銀河英雄伝説<軍務省中心>短編集
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
夢、見果てたり
前書き
主君の不治の病という現実を突きつけられた部下たちは、少なからず動揺していた。冷静で感情を出さない「あの」男もまた、何かを決意していた。カイザーと軍務尚書のやりとりです。
Pixivと自ブログにも掲載しております。
夢、見果てたり
光には影が従う
光が翳れば、影もまた……
銀河帝国稀代の名君が、病の床に伏して幾日が経とうか。「変異性劇症膠原病」という奇病の名を突きつけられた歴戦の勇者たちの困惑、落胆、そして怒りは、日々その色を濃くしていた。皇帝の側近である二名の元帥にしても、表立って激昂する様子を見せなかったものの、内心はどの提督たちよりも波立っていた。何しろ、皇帝は為政者である前に全軍の力強い指揮官であったのだから、その存在を失おうという今、彼らはその穴に急ごしらえのコルクを嵌め込まねばならないのだ。実質的なものはもちろん、多数の将兵、臣民の精神的な空洞にも。
嗚呼、しかし民たちは、やがて代わりとなる者を受け入れるだろう。
美しく才智溢れる皇妃が、その精神を掌握するに違いない。
軍中枢は若く優秀な司令官が、政治中枢は類稀なる政治的センスを持つ皇妃が、ほどなく混乱を収めるだろう。
ならば、私自身の精神は、何によって埋められるだろうか。
主君となるは唯一人と、まばゆく輝く黄金獅子(ゴールデン・ルーヴェ)に、総てを捧げんと歩んできた私の精神は。
埋めようのない欠落を、私は甘受せねばならぬのか。
度を過ぎた形式のように思える書類の束を部下に手渡し、万年筆をペンスタンドへ戻すと、顎の下で両手を組んだ。頭部の重量をその両手へ預けると、白髪まじりの前髪がはらりと落ちかかる。書類を受け取った部下が物言いたげにこちらを見ていたが、半眼の両瞼を閉ざすことで、その存在を拒絶した。
部下の退室を待って、元帥服を纏ったその男も、消え入りそうな足音と共に執務室を出た。彼の頭脳に閃いた或る計画の裁可を、唯一の主君へと仰ぐために。
「人払いを」
灰色の軍用ケープを翻して訪れた男の急な申し出に、侍医たちは狼狽の色を隠さなかった。皇妃と大公妃は次代の皇帝を腕に抱き、静かに病室を去った。寝台に横たわる全宇宙で最も美しい患者の意向を、医師は無言のまま視線だけで求めた。黄金の髪に白磁の肌を持つ専制君主は、低からぬ発熱によってその白い頬を朱に染めながら、「心配は無用だ」と、侍医たちを隣室へ退けた。
「いてもいなくても、予の寿命に差異はなかろう」
忌々しげに、しかしどこか諦念の相を感じさせる表情で呟く。その様が、招かれざる客人の胸を激しく叩いた。寝台の頭部を僅かに上昇させて、誇り高い皇帝は、自身より遥かに顔色の悪い臣下を傍らへ呼び寄せた。
機械の目を持つ臣下は、死の床にありながら尚その美を留める主君へ、最敬礼を施した。そこまでは常の彼らしく、無機的で熱のない仕草であったが、その流れのまま長身のその男は、片膝を折って寝台の脇に跪いた。
主君の氷蒼色の瞳が、大きく見開かれる。
「卿らしくなく、殊勝な態度ではないか」
皮肉られた元帥は、しかし頭を垂れたままであった。
「この期に及んで、まだ予に言いたいことでもあるのか」
死にゆく自分にではなく、将来を担う存在に言えと吐き捨てる皇帝を、両の義眼は何の色も示さずに見上げる。だが、漸く上向いたその貌が、微かに歪んで見えたのは気のせいではないだろう。黄金獅子の鬣を仰ぎ見たままの元帥は、色の薄い唇を小さく動かした。
「陛下は、500年続いた旧王朝の悪しき伝統を打ち砕き、見事に新しい時代を、新しい宇宙をお創りになりました」
相も変わらず淡々とした声で、義眼の男は言葉を紡ぐ。予の墓碑銘でも読み上げているのかと、またも皮肉を投げたい衝動に駆られながら、皇帝は臣下の言に耳を傾けた。
如何なる時であっても、この男の言葉に心地良さを感じることはない。しかし、如何なる時であっても、聞かねばならぬ言葉であった。反論の余地のない正論を武器とするのが、この男のやり方であるからだ。だからこの時も、何かに誘導されていると知りつつも、耳を傾けずにはいられなかった。
「私は陛下の才能と器量を信じ、私自身の望みをも託してお仕えしてきたつもりです。そして……私の望みは陛下の御手により叶えられました」
言葉とは裏腹に、その貌には苦痛の色が広がっていた。皇帝は全身の倦怠感に耐えながらも、眉根を寄せて疑惑を体現した。
「そうか、望みは叶ったのか。であれば、何ゆえ、卿は苦痛に顔を歪めているのだ」
それは尤もな疑問であり、義眼の男にも予想し得る質問であった。
――否、予想ではない。期待する質問であった。
「光には影が従うと、申し上げたことを覚えておいででしょうか」
そんなこともあったかと、皇帝は小さく嗤った。無論、覚えていないわけではなかった。
「陛下は、私が闇の中で見ることのできた、唯一つの光なのです。故に、私は陛下の影として生きることを自身に誓いました」
跪き、熱のない両目で見上げるその姿勢を崩すことなく、臣下として最高位にある男は、これまで口にしたことのない想いを吐露した。それが何の為であるのか、理解しているのはこの男自身だけであった。
「ほお、聞いたこともなかったが」
義眼の元帥は僅かに頷いた。その拍子に、彼の印象からは乖離した柔らかな頭髪が一本、立てた膝の上に落ちる。
――嗚呼、自分もこの髪のように、堕ちてしまえれば良いのに。
「自ら語るべきことではないと、戒めておりました」
そう答えた声は、辛うじて震えていなかった。
何かを吐露しながら、同時に何かを抑え込むような男の言葉に、主君がやや好奇の目を向ける。
「その高潔なる矜持を、今ここで捨てた理由については、なかなか興味深いな」
主君の問いに、男は暫時瞼を閉じてから、いつになく過重労働を強いられている自身の唇を再び動かした。
――あと少し。総てを絶ち、事を終えるために。
「光のない世界に、影は存在し得ません。影は常に、光と共に終焉を迎えるべきものです」
彼らしい露骨な比喩表現であった。迫りつつあると誰もが認識していることであっても、皇帝の死を避けることなく口にするこの男は、やはり言葉を武器にする冷徹無比な存在であった。
だが明哲な話し相手は、そのような上辺の表現に欺かれることなく、その男の真意を悟り得るのだ。
――そう、この主君なら。身命を賭した一世一代の大舞台を、その意味を、理解するであろう。
主君から紡ぎ出された次の言葉が、それを決定づけた。
「卿はもう、満足だと言うのだな」
問いではなく確認でもなく、言うなれば、共感であった。大舞台に挑もうという男は、跪いたまま一礼した。その動きには、やはり内面や情緒といったものが一切反映されておらず、ある種の機能美を感じさせた。
「あらゆる後顧の憂いを、影が連れ去りましょう」
機械の瞳の中に、宇宙一の彫刻が棲んでいた。彫刻の瞳の中にもまた、機械仕掛けの半眼があった。無機物と有機物の二対が、この場に必要な総てを語っていた。
――やはり、この光がまた、私を孤独から解き放つのだ。
寝台の上から、跪く臣下に向かって、最高級の象牙細工を思わせる美しい手が差し伸べられた。
「予と、共に来るか」
主語も目的語も不要であった。皇帝には分かっていた。自分が躯となった後、目の前の男が如何様に遇され、消えていく運命にあるか。そうした生を強要されることが、どれほどこの男を苦痛のどん底に落とすのかを。なぜなら皇帝自身が、そのどん底から彼を引き上げたからである。
差し出された高貴な手に、青白い貧相な右手が寄り添う。その手は触れ合うかに見えて、しかし、青白い一方の手が空を掻いて落ちた。
「陛下のお傍に、私はもう必要ありますまい」
暗く深い穴の底を思わせる低い声が、確かに否と告げる。
「影は影らしく、犯した罪に相応しい地獄の業火に焼かれましょう」
光は沈み、影は消える。
宇宙最大の為政者であり、この男にとっての光は、音もなく嗤った。嗤った様相のまま、こちらも低く答える。
「卿の思うように、事を成すが良い」
その言葉は、果たして死後の選択を指したものであったか。それとも、残り僅かな生前の所業であるのか。
どちらの含蓄も理解した男は、これまでにないほど深く頭を下げた。伏せられたその貌に何を宿していたかは、定かではなかった。
――裁可は下った。あとは、時を待つばかりだ。
「軍務尚書が見えぬようだが、あの男は何処にいる」
病室に集められた臣下たちを一瞥して、命数を使い果たそうとしている黄金獅子は呟いた。果断速攻に定評のある部下たちが、一様に表情を曇らせ、更に皇妃から、やむを得ぬ理由で座を外していると告げられると、獅子は小さく嗤った。
気の早い男だ、と。
「そうか。あの男のやることは、何時も尤もな理由があるのだったな」
光と影は唯の一度も溶け合うことなく、別離の時を迎えた。
(Ende)
後書き
お読み頂きありがとうございました。
文体がいつもと違うので、読みにくいですよね(汗)
ページ上へ戻る