怨時空
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第一章 悪友
秒針が音もなく時を刻み、熱を帯びた視線がへばりつくようにその後を追う。長針と短
針が真上で重なり、桜庭は思わず息を飲む。直後、秒針が何事もなかったように時を刻み
続けている。あれほど待ち焦がれた瞬間が、あっけなく通り過ぎて行った。
桜庭はほっとため息を漏らし、煙草の煙を胸いっぱいに吸い込むと、そのまま息を止め
た。心に巣食っていた不安から開放されたのだ。頭がくらくらしてくる。そして煙を一気
に吐き出す。歓喜が脳を痺れさせた。時効が成立したのである。
心に深く突き刺さっていた矢じりが、まるで日差しに晒された氷のように溶けてゆく。
その傷跡にはこそばゆい感覚が残されているだけだ。心の底から笑いがこみ上げてくる。
思わず大声を出して笑った。これまでの鬱積をいっきに晴らすように心の底から笑った。
すると、寝室のドアが突然開かれた。高揚し高みに達しようとしていた心が一瞬にして
しぼんだ。そこに見たものは、むくんで膨れ上がった顔、ぶくぶくの首筋、妻、泉美の無
残な姿だった。妻が腫れぼったい瞼を上げ、くぐもった声で怒鳴った。
「あんた。いつまで起きているつもりなのよ。もう12時過ぎよ。いい加減に寝なさいよ。
明日、私、早いんだから」
「ああ、分かった。もうすぐしたら寝る」
と、吐き捨てるように言って、心の中で舌打ちした。桜庭は立ちあがると食堂に席を移し
た。もう少し飲むつもりである。しらふであの女の隣のベッドに寝る気にはなれない。ま
して時効成立の祝杯には、取って置きのブランデーを開けるつもりだったのだ。
しばらくして妻の高鼾が響く。桜庭はふんと鼻を鳴らしブランデーを喉に流し込む。熱
い流れが食道を通って胃に広がってゆく。あの事件のことを思い出す度に不安に駆られ、
胃がきりきりと痛んだ。それも昨日までのこと。警察が突然尋ねてくることはないのだ。
桜庭は晴れ晴れとした思いを噛み締めた。思えば長い15年間であった。いろいろとあ
ったが、まずまずの人生だ。一つ難を言うとすればあの女房だろう。まったく痛恨の極み
である。桜庭は深いため息を漏らした。
3歳年上の女房、泉美は銀座のバーのホステスだった。そんな生業の女と結婚すると知
った母親は予想通り狼狽し、そして頑強に反対した。その説得には一月も要したが、母親
の言うことも理解出来た。母親はこう言ったのだ。
「お父さんが財産を残してくれたとはいえ、母子家庭ということで大変だったの。だから、
貴方には私の期待に、それなりに応えてもらいたいわ。私の期待って過大かしら。普通の
女性と結婚してもらいたいだけなのよ」
そう言って、桜庭を睨んだ。
これまで桜庭は母親に逆らったことなどない。期待通りに生きてきたのだ。何故なら、
桜庭は母親を心から愛していたからだ。気風の良い親分肌で、頼られるとどんなことでも
人肌脱いでしまう。桜庭はそんな母親に愛情と憧れを抱いていたのだ。
だからこそ、自分の伴侶にも母親の面影を求めた。しかし、そんな女性が何処にでもい
るわけではない。結局、経験を積んだ年上の女性が一番それに近かったのだ。桜庭は母親
にこう言って説得にかかった。
「泉美は母さんに良く似ているんだ。この年になるまで、僕は母さんのような女性を探し
てきた。そして漸く巡り合えたんだ。泉美は、性質も雰囲気も母さんにそっくりなんだ」
この時、母親は既に68歳になっており、若かりし頃の面影は皺の中に埋もれていたの
だが、確かに泉美は母親の若き日を彷彿とさせる何かを持っていた。桜庭は目に情愛を滲
ませ、じっと母親の目を見詰めた。
精一杯厳しい顔つきをしていた母親は、一瞬相好を崩しそうになるのをようやく堪えた。
もうひと息だと思った桜庭は、最後の台詞を吐いた。
「母さんと結婚するわけにはいかないだろう。だからせめて似た人とそうしたかった。分
かってくれよ、母さん」
母親は俯いて、ふーと息を吐いた。しばらくして顔を上げるといつもの優しい顔に戻って
いる。そして微笑みながら言った。
「あんたには負けたわ。分かった。認めてあげる。そこまで言われたら、反対出来ないも
のね。じゃあ、認めてあげるから、そのかわり、すぐにでも子供を作りなさい。私、早く、
孫の顔が見たいの」
桜庭は母親と視線を合わせ、にこりとしてその手を握った。桜庭が30歳の時である。
結婚当初、泉美は多少肉付きの良い方だが、肉感的で十分魅力的だった。ボリュウムの
あるその肉体に桜庭は溺れた。母親のおっぱいをまさぐる乳飲み子のように、桜庭は泉美
を片時も離さなかった。しかし、幸せとはそう長続きしないものなのだ。
泉美の妊娠を知って、桜庭は心から喜んだ。と同時ににんまりもした。母親も結婚は許
してくれたものの、どこかにわだかまりがあるらしく、それまでと打って変わって、財布
の紐をしっかりと締めてしまった。
桜庭はお金にルーズで、独身時代から給料だけでは足らず、母親に小遣いをせびるのを
常としてきた。それがぱったりと途絶え、経済的に青息吐息に陥っていたのだ。しかし、
もし子供好きな母親に赤ん坊の顔を見せれば、それも一挙に挽回できる。
二人は子供の誕生を心待ちにし、指折り数えた。泉美は幸せの絶頂だった。桜庭はそん
な泉美をいとおしく眺め、いたわり、家事までやってのけた。しかし不幸は突然やって来
た。流産だったのである。しかも、泉美は子供の出来ない体になってしまったのだ。
勿論、桜庭もがっくりしたが、泉美の落胆ぶりは見ていられないほどであった。その日、
二人は病院の一室で抱きあって泣いた。泉美が不憫でならなかった。しかし、子供が出来
ないと知った母親がどう出るか。それを思うと暗澹たる気分に襲われたのも事実だ。
「貴方のお母様は私を憎んでいるのよ。子供の出来ない体になった私を追い出そうとして
いるわ。今日も電話してきて、流産したのは私が仕事を続けていたからだと非難したの。
でも、私は先生のアドバイスに従っていた。決して無理をしていたわけじゃないわ」
「分かっている。君に責任なんてない。それにお袋が非難したというけど、そんなことな
いって。君は言葉に過敏過ぎるんだ。いいか、俺は、君を愛している。たとえ子供が出来
なくても一緒だ。お袋が何と言おうと、この俺が守ってやる」
「本当、あなた、本当なのね」
こんなやり取りを何度重ねただろう。確かに、母親は泉美を憎み始めている。そして、嫁
姑の仲はそれまで以上に険悪になっていった。泉美の愚痴と涙が桜庭を追い詰める。二人
に挟まれ右往左往する毎日が続き、次第に泉美の涙が重荷になっていった。
暗い顔を突き合わせて食事をしても味も素っ気もなかった。そして深いため息。初めの
うちこそ優しく慰めようという気持ちも起こったが、四六時中となるとその気も失せる。
無視することが多くなり、終いには、うんざりして憎しみさえ抱くようになった。
或る日、帰宅すると家の中は真っ暗である。居間の電気を点けたが、誰もいない。寝室
を覗くと、部屋の隅で何かが蠢いている。びっくりして目を凝らすと、泉美がうずくまっ
て泣いているのだ。ぞっとすると同時にうんざりした。寝室のドアを思いきり閉めた。
毎晩銀座で飲み歩き、帰りも遅くなった。憂さを晴らすために浮気にのめり込んだ。職
業がら、タレントやモデル志望の女達との接触も多く、若い肉体をむさぼった。二人は口
をきかなくなり、互いを無視するようになった。この頃、泉美の食欲が爆発したのである。
ぶくぶくと太って、醜くなっていった。最初のうちはストレスによる過食症かとも思っ
たが、桜庭を睨みつけるようにして飯を口に詰め込んでゆく泉美を見ていて、それは少し
違うような気がしてきた。
しかし、醜く太ることが、美意識の人一倍強い桜庭に対する復讐だと知った時は、呆れ
ると同時に慄然とした。ある日、口喧嘩をして、桜庭が怒鳴った。
「自分のその姿を鏡で映してみろ。俺に相手にされたいのなら、そのぶくぶくの体を何と
かしろ。今のお前はトドだ。声までトドそっくりだ。喉がつまったようにゲコゲコ言いや
がって、何を言っているのかさっぱり分からん」
これに対し泉美が言放ったのだ。
「あんたになんて、もう相手にされなくってもいい。もっと醜くなってやる。醜くなって
復讐してやる。あんたが悪いのよ。私を構ってくれないあんたの責任よ」
そう言って、桜庭を憎悪の眼差しで睨んだ。桜庭はその形相を見てぞっとした。返す言葉
もなかった。
離婚は何度も考えた。しかし、それを思い留まらせたのは、或いは、二人が共有した深
い悲しみ、そして幸せだった頃の共通の思いに他ならないが、何よりも離婚に伴う財産分
与が大きな理由だったのである。
高層マンションの最上階。そこから眺める夜景は世界を独り占めしているような錯覚を
起させる。桜庭はそれをこよなく愛した。マンションの頭金は母親が出したが、月々のロ
ーンは泉美と折半で、離婚した場合は当然売却せざるを得ない。そのことを思うと躊躇せ
ざるを得なかったのである。
二人の生活に変化が起こったのは、流産から三年後である。泉美は結婚直後からブティ
ックを経営していたが、それまで売上はぱっとしなかった。しかし、太り出したのを機に、
店をビッグサイズ専門店に衣替えすると、お客がどっと押し寄せたのだ。
桜庭はその成功に目を見張った。そしてこれが桜庭に経済的ゆとりと、思うままの生活
をもたらせた。桜庭はサラリー全てを小遣いとして使えたし、他の営業マン以上の接待で
売り上げを伸ばすことが出来たのである。
泉美の方は、生活ぶりが派手になったとはいえ、夜は趣味の油絵に没頭しており、次々
と作品を仕上げてゆくし、休みの日にも出かけている様子はない。どうも腑に落ちず、泉
美の携帯のメール、住所録、履歴を調べてみたが、それらしい男の影もない。
しかし、男なしでは生きられない泉美のことだ、何かあると思い、よくよく調べてゆく
と、ある符合に気付いたのだ。女友達からのメール、餡蜜屋での待ち合わせの約束が入っ
た翌朝、泉美はシャワーを浴び、念入りにめかしこんで出かけるのだ。
まったく笑ってしまうのだが、蓼食う虫も好き好きとは良く言ったもので、どこでどう
知り合ったのか、泉美には恋人がいたのである。しかし、桜庭は見て見ぬを振りをするこ
とにした。或るときなど、そのことで鎌をかけたことがある。
「泉美、先週の金曜日の昼頃、ブティックに電話をいれたら、仕入れに出かけていて今日
は戻らないと言っていたが、本当に仕入れに行っていたのか」
その日は、朝、シャワーを浴び、念入りに厚化粧をする泉美の様子でデートだとぴんとき
たのだ。泉美は一瞬ひるんだが、気を取り直し、きっぱりと言った。
「当たり前じゃない、あの店は仕入れが勝負なのよ。お得意さんが何を求めてるかを見極
めて、それを問屋街で探すの。一日仕事よ。足が棒になっちゃったわ」
「しかし、仕入れの日に限って、シャワーを浴びて、厚化粧して出かけるのはどういうわ
けだ?」
桜庭が、にやにやしながら聞いたのが気にさわったらしい。泉美がむきになって言い返し
てきた。
「それってどういう意味よ。私が浮気でもしているって言うわけ。そんな言いがかりをつ
けて離婚しようたって、そうは問屋が卸さないわ。あんたが好き放題やっていることは、
こっちだって知っているんだ。もし離婚しようというなら、このマンションは私が貰うか
らね。いい、浮気をしているのはあんたの方なんだから」
桜庭は、この話題で深入りはしなかった。泉美の言う通りだったからだ。
しかし、或る時、桜庭の遊び相手の女が妊娠し、女房との離婚を迫られるという事態に
見舞われ、桜庭は泉美の浮気の証拠と掴むために探偵を雇った。浮気の証拠をつきつけ
離婚を有利に運び、泉美をお払い箱にしようと決心したのだ。
しかし、その調査は途中で止めさせた。というのは、その妊娠が嘘だと分かったからだ。
この時、ほっとする自分を不思議に思った。泉美との離婚は常日頃の願望ではあったが、
自由にお金が使え、遊び放題の生活にもやはり未練があったのかもしれない。
桜庭は広告代理店に勤めている。勤続15年で第一営業部の課長に抜擢された。しかし
今期は全社の売上目標未達成で、社長以下経営陣は全社員に新規開拓の大号令を発した。
桜庭の課は120%達成率であったが、決して例外というわけにはいかない。
大手企業を担当して長く、新規開拓から遠ざかっていたため、桜庭にはそれが心の重荷
だった。しかし、ワンマン社長の命令で一人最低一社がノルマとなり、ボーナスの査定の
対象になると言う。桜庭も必死にならざるを得なかったのである。
桜庭は早速大学の卒業名簿を取り寄せ、その中に、中条翔の名前を見出した。大手自動
車メーカーの総務部長の肩書きであった。桜庭はすぐさま電話番号を控えた。中条ならば
桜庭の期待に応えてくれるはずである。桜庭は思わずにんまりとした。
中条とは大学の演劇部で知り合った。互いに母一人子一人という家庭環境が近いという
こともあり、知り合って直ぐに親しくなった。或る女性を張り合って、一時険悪な関係に
なったことはあったが、四年間通じて同じ時間を共有した友人であることは間違いない。
そして、中条は、あの忘れがたい事件の主犯である。桜庭は死体を運んで遺棄したに過
ぎない。事件以来、中条とは数える程かしか会ってはいないが、あの事件のことを忘れる
はずもなく、ケツの穴の毛を残らず抜いても文句は言えないはずである。
桜庭は秘書に通された応接室でコーヒーを飲みながら旧友の面影を思い浮かべた。どう
変わっているか楽しみだった。中条の自分勝手な性格からいって出世するとは到底思えな
かったが、それが大手自動車メーカーの総務部長とは畏れ入ったと言うしかない。
秘書が笑顔を作りながら応接室に入ってきた。先客があり、しばらく時間がかかるから
と応接に案内されてから10分もたっている。
「桜庭様、お待たせ致しました。どうぞ」
秘書がドアを開け、そのままの姿勢で待っている。桜庭はアタッシュケースを引き寄せ、
おもむろに立ち上がった。中条にCM枠の一つくらい買わせるつもりだ。もし言うことを
聞かなければ、あのことを匂わせてやってもよい。たとえ時効が成立したとはいえ、やっ
たことの責任は消えないのだから。
秘書が重厚なドアを外側から開け、総務部長室に入るように促している。桜庭も鷹揚に
頷き、歩を進める。秘書と目が合った。美人だがどこか冷たい表情が、一瞬、桜庭を不安
にさせた。そんな思いを振り払い、桜庭がドアの内側に顔を覗かせた。
中条は昔のままの顔でそこにいた。桜庭はにやりとして室内へ一歩入った。中条の顔が
一瞬にして歪んだ。そしてうわずるような声を漏らした。
「お前は、死んだはずだ。な、な、何故……」
絶句したまま唇を震わせた。まるで幽霊にでも出会ったように驚愕の表情のまま固まって
いる。桜庭は秘書の方をちらりと見て言った。
「おい、おい、俺が死んだなんて誰から聞いた? 俺は確かにこうして生きているよ。そ
れに、こちらの秘書の方に電話して、俺の名前を言ったはずだ」
見る見るうちに中条の顔は、恐怖で引きつってまるで別人のようだ。椅子から立ちあがり、
よろよろと桜庭から逃げようとする。足元がおぼつかない。机の上の水差しがガチャンと
いう大きな音をたてて倒れた。桜庭はあっけにとられ、見ているしかなかった。
部長室の物音に驚いて、秘書が桜庭を押しのけ部屋に入って来た。秘書は思わず手を口
に当てた。異変に気付き、中条に声を掛けた。
「部長、どうなさったのです。桜庭様です。サンコー広告の桜庭課長です。アポイントは
頂いております。部長にもそう申し上げました。……」
中条は、這いつくりばりながら窓に向かった。レバーを握って、窓のガラス戸を開けよう
としている。ようやくこじ開けると、そこに右足を上げ這い登った。秘書の悲鳴が響く。
その声に振り返り、中条は恐怖に歪んだ顔を桜庭に向けた。
その目は桜庭に救いを求めるかのようだ。その顔が奇妙に歪んだ。頬は恐怖に震え、唇
には泡を浮かべている。レバーを握った手の指が一本一本離れてゆく。中条の視線が自ら
の指に注がれ、絶望がその顔に広がった。
次いで中条の視線は深い谷底へと向けられた。桜庭からその表情は見えない。その体が
スローモーションのごとくゆっくりと傾き、奈落の底へ落ちてゆく。「ぎゃー」という悲
鳴が次第に遠のいた。19階のビルから、中条が飛び降りたのである。
桜庭は唖然として見ているしかなかった。秘書は悲鳴を上げながら窓に近寄った。窓か
ら下を見下ろしていたが、しばらくして腰が抜けたようにへたり込んだ。桜庭は咄嗟にこ
こに残るのは得策ではないと判断し、必死の思いで秘書に声を掛けた。
「申し訳ないが、私はこれでお暇するよ。あんたも見ていただろう。私は彼に何もしてい
ない。奴が勝手に飛び降りたんだ。俺はこの事件とは何の関係もない、そうだろう」
秘書は顔面蒼白のまま頷いた。
エレベーターでロビーまで降りた。誰も異変に気付かず、何事もなかったように、笑い、
話し、或いは黙々として行き交う。ビルを出ると、遠くに人だかりが出来ている。血の海
に横たわった中条の姿を想像して鳥肌が立った。
桜庭はその方向に向けて合掌し、そそくさと歩き出した。後を振り返らず、足の裏のみ
に意識を集中し歩きに歩いた。頭の中は真っ白だった。何故、何故、その言葉だけが宙に
舞っている。何の答えもないまま、30分ほど歩き続けた。
ふと、中条の特異の性格を思い出していた。中条は極端に集中力のある人間だった。の
めり込むと回りが見えなくなってしまう。意識が一点に集中する様子は、見ていても分か
った。演劇にはそういう能力が必要なのかもしれない。
しかし、その才能は、プラスにも働くこともあるが、マイナス面もなきにしもあらずで、
総務部長になれたのは、その才能がプラスに働いたからかもしれないが、結局自殺したと
いうことはそのマイナスの面が一挙に吹き出した結果とも考えられる。
桜庭は中条の恐怖に慄く様子を思い出し、自らも震えた。中条は何に怯え、何に恐怖し
たのだ? 桜庭の突然の訪問が彼に異常をもたらしたのか。しかし、アポはフルネームで
取ったのだから、桜庭が来ることは分かっていたはずである。
それにしても、最初の一言が気になった。「お前は死んだはずだ。……」とは、どうい
う意味なのか。中条は誰かから桜庭が死んだと聞かされていた。それが生きていたと知っ
て、驚きのあまり気が狂ったのか。しかし、その程度のことが引き金になるとは思えない。
中条はそれ以上の何かに恐怖していた。まして自殺とはいえ何処か不自然さが伴う。あ
のギクシャクした動きは尋常ではない。まるで操り人形だ。中条を操る黒い影? 想像し
た途端、背筋に冷たいものが這い上がり、ぞぞっと体が震えた。
その夜、桜庭はぐでんぐでんに酔っ払って家に帰った。飲まずにはいられなかったのだ。
真夜中を過ぎており、泉美は寝ているはずだが、居間には人の気配がする。一瞬、恐怖に
かられたが、恐る恐るドアを開けると、泉美のでっぷりとした後姿が見えた。
桜庭はほっと胸を撫で下ろし、居間に入ると幾分おどけて「おす」と言って、女房の向
いに腰をおろした。
「水をくれ」
泉美は無言でソファから立ちあがった。桜庭は、その背中に声をかけた。
「今日、俺の大学時代の友人が自殺した。俺の目の前で」
泉美は振りかえり、大袈裟に驚いて見せた。
「本当、貴方の目の前で。そんなこと信じられないわ。でも何で?」
「それが分からないんだ。そいつは俺が死んだはずだって言った。つまり、死んだはずの
人間が尋ねてきたもんだから、驚いて正気を失ったのかもしれない」
「でも、そんなことで気が狂うほど驚いて、自殺するかしら。誰かから、あいつは死んだ
と聞かされていても、本人が現れれば、あれー、お前死んだって聞いたけど、とかなんと
か言って、それで終わりよ」
「ああ、その通りだ。まったく、何故あいつが自殺したかさっぱり分からない」
こう言った瞬間、ふと、あの事件のことが脳裏をかすめた。あの事件が引きがねとなった
可能性は否定出来ない。桜庭と同じように、あの日、中条も時効成立を祝ったであろう。
そして忘却の彼方から共犯者が現れ、自制心を失ったのか?
或いはあの少女が……。ガラス越しの深い闇の彼方からふわっと少女の面影が浮かんだ。
心臓の鼓動が聞こえそうなくらい高鳴った。慌ててその面影を手で払いのけ、頭を強く横
に振った。泉美が水を満たしたコップを運んできた。そして言った。
「でも、大学時代の友人なんて聞いたことなかった。そんな親しい人がいたなんて、あん
た一言も言わなかったじゃない」
桜庭は恐怖から立ち直り答えた。
「ちょっと厭なことがあってな、卒業後は付き合っていなかった。でも、本当に気の合う
奴だった」
「何ていう人、その人」
「中条っていう。中条翔。本当に良い奴だった」
泉美はくるりと踵を返し、台所に消えた。暫く音沙汰なかったが、洗物をしているらしい。
こんな夜に、洗物? 不思議に思ったが、気にもとめず水を一気に飲んだ。考えてみれば、
女房とこんな普通の会話を交わしたのは久しぶりであった。
台所から声が聞こえた。よく聞き取れず、怒鳴った。
「おい、何て言ったんだ」
ややあって、泉美が大きな声で聞いた。
「その人、何処に勤めていたの」
「三和自動車だ。そこの総務部長だった」
「へー。」
会話はここで途切れた。
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