ソードアート・オンライン ~無刀の冒険者~
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番外編
青騎士伝説 中編
昼過ぎから降り始めた雨は夕方には豪雨に代わり、地面は激しくぬかるんでいた。ここが……呼び出された場所が五十五層の一角の草原のエリアでなければ、もしかしたら重装備では歩けないほどだったかもしれない。だが、今は、その足は強い力で地面を踏みしめてくれていた。
その歩みが鈍ることは、ない。
しかしその一方、歩みが早まることも、ない。
(「『青騎士』は、どんな時でも慌てた様子を見せない。死ぬ瞬間まで、余裕を保って逝く」)
それは戦場への歩み一つとっても、例外ではない。
彼の目的は、「囚われたグリーンプレイヤーの救出」ではない。グリーンプレイヤーを襲った「犯罪者プレイヤーの殲滅」なのだ。「遅れたら人質の命は無い」は、他のプレイヤーにはともかくとして、彼にとって急ぐ理由にはならない。
(「『青騎士』は、無言」。無言で、敵を倒す)
激しい雨は視界を奪い、見えるのは五歩、十歩先がせいぜいといったところか。しかしそんな中でも、表示されたマップウィンドウはしっかりと彼の目にその行く先を示してくれる。この雨ではMobのポップも影響を受けるのか、自分のそこそこに鍛えられた《索敵》スキルに反応は無い。
(有難いッス。今は、耐久度が厳しいッスから)
即座に『リズベット武具店』を飛び出したせいで、それぞれの耐久度はまちまちだ。籠手や具足はほぼ修繕完了、十分な耐久度があるが、鎧や槍はこれからオレンジプレイヤー……それも直々に『青騎士』に挑戦状を叩きつけてくるほどに準備を整えた相手と戦うには少々心もとない。
(フィールドMobの相手は、出来れば避けたいッス)
なおも《索敵》を油断なく続けながら一人進撃する、『青騎士』。
その淀みなく動く足が、
(ッ!?)
つんのめるように引き止められ、
『ようこそ、「青騎士」君。我々《墓荒しの蝙蝠》は君を歓迎するよ』
芝居がかった、鼻につく高い声が響いた。
◆
今でも夢に見るあの夏の日、自分は逃げた。
自分は、ソラを……皆を守れるだけの力があったかもしれないのに。少なくとも自分のステータス構成は、攻撃一極型だったソラのそれよりもはるかにあの戦闘で壁役を務めるに向いていたのに。あの後シドが全力で援護に向かってくれていた事を考えると、あそこで自分が残ってソラと共に戦線を支えていたなら。怯えることなく戦えていたなら。
そんな自責の念の中で、自分は何度も夢を見た。
夢の中で、何度もソラの顔が浮かんでは消えた。
悪夢の中の彼女の顔は、いつだって笑っていた。転移脱出する自分が最後に見た、慈しむような微笑のままだった。その笑顔は、一層自分をみじめにさせた。いっそ罵ってほしかった。呪いの言葉を吐いてほしかった。もっと生きていたかったと泣いてほしかった。けれども彼女は、いつだって笑っていた。
ソラは分かっていたはずなのだ。自分が、彼女よりも防衛に向いていた事を。だから彼女は本当なら言うべきだった。「ファーが前線に立って私達を守って」と。その言葉を告げようと一瞬動いた唇は、自分の表情を見て引き締まり、そのあとに頬笑みへと変わって、「二人は逃げて」と告げなおした。
自分の表情は、それほどまでに頼りなく、弱弱しかったのだろう。
悔しいことに、その通りだ。自分は、信じられなかったのだ。あの名だたる殺人者プレイヤー達を、自分が抑えられると。『赤目のザザ』の刺突剣を、自分の盾が捌ききれると。『ジョニー・ブラック』の毒ナイフに、自分の耐毒スキルが勝ると。『潰し屋ダンカン』の戦鎚を、自分の反応速度が回避しきれると。
今更「たら、れば」を言っても仕方ない。
仕方ないが、それでも考えずにはいられない。
自分は果たして、真っ先に逃げるべき程に弱かったのか、と。
あるいは、敵を相手に渡り合えるほどに強かったのか、と。
その問いかけに対して自分は、『青騎士』となった今でも、答えを出せないままでいた。
◆
風の噂で聞いた夏の日の、『ラフコフ討伐戦』。
その血みどろの乱戦の始まりとなったのは、目晦ましと待ち伏せ、そして、―――罠。
ファーの足を強烈にはさんだのはその一つ、『トラバサミ』だ。二つの半円形の鉄輪が絡みあうようにしっかりと足を挟んで移動を著しく妨害し、設置された鋭利な棘は貫通属性攻撃として継続ダメージを与え続けるという、凶悪な罠。
それは、未だに条件のはっきりしないエクストラスキル、《罠設置》。少数ながら操るプレイヤーのいるこのスキルは、普通はダンジョンの狭い通路などに複数を設置するのが定石であり、狙うのは高レベルの《索敵》を持たない獣型のMobが主だ。
それを。
(こんな広い場所で、プレイヤーに対して……っ!?)
ありえない。確かにここは主街区から『結界の丘』までの一直線上のルートだが、それでもこのフロアは馬や馬車などの移動手段も豊富で、それらを使えばこの罠は反応できずに無駄骨となりかねない。だが敵は、ファーの動きを完全に読み切って配置していた。
あまつさえ。
『音声クリスタルから失礼するよ、ファー君……いや今は『青騎士』君と呼んだ方がいいのかな? 私の名は……まあ、それは後の楽しみに取っておこう。今日は我々のギルドの発足式に来てくれて感謝感激だよ』
そのタイミングを見計らっての、音声クリスタルを設置して。
だが。
『君は主賓だからゆっくりしていきたま―――』
訝しむファーを煽る様に流れたその声は、最後までは続かなかった。構えた片手槍が、発信源だった音声クリスタルを的確に貫いたからだ。トラバサミの横数十センチに突き立てられた槍は一撃でクリスタルを砕き、続けてトラバサミを連続して攻撃する。
彼の片手槍は他の装備に比べてそれほどのハイレベル品ではないが、それでも罠を破壊するくらいは訳はない。そしてそんな小手先程度のダメージでは、彼の《戦闘時自動回復》スキルを持ってすれば数分も待たずに回復するだろう。
(なんの為に、こんなことを……?)
この時彼は、「相手が自分の足取りを掴んでいる」程度の認識しかなかった。
彼は気付かなかったが、敵は彼が思っているよりもはるかに切れ者だった。音声クリスタルが彼の到着と同時に発動したということは、彼の行動は場所だけでなく時間までも読まれていたということだた。そしてトラバサミは、ダメージでは無く、別の狙いを持ってのことだった。
彼は、気付かない。
しかしそれは、彼にとっては利点だった。
ごちゃごちゃ余計なことは、考えない。
自分は、ただただ相手を、敵を、貫き、砕くだけの存在であればいい。
彼の槍は必要以上の焦りなくトラバサミを砕き、彼は再び進軍を始めたのだった。
◆
「ふぅ……」
深い、しかし満足げな溜め息をついたのは、レミだった。
周囲の無数の的には、過たず彼女の放ったブーメランが突き刺さっていた。
「……どう?」
「ひゅ~! さっすがレミたん。これはまねできないね~」
その状況を、ウッドロンが口笛を吹いて褒める。
それもそのはず。
「まっさか、ソードスキルなしに、しかも的の裏側に、なんてね~」
レミの投げたブーメランは、的の中央……の、裏側へと突き刺さっていたのだ。無論、このSAOにそんな特異なソードスキルが存在するはずもない。つまりはこれは、レミの自前の力だった。もっとも、正確には。
「……ウッドロンが、居てくれたから……」
「およ? ……なんかいつもと違うね~?」
「……その通りだから……」
「……ん、ありがとね。気持ちだけ受け取っとくよ」
ウッドロンの、精巧極まる《木工職人》のスキルあっての神業だった。
ブーメラン、という武器は、このSAO内でもかなり特殊な武器であり、……そしてSAO物理エンジン技術の粋を結集した芸術作品でもある、とレミは思っている。コアンダ効果とベルヌーイの定理が忠実に再現された揚力効果。剛体回転運動に生じる歳差運動までもを実現したこの最先端技術の結晶と言えるSAOのスペックを最大限に使った、神業。
それを可能にしたのは、レミとウッドロンの二人……実質は大部分がウッドロンの手による、「武器の装飾効果」の応用だった。武器の基本的な重量ではブーメランの軌道……つまりはソードスキルを用いない、素の旋回軌道は当然一定のものとなる。それを、装飾具や木製細工で「意図的に軌道をゆがめる」。その結果生まれたのが、「レミの推測する軌道を飛ぶ武器」。
最も。
「ま~、とりあえず今日は上出来、ってことで、ちょっと仮眠取ったら~?」
ウッドロンが、ひらひらと手を振って笑う。
その手にあるのは。
「これだけの計算、一日二日じゃないでしょ~? 俺にはさっぱりだよ~」
「……ぶい。実は、向こうでは、大学の幾何学研究会の紅一点……ふわぁ……」
分厚く束ねられた、レミの手書きの計算ノート。一介の学生、あるいは大学卒業者でもそうそう簡単には解読できない、まるで暗号のような専門数字の群れが蠢いている、その紙片の束。それがレミの相当な努力で作られていることが分かるくらいには、ウッドロンは彼女のことをよく見ていた。それを気遣ったウッドロンの声に頷き、引き上げようとし、
「……? ……リズ?」
た、その瞬間、レミの脳裏にメッセージ着信を示す電子音が響いた。
層の上空には、立ち込める曇天。
上層がさぞかし激しい豪雨であることは、容易に想像がついた。
◆
リズベットは、すぐさまレミにメッセージを送った。
(ま、今回ばかりはね……)
今まで誰にも知らせないとファーと約束していたが、流石に今回は見逃すわけにはいかなかった。そもそも知らせていないと言っても、リズベットの口からファーの詳しい近況を連絡することが無いというだけで、レミだって彼が『青騎士』の正体だということはちゃんと知っているのだ。連絡を躊躇う理由はない。
「……わかった」
「ホントに分かったんでしょうね?」
辿り着いたのは、五十五層転移門広場。土砂降りの雨の中一人での待ちぼうけをする羽目になったリズベットだが、今ばかりはそんなことは気にしていられない。そしてそれはレミも同様なのだろう、今は洒落た帽子がぐしょぬれになるのも構わずに頷いてウインドウを操作する。
残念ながらレミの装備品は革製鎧が主なため、リズベットは力になれない。一応装備可能な軽装な籠手位は渡しているが、預けたアイテムの大半はファー用の替えの武器や防具達の運搬だ。彼女の装備の助けになれるのは、
「うぁっ、なんだ呼んだのリズなのっ? なーんだレミちゃんと二人きりだと思ったのに~」
もう一人、レミと共に現れたこの男なのだ。
《木工職人》、ウッドロン。レミの古い知り合いであり、最近は彼女の「最終兵器」の作成の仕上げをリズに代わって引き受けたお調子者……なのだが、実のところリズベットは……そしてレミでさえも、彼のことは詳しくは知らない。知っているのはせいぜい名前と、《木工職人》のスキル持ち、あとは主武器が木こりらしく斧を使う、というくらいであってそのレベル、日常生活、そして戦闘技術に関しては一切の謎なのだ。
分かっているのは、レミの依頼なら、アイテム調達も武器作成も、果てはMob狩りですらこの男は万難を排して最善の結果を叩きだしてきたという、その実績と謎めいた実力だけ。
……いや、もうひとつ。
「アタシは別行動で後から向かうわ。だからレミと二人よ……不本意ながら」
「まじでっ!!? ぅぃいやっほぉ〜い!!!」
……そして、この雨の中にハイテンションでいるような、変態であることも、か。
正直心配が無くならない。
しかし、
「オレンジ退治? うんうんやるやるぅ! レミちゃんの頼みならオレンジもレッドもパープルもぬぁ~んでもどぉ~んと来いさぁ~!」
「……武器は、持ってきた?」
「もっちろ~ん!愛しのレミたんへの俺の想いのたぁ〜っぷり入った、」
「ならいいわ。一応アタシも店売りで最強のも持ってきたけど、どうする?」
相手がオレンジと分かっても、全く怯む様子の無いこの態度はなんなのだろう……などと考えるリズベットをよそに、レミはなんか言ってるウッドロンをガン無視して装備アイテムを確認している。リズベットもウッドロンの装備を整えるべく、巨大な戦斧を差し出して、
「ん~、……使い慣れてるからね。こっちがいいや」
「……っ!?」
ウッドロンが、無造作にオブジェクト化した、異形の戦斧を見て凍りついた。
一言で言えばそれは、ハルバード、になるのだろう。先端から伸びる特徴的な鋭い突起に、巨大で重厚な斧の刃。しかしその巨大な刃の峰には明らかに打撃系の武器を髣髴させる金槌上の鉄塊を備え、さらにはその取っ手の反対側には刺突属性を持つと思われるレイピアのような刀身。
(……な、なに、この武器……!?)
SAOに存在する武器の持つ四つの攻撃属性すべてを兼ね揃えた特殊極まりない武器。その武器が、リズの記憶をきりきりと刺激する。しかしウッドロンはそんな視線には気づかず、そのまましまってレミとの最後のアイテム確認をする。
取り出すアイテム、《護法の影守》はリズベット用の『パーティー全体に『隠蔽』効果ボーナスを与える』という装飾品。もう一つ取り出した、《水精霊の片眼鏡》はレミ用。水滴や霧の視界妨害を防ぐこのアイテムなら、この雨の中でもクリアな視界を保つことが出来る。
どちらも、『冒険合奏団』の倉庫のアイテム。
それをみて、リズベットの顔が曇る。言いようのない不安が、心をよぎる。
「……レミ……ホントに、大丈夫よね……また、あんなことには、ならないよね……?」
「……もち」
無表情に親指を立てる、レミ。そのまま身を翻し、颯爽と街の外、『圏外』へと駆け出していく。既にファーが飛び出して行ってかなりの時間が経っている。時間的猶予は無い。
けれどリズベットは分かっていた。どんなに平気に振舞っていても、そこに不安が無いはずがないのだ。変わらない、変わってはいけないと平常心を必死に保っているのだと。狂おしいほどの嘆きを、悲しみを、怒りを抑えて、変わらないことを自分に課しているのだと。
そんななか。
(……ファーまで死んだら……っ)
レミは……いや、レミも、壊れてしまう。リズベットが下を向き、唇を噛む。自分は、非戦闘員だ。一緒に助けには、行けない。雨が流れ落ちる頬に紛れて、一筋の涙が瞳から零れる。その俯いたリズベットの頭を、
「……心配ねーって。オレが着いていくんだ。死なねーよ。レミも……ファーも、だ。だからリズは信じて、言われた通りにすれば問題ねーよ。……あんなことは、一度で十分だ」
急に大人びた声と共に、ウッドロンが撫でた。
突然の変貌に驚いたリズベットが顔を上げた時には、
「んじゃあちょお~と行ってきますかぁ~! んまぁ~ってぇ~るえ~みたぁ~ん! 眼鏡なレミたんも素敵だーー!!!」
いつもの口調で駆けだす。
ますます激しくなる豪雨の中に消えた二つの影に、
「……信じてるよー! 信じてるからねーー!!!」
リズベットは声を振り絞って叫んだ。
リズベットは知らない。かつて数少ない「四属性武器」使いの男が、とあるギルドに存在したことを。その男が、かの最強ギルドの初期メンバーであり、当時は『閃光』を凌いでギルド最高DPSを叩きだし、『電撃戦』の異名をとった特攻部隊のエースだったことも。その男が、死闘の末に最強の殺人鬼に討たれたことも。
だがそれでも。
そんなことを知らなくても。
「ぜったい、ぜったい、……信じてるからーーー!!!」
リズは、彼を……二人を信じて、叫び続けた。
◆
「……」
豪雨の中、もうどれほど歩んだかも分からなくなった頃に、『青騎士』は『結界の丘』に現れた。
「頑張るねぇ。もう具足の耐久値はかなり減っているだろうし、足に連続してダメージを受け続けたことで移動制限が生じているんじゃないかな? それにあれだけの弓矢罠だ、刺さった分の鉄矢だけでも、かなりの重量になるはずだ。まともに動けないんじゃないかな?」
その彼を迎えたのは、道中しつこく音声クリスタルから話しかけてきた、あの声。
クリスタルからではない直接の声だが、あまりに雨が激しいせいで10メートル先も見えない。そのせいか、霧の向こうから話しかけられるように、相手を視認できない。だというのに、その声は粘りつくようにファーの聴覚にまとわりついてくる。
声が言うように、『青騎士』は、どう見ても満身創痍だった。具足は最初は完全に修繕されていたのに既に耐久値を半分以上削られ、足から出るステータス異常エフェクトが彼の行動力を殺ぐ。鎧の関節の隙間に刺さったいくつもの鉄矢は、既に彼の装備可能重量をかなり圧迫している。これではタワーシールドはまともに使えないだろう。
「……」
だが、『青騎士』は止まらない。
罠を破壊するために使っていた片手槍をストレージに仕舞って、長槍、《ミスティルテイン》を取り出して、再び歩み始める。雨に濡れて傷だらけになってなお薄青い輝きを放つ鎧を纏い、同色の鉄仮面のスリットの奥の目を爛々と輝かせて。だが、相手の声はあくまでも冷静だった。
「やれやれ。あくまで戦う、と。我々は君が「負けた」と言って、二度と『青騎士』とならないことを誓ってくれればそれでいいのだがね。ならば仕方ない。もう少しだけ、舞台は延長だ。少々地獄を見て貰おうか?」
雨で煙る視界に隠れた向こうで、パチン、と指の鳴る音が響いた。同時に、丘の端の方の一端に光が灯る。何らかの製作アイテムなのだろう、まるで街灯の様な高いランタンの照らす下には。
「あ、『青騎士』さぁん!?」「なんでっ!?」「に、逃げてください、はやくっ!」
やはりプレイヤーメイドなのか、大きな鉄檻の中に捕えられた三人の少女。隠蔽していないのでファーの然程高くない『索敵』スキルでも見えるカーソルの名称は、『ウヅキ』、『ハヅキ』、『ナガツキ』。人質と名前を伝えられた、三人の少女。それぞれが、ずぶぬれになりながら悲痛な声を上げる。
「……」
しかし、それに『青騎士』は反応しない。
むしろ、訝しむほどだ。これが、こんなことが今更何だと言うのか。
ファーは人質の為に戦っている訳ではない。人質など取らなくても逃げたりはしない。相手だってそれは分かっているはずだ。でなければ、彼の思考や行動をあそこまで完璧に予測できたはずがなく、あんなに彼の進む時間を読み切って音声クリスタルを設置出来たりはしない。
訝しむファーに、答えは目の前の空間からもたらされた。
「これは演出なんだよ、『青騎士』君。観客がいて、戦士が二人いるんだ。ならばやることは一つさ。……そう、『決闘』だよ!」
高らかに謳い上げられ、表示される決闘申請。
ついに、煙る雨のカーテンの向こうから現れる、黒い影。
そしてウィンドウに表示される文字は、
―――POH is challenging you―――
アインクラッドで最凶最悪と恐れられた、殺人鬼の名前だった。
◆
SAOの歴史に残る最悪の殺人者、PoH。
最も強く、最も残酷で、最も殺したと言われる殺人鬼であり、アインクラッドにおける恐怖の体現者とまで称されたその男。しかしその男は、自分にとってはそれだけでは無い……遥かに深い因縁のある相手だ。
あの夏の日、『冒険合奏団』を壊滅させたその事件の首謀者。
そして、シドの心を砕き、ソラを殺した相手。
最も憎み、真っ先に復讐すべき敵であるにも関わらず、自分は咄嗟に斬りかかることが出来なかった。それは決闘のルールだからだとか、『青騎士』はどんな時も感情を表さないものだからだとか、そんな冷静な理由があってのことでは無かった。
震えていた。
あまりの感情の激流に、震えていた。
もちろんそこには、恐怖もあった。
自分はあの日の夜の、ベッドで泣いていたシドをはっきりと覚えている。いつも飄々としていて底が知れず、いつだって余裕を失わず、常に自分の二手先、三手先を見て颯爽と立ちまわっていた彼を、あそこまで打ちのめした相手。到底自分が渡り合える相手とは思えなかった。
しかしその感情は、ありこそすれども、僅かな分量でしかなかった。
他の、もっと強く、激しく、猛る感情に流されて撹拌され、消えゆく程度だった。
雨で三歩先も見えない視界に、唐突に鮮明な映像が浮かび上がる。
あまりの激情に頭がおかしくなったのか、見えるはずのない視界がフラッシュバックする。
(……!)
それは、あの夏の日の、古びた回廊。
代わる代わる浮かび上がるのは、自分が向かい合った三人のレッドプレイヤー達。
そうだ。あの時と、同じ。
自分は、自分の力を信じられず、逃げ出したのだ。
自分がやらなければ、他の誰かが……いや、ソラが犠牲になると、分かっていたはずなのに。
(…………)
逃げるのか。逃げるのか。逃げるのか。
何度も反響する、纏わりつく粘ついた問い掛け。
「――――――っ!!!!!!」
意識が、真っ赤に染まっていく。
逃げるものか。
今日こそ、今日この日にこそ、自分は存在した。
あの日の自分の罪を背負うために、自分は強くなった。
あの日の敵に罰を下すために、自分はここまできた。
―――自分は、あの日に戦えるほどに強かったのか?
それを示すのは、今。
他でもない、今。
神から与えられた、己の想いを示す、闘うべき時は、今。
感情の本流は火種となり、油となり、風となり、
「ああああああああああああああああ―――っ!!!」
燃え上がった炎が、喉から絶叫となって響き渡った。
◆
「――――――――ッッ!!!」
雨音を引き裂くように響いた絶叫は、もう人の声と呼べるものでは無かった。と同時に、オレンジプレイヤー、『POH』の送ったデュエル申請が承諾された。モードは『全損モード』だったにも関わらず。
(ふむ、予定通り、です……)
予定通り、と言えば予定通りだった。綿密に調べ上げた情報によって可能な限り『青騎士』の個人データは割れていたが、それでも『青騎士』の謎の全てが解明できていたわけではなかった。だから、すでに判明している「不死」に対する対策として「一対一の状況を作り出す」、そしてほかのプレイヤーに注意が行かないように挑発する、という作戦をとった。
(です、が、……)
それほどの効果が『PoH』の名前には十分あると考えていた。彼が元『攻略組』ギルドの壁戦士ファーだと知ってれば、それは当然とも言えた。なにせ『PoH』は彼の所属ギルドを壊滅させた張本人なのだ、名前だけで十分挑発の効果はあるだろう。
だが。
(もっと怯えると思っていたのですがね……)
他の面々よりはるかに充実した装備であったにも関わらず戦闘では平凡な能力しか有さず、他の面々の特異な才能の影に隠れた、「ギルドのお荷物」。何よりも、壁としての自分の能力を信じきれないその精神面の弱さ。
それが、彼の調べたファーという人間だった。
まさか、最強の殺人鬼を相手にここまで猛るプレイヤーとは。
(まあ、いいでしょう。予定通りと言えば、予定通りです)
一息つく。まあ、挑発の目的は果たした。
そしてデュエルのカウントは、既に始まっているのだ。
「いいでしょう。少し遊んであげますよ、『青騎士』君」
構えるのは、両手に投げナイフ。鋭利な輝きを放つそのナイフが放つ琥珀色の輝きは、既にマスターに達した《投剣》スキルのソードスキルと、《短剣》スキルによる《鎧通し》。そして背中には『秘密兵器』たる奥の手も完備している。抜かりはない。
二人の距離は、この雨の中では姿がぎりぎりで見える程度の距離。
たとえリーチに優れる長槍のソードスキルでも、あの体では一瞬というわけにはいかないだろう。
そして。
(たとえ戦意はあっても、それは勝敗には直結しないのですよ?)
「―――ッ!!!」
「はははははは!!!」
ゼロになるカウント。と同時に、『青騎士』は、策も何もなく無言のまま突進してきた。強烈な青のエフェクトライトをまるで全身に纏ったような闘気を放ちながらのソードスキルだ。……しかしそれは、完全に予測の範囲内。
「はああっ!!!」
一気にPOHの体が横の空中へと踊り、その両手から琥珀色の光を纏ったナイフが同時に襲いかかる。毒と麻痺、二つの効果を持ったナイフは雨を切り裂き、その鉄仮面の下の喉元へと吸い込まれるように突き立てられた。
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