シンクロニシティ10
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第一章
前書き
人との出会いは縁によってコーディネートされていますが、人の強い思いがそれを加速させることもあると思っています。
会いたいと思う人と出会えないのは、元々その人とは縁がなかったと言うことでしょう。逆に、出会わなければ良かった思う人との出会も、やはり縁なのです。しかし、この小説の主人公の妹のように、見ず知らずの人に殺される運命に晒された不幸な人は・・・、どう考えればよいのでしょうか?未だにその答えを探しています。
強烈な日差しが都会の澱んだ大気を貫き、コンクリートとレンガで覆われた街路に降り注ぐ。そこで熱せられた大気はゆっくりと立ち上り、空高く聳える高層ビルをも包み込み、あの威容を誇る巨大な都庁ビルが蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて見える。都会は、まさにコンクリートが作り出した巨大な人口の砂漠なのだ。
ビル内を快適するために吐き出された熱が外にいる人々をむかつかせる。その内側からガラス越しに行き交う人々を眺める女も、幾許かの代価を払って一時の清涼を得ているに過ぎない。
都会の雑踏は、せっかちな人間をただでせさえ苛立たせるし、さらに熱気と湿気は体中にへばり付いて不快さを一層つのらせる。汗を拭うハンカチはあまりにも小さく、ましてぐちゃぐちゃに濡れていた。それでも二人の男は黙々と歩き続ける。
ようやく雑踏を抜けだし、都庁を過ぎて中央公園をさしかかると、若い方の男は立ち止まって遅れて歩いてくる中年の男を待った。左手に抱えた背広が汗で濡れている。
深い緑に覆われた公園には、木陰で昼寝をするホームレス、暑さにもめげず抱き合う若いカップル、そして子供連れの母親達がいるだけで人影もまばらである。若い男は立ち止まると、公園内の時間にゆとりのある人々をぼんやり見ていた。遅れてきた中年の男は額の汗をハンカチで拭きながら、いかつい顔に笑みを浮かべ若い男に声を掛けた。
「原ちゃんの脚が長いのは分かったよ。でも、もうちょっとゆっくり歩るいてくれると助かるんだが。」
原と呼ばれた男は肩をすくめ、少し困ったような表情を見せると「はあ」と曖昧に笑ってみせたが、中年の男が追い付くとすぐに歩き出した。
原の背中を見つめながら、榊原は苦笑いしながら長い息を吐いた。そしてある拷問の話を思い出した。囚人に深い穴を掘らせ、翌日埋め戻させる。これを繰返すのだそうだ。無意味なことをやらされるという拷問は結構堪えるのかもしれない。
石神井署に捜査本部が置かれて既に5ヶ月が過ぎようとしている。当初、楽観的に早期解決を予想していた刑事達の苛立ちは頂点に達しつつあった。原もその一人なのである。榊原はもう一度長い息を吐いた。
それから15分後、二人は喫茶店にいた。
「まったく、しょうがないなあ。大先輩の榊原さんには逆らえないし、まあ、確かに熱くて死にそうだってのは僕も一緒ですけど。」
と言って、原は汗を拭きながら大ジョッキいっぱいのアイスコーヒをストローでチュウチュウと音をたてて飲み続けた。その前に座る榊原は相棒の膨れ面に気付かぬ素振りで氷アズキをせっせと平らげてゆく。
「真夏の聞き込みには水分補給は欠かせない」
と呟いてみたが、原は聞こえないふりを決め込んでいる。何度も、といってもまだ2度目なのだが、喫茶店に入るのが気にいらないらしい。とはいえ、原も水分を欲していたのは確かなのだ。
榊原は警視庁捜査一課2係りに属し、迷宮入りした事件の継続捜査を担当している。今の捜査本部に詰める直前まで、榊原は暴力団がらみの事件を追っていた。この事件には、警察庁キャリアが何らかのかたちで絡んでいるらしく、臭いものには蓋とばかり、片隅で埃をかぶっていたのだが、蓋を開けてみれば、やはり上司の横槍が入った。
上司とのすったもんだがあり、うんざりしているところに、石神井署の捜査本部に欠員が生じたという話が舞い込んだのだ。榊原は、上司と口をきくのも苦痛になっていたため、もろ手を上げて志願したのである。
世間を震撼させた大事件である。榊原は、その捜査本部に勇んで参加したものの、捜査は何の進展も見られず、捜査員達の疲労だけが蓄積され今日に至っている。
捜査本部は事件の起きた所轄署に置かれるが、本庁捜査一課と所轄署の刑事課、それぞれの刑事がコンビを組んで捜査に当る。本庁の刑事は捜査の専門家として、また所轄署の刑事は地の利と豊富な情報量を生かし、互いに協力して捜査の効率を計るのである。
榊原の相方の原警部補は石神井署刑事課所属で、榊原より一回りも若い。その原警部補は、自分と組むのが本庁捜査一課の榊原警部補と聞いて、当初、心躍らせていた。
というのは、榊原は警視庁捜査一課ではちょっとした有名人なのである。粘り強い捜査手法と僅かな手がかりから情報を手繰り寄せる能力から名刑事と謳われ、さらに榊原がかつてキャリアを殴ったという噂はノンキャリアの警官にとって尊敬に価した。
しかし、その榊原は、捜査会議で発言することもなく、外に出れば黙々と原に付いて歩くだけで、切れ者の片鱗などどこを捜しても見えない。原はその名刑事という噂に首を傾げ、最初の頃に抱いた尊敬の念と憧憬の思いは、今ではすっかり冷めている。
榊原はガラスの器をスプーンでかきまぜると、小豆の混じった茶色の液体をぐっと飲み干した。
「最後のこれが美味いんだ。」
こう言うと、満足そうに相棒に微笑みかけた。しかし、原は横を向いたまま、呟くように言った。
「榊原さん、そろそろ出掛けましょうよ。F地区にはもう一ケ所、中外商事っていうセコハン屋があります。早く行かないと、会議に間に合いませんよ。」
そう言って、手に持った地取り捜査用の地図をポケットから取り出した。榊原はそれをちらりと一瞥して言った。
「分かった、分かった、でも、もうちょって休ませろよ。どうせ行ったところで成果なんてありっこない。よほどの素人でない限り盗品の、しかも170万もするローレックスを質入するなんて思えん。」
「でも……」
何か言いかけて原は押し黙った。同じ警部補とはいえ、本庁の大先輩に逆らうことなど出来ない。まして原も同様に感じていたのだが、無駄とは思っても、それを口に出さないのが刑事なのだ。
二人は被害者宅から盗まれたローレックスのナシワリ捜査にあたっていた。ナシワリとは盗品捜査のことで、犯人が盗品を質屋やセコハン屋に持ち込む可能性があり、そうした店を虱潰しにあたる。捜査本部に途中から加わった榊原は、原の分担であるローレックスの捜索に付き合うことになったのである。
実を言えば、榊原は以前からこの石神井の強盗殺人事件に注目していた。何故なら、かつて榊原が興味をもって見詰めた事件、一時新聞紙上を賑わせ、人々の記憶から消え去ったあの事件に似ている気がしたのだ。
石神井の事件は雪の散らつく寒い晩に起こった。深夜0時、国土交通省に勤める石橋順二、34歳の自宅に強盗が入った。一階に寝ていた夫婦は激しく抵抗したが出刃包丁で刺殺され、階下の物音を聞き付け降りてきた小学生の男の子は絞殺された。
夫婦とも10ケ所以上の刺し傷、切り傷があり、妻は頚動脈を切られ出血死し、夫は、包丁が肋骨を切断しその刃先は心臓まで達していた。予期せぬ抵抗にあい、半狂乱になって包丁を振り回す強盗がとった凶行と判断された。
それは妥当な判断と言わざるを得ない。何故なら部屋は荒らされ、現金、預金通帳、クレジットカード、宝石類が盗まれており、その中に被害者所有の市価170万のローレックスも含まれていた。単純な強盗殺人事件と考えるのは当然である。
まして、悲鳴を聞きつけ窓から首を出した付近の住人が、現場から立ち去る白っぽいセルシオを目撃していたし、血のついた運動靴の足跡は玄関先から車の停めてあったと思われる場所まで続き、その運動靴のメーカーまで特定されていた。誰もが早期解決は当然だと思っていたのである。
しかし、指揮を執る本庁捜査一課3係りの石川警部の機嫌が良かったのは、華々しくマスコミ会見を開いていた最初の一月だけで、その後は悪くなる一方だった。石川警部が部下の尻をいくら叩いても捜査の進展は一向に見られなかったのである。
榊原は石川警部とかつて新宿署で一緒に仕事をしたことがある。大学の5年後輩ということで榊原に近付いてきたのだが、榊原は肌が合わず疎んじた。しかし今では本庁捜査一課の係りは違うが上席にあたる。
石川警部は科学捜査信奉者だ。しかし捜査マニュアル通りの手法しか思い付かず、その結果収穫がないのに業を煮やし、部下を怒鳴り散らすという人間臭さをみせている。恐らく榊原の仮説など一顧だにしないだろう。
うとうととして、ふと前を見ると原の姿はない。どうやら一人で聞き込みに行ったようだ。榊原は一人ほくそえんだ。今日も、報告は原に任せればよい。
もうこの捜査にはうんざりだった。煮詰まったら原点に戻るか、視点を変えてみるのが常道だ。石川警部にはその姿勢がない。今の捜査手法は或いは犯人の思惑通りなのかもしれないのだ。独創性或いは創造性のない上司を持った部下は哀れだ。
しかし、こう思っている榊原でさえ自分の仮説に自信があるわけではない。その仮説とはこうである。「強盗は偽装で、目的は別にあった。また素人の犯行にみせてはいるが、犯人は殺しのプロである。」ふとそう思ったのである。
榊原が似ていると思ったもう一つの事件は、1年半前、埼玉県警鴻巣警察の扱った事件である。榊原はこの事件について、大学の友人を通じて情報はつぶさに掴んでいた。この事件も誰一人として捜査が長引くと考えた者はいなかったのである。
その被害者は通産省に勤める丸山亮、34歳。妻は不在で難を逃れた。丸山はその日、仕事を終えた後、高崎市の妻の実家に行く予定だった。当初、新幹線を使うつもりだったが、残業で最終に間に合わず、車を取りに家に戻った。
丸山は居間で賊と鉢合わせになり胸をナイフで突かれた。しかし最初の一撃は肋骨によって弾かれ、犯人は逆上してナイフを振り回し、丸山は両腕をかざしてそれを防護した。無数の深い切り傷がそこに残されていた。
抵抗もそこまでだった。犯人はナイフの刃を水平に構えて突進したのだ。ナイフは肋骨を避け、心臓を貫いた。見事な殺しである。最初の失敗、次ぎはまるで素人のような無様な攻撃、そして最後はまさに研ぎ澄まされた一撃である。
この事件では寝室から妻の貴金属類、夫の書斎からはCDと時計のコレクションが盗まれていた。犯人は二人で、それは血の海と化した居間に残された靴跡が物語っている。そのうちの一人はよほど気の小さな男らしく、嘔吐物が居間に残されていた。
鴻巣署の友人に電話で話を聞いたおり、榊原が「CDだって」と聞き返すと鴻巣署の友人は、「どうせエロCDだろう」とこともなげに言ったものだ。しかし、榊原はこのCDが気になってしかたなかった。通産省→情報→CDという図式である。
この二つの事件で似ている点は、遺留品が多く、誰も捜査が長引くとは思わなかった点。そして第二点は、最初の事件では包丁が肋骨の間隙から、今回の事件ではそれを切断して心臓に見事に達していること。第三点は、二人とも国家公務員上級試験の難関を突破したキャリア官僚だということである。。
榊原が気になったのは、被害者に加えられた最後の心臓への一撃である。その前にめちゃくちゃに包丁を振り回していることも共通する。つまり素人を装ったプロの仕業ではないかとふと思ったのだ。
しかし、捜査ファイルを熟読したが、プロに狙われるような背景はどこにもない。榊原は腕を組み考えこんだ。二人が何らかの事件の秘密を知ってしまったとか、或いは、非日常の世界に巻き込まれたという可能性である。
ふと、我に返って苦笑いをもらした。またしてもどうどう巡りの迷路に迷い込んだようだ。想像逞しくしたところで、真実に近付くわけでもない。榊原は煙草を取り出し、火を点けた。そして目を閉じ、ゆっくりと煙を肺に送り込む。
その時、思考のなかに別のものが入り込んできた。榊原は思わず頬を緩ませ、満足そうに笑みを浮かべた。傍から見たらさぞかし、やに下がっていたに違いない。原がいないのは幸いだった。
榊原は思った。不思議な巡り合わせとしか言い様がない。かつて憧れたあのマドンナが目の前で微笑んでいる。あれほど魅力的な肉体が自分のものになろうとは、まさかこの歳で胸をときめかせることがあろうとは想像だにしなかった。
それは石神井署に入って1週間目のことだ。原刑事と足を引きずるようにして署に戻った。そして思わず自分の目を疑った。二度と会うことはないと思っていたマドンナがそこに佇んでいたのだ。
やや頬がふっくらとした感じがしたが、美しさに変わりはない。彼女はかつて友人の妻だった。その友人は不幸の塊を背負ったような男だが、そんな男に一人の女がいつも寄り添っていた。
俯きかげんに見上げた時の澄んだ切れ長の目、透き通るような肌、触れると壊れてしまいそうな女に榊原は息を呑んだのだ。初めてその友人に紹介された時のように、その視線を榊原に向けている。
しかし、それは榊原個人の像を形作ることなくさ迷っている。榊原が話しかけようと近付いているにもかかわらず、困惑した視線は揺れ続けていたのだ。
「お久しぶりです。」
声をかけられて初めて、女は目の前の男に視線を凝らした。そしてそれがかつて親しくしていた友人であることに気付くのに数秒掛かった。
「あらっ」
両目を大きく見開き、喜びの表情を顕わにした。
「榊原さん。本当にあの榊原さんなの。警察にお勤めになられたって聞いていましたけれど、ここにいらっしゃたの?」
「いや、所属は本庁の方ですけど、最近、ここの捜査本部に詰めているんです。幸子さんは何でここに。」
幸子と呼ばれた女の表情は少々曇ったが、かつての気心の知れた関係が瞬時に蘇り、打ち明ける気になった。しかし、榊原の後ろにいるぎょろ目の男が気になる。
榊原は女の視線で原の存在に気付いた。原はいつになく取澄ました榊原の物腰、そしてその相手の美貌に目を剥いている。榊原が手で追い払うと、原は口を尖らせ、何度も後ろを振り返りながら階段に向った。
二人だけになると、ようやく安心したらしく、幸子は溜息混じりに口を開いた。
「娘が、補導されたんです。少年課に来るように言われたんですけど、その少年課がどこなのか分からなくって。それに、刑事さんとお話するなんてなんだか怖くて、気後れしてたの。」
俯いていた幸子が、苦笑いする榊原を見上げてこう付け加えた。
「でも優しい刑事さんもいるって言いたいの?」
「ああ、目の前にいるのがそいつだよ。いったい娘さん何で補導されたの?それに前にも補導されたことあるのかな。」
「ええ、何度も。でもシンナーは初めて。近くの公園でシンナー吸っていたところを補導されたみたい。本当に困った娘なの。親に逆らってばかりいて」
榊原は幸子に傍らの長椅子を勧め、自分も座った。
「すぐに連れてきてあげますよ。ここで待っててください」
榊原は何かを言おうとしたが思いとどまった。そしてすぐに席をたった。
幸子は榊原の背中に一礼した。そして不安と苛立ちがじょじょに氷解してゆくのを意識した。ここで榊原に再会したことが、娘にとって良いきっかけになるかもしれないと思ったのだ。榊原は娘をよく知っていた。もっとも3歳になるまでなのだが。
榊原は5分ほどして二階から降りてきた。その大きな背中に見え隠れしながら娘が歩いてくる。かつて榊原の膝で満足そうに笑みを浮かべていたあの子が、一人で大きくなったみたいな顔してふて腐れている。
榊原が振り返り何か話しかけた。憮然とした顔をどうしたらいいのか戸惑っている。顔をほころばせてなるものかと抗っているようだ。また榊原が声を掛けた。娘はとうとう笑い出した。幸子は思わず頬をほころばせた。あんな娘の顔を見るのは何年ぶりだろう。
「幸子さんに、つまり親御さんによく言い聞かせるっていう約束で無罪放免にしてもらった。とにかく、二人でよーく話し合って下さい。」
榊原はそう言って、にこにこと微笑んでいる。
「本当に有難うございます。」
幸子は深深と頭を下げた後、困惑したように娘を見た。娘は知らん顔でそっぽを向く。
「晴美、あなたは覚えていないでしょうけど、榊原さんはあなたのことをよく知っているの。まだ赤ん坊の頃よく遊んでもらったのよ。」
晴美の反応は予想外だった。
「そのゲジゲジ眉だけは印象に残ってる。でも、私の大事な部分を見られたなんて、悔しい。」
大人二人は顔を見合わせ思わず吹き出した。榊原が笑いながら言った。
「本当に覚えているのかい。3歳までの記憶は忘れてしまうって話だが。」
「私の記憶は3歳からよ。あの日のことだって覚えているもの。」
こういって母親に視線を向けた。幸子は一瞬顔を曇らせたが、すぐに気をとりなおした。
「晴美、今度と言う今度は本当に呆れて何も言えないわ。何でシンナーなの。シンナーって恐ろしいの。体がボロボロになってしまうのよ、分かっているの。脳が溶かされて一生を台無しにしてしまうの。」
「うるせっての。あんたのその深刻そうな面見ているだけで反吐がでそう。ウエ。その面忘れるにはシンナーが一番よ。」
榊原は或る程度予想していたものの、その突き刺さるような言葉を聞いて寒寒とした気分に襲われた。どうとりなしたものか、言葉を捜した。突然、幸子が周囲を憚ることなく声を荒げた。
「いい加減にしなさい。私のどこが気に入らないの。私だって必死で生きてるのよ。あんたにとやかく言われるようなことなど一切していないわ。それなのに、何であなたまで私を不幸のどん底に落とすようなことするの。何故なの。」
晴海はふんと横を向いてふて腐れている。
「中学校の時はあんなに良い子で、成績だって学校でトップクラスだった。それが何故なの。お母さんには何がなんだか分からない。」
そう言って、幸子は涙を絞るように顔を歪め長椅子に座り込んだ。何も隠すこともない関係だからこそ幸子はあからさまな激情を吐露している。榊原に助けを求めているような気がした。榊原はその気持ちに応えるしかない。逡巡しながらようやく口を開いた。
「ワシはあんたを赤ん坊の頃から知っている。何であんたが肉親に逆らっているのか、今は分からんが、いずれは分かることもあるだろう。ゲジゲジ眉のおじさんは、あんたのオシメまで換えたこともある他人なんだから、今度ゆっくりと話し合おう、どうだ。」
晴美に笑顔が戻った。そして答えた。
「ええ、いいわ。あんたとなら話しが合いそうだし、私、あんたのこと好きだったから。」
「そいつは光栄だ。女にもてたのは後にも先にもこれが初めてだ。あんた、今、携帯もっているか。」
榊原が晴美のナンバーを聞いて登録していると、
「おじちゃん、ぶっとい指のわりに器用じゃん。ねえ、ねえ、今の番号かけてみて。」
しばらくして晴美の携帯が鳴った。晴美は忙しく指を動かし榊原の携帯番号を登録している。榊原はこそばゆい感覚を噛み締めながら幸子を見ると、幸子も涙を拭いながら苦笑いを浮かべている。
榊原は幸子の視線にすがるような色合いがあるのを感じた。かつてマドンナと崇めた女が、今どんな現実にいるのか垣間見る思いだった。同時に、これから起こるであろう新たな関係に心時めいた。
ふと、家に鎮座する達磨のような女房を思い浮かべた。かつて可憐な婦警だったが、子供を産むたびに肥え太っていった。2人の子供には良き母親ではあったが、女としての魅力は感じなくなっていた。榊原は急いでその面影を振り払ったのだった。
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