たった一つのなくしもの
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第四章
その綺麗な部屋の中で今もゴキブリと話す、それで言うのだ。
「親切で公平でさ」
「大人の人だな」
「俺を見てくれてな」
彼の容姿、髪の毛は増えたが太ったままのそれではなくというのだ。
「性格を見てくれてって言ってるさ」
「そうだな」
「これもだよな」
「幸運だからな」
それでだというのだ。
「このままいけよ」
「ああ、わかった」
「いいな、ただ今もだろ」
「あんな綺麗で性格もいい人と結婚出来るんだからな」
しかも勤めている店のオーナーだ、そうなると。
「家まで手に入って永久就職か」
「店がある限りな」
「そして店もな」
そちらもだというのだ。
「俺が幸運置いていってるだろ」
「いいお客さんばかりでいいお店とばかり契約出来てるよ」
「雑誌やネットでも評判になってな」
「全部なんだな」
「幸運だよ」
「いいお店だよ、あらゆる意味で」
このことは隆太も実感している、望む限りの最高の状況である。だがそれでもだった。
彼は漠然とした顔でだ、こう言うのだった。
「俺はいるだけの感じだけれどな」
「それだけだな」
「ああ、ただ働いているだけだよ」
そして結婚するだけだというのだ。
「特にな」
「何も感じないよな」
「本当に嬉しくないな」
辛くもなければ悲しくも苦しくもない、だがなのだ。
嬉しく楽しくない、それで言うのだ。
「それだけだよ」
「そういう契約だからな」
「生きているだけだな、今の俺は」
喜ばないからだ、どうしてもそうなる。
「働いて食って風呂に入って寝る」
「そうした人生だよな」
「けれどいいさ、生きられるんだから」
とにかくそれに尽きた、彼は生きられればいいと今も思っていた。
「それでな」
「あんたがそう言うのならいいけれどな」
「これからも幸運を頼むな」
「ああ」
ゴキブリは隆太に応えるだけだった、そして。
彼は結婚もして子供も生まれた、無論アパートからも引っ越した。
ゴキブリは彼についていって新居である喫茶店とは別にあるオーナーの家に入っていた、そこでも彼と話すのだった。
幸運は訪れ続けていた、今度は宝くじの一等に当たったのだ。
一家は思わぬ幸福、妻と子はそう思っているそれに喜んでいた、だが彼はというと。
宝くじに当たったのだ、それでもだった。
特に何も思わない、それでゴキブリ今は彼の部屋の隅で彼と共にいるゴキブリに漠然とした顔で言うのだった。
「滅多にないことだよな」
「だから宝くじっていうんだよ」
「そうだよな」
部屋の中で缶ビールを飲みながら話す、つまみは柿ピーだ。
「凄いことだよな」
「これも幸運だよ」
「あんたが用意してくれたんだよな」
「そうだ、けれどだよな」
「やっぱり嬉しくないな」
それがないというのだ、今も。
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