がようやく二歩目を踏み出す。
 殺戮ロボットは、ナツメに目もくれず走り去る。


 ナツメはロボットの背中を見ていた。
 イメージされた未来のビジョンから現実が遠のく。殺戮ロボットはナツメの頭蓋骨を撃ちぬくことなく走り去った。未来のビジョンが脳裏に再生されたように、彼には眼前のそれが幻覚に感じられる。自分はまだ、都合のいい幻を見ているのではないか――そう思う。
 着実にロボットはナツメから遠ざかった。四つの車輪が砂を巻き上げ、軽快にビルとビルの谷間を進む。ロボットの銃口はナツメのことを見ていなかった。その背部に取り付けられたカメラは彼の存在を認めている。しかしロボットはナツメを考えようとしない。まるで彼が殺すに値しないことを知っているかのように。
 足が三歩目を踏み出したところで、彼は現実を見る。
 彼は銃を構えた。走りゆくロボットの背中に向けて。そのせいで足は止まった。砂が舞い上がり、ロボットが宙に放ったのと混じりあって消えていく。ナツメは撃たない。止まったままの呼吸がその鼓動さえ止めようとする。そのせいで体は振るえを知らずに小銃を持つ。真っ白な頭が事態を整理する。
 フロントサイトとリアサイトが一直線に並び、その延長線上にロボットの胴体が重なる。
 そのさらに向こうに、ナツメは少女を見た。


【第十章】

 思考する時間は許されなかった。
 彼の四肢は独りでに動いた。
 そこに彼の意思は関係なかった。


 それでも彼は考えた。
 議論があった。
 今、ここで、自分は、何をすべきなのか、という。


 彼は思う。
 見つからなかった、その幸運を捨ててはならない。
 彼は生き残るために逃げる。


 別の彼は思う。
 同じ後悔を何度繰り返すのか。
 彼は死ぬために引き金を引く。


 また別の彼は思い返す。
 自らの過去と、今まで忘却の彼方にあったはずの思い出を。
 彼は脳裏に走馬灯を描く。


【第十一章】

 太い幹線道路の真ん中に、四本足で立つロボットの背中があった。
 三十メートルの距離。ロボットはいつの間にか足を止めている。
 その向こうの小さな人影。
 殺戮ロボットに銃口を向けられた少女は、ナツメを見ていた。
 同じだった。ナツメと少女が出会ったときと。彼女は銃口を向けられ、それなのに怯えを知らなかった。ナツメはたった一人の少女に驚愕した。
 交差する視線に、ナツメは少女の意志を感じる。それは心へ訴えかける心に似ていた。それが本当なのかどうか確かめるには、二人の間の距離は長すぎた。
 透明だったはずの瞳が色味を帯びていく。訴える。どうして、と。
 彼女の小さな唇が動く。逃げて、と。
 彼の口は言う。問い返すように。
「どうして、」
 それ以上は言葉にらない。
 ナツメは駆ける。銃を構えて、背中を向けるロボットに向かって。
 何も見えてないなかった。無感情に銃口を突きつける殺戮ロボットの姿も、感情的に目を見開く少女の姿も。ただ距離を詰め、銃を向け、そして引き金を引いた。理由はなく、あるのは衝動だった。
 連なった銃声が響く。弾丸が地面を穿つ。ありったけの弾を吐き出し続ける。
 ナツメにはわからない。どうしてアサガオがそこにいるのか。
 銃声が続く。
 頬を汗が伝う。指に力がこもったまま。
 最後に空廻る一音を残して、弾倉は空になる。それでも引き金を絞り続ける。地面にあいた無数の穴が、彷徨う銃弾の軌跡を物語る。
 ナツメの手から小銃が滑り落ちる。ベルトが肩に食い込む。
 鉄の体を幾度となく貫かれた殺戮ロボットが、地面に伏せた。
 ようやくナツメが息を吐いた。
 音は何も聞こえなくなる。自分の息遣い以外には。車輪の走行音も銃声も消え、静寂がビルの谷間を支配する。動くものはない。ロボットは沈黙し、ナツメは息をすることの他に何もできない。目の前の地面を銃弾に砕かれたアサガオは佇立するだけだった。死んだように、彼女が動くことはなかった。
 空からも音は消えた。響いていた銃声も、人の悲鳴もナツメの耳に入らなかった。ポリスに侵入したのは眼前で倒れたロボットだけなのかもしれない。あるいは彼の耳がおかしくなっているのかもしれない。ただ、どちらにしろ彼は動かなければならなかった。一刻も早くその場から逃げ出すために。
 彼はアサガオの手をとるために踏み出す。
 その瞬間に銃声が響いた。
 ナツメの銃に、弾は残っていなかった。


 それさえ彼は自らの幻のように思った。明け方に見る悪夢のような。
 けれど鼻につく硝煙の香りが現実を見せ付ける。リアルをナツメに押し付け認めさせようとするのは、今度こそ動かなくなった機械であり、そこから昇る微かな煙であり、そして鮮血の赤だった。砂の擦れる音と、乾いた目に映る淡色の景色が急に生々しく感じられた。そこにあるのは、嘔吐しそうになるほどの生だった。
 アサガオの体が膝から崩れ落ちる。
 彼女は悲鳴も上げない。言葉なく、表情さえないままに赤い花を咲かせて倒れこむ。その姿は優雅で、庭園の花を見つめて座り込む淑女を思わせた。
 彼は走った。三十メートルの距離で何度も足がもつれる。走っても走っても距離が縮まらない。少女の姿は遠い。自分は永遠に彼女の元へたどり着けないのではないか――そんな考えさえ生々しさをもってナツメに訴えかけてくる。それを振り払うように駆けた。
 ナツメは彼女の前でロボットの死骸を蹴り飛ばす。今度こそ仕留めることができたかどうか確かめるために。ロボットは動かなかった。力を失った車輪が衝撃でころころと回った。
 目の前まで寄った少女は、そのロボットの屍以上に生に欠けた。
「傷を見せろ!」
 座り込むアサガオにナツメは呼びかける。
 白のワンピースを赤く染めた少女は微かな反応を見せる。赤は正座をするように座った彼女の腿から流れていた。
「足を伸ばせ」
 生き物の臭いが鼻につく。死と同じ臭い。穿たれた傷口から流れるのは真っ赤な血で、オイルではなかった。
 ナツメは無理矢理に彼女の右膝を伸ばし、腰にかけられていたアルミボトルの中の水をすべてぶちまける。量は十分ではなかった。水で薄まった鮮血がさらにむせ返るような香りを放つ。細い腿を、弾丸は貫通していた。
 ナツメは一つの仕事を果たし終えた布切れを剥ぎ取る。アサガオの脛に巻かれていた布。そのときのように都合のいい布切れは持っていなかった。とにかく流れる血を止めなければならない。震える手で、ナツメは黄ばんだ安布を操る。
 その手の震えさえ、慣れたものだった。戦場で何度も同じことをしてきた。ナツメが手当てをした仲間のうちの半分は最初から手遅れだった。彼らは涙を流しながら、親のことを、恋人のことを、子のことを叫びながら、最後には糸が切れたように動かなくなる。
 フラッシュバックは再び現実と重なろうとする。
 目の前の少女が、かつての仲間に見えてくる。似ても似つかない。
 鮮明に想起されるのは、新しい記憶。死に顔が思い出される。ユーリの安らかな顔。
 もしかしたら、と思う。
 足を撃たれたくらいで、と思う。
 雲一つない青空の下、ナツメは布切れと苦闘する。


【エピローグ】

 秋の香りがした。
 色づく森のざわめきが遠くから届いた気がする。聞こえるはずがない。死んだ都市の中。森も樹木さえ目の届く場所にないコンクリートジャングルの真ん中。香るのは生き物の臭いだけ。記憶をリフレインさせる生々しさ。真っ赤に染まる砂色の景色。彼は今それを目にしている。走馬灯のように、はっきりと。
 思い起こされる過去は常に砂の色をしていた。味も砂と同じ。生き物の色が見えたかと思えばすぐに塗りつぶされる。長い間そんな場所で生き抜いてきた。生き延びることができたのは偶然だった。
 ナツメは汚れた布で少女の腿を縛り上げた。
 どうしてそんなことをしているのかわからなくなる。それでも彼は続けた。できるだけ強く、そこにある流れをせき止めるように。
 耳元で声が聞こえた。
「あなたは」
 蚊の鳴くような声だった。
 ナツメは見ているのが走馬灯ではないことを思い出す。
「あなたは、どうして」
 アサガオが彼を見ていた。ナツメは顔を上げない。
 縛り終えた。血はほとんど止まっていた。終えてもナツメはしばらく布をつかんだまま離せない。拳が開くことをしなかった。少女はほんの少し息を荒くしながら、しかし泣くことも叫ぶこともなかった。
 代わりにアサガオは困惑した。緊張と興奮のせいで痛みはほとんど感じなかったが、痛烈な疑念と不安がこみ上げてくる。彼女はそれを自己の中だけで対処することがついにできなかった。
「わたしはロボットなのに」
 ナツメが口を開けた。何かを言おうとして、何もいえないままに閉じる。
 もう一度、
「お前がそう言うなら、そうなんだろう」
 彼は立ち上がる。いつの間にか拳の力は消えている。
 ナツメは五歩だけ歩いて投げ捨てられた銃を拾った。空っぽになったマガジンを捨て、新しいものを自分のポケットから取り出してセットする。レバーを引いて装填。息を吹き返す。
「だったら、どうして」
 アサガオはまだ立ち上がることができない。痛みはなくとも腰が抜けている。ナツメはアサガオと一度も目を合わせなかった。彼女は彼をじっと見つめていた。
 小銃のベルトを肩にかけ、彼は問った。
「お前はロボットか?」
 いつか、彼が彼女にそう訊いたのと同じように。
 初めてナツメがアサガオの目を見た。深く色づいた瞳だった。
 彼女は記憶と同じように答える。
「はい」
 目を逸らさなかった。ナツメもアサガオも。
 しかしナツメは彼の記憶のように素直に頷くことをしない。
「俺には、そうは思えない」
 深く色づく瞳も、白い服を染める赤も、ナツメに訴えかける。むせ返るような臭いは生き物のそれだった。
 アサガオの表情が曇る。
「ロボットです。人間につくられた」
 彼女は真っ直ぐにナツメを見つめた。それ以外にできることがなかった。
「お前はそう言うかもしれない。俺はそうは思わない」
 アサガオは何も言えなくなった。
 ナツメは銃を片手に持ったまま、アサガオに近寄る。一歩ずつ縮まるその足音が、アサガオにはカウントダウンのように聞こえた。それが鳴り止んだとき、自分の命も終わるのだと。
 鳴り止んだ。ナツメが言った。
「行くぞ」
 彼はアサガオを背負う。銃を握ったまま。少女の体は軽かった。今まで背負ってきた人間のうちで最も軽かった。それでいて命の重みがあった。ナツメはそれに耐えなければならなかった。
 アサガオは抵抗することなく身を委ねる。
 背負われて、彼女はナツメの耳元で問う。
「どこへ行くのですか」
 ナツメが前を向く。ポリスの中心部に続く、広い道。
 足元にはロボットの遺骸が転がっていた。銃声と悲鳴は、今も空を伝って響いていた。
「ポリスに戻る」
 アサガオが息を呑むのを、ナツメは感じる。
 彼は念を押すように言った。それは自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。
「ポリスに入ったロボットの残りを壊しに行く」
 ナツメの目が風を追う。
「逃げるのは、やめたのですか」
 同じものをアサガオも見る。それは道を伝ってポリスの中へ中へと駆けていく。
「逃げるのはやめた」
 どうして、アサガオはそう問いかけようとしてやめた。彼女は口を閉じる。何も言わず、ナツメの背中に身を預ける。
 ナツメが歩き始める。
「行くぞ」
 踏み出すごとにビジョンが見える。それはすぐそこにある未来の姿。
 ポリスの真ん中の大きな墓。木の枝でできた十字架を立てられただけの粗末な墓標。そこに手向けられた小さな花。その地面の下にはたくさんの遺体が埋まっている。本当なら道端に転がったまま干からびていたはずの遺体。彼らを生き返らせることは誰にもできない。墓標に彼ら一人ひとりの名前を刻んできることもできない。けれど埋葬することなら自分一人でもできる。自分は一人ではない。
 彼は息のない友を静かな場所で寝かせてやる。少女はそこに摘んできた花を添えてやる。
 そんな未来へ、砂まみれの炎天下をナツメは行く。 
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