命短し、恋せよ軍務尚書
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退庁支度をしながら、上官がため息を洩らした。アントン・フェルナーは自分も手早く机の書類を片付けながら、表面的には何ら変わらぬ顔をしている軍務尚書パウル・フォン・オーベルシュタインへと視線をやった。
「浮かないお顔ですが、何か懸念事項がおありですか」
この卓越した状況判断力と決断力を持ち合わせる上官が、ため息をつくほどに持て余すことなのかと、いささか事の重大さを考慮して真剣な顔で問う。
今日は珍しく、まだ世間の夕食時という時間での退庁である。どちらかといえば気分も良くなるであろうに、オーベルシュタインは眉間に数本の皺を寄せて、いつになく不機嫌そうであった。誤解されがちではあるが、この男は普段から仏頂面をしていても、決して不機嫌さを表に出す人間ではない。仮に表に出すとしても、それは威圧や牽制を目的とした、完全にコントロールされた感情表現であるのだ。それが今は、まるで「漏れ出してしまった」という様子で、不機嫌さと憂鬱さを表していたのだから、感度の良い部下のセンサーに引っかからないはずがなかった。
「大したことではない」
詮索は無用といった様子ではあるが、それでも「ない」とは言わない上官に、フェルナーは興味を覚えた。
「なるほど、閣下のプライベートにとっては『大したこと』のようですね」
勘の良すぎる部下に呆れて、オーベルシュタインは苦笑した。
「本質的には公私両面においても瑣末なことだ。ただ、どうしても切り離せぬしがらみというものは、厄介なものだと思っていただけのことだ」
上官の意外な言葉に、フェルナーは僅かに目を見開いた。必要があればすべてを切り捨てるであろうこの上官でも、切り離せぬしがらみがあるのだということに、驚かずにはいられなかったのだ。
「逃れられない付き合いというものが、閣下にもおありなのですね」
オーベルシュタインは静かに首肯した。
「親兄弟はおらぬが、まったくの天涯孤独というわけではないからな」
そう言って再びため息をつくと、その義眼を下方へ向けた。何やら考えている様子の上官をじっと眺めていると、その顔がさっと引き締まって、フェルナーを見つめた。話してしまった方が、幾分かは気が楽になるとでも思ったのであろうか。
「祖父の所有していた土地で、帝室の別荘用にとゴールデンバウム王朝へ差し出していたものがあったのだが、新帝国になった際に返還されたのだ。その相続に関して、従姉と話し合わねばならぬ」
別荘とは言え、かなりの敷地だからな、という一言が、心底面倒くさそうに付け加えられた。
「はあ。財産というものはなければ困りますが、あったらあったで苦労させられるものですね」
「まったくだ」
そう締めくくりながら、フェルナーはふと違和感を覚えた。そのような折衝なら、むしろオーベルシュタインの得意とするところであり、ここまで嫌がる理由もないのではないだろうか。しかも彼自身がその土地に執着している様子もないわけだから、いっそ面倒ならば、相続権を放棄して早々に話を切り上げることもできよう。これは何か別の理由があるぞと、フェルナーは意地の悪い好奇心がむくむくと湧いてくることに気付いた。
「従姉とおっしゃるからには、女性ですね」
溢れた好奇心を巧みに隠して、さも気遣うような口調で、フェルナーは質問の趣旨を変えた。
「そうだが」
そんなフェルナーの変貌に表面上気付いた様子もなく、オーベルシュタインは短く答えた。
「女性だから、会うのが嫌だということはありませんか?」
「……どういうことだ?」
怪訝そうに聞き返す上官に、フェルナーは隙のない笑顔を向けた。
「そのままの意味です。閣下は、女性と会うのが苦手なのでは?」
オーベルシュタインは少し考えてから、色の薄い唇を小さく動かした。
「それほど構えているつもりはないのだがな。幼い時分から付き合いのある従姉であるし、それほど気を遣うわけでもない。なぜこうも気が進まぬのか、自分でも分からぬのだ」
何度目かのため息をつく上官を横目で見やりながら、フェルナーはしばし思考を進めた。この上官は他人の考えや思惑を見抜くことに長けているが、そういう人物は得てして自身の分析が疎かになる。オーベルシュタインも例外ではなかった。おそらく彼自身も気づき得ぬ理由が存在するのだろう。フェルナーは幾種類かの想像をしながら、話を掘り下げることにした。
「その女性は、閣下のことをどう思っているのでしょうかね」
「どう、とは?」
「例えば、閣下を嫌っているとか、反対に好意を持っているとか」
フェルナーの例えに何か心当たりがあったのか、オーベルシュタインは思案顔で答えた。
「彼女の本音は分からぬが、以前、彼女は私の許嫁だった。無論、親同士の決めごとだったが」
オーベルシュタインの返答に、フェルナーはある仮説を思い当たった。隙のない笑みが、人の悪いしたたかな微笑に変わった。
「へぇ。では、その従姉の方は、閣下に想いを寄せているのかもしれませんね」
「それは困る」
強い口調で否定される。即座の反応に、フェルナーは自分の予想が的中したことを悟った。そうだ。上官は従姉が自分に好意を寄せていることを知っている。意識としてはどうだか分からないが、そう感じているのだろう。そして、その想いに応えられない理由があるのだ。
フェルナーは努めてゆっくりと、諭すように言った。
「そう、閣下は彼女の想いに気付きながら、迷惑していらっしゃる。なぜなら……」
一呼吸置いて、勿体ぶるように告げる。
「なぜなら、閣下には他に気になる女性がいるからです」
何気なく机を弾いていた上官の指が、その動きを止めた。
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