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愛しのヤクザ

作者:ミジンコ
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第十七章 転勤

 林田は受話器を置くと考え込んだ。社会人の常識の範囲では、何を、どう処理したらよいのか全く何も思いつかない。同じような鞄を用意して隙をみてすり替える?隣の品薄の靴売り場の隅っこに鞄が置いてあったが、同じ物が偶然あるとは思えない。
 さて、どうする。向井は出掛けていて自分一人で何とかしなければならない。林田は事務機器メーカーに勤めていた。だから内装工事とスティール家具の専門家でもあった。従って山本の個室も、机の鍵も開けるのはわけもない。
 林田はジェムクリップを机から取りだし、個室に向かった。数分で個室のドアが開いた。中に入って流れる汗を拭った。山本が到着するまでの時間は後30分ほどだ。もう一つの関門がそこに置いてある。机である。
 その机に取りかかった。じっとりと汗がわき出る。疚しさが邪魔をしているのか、指先が震えている。自分を叱咤し指の感覚に全神経を集中させる。固い感覚が指先に伝わってきた。これを回せば鍵が開く。そっと回した。かちっと音がして鍵は開いた。
 恐る恐る一番下の抽出を開けて覗き込んだ。林田は「あれー」という叫び声をあげた。中には林田の技を越えるものがでんと納まっていた。手提げ金庫である。ダイヤルを右にいくつ、左にいくつと回して鍵を開けるのだ。

 林田は手提げ金庫を机から取りだし、絨毯の上に置いた。しばらく眺めていたが、よし、と言ってダイヤルに手を伸ばした。金庫に耳を押し当て、ダイヤルをそっと回してゆく。音がするはずだと耳を澄ましたが、いくら回しても音など聞こえない。
 ふと、後ろに人の気配を感じた。どぎまぎしながらゆっくりと首を回す。白いソックスが目に入った。うわーと悲鳴を上げて立ち上がった。そして突然の侵入者と向かい合った。相手は向井であった。
 向井は悲しげな視線を投げかけている。信頼する部下が泥棒を働く現場を押さえてしまったのだ。これほど不幸なことはない。向井の胸は悲しみで押しつぶされそうだった。言葉もでない。林田はその深刻そうな顔を見て、思わずからかいたくなった。
「てへへ、つい出来心で」
向井の顔は更に悲しみに沈んだ。何故、こんな深刻な場面でジョークなんだと自分を叱責し、林田は頭を拳でごつんと叩き、すぐさま説明にかかる。
「違うんです、支配人。支配人が出掛けている間に、課長から電話があったんです。山本が証拠隠滅のためにこっちに向かったって。その証拠が個室にあるはずだと言うんです。
で、この個室を開けて、机も開けたんですが、最後に出てきたのがこいつです」
恨めしげに手提げ金庫に視線を向ける。向井はこの言葉を聞いてほっと胸を撫で下ろしている。そしてようやく口を開くことができたのだ。
「いやー、びっくりした。本当に心臓が止まるかと思ったよ。あの真っ正直な林田君が、まさかって。で、証拠隠滅って言うけど、証拠って何なの?」
「そんなこと俺には分からねえよ。とにかく、常務が山本に早く処分しろって言ったそうです。そんでもって課長が電話かけてよこしたわけです」
「それが、あれか」
と投げ出された金庫を指差した。
「それが、あれでも、あれが、それでも、かまわねえけど、金庫なんてダイヤル知らなければ開けようがねえよ。支配人、そんなことより、山本の野郎が、ここに到着するまで25分しかありません。早くこの金庫を開けなければ」
「よし、俺に任せろ」
向井は手提げ金庫を持って事務所に戻り、自分の席にそれを置いて机の中をまさぐる。あったと言って取り出したのは聴診器である。
「支配人、いいもん持ってましたね」
「ああ、この間、隣のガラクタ市で買ったんだ。こんなにすぐ役立つとは」
と言って金庫に聴診器を当て、ダイヤルを回し始める。まるで専門家みたいで、林田もしばらく見ていたが、ダイヤルの回し方がぞんざいだ。林田が聞いた。
「支配人、右にいくつ、左にいくつ、って回すのはご存じですよね?」
「いや、知らない、なにそれ?テレビなんかで見たことあるけどカチって音がすればいいんじゃないの、違うの」
「支配人、どいてどいて」
うろ覚えだがいたずら程度に金庫の鍵をいじったことはある。向井に代わり聴診器をして金庫に向かい合った。林田は全神経を聴覚に集中させゆっくりとダイヤルを回す。かすかに音がするはずなのだ。額に玉の汗が浮かぶのが分かる。
 そろそろ銀行回りから石田が帰って来る頃だ。向井も何度も後ろを振り返り、石田の影に怯えはじめた。極度の緊張はしばしば人に無意味な行動を取らせるものなのである。向井は机の上にある佐川急便の伝票に勢いよく住所スタンプを押し始めた。
 パタンパタンとその音が響き、神経を張りつめていた林田がうんざりしたような顔で向井を見詰める。その視線にようやく気付いた向井は、自分の行動の意味を計りかね、じっと住所スタンプを見詰める。
「支配人、何やっているんですか?今、そんなことしたって始まんないじゃないですか」
「すまんすまん、妙に緊張しちゃって、あれっ」
向井の指差す方向を見ると、ガラス越しに石田の茶髪がゆれている。林田は手提げ金庫を個室に戻そうと立ち上がったが、すでに事務所のドアが軋んだ。金庫を林田の机の下に放り込み、二人は石田を迎えるための姿勢を整えた。

 石田が事務所に入ってゆくと、妙ににこやかな二人と向かい合った。普段なら無視する二人が笑って、お帰りなさいと声を揃えて挨拶する。石田はすぐに了解した。いよいよ本社で決定が下されたのだ。厨房は首になり、支配人は更迭、そして自分たちの権力は盤石
なものになったのだ。
 席に着くと向井が声を掛けてきた。
「石田課長、ちょっと話があるんだけど、ここではちょっと話しづらいから喫茶に行きましょう。銀行回りでお疲れでしょうから、アイスコーヒーでも」
 一挙に優位な立場にたって興奮気味ではあるが、石田は気を落ち着けることにした。コーヒーは喫茶店で週刊誌を読みながら二杯も飲んできたが、向井の哀れな顔を見ればむげには断れない。深いため息とともに立ち上がった。
 二人が事務所を出ると、林田は金庫を個室に運び元あった場所に戻した。鍵をかけ、何食わぬ顔で事務所に戻った。林田はまた新たなアイデアを考えなければならなくなった。もう時間もなく、石田という邪魔が入った。
 金庫を開けるのを諦めるとなれば、残る手段は強奪しかない。林田は一瞬手錠をかけられる自分の姿を想像し、ぶるっと震えた。完全犯罪でなければならない。ふと、清水の顔が浮かんだ。清水は遅番だからアパートにいるはずである。林田は携帯を取り出した。

 山本は思ったより早く到着した。いそいそと石田が個室にお茶を運んで行った。向井と林田はその後ろ姿を見て固唾を飲んだ。個室に忍び込んだ痕跡が残っていないか不安だったのだ。しばらくたったが、二人は籠もったままだ。
 林田が「どうやら大丈夫みたいですね」と言って向井を見た。向井も大きく頷いたが、その目が大きく見開かれた。振り返るとドアが開き、石田が出てきたのだ。その顔は青ざめ失望の色は隠せない。山本から事の次第を聞いたのだ。
 お盆を胸に抱き、よたよたと歩いて来る。そして不安そうに見詰める二人を見つけると、きっと睨み付けた。二人はその形相に息を飲んだ。石田が叫んだ。
「あんた達、よくも騙してくれたわね。おかげで何もかもめちゃくちゃだわ。いい、部長も言っていたけど、絶対にこのお礼はするそうよ。お前達がこの会社にいる限り、絶対に浮かび上がらせない。お前達には未来はない。覚えておくことね」
石田は途中から山本そのものの言い方になっていた。そして山本が出てきてまだ口汚く罵る石田の肩に手をやった。そして言う。
「おいおい、もうその辺にしておけ。こいつらには言葉ではなく、現実でもって分からせてやる。この俺に逆らえばどういうことになるかをよ。お前達には残念だろうが、すんでのところで罠には嵌らなかった。いいか、レースは始まったばかりだ」
 こう言い残すと、事務所を後にした。左肩にバッグを吊して歩いてゆく。二人は尚も唇を震わせ面罵する石田を無視して、山本が事務所のドアから消えるのを待った。そして消えた瞬間、石田を押しのけ事務所を出た。出た途端走り出す。駐車場の見える二階の社員食堂まで一気に駆け上がった。そして駐車場を見下ろした。向井が震える声で聞いた。
「こんなことをして本当にいいんだろうか」
「支配人、もうそんなことは言いっこなし。賽は投げられちまったんですから」

 山本が歩いて行く。黒塗りのベンツまで50メートル。清水の姿が見えない。いったいどこにいるのだ。ふたりはやきもきして、清水の登場を待った。
 それは疾風のごとく現れた。フルヘルメットで黒の革の上下に黒のブーツ。出で立ちは決まっているのだが、オートバイはスーパーカブに毛が生えたようなおんぼろでナンバープレートははずされている。どこで助走を付けたのか分からないが、山本の後ろから音もなく近づいてゆく。
 滑るように背後から接近して、直前で清水の手が伸びた。山本の左肩にかけたショルダーのバンドを左手でつかみ、山本の右側を走り抜けた。その直後いきなり爆音が響いてオートバイは加速した。
 山本は一回転したが鞄はしっかり持っていた。しばらくオートバイと一緒に走ったが、転びそうになってその手を離した。清水のオートバイは農道に出るとあっという間に遠ざかり民家の家並みの中に消えた。
 山本は唖然として立ち尽くしている。二階の窓から見詰める二人はごくりと生唾を飲み込む。山本がどう出るか。警察に連絡した場合も考慮した。結論はしらを切る。それしかない。そう三人で確認しあった。さて、山本はどう出るか。
 二人とも無言である。山本も立ち尽くしたままだ。と、山本が歩き出した。とぼとぼとベンツに向かう。電話するとしたら、その場でするはずだ。山本の後ろ姿をじっと見詰める。しかし、ベルトに吊した携帯を取り出そうとはしない。
 山本はベンツに乗り込むと30分もハンドルに覆い被さりうっぷしている。そしてようやく起きあがると、エンジンをかけ、走り出した。国道に向かった。
二人はふーと深い息を吐いて、その場にへたり込んだ。山本はとうとうどこへも携帯をかけなかった。

 相沢が事務所に到着したのは、それから30分後だ。個室から声が漏れており、覗くと向井と林田、そして清水の三人がまだ五時前だというのにビールを飲んで気炎をあげている。相沢の顔を見ると、林田は机に並べられた缶ビールを取り上げ叫んだ。
「課長、乾杯しましょう、石田を追い出しました。ヒステリーを起こして叫びまくるもんで、ウララっちゅうモーテルの名前を言って、旦那に言いつけるぞって言ったら、目ん玉、ひん剥いて驚いていましたっけ。いやー、その顔、見せたかったなー、課長に」
「それで、どうなった?この様子だとやけ酒じゃないってことくらい俺にも分かる。つまり、成功したってことですか?」
向井が手招きしている。向井の横に腰掛けると、いきなり相沢の首に腕を回し、囁くような声で言った。
「山本の鞄を強奪した。清水を使って。警察に届けるかと思って不安だったけど、山本は届けなかった。ベンツの中で30分も考え込んでいたが、どこへともなく消えた」
強奪という言葉を聞いて驚いて向井の顔をまじまじと見詰めた。向井はにこにこ笑いながら言った。
「お礼をいうなら林田君に言えよ。俺はただおたおたしてただけだ」
林田に聞いた。
「強奪っていうけど、どうやって強奪したんですか」
三人がくちを揃えて「しー」と言って唇に人差し指を立てた。林田が清水に声をかけた。
「おい、清水」
今度は清水が隣に座り、相沢の首に腕を回し、耳元で囁く。
「俺、昔、ひったくりやったことありまして、けっこう上手かったんです。オートバイは道に乗り捨てて、鞄の中身だけ頂いてこれはゴミ捨て場に置いておきました。そして、部長の机の上に置いてあるのがその中身と言うわけです。ちなみに、逮捕歴はありません」
相沢は振り向いてそれを見た。段ボール箱が机に置いてある。相沢は立ち上がり、それに近づいた。段ボール箱には佐川急便の宛名シールが貼られている。向井が声をかけてきた。
「山本が警察に通報できない訳が分かったよ。その中身は台帳だ。いわゆる裏帳簿。山本さんは直轄事業の責任者だ。業務上横領の罪にも問われかねない。直轄事業のレストラン、喫茶、エステ、映画館等々の裏帳簿だ。それを善意の第三者が道で拾って、今日、親切にも佐川急便で本社経理にお送り申し上げるという手はずになってる」
相沢はこみ上げる興奮と感動で身体が震え、「きゃっほー」っと心の中で叫んだ。そして
声に出して皆に言った。
「やっぱり乾杯だ。向井支配人、林田君、清水君、本当に有り難う。今日の事は一生忘れられない。人生最高の記念日だ。さあ、乾杯しましょう」
四人で声を揃えた。そして、一気にビールを空けた。相沢はやはり我慢できなかった。だから叫んだ。
「きゃっほー」 

 数日後、山本直轄事業本部長は解雇された。安藤常務は山本が最後までその名前を出さず、首は免れたものの6月の株主総会で更迭されることになったらしい。こうして、相沢は全面勝利し、オープン以来の確執の種は取り除かれ、どたばた劇はフィナーレを迎えることになった。

 奥多摩の峰峰が雪ですっぽりと覆われる頃、相沢は本社に呼ばれた。店は何もかも順調に推移しており、相沢は名古屋のプロジェクトの主要メンバーとして本格的に参画しなければならない時期に来ていた。
 ここで知り合い、共に辛酸を嘗め、喜びを分かち合った人々と別れるのは非常に辛いものがあったが、サラリーマンである以上、それは仕方のないことなのだ。いよいよという思いで本社総務部にやってきた。
 山田は例によって応接に相沢を迎え入れ、以前と同じように季節はずれの異動の話をしようと、にやにやと相沢を見詰めている。健康産業事業部への異動もこんな状況で内示があったのだ。しかし、今度は辞令らしきものを手にしている。そしてその口が開かれた。
「とりあえず、これを見てください。話はそれからにいたしましょう」
と言って辞令をテーブルに置いた。その辞令を手に取り、じっと見入った。開いた口が塞がらなかった。そこにはこうあったのだ。
「香港店総括課長を命ず」 
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