ソードアート・オンライン ―亜流の剣士―
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Episode2 迷宮少女
第ハ層迷宮区の一階。時間が時間だからだろうか、それとも攻略の進行具合か。そろそろ人と出会ってもいいころなのに、今日は誰とも出会わない。モンスターすら見かけない。
(来た意味ないなぁ…)
迷宮区の攻略はもうかなり進んでいたはずだ。街では既にほぼマッピングの済んだ迷宮区の地図が、共有データとして出回っていたから間違いない。
だから俺の目的はレベリングなのだが、モンスターとエンカウントしないことにはどうしようもなかった。背の剣も抜かれていないし、新しい装備の頼もしさを試せもしない。
(どうしたものかな…)
悩みはするものの、今日は大人しく帰るのが正解だろう。そう思って歩き始めた俺の足をメールの受信音が止めた。
滅多にメールなんて貰わないから、操作に戸惑いつつ開いてみる。差出人はさっき出会ったばかりの女性、シスイだった。
―――
件名:今日は楽しかった
本文:今は迷宮区かな?さっきは楽しかったよ。お礼にいい話を教えてあげる。
―――
文は標準語じゃないんだ、とつい小声で突っ込んでしまった。彼女が巧みに扱っていた関西弁らしき方言が綺麗に消えていた。
『いい話』を知るために先を読み進める。
―――
ここ最近、迷宮区をNPCがうろついてるって攻略組で噂になっているよ。見た目は小さな女の子で、プレイヤーが接触しようとしたらすぐ逃げちゃうらしい。何かフラグがあるのかな?
その子は《迷宮少女》って呼ばれてるみたい。迷宮区のクエストって今まであんまりなかったから、成功したら報酬は期待できるかも。機会があったら挑戦するといいね。
じゃあ攻略頑張って!
―――
わざわざメールをくれたシスイに悪いが読み終わって最初に思ったのは、俺には関係ないな、だった。
どう考えても運任せな対象の女の子との遭遇。いつぞやのネペントクエストで超手こずった俺にチャンスがあるとは思えない。
そう思って歩みを再開する。前方にはT字路がある。右に曲がれば出口、左に曲がれば行き止まりの小部屋だったはずだ。辺りにモンスターがいないのをいいことに、メールの返信を作成しながら歩く。
いい文章が思いつかない。『ありがとう』や『助かったよ』、『こちらこそ』のような定型文でいいだろうか…?
そんな本来迷宮区で考えるべきでない思考が急激に停止した。全身がゾワゾワと粟立つような感覚に襲われる。
――歩く先に女の子が佇んでいる。
迷宮区特有の薄暗さの中で、真っ直ぐこちらを見つめている。灰色のワンピースを着て、今にも迷宮区の闇に融けてしまいそうだ。
それなのに、髪の毛は薄暗い中でもハッキリと分かるくらい明るい赤。暗い印象な俺の髪とは全くの真逆。
《索敵》のスキルから派生する《暗視》をほとんど上げていない俺では、薄暗い中その子の顔を見ることは出来ない。だが、何故か俺はこの子を知っているような強烈な直感に襲われた。
(誰だ……?)
しかしその答えにたどり着く間もなく、俺とほんの数秒視線を交わしたその少女は弾かれたように走り去った。……T字路の左に。
突然のことに暫し立ち尽くす。考えうるかぎり、俺にあんなちっちゃい知り合いはいないはずだ。こちらの世界でも、あちらの世界でも。では、昼間出会ったキリトのようにどこかで見掛けたことがあるのだろうか。だとしたら、いつだ?そもそも、こんな最前線の迷宮区にあんな少女が……。
―――迷宮少女
さっき知ったばかりの言葉が、突如俺の思考の中に沸き上がった。
そうだ、シスイからのメールにあったじゃないか。『迷宮区でクエスト絡みらしき少女が見られる』と。それがあの少女なら、千載一遇のチャンスだ。少女の走り去った先は行き止まり。
このソワソワと落ち着かない感覚も、レアクエストの前に感情が高ぶっていると考えれば納得が行く。
俺はすぐに駆け出した。
少女の後を追って駆け足に行けば、そこはやはり行き止まりの小部屋だった。部屋の奥には既に誰かの開けた宝箱が鎮座している。見回すまでもない部屋の大きさ。しかし、妙だ。こんな小さな部屋なのに――少女が見当たらない。
俺が立っている以外の部屋の三方は全くの壁。ここまで来る通路も一本道で、曲がり道もなければ壁に隠れられそうな窪みもなかった。頭がひどく混乱する。
ゲーム的に少女は姿を見せただけなのだろうか。俺はあまりゲーム経験が多い方ではない。が、いくつか手を出したスタンドアローンのRPGでは敵キャラ若しくは、のちのキーキャラクターが顔見せ程度に現れ忽然と姿を消すことはしばしばあった。今回もその類いなら諦めるしかない。シスイのメールにも『フラグがあるかも』とあった。
少女の発見は諦めよう。今もモヤモヤと気持ちの悪い胸の感覚を無理矢理棚上げし、部屋の入口付近の壁に体を預けた。どうせならここでシスイに返信してしまおう。今の出来事も、彼女の書く新聞のネタになるかもしれない。
だが、ホロキーボードに手は置くものの文章は全く進まない。心底文才がないなぁと思う。簡単な文で返して、次あったときに直接口で話そう。俺の考えはそんなところで纏まった。迷宮区ならではの沈黙の中指を走らせる。
その時だ。静けさに否応なく研ぎ澄まされた聴覚が不思議な音を拾ったのは。小さく、本当に小さくスンスンと鼻を啜るような音がした。少しでも身動きすれば消えてしまいそうなその音に体を強張らせた。懸命に音の出所を探る。
……部屋の右奥の方からだ。立ち上がりそちらに向かう。もう音は消えていた。それでも向かう。
隠し部屋でもあるのでは?と勘繰った俺が壁に触れようとする寸前、足に何かが当たった。宝箱じゃない。
それは、膝を抱え小さくなった女の子だった。体を細かく震わせ、必死に気配を殺しているようだった。
この事態に驚かない者がいるはずない。実際俺も心底驚いている。だが何故か、可笑しなくらいすんなり彼女に手が伸びた。彼女の手を掴み、その華奢な体を引き上げる動作に強烈な既視感を覚える。記憶が強く刺激され、もう少しで思い出せそうだ。
(そうだ、この子は)
引っ張られた少女が俺を見上げる。大きな丸い瞳が俺を捉える。顔にかかっていたセミロングの赤い髪が後ろに流れ、丸い輪郭の顔がはっきり見えた。
「んやっ…!」
拒絶するように少女が俺の腹を突き飛ばした。かなり強いそれにフラフラと後ずさるが、そのことで俺の記憶は完全に覚醒しきった。
――俺はこの子と会っている。
そうだ、一層のあの森で俺はこの子に今と同じことをし、同じように拒絶された。髪の色は違うが、間違いなくあの時の女の子だ。
何故ここにいるのかは分からない。どうしてこんなにも怯えているのかも。それでも、俺はこの子に声をかけたかった。話したかった。あの日以来の感覚が帰ってくる。
「君と俺、会ったことあるの覚えてるかな?」
声をかけると少女は明らかに怯えた。背に負う少女の体格と不釣り合いな剣に手が掛けられる。
「やっ、来ないで…来ないでよぅ!!」
絶叫とともに躊躇わず剣が抜かれた。近づく俺の喉元すぐのところを剣が通り過ぎる。突然のことに慌てた俺は後ろに下がる足を縺れさせた。
「あっ…」
その声が俺のものなのか少女のものなのかも分からないうちに、強かに後頭部を床へと打ち付けた俺は強烈な痛みとともにあっさりと意識を失った。
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