命短し、恋せよ軍務尚書
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それから一週間ほどは、何の音沙汰もなく互いに軍務に専念していた。フェルナーとしては、その後の展開が気にならないわけでもなかったが、オーベルシュタインにフェルナーへの報告義務などない。元々私的な会話を好む上官ではないだけに、問い質すことができずにいた。
一方のオーベルシュタインにしても、ただ漫然と時の経過を甘受していたわけではなかった。一旦は決意を固めたものの、フェルナーの言うようにお茶に誘って、もし断られてしまったら、鬱陶しい男だと思われてしまったら、二度と今のような関係には戻れないだろう。それでも良いのか。その危険を冒してでも、想いを告げたいのか。
そんな悶々とした日々を過ごし、週が明けた月曜日のことだった。フェルナーが出勤すると、軍務尚書は既に淡々と仕事を始めていた。慌てて、先週末に整理しておいた書類を上官のデスクに置く。
「おはようございます、閣下。今日はお早いですね」
フェルナーの敬礼に黙礼で応じると、オーベルシュタインは書類をめくる手を止めて、鞄の中をごそごそと探った。
「これなのだが」
オーベルシュタインの手にあるのは、薄いブルーの封筒であった。脈絡なく差し出された代物を、フェルナーは首をかしげながらも受け取る。
「中身を拝見しても?」
「ああ」
許可を得て封筒から出した物は、ピアノコンサートのチケットであった。2枚入っている。フェルナーはさらに首をかしげた。まさか、コンサートにフェルナーを誘おうというわけではあるまい。
「彼女がくれたのだ」
またしても脈絡のない上官の発言に、フェルナーは一瞬の間を置いて、オーベルシュタインが想いを寄せる、あの彼女のことだと思い当たった。
「本当ですか!?それって、コンサートに誘われたということですか」
興奮するフェルナーに対して、オーベルシュタインは静かに首を振った。
「そうではない。何でも、友人と観に行く予定だったのだが、その友人が行けなくなってしまったのだそうだ。もし、興味があれば使って下さいと言って、私にくれたのだ。……2枚とも」
これはどういうことだろうかと、オーベルシュタインはフェルナーに尋ねた。状況を聞くうちに、フェルナーも手放しでは喜べなくなった。
「そうですか……。それは何とも、判断しがたい話ですね。閣下に対してまったく恋愛感情がないから、2枚とも気軽にどうぞと渡したのだとも考えられます、が……」
「やはり、そうか」
フェルナーは、自分の言葉にあからさまに項垂れるオーベルシュタインを見て、慌てて付け加えた。
「最後まで聞いて下さい。ですが、本当は閣下と一緒に行きたくて、つまり閣下を誘いたくてチケットを用意したけれど、恥ずかしくて言い出せずに、閣下にそのチケットを2枚とも手渡したという可能性もあります。女心は複雑ですから」
ふむ、と、オーベルシュタインは小さく肯いた。しばらく考えてから、どちらの可能性の方が高いのだろうかと呟く。
「それは無論、後者ですよ。閣下に興味がないのなら、そもそもチケットなんてくれません。閣下と行きたいけれど言い出せないから、閣下に誘ってほしいんですよ!」
フェルナーは力説したが、正直なところ五分五分だろうと思う。何しろその時の状況を、彼自身が見ているわけではない。もし彼女の表情や仕草を見ることができたら、おそらくもう少し確実性の高い話ができたのだろうが。だがそれでも、オーベルシュタインにはアタックして欲しいと思うフェルナーである。
「女性にここまでさせて、それに応えないなんて男が廃りますよ」
「……そういう……ものだろうか?」
なおもうじうじと呟く上官に、何か決め手となるものがないかと、フェルナーは上質なデザインのチケットを眺めて考えた。
「そういえば、閣下はピアノがお好きですか」
質問の意図が分からず、オーベルシュタインは小首を傾げた。
「嫌いではないが」
「では、彼女とピアノの話をしたことは?」
「……なかったと思うが」
「そうですか……」
「それが何だというのだ」
黙り込んでしまったフェルナーに、オーベルシュタインは急かすように言った。フェルナーが戸惑いながら口を開く。
「いえ、ピアノコンサートは好みが分かれるでしょう。興味のない人間にとっては、どうしようもないほどつまらないものです。普通、初めて誘うのなら、映画の話題作とか、そういった当たり障りのないものにすると思ったのです。ですから、お二人がピアノの話でもなさったのかなと」
なるほどと、オーベルシュタインは肯いた。しかし、言われて再度思い返してみるが、そのような話をした覚えはない。
「しかし、映画でなくて良かったのだ。暗室での巨大なスクリーンからの強烈な光というものは、義眼の採光量の調整に不具合が生じるからな」
何気ない上官の言い訳を、フェルナーは聞き流そうとしてハッとした。
「それですよ、閣下!」
「……?」
状況を飲み込めていない上官に、フェルナーは確認するように畳みかける。
「その話を、彼女になさいませんでしたか」
オーベルシュタインは額に左手を当てて考え込んだ。
「……したかもしれぬ。ああ、確か曇りの日に。こういう天気は空が白く光り、ハレーションを起こしてしまうのだと言った時に、そんな話をしたような気がする」
フェルナーはしたり顔で笑った。
「ほらほら、もう決まりじゃないですか!これは、閣下のために用意されたチケットなんですよ」
絶対に誘ってあげて下さいねと、何度も念を押されて、冷徹なる義眼の持ち主は、その顔の赤みを強くした。
その後、フェルナーは、無事コンサートへ出かけた上官から、土産と称して彼女と選んだのだという菓子折をもらったり、ツーショット写真を押し付けられたりする羽目となった。
ダルマチアンとダックスフントのカップルは、写真の中で楽しげにじゃれ合っている。彼らの飼い主たちが並んで写真に写るまでには、まだ少し時が必要であった。
(Ende)
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