| 携帯サイト  | 感想  | レビュー  | 縦書きで読む [PDF/明朝]版 / [PDF/ゴシック]版 | 全話表示 | 挿絵表示しない | 誤字脱字報告する | 誤字脱字報告一覧 | 

いぶにんぐ

作者:眼蝋
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。 ページ下へ移動
< 前ページ 次ページ > 目次
 

第一話

1-1

 ――車内に充満する色とりどりの匂いがどうにも好きになれない男でした。
 そもそも人間の生活臭というのが苦手な人間なのです。
 おそろしいのはそれ――特殊な習性のようなものです――が彼の頑固さと相まったときで、そういったとき、到底彼は駄々をこねる少年のような厄介者に成り下がるのでした。
 今年で二十三になる彼は、到底少年と言えるような年齢ではないはずなのですが、肉体と精神とが釣り合うことを放棄したかのような生き様こそ、二十二年と少しの歩みの結果というのですからこれはもう仕方のないことなのかもしれません。
 根本的な解決が無理なら妥協するしかないというのは人間の性でありますが、結局、彼の子供らしさが嫌ならば傍によるなという、これまた至極子供じみた言い分の先に一応、決着するのです。
 難儀なことは、彼の子供らしさとは全く別のところに、彼の魅力があるところで。
 そしてそれは基本的には交互に出現するというのですから、全く難儀なことなのでした。
 人を惹きつける能力――というものが仮にあるならば、彼には間違いなくそれがあるでしょう。
 しかし同時に、人を引き離す能力も備わってもいる。
 二律背反を体現したような男が、要は彼の全貌と言えるのです。
「西園寺(さいおんじ)。君はあれかね。僕を嫌がらせようとしているのだね。そうだろうね」
「まさか。私がどれだけ先輩のことを尊敬しているか、先輩はご存知ないんです。だからそんなことが言えるんです」
「どれだけ尊敬してると言うんだ。僕という男が、弁当と香水と体臭と生活臭とシーツの無機質な臭いとジャンパーの蒸れたような臭いと――ともかくいろんなものが混ざり合った臭いが嫌いだというのを知らない程度の尊敬だなんて、こんにちはの使い方もわからないのに礼儀を知っているとぬかすようなものなのだがね」
「食欲には勝てない程度の尊敬だと、こうは考えられませんか。なんでも否定的にとってはいけませんよ。ですから性格がネジ曲がっているだなんて言われるんです。頑固なのに曲がってるんですから、これはもう大問題ですよ」
「食欲に勝てない程度の尊敬を肯定的に取れる人間なんて、そもそも狂ったように前向きな、バッファローみたいな人間くらいに決まっている」
「バッファローの肉って美味しいんですかね」
「どうして」
「いえ、牛肉弁当なんですよ、これ」
「知らんよ……」
 彼はコートを鼻まで引き上げながら眉間にしわを寄せました。
 窓の外は既に暗がりです。
 流れる闇に思いを馳せようと試みているようですが、それは結局、この苦痛な空間をごまかすための苦肉の策でしかなく、景色を楽しもうだなんて気持ちはさらさらないのです。
「闇のむこうに何か見えるんですか。素晴らしいですね先輩。良いものが見えたら是非教えてください」
「西園寺。お前はいつからそんなふうに先輩に対して腐ったような口の利き方をするようになったのかね」
「先輩の部下になったその日からだと思いますよ」
「ふん。口にものを入れながらしゃべるんじゃない」
「すみません」
「全く。君はいつもそうだな。僕の苦しみを知っていながら、そうやって苦しめる側に加担する。部下なのに仕事を増やしてしまうあたり、君には上司を苦しませる才能があるぞ。誇りなさい」
「先輩。そんなにここが嫌ならデッキにでも行ってくださいよ。新幹線の車内なんて、基本的に臭いですよ?」
「基本的に臭い便があってたまるか」
「大便とかは臭いですけどね」
「西園寺。お前はそんなんだからいつまでたっても浮いた話のひとつもないんだ。いい加減ボーイフレンドでも作ったらどうだね。出会いがないというのは、出会うことに消極的なだけの人間がつくった言い訳だぞ」
「安心してください先輩。私はそんな言い訳はしません。出会いなんていくらでもありますからね。例えばほら、この車内だって、この人の数からすれば出会いの場としては格好のものです」
「その通りだとも。ほら、あそこの男性なんていいんじゃないか?」
「どこです?」
「すぐそこだ。ほら、今入れ歯を磨いてらっしゃる」
「先輩? あれは私のお父さんより歳を召されているように見えますよ」
「恋に年齢なんて関係あるかね。国境だって関係ないのだから」
「それだとその内、恋に種族は関係ないとか言いそうですね」
「いいじゃないか。サバンナでオスのキリンのケツを追っかけている西園寺なんて、実に堂に入っている」
「それじゃあ先輩は川原で石ころ相手に愛を語っているのが似合っていますよ」
「種族を超えただけでは石ころに恋はできないだろう」
「恋は物質の境界をも超えます」
「言ってることは格好いいんだがね」
 この日の二人というのは、隣県にいるかつての同僚を訪ねるという目的から帰宅するところでした。
 西園寺には直接面識のない人間ではありましたが、彼とは一年あまりを共にした上司なのです。
 その上司というのが女性だったのですが、面識のない西園寺を連れて行った理由というのがそこにあるわけなのです。
「來背(くるせ)さんと結局何をお話になったんですか。二人きりにしろと言われたことが数度ありましたけど、わかっていますか先輩。來背さんは寿退社なさったんですよ? 先輩にはなんの勝ち目もないのですからね」
「そうやって色恋の話に持っていくほど甘酸っぱい関係じゃなかったな、僕と彼女とは。いやなに、少しばかり、お前がいては都合の悪いことを――彼女にお前を直接見てもらった上で――聞こう、という目的を果たしただけさ。気にすることじゃない」
「そんなにはっきり言われて気にしない方が無理です。教えてください」
「こら、やめるんだ西園寺。顔が近い」
「照れないでくださいよ先輩」
「照れてない。口が臭いんだ」
「酷いです! 仕方がないんですよ。だってお弁当食べているんですから」
「わかっているなら近づけるんじゃない。その悪臭が溜まった口腔を」
「レディーの扱い方がわかってないって言われますね? 先輩」
「言われるとも。それも來背先輩に」
「やっぱり。傷つきません? そんなんじゃいつまでたっても彼女できませんよ」
「傷つくが、それよりもなによりも僕は部下の扱い方を知りたい。従順に言うことをきけとは言わないが、僕のことをある程度は理解してくれている人間に成長させるような技術とでもいうか」
「先輩が求めることなら、私は頑張れるんですけどね。どうしますか。頑張りますか? 私」
「大いに頑張れ。そしていい加減仕事ができるようになり、僕に回ってくる仕事をゼロにしろ。あと私生活の改善もな。西園寺がまだ年頃の女なのはわかるが、僕は香水の匂いも嫌いだ。常日頃からあんなきつい匂いを振りまくような柑橘系女子は真っ先に神経を疑う対象でしかない」
「ちょっと要求が多すぎます。善処しますが、時間が必要ですね」
「ほう。どれくらいかね」
「ちょっと待ってください。弁当を平らげてから計算を始めます」
「そのペースなら一体何百年後に僕の要求は満たされるんだろうな……」
 彼が何を聞きに行ったかということですが、それについては既に西園寺に話した中に出ていることです。
 ただ彼女が気づいていない上に、彼もまた、気づかせるつもりがないのですから、これ以上のこのことについて進むためには何か多少のインパクトが必要になるのです。
 それがなんなのかは、誰にもわかりません。
「しかしな、西園寺。僕は心配しているぞ。また明日からは僕らに仕事が戻ってくる。これまでのような日常はごめんだ」
「そうはいいますが、先輩。私は今日で何かが変わるような、そういう衝撃の大きい出来事に出くわしてはいませんよ。ですから明日の私が今日の私よりめざましく変化しているとは思い難いのです」
「本人が疑うならそうなんだろうな。僕はおとなしく君を叱る準備をしながら布団に入ろうと思うよ」
「よろしくお願いします」
「デスクワークが苦手なんだろうな、西園寺は」
「そうですね。きっとそうです。先輩が言うならそうなんでしょう」
「ファイルを持って来いという指示すらこなせなかったときはね、僕は本当に、どうしたらいいかわからなかったんだからね。本当だぜ? 嘘言ってるんじゃない」
「少し大げさですよ。あの時私はまだ新米だったんですから。先輩だって二時間かけて間違ったファイルを持ってきた私を、そういう目で見ていたじゃないですか」
「今も新米だぞ、西園寺。忘れちゃいけない」
「ですか。もうこの仕事について既に半年が経過したのようですけど、それでも私はやっぱり新人なんですかね」
「新人だろう。少なくともファイルを持ってこれないようじゃ、新米さ」
「二年経っていても?」
「二年経って資料の一つももって来れないやつなら既にいないだろうがね」
「クビキリってことですか。それは嫌です。嫌ですよ先輩。どうにか阻止してくださいませんか」
「いい方法がある」
「ぜひ聞かせてください」
「お前がファイルを正しく持ってくればいいんだ。そうしたら僕は西園寺の評価レポートにそこまで辛辣なことを書く必要はなくなるのだからね。言ってることわかるかい? それほど多くは言ってないぜ。言われた仕事をしっかりとやりなさいって、それだけなんだから」
「頑張ります。資料整理から間違いないようにしていきます」
「よく言った。それでいいんだよ。その言葉を、ずうっと待っていたんだから」
「時に先輩」
「何かね」
「あまり辛い仕事は寄越さないでくださいね。その、無理ですから。レポートに辛辣な言葉を書かれるような結果にしかなりませんから」
「西園寺……。お前ってやつは本当に、素晴らしいよ。完璧だね。今までの人生で君のような素晴らしい足かせに出会ったことはないよ。君がいれば僕が幼少期の頃に飼っていたセントリーバーナードのフラッシュも逃げなかっただろうに。重くて逃げられないからね」
「皮肉りますね、先輩。いいですよ。今回については私が悪いので、受けに回ります」
「今回にだけかね。本当に」
 時刻を見ればあとすでに到着していてもおかしくはない頃です。
 しかしそれは正常に運転していればの話で、出発する少し前に人身事故の関係でこの新幹線は大幅に遅れているのです。
 彼らがこれだけ騒いでも目立たない程度に車内がざわついているのは、つまりはそういうことなのでした。
「遅いですね、これ。あとどれくらいでつくんでしょう。――すみません。到着まであとどれくらいでしょう」
「一時間くらいでしょうか。詳しくはまだなんとも」
「一時間? 人身事故っていうのは嘘で、路線でも爆破されたんですか」
「いえ、そういうわけでは」
 彼女の鬱憤もいい加減限界のようです。
 係員に当たり散らしては弁当にかぶりつき、時折米粒をあちこちへと飛ばしているのですから、誰でもわかるという有様でした。
「君はね、西園寺。少し落ち着きなさい。新幹線って言っても、結局は人間の作ったものだよ。乱れもするさ。ネットワーク接続だって同じ。完璧に安定しているなんて、この世じゃありえないんだからね」
「完璧に安定していないなら文句言われても仕方ありませんよね。それって欠陥ですから」
「欠陥はお前だよ。ああやって係員に文句言ったところで、到着はあと一時間後だ」
「むう」
 小さな体躯をした西園寺が唸ったのと同じタイミングでした。新幹線の車内が大きく揺れたのは。
 同じくしてデッキの方から何か大きなものが転がる音がします。
 それは爆発音にも似ている轟音でした。
「なんだろうな。今のは」
「さあ。ダイヤの遅れにむかっ腹を立てた乗客が壁でも殴ったんじゃないですか」
「それであんな音が鳴るのは西園寺くらいだろう」
「または私と同系統の存在ですね」
「そういうことを言うんじゃない」
「すみません」
 前の車両から走ってきた係員が、つい先程まで西園寺に絡まれていた係員へと告げ口をすると、位置の関係からそれは彼の耳にも伝わります。
 信じがたいようですが、けが人が数人出ているとのことで、そうなると黙っていられないのがこの二人なのでした。
 西園寺は何かを感じ取ったように弁当を急いでしまいこみ、ティッシュで口周りを拭き取ってすぐに立ち上がります。
 その隣の彼はといえば、前の車両へと走っていく西園寺を見ながら係員へと話しかけるのです。
「申し訳ありませんね。何か起きたようなのですけど、状況を説明してもらえませんか」
「いえ、それがなんと申し上げた良いのかさっぱりでございまして」
「ご心配なく。僕と先ほど駆けていった小柄な少女は――つまりこいう仕事のもので」
 黒いコートから取り出したのは大きな金の徽章が入った、これまた黒い手帳。
「どうも。御正(みしょう)と言います。さあ、状況を」
 縦に開かれた警察手帳に貼られた顔と並んでみると、少し不気味に見えるのがこの御正という男の素顔なのでした。



1-2

 御正が係員に誘導された先は、彼が座っていた二号車の前、一号車。
 連結部をくぐり抜け先へと行くと、そこは想像を絶する光景が広がっております。
「これは、ええと、なんていうんでしょう。壁に大穴が空いていますけど」
「そうです。その通りです」
「こうなった経緯を訪ねても、きっと何もお分かりならないのでしょうね。こんなこと、何がどうなっても基本的に起きる事態ではないですから」
「はい。もうさっぱりで……。兎に角車両は停止させたほうがいいですよね?」
「もちろんです。穴が空いているんですから、これはもうそうせざるを得ないでしょう。穴の空いた付近に座っていらっしゃった方々は?」
「幸い軽傷の方ばかりで、デッキの方で簡易的な治療を」
「成程。ではとりあえずこれを止めましょうか。穴があいたままではあそこから誰かが出て行ってしまうかもしれませんからね。逆も然りですが」
「はあ」
 係員は慌てた様子で騒然とする車内を駆け出しましたが、新幹線を止めただけで原因がはっきりしないのは当然でした。
 御正が動き出した理由に関わってくることなので、おおよそ間違いはないのでしょうが、それにしても確信があるわけではないのです。
 このような大穴が空いた理由を、人外の力で説明するのなら、やはり彼の出番ではあるのですが。
「新幹線、止めてしまうんですか、先輩」
「当然だとも。このまま走行できるものか」
「これ以上遅れたら私の堪忍袋とやらがもう爆発しますよ。いいんですか」
「不謹慎だ。控えなさい」
「すみません」
「それで? どんな感じかね」
「少しですけど匂いますね。間違いなくこれは私たちの案件でしょう」
「全く……。首都圏に入っていなければ僕らの管轄じゃないと胸を張れるんだがね」
「それもどうでしょう。乗っちゃってますからね。車内に。否が応にも手伝わされることは必至でしょう」
「僕はね、西園寺。珍しく今日はオフだったのだ。來背さんにお会いしたあとはゆっくり終わりゆく休暇を噛み締める予定だったんだがね」
「知りませんよ、そんなこと。私に言われても、事件は待ってくれないんですから」
「やれやれ。お前にそんなこと言われるようじゃ僕も終わりかな」
「御正先輩終了ですか。悲しいですね」
「やかましい。いいからさっさと課長に連絡。それから救急隊員もすぐに配備するんだぞ。わかってるね」
「わかってます。いまやりますから、待ってくださってもいいじゃないですか」
「口の減らない部下だよ、お前は」
 携帯電話を取り出す西園寺から視線をそらし、御正は穴の方を見遣ると、それが本当に異常なものであることが肌で理解できるようでした。
 そもそもこんな大穴を、走行中の新幹線に開けるには一体どれだけの駆動力を持った装置が必要になるのでしょう。
 そしてそれははたして可能なのでしょうか。
「――すみません」
「なんでしょう」
「この列車、止まるんですか」
「止まりますよ。これじゃあ走れないですからね。止まりますとも。ほら、アナウンスが流れていますでしょう。このとおりですよ」
 それは艶やかな着物を着た、御正よりも少し若い女性です。
 真っ直ぐな黒髪が腰まで伸びる和風の彼女は、たどたどしい態度で御正に話しかけたのです。
 文章ごと覚えて会話しているような、そんな印象を受ける話し方でした。
「困ります。これ以上遅れられたら、私もう駄目なんです」
「そうは言いましてもね。このまま走ることもまた駄目なんですよ。わかってもらえませんか。けが人も出ているんです。あなたは大丈夫?」
「ええ、私は問題ありません。ですから走ってもらいたいのです」
「そんなに言うならご自分で走ったらどうですか。あと少しでこれは完全に停車します。そしたらこの穴からでも抜けられますとも」
「そんなの無茶苦茶ですよ。ご自分で何を言っているかわかっていますか」
「もちろん。ですから、もののたとえですよ。絶対に停車させる、ということのね」
「困るんです。本当に。ここで動いてもらわないと。私ずうっと待ったんですよ? それなのにまた待たなくちゃいけないんですか」
「ええ、そうです」
「信じられない」
「現実が信じられないならどこかでじっとしていなさい。ひとりの人間の小言を受諾できるほどこの世界は寛容ではないんです。わかりなさい」
 ゆったりと停車に向かって減速していく中、一号車ではどこかですすり泣く声が響いていました。
 凄惨な現場とは、まさにこのような状況を言うのです。
「先輩。課長への連絡が終わりました」
「課長は一体何と」
「現場の判断に任せると。公安も介入してきてるようです」
「だろうね。テロの可能性も考えなくちゃいけないような状況だ」
「どうしますか。増援にそのまま引き渡してもいいんじゃ?」
「お前はね、そんなふうに物事を邪険にするものじゃないよ。これは僕らのヤマだ。わかってるんだからそうしなさい」
「ですか。それじゃあ応援は」
「今なら誰が来るのかな。今城(いまぎ)あたりならありがたいんだけど」
「聞いてみます。公安はどうしますか」
「少し遅らせなさい。課長ならそれができる。知ってるんだから」
「了解です」
「――あのう」
「今度はなんです? ええと――名前を伺っていませんでしたね。お名前は?」
「お名前?」
「ええ、あなたの名前。それを伺っているんですけどね」
「姫ヶ里美夜子(ひめかり みやこ)、です。美しい夜に子で、美夜子」
「成程。御正って言います。それで姫ヶ里さん。――うん? 姫ヶ里?」
「何ですか。変わった名前なのは気にしないでください」
「いえ、どこかで聞いた名前だと思いましてね? ううんと、どこだったかな。姫ヶ里……姫ヶ里……」
 現場の確認をしながら、話しかけてきた先ほどの和装の少女の相手をする御正ですが、決してそのどちらかを軽んじているわけではなく、彼がそれほど器用な男なのだということを示す事実なのだということなのです。
 破片を拾っては、穴と照らし合わせ、時折匂いも調べる御正ですが、傍から見てその行動の意味を理解できるかは微妙でしょう。
「ああ、そうだ。仕事で以前姫ヶ里という女性にお会いしましたよ。それで覚えていたんですね。そうですそうです。そうに決まってます。ふんふん、姫ヶ里さんですか。懐かしいことですね」
「その姫ヶ里さんというのは――」
「はい?」
「……いえ、なんでもありません」
「そうですか。いえ、珍しい名前だと自負されているのですから、訂正する前の反応でもおかしくはないと思います。構いませんよ、僕は」
「そんなんじゃ、ありませんから」
「そうですか。それで、何か要件があったようですが、なんでしょう。ああ、こいつはしばらく動きませんよ。僕がどうこうできる問題じゃないんですから」
「いえ、そうじゃなくて。御正さんは一体どういう身分なのかと」
「身分?」
「ええ。係員の方だと思って話しかけたのですけど、違うようですし」
「ええと……二つほど」
「はい?」
「いえ、二つほど、おかしなことを言っていますよ、あなた。そもそも僕を係員だと思ったらしいですけど、それって本当に? 嘘ついていません?」
「嘘なんて」
「そうですか。いえ、係員の方は制服を着ていらっしゃるでしょう。それに比べて僕はと言えば、コート着込んでる。どうして僕を係員だと思ったんです?」
「それは、だってなんだか係員さんに混じっていたものですから」
「成程そうですか。それじゃあもう一つ。じゃあどうして僕が、係員じゃないと思ったんですか?」
「だって、あの女の子に指示を出していたじゃないですか。あの娘、どう考えても私より年下ですよ。係員なんかじゃないです」
「今年で彼女は十七になります。あれでも一応社会人なのですけどね」
「御正さんの部下?」
「そうです。というのも、僕って警察なんですけどね? たまたま居合わせたんですよ」
「警察」
「はい」
「警察……」
「何か?」
「いえ、何も」
「ならいいのですけどね。しかしどうして僕の身分を?」
「その、偉い方なら、この車両を動かせるかと思って」
「懲りない方だ。素晴らしいですね。根性があります。ですが、それだけじゃ世の中は回らないんですよ?」
「それは、もちろんそうでしょう」
「でしょう? そんな世の中ならこの世で一番えらいのは野球部とラグビー部になりますからね。――あ、ここ笑うところです」
「あはは……」
「無理しないでください。無視されるよりはいいですけど」
 電話を終えた西園寺は、正直気乗りがしない様子でした。
 彼女は一刻も早く帰りたかったのです。
 そこに何か理由があるというわけではありませんが、自分を連れて行ったくせに自分に隠れてこそこそと話し込む上司の姿が気に食わなかったというのは、間違いなくあるのでしょう。
 ですから彼らのボスにあたる、課長と言われる人間に話を通したとき、正直気が気でなかったのです。
 限界だった。
 こんなこと、さっさと終わらせたいのです。
 そんな状況にこそこの西園寺という少女の直感が冴え渡ることを、他でもない西園寺は知らないのですから、一層ストレスは鬱積していくのみなのでした。
「何かわかりましたか、先輩」
「爆薬を使った様子はないね。匂いもない。破片から見るに、内側から破壊されたもので間違いないと思うのだけど、どうだろうな」
「私は鑑識じゃないんでわかりません」
「これだけ状況が残ってるんだから、お前は少しくらい読み取ろうとしなさい。洞察力の欠片もない女だ。お前は」
「そこは先輩の領分ですから。介入はしませんよ」
「どうしてツーマンセルでそんな区切りがあるのかね」
「ツーマンセルだからこそじゃないですか。体張るのは私が担当しますからね。草食系の先輩に安心をもたらす西園寺京香(きょうか)なんです」
「どうですか、御正さん。動きそうですか」
「姫ヶ里さん。これはちょっと難しいでよ。もうしばらく時間がかかるかもしれません」
「ちょっと待ってください先輩。誰ですこの女。着物だなんていやらしい格好をしているようですけど」
「お前はまず日本文化に陳謝しなさい。着物はいやらしくなんてないんだからね」
「はあ。申し訳ありません」
「どちらを見て言っているのかね」
「南南東の方を」
「恵方巻きじゃないんだぞ」
「ではどこに謝ればいいんですか先輩」
「姫ヶ里さんがいるじゃないか。彼女にひとまず誤り給え」
「ええ? こんな正体もしれない女にですか」
「コイツは本当に――どうもすみません姫ヶ里さん。こいつって礼儀ってものを地元においてきてしまったようで」
「いえ、気にしません。今は動くことだけが心配なのですから」
「ふうむ。折角ですけど、これは厳しいですよ。こんなことをした相手を捕まえても、この穴がふさがるわけじゃありませんからね」
「さいですか。それではしばらく?」
「ええ。休んでいてください。じきに然るべき手段が取られるでしょうから。すみませんね。毛布くらいなら頼めばあると思いますが、いかがですか」
「大丈夫ですから、お気になさらず」
 振袖を翻して場から離れる姫ヶ里を見計らったように、西園寺は自分の上司へと話しかけます。
「どうですか。あの女、怪しいですね」
「人間かい?」
「いえ、違うでしょう。人間じゃない匂いです」
「だろうね。僕もそう思った」
「じゃああいつが犯人ですか。荒縄で縛ってきます?」
「いらない。居住登録を済ましていたらどうするんだ。訴えられることはないだろうけど、赤っ恥さ」
「でも、先輩。このタイミングであやかしだなんて、怪しいですよ」
「ふん。あやかしが怪しくないものかね」
「洒落てる場合じゃないです」
「わかってる」
 ――あやかし。
 警察という身分でありながらそんな非現実的なものの事件を担当しているのがこの御正と西園寺でした。
 もちろんそんな組織の存在は公にはなっていません。
 彼らとて、身分を詳しく言えば――表向きには――警視庁捜査一課に配属されてはいますが、 その中に存在する非公式組織、対特殊外人捜査、というのが、彼らの本当の所属なのです。
 この世は誰もが思うほど、現実という囲いに収まっているわけではないということなのでしょうか。
「――犯人、彼女だな」


1-3

「――彼女? 姫ヶ里とかいう? 決め手はやはりあの匂いの濃さですか」
「それもそうだけど、あやかしなんて探そうと思えばそこらへんにいるからね。登録手帳を持ってるかはあやしいけど」
「それは義務です。持っていないといけません」
「そんなのいちいち守るかね。身分を証明する手帳だなんて銘打ってるけど、そもそもが『特殊外人』なんだから」
「それじゃああの女をどうするんです」
「…………」
 いくらかの破片を捕まえて、もう一度匂いを嗅ぐ御正。
 その傍では無意識的に眉をしかめている西園寺の姿があります。
「多分だけどね。彼女は、犯人を知ってるんだよ。いや、犯人になりうるような人物を知っているというか」
「つまり、こんな大穴を開ける馬鹿に心当たりがある」
「そう、そのとおり。何だ西園寺冴えてるじゃないか」
「早く終わらせて帰りたいんですよ、私は」
「そんなことはっきり言うんじゃない」
「しかし、先輩は犯人が彼女だと言っていませんでした? それなら犯人に心当たりがあるに決まってますよ。だって自分なんですもの」
「そうじゃないんだ。穴を開けたのは彼女なんだけど、彼女にとってはそれが不測の事態だったんだろうって話しさ。穴については犯人は姫ヶ里さんだ。でもこの事態はそれだけじゃ終わらない気がするのさ。君、言ってる意味わかるかい?」
「いいえ、さっぱり」
「流石だ。胸を張りなさい」
「えっへん」
「喧しい。馬鹿は黙っていなさい」
「先輩? 今のはひどいと思います」
「僕もそう思ったよ」
「酷いと思っているのに悪いことを言う人間は、尚更酷いですね。最悪です。いいですか。最悪です。大事なので二回言ったのですよ先輩。最悪なんですからね」
「そんな最悪な上司の命令を聞いてくれるかね、西園寺」
「命令に拒否権はありませんよ先輩。先輩がやれって言ったらやるんです」
「殊勝ではあるけど、日頃の行いがその言葉の真意を台無しにしてしまっている気がするね。お前ってやつはそうやって台無しにするのが上手な女なんだから」
「じゃあ今度も台無しにしてみせます。本気ですからね。命令とやらを聞かせてくださいよ。さあ」
「デッキを開けてきなさい。僕はあとからそこに行くから、僕らだけで内密な話ができるような空間に仕上げておくこと。いいね」
「はい。すぐに」
 小柄な少女が走り抜けていったのを見届けた御正は手に持っていた欠片を放り投げて移動を始めました。
 その足取りといえば、本当にゆったりとしたもので。この凄惨な現場に似合わないような余裕ぶりです。
 彼はそのままの歩みでとある座席に座る和装の女性――かの姫ヶ里に声をかけるのでした。
「お休みのところすみません。お話を少し聞きたいのですけど、よろしかったですか」
「動くんですか。いよいよ」
「いえ、そうじゃないんです。そんないい知らせじゃないんです。ただ本当にお話をしたくて」
「いいですけど、私ったら、何も知りませんよ」
「それはあなたが決めることじゃないですから。さあ、どうぞこちらに」
「御正さんって、変わってますね」
「そうですか。まあ、正常ではないと自負していますけどね」
「ふうん」
 立ち上がた姫ヶ里は御正の二歩後ろを付いて歩きます。
 御正には背に刺さる伺うような訝しい視線が存分に感じられますが、それもすぐそこまで。
 一号車とは違って静寂が支配するデッキへと入った途端に、彼は問いただすような視線を彼女に向けるのです。
「西園寺。絶対に誰も入れてはいけないよ」
「もちろんです」
「ええと、なんのつもりですか」
「いえ、ですからお話しを聞いておきたいんですね。姫ヶ里さんに。座りますか。椅子か何かないかね」
「ありません」
「探してもいないだろうに、君は」
「――御正さん。座るのはいいですから、早くしてください。お話ってなんですか」
「……いくつかあるんですがね。まずはあなたの身分についてです」
「身分?」
「ええ。お仕事は何を?」
「陶芸をしています」
「故郷はどちらで?」
「東北の方です」
「両親はご健在で?」
「父がいません。母は同じく陶芸をしています。変わり種で、ずうっと小屋にこもっていますけど」
「あなたもそうだ? 母と共にこもる生活を?
「……はい」
「成程」
「終わり?」
「ええ、終わりです」
「これでなにがわかるんですか?」
「少なくともあなたがとても正直だということは分かりましたね。というのもですね、姫ヶ里さん。僕はあなたの母を知っている。姫ヶ里というのは東北の高尚なあやかしの一族の名前ですからね。以前のパートナーと東北へ出張に行った時にお世話になったんですよ。成程、居住登録は住んでいるようですね。あのお母様のお子様ですから」
「母上と知り合い? まさか」
「まさか? どうしてそんなことが?」
「だって、母はずうっと山に篭っているんですよ?」
「知っています。あの山は全部あなたの一族の管轄ですからね。守っていらっしゃるんでしょう」
「…………本当に知っていらっしゃるの?」
「ええ。僕はあなたがたのような存在を扱う仕事ですからね」
「でも警察だって」
「警察ですとも。非公式ですけど」
 言葉が続かず、つばをひとつ飲み込んだ姫ヶ里。
 生まれた時からあの山で育ったこの少女には、一体自分がどういう存在なのかが分かっていないのです。そしてその無知さは、明らかににじみ出ているものでした。
 御正が嗅ぎつけたのも、そんな些細な部分なのです。
「どちらかといえば神に近いあやかしですからね。余計にご存知なかったのでしょう。母が一体どんなふうに人間と付き合っていたか。そして、あの山から離れたとき、それがどんな結果を招くか」
「……私は、何も壊そうだなんてつもりはなかったんです! 信じてください」
「信じますよ。あの山を離れて、あなたは力の制御が上手くいかなくなったんだ。名に宿るあやかしもいれば、山に宿る神もいる。あなたはあの山から出られない存在なのです。そしてそのことを、他でもないあなたが知らなかった。暴走した力はこの世の器物は簡単に破壊してしまうでしょうね。新幹線の側面だなんて、簡単に」
「全部、わかっているんですね」
「姫ヶ里さんは、ずうっと新幹線が動くかどうかを心配なさっていましたから」
「え? それが、おかしいですか」
「おかしいでしょう。内側から側面を抉られていると聞こえていたはずなのに、何より動くかどうかを心配するんですから。これじゃあまるで、事のあらましを全部知っているかのようじゃないですか。姫ヶ里という名前を知っていたのは、完全に偶然ですけどね」
「だって、動いてくれないとまずいんです。焦るじゃないですか。当然ですよ。御正さんの言う通り、私は山を抜け出てきたんですから」
「間違いなくお母様が追っ手を出されるでしょうね。あなたは自分の力の暴走の他に、それが怖かったんでしょう? そうに決まってます」
 一度だけ深く頷いた少女は、あやかしという割にとても小さな体をしていて。
 御正の瞳には優しい色を浮かべています。
「いけませんよ、姫ヶ里さん。あなたはあの山の主なんです。あなたがいなくなったら、あの山は廃れてしまう。お母様はあなたが生まれたその瞬間より、どんどん力がなくなっていっているんですからね」
「そんなことを言っても、どうしようもありません。私は、どうしてもいかなくちゃいけない場所があるんです」
「お母様には内緒にして? 家出ですか」
「それは――」
 途端。
 デッキへの出入り口で仁王立ちをしていた西園寺の頭の隅に突き刺さるような衝撃が走りました。
 彼女にはそれがなにかわかっていましたが、自分の上司もそうかは確証がないため、訴えかけるような瞳で御正を見遣ったのです。
「先輩。なにか来てしまっていますよ。気づいてらっしゃいます?」
「いや、僕にはわからない。それは何者かね」
「十中八九その女を追ってきた山の物の怪でしょうね。そんな感じの匂いです」
「ふうむ。参りましたね姫ヶ里さん。あなたの危惧なさっていたことがすぐそこまで迫っているようです」
「そんな……! いけません。私はこの先に行かなくちゃいけないんです」
「その結果お母様が辛い思いをしても?」
「……そうです」
「先輩? いらっしゃったようですよ?」
 昇降口のぶ厚いドアが吹き飛び、夜の闇から見慣れない形状を生物がゆったりと乗車してきます。
 人間のような五体を持っていますが、顔には大きなくちばしがついており、修験者の格好をしているそれは、現代においても自身の存在を隠すことの必要性を理解していないと主張するような、れっきとしたあやかしです。
「やれやれ。これだから人の世の理をしらない輩は困るんだ」
 すらりと銀に光る太刀を片手に持ったあやかしは、猛禽類のような鋭い瞳で姫から御正を睨みつけ、さらに一歩を踏み出します。
 抜身の太刀というのが一体どう言う意味を持つのかは、世情に疎い姫ヶ里にも、わかったようでした。




1-4

「姫、帰りましょう」
 相手の声は、くちばしから出たとは思えないようなはっきりとした日本語でした。
 低く、地面を震えさせるような威圧を込めた声です。
「いやよ。私は帰らないわ。何のためにここまで出てきたと思っているのよ。あともう少しなんだから」
「母上様が大層心配なさっています。山のためにも、ここは是非」
「わからないのね。あなたとは話はできないわ。お母様には早くに帰るとだけ言っておいて。私は大丈夫だからって」
「それはできません。さあ姫。帰りましょう」
「――ちょっと待つんだ。そこを動くな。太刀を握ったその片手を動かすんじゃないぞ」
 一度強く太刀を握り締めたのを見た御正は間に立ち入り動きを止めますが、目の前のあやかしはモノを知らず、人の世を知らぬ存在なのです。
 こんなことで止まるどころかひるむような存在では、決してないのでした。
「貴様は何者だ。姫の前に立つというのなら、切り捨てる」
「ここは山の中じゃないんだ。そんな風に何でも力づくで解決できることなんて、そうそうないんだがね。扉のむこうには人間がたくさんいる。ここで揉めればそっちだって楽じゃないだろう」
「人間など知るか。貴様を斬り、姫を連れて帰ればいい。それだけだ。時間も力も、さほどいらん」
「これだから山の怪は嫌になるな……」
 当然、このような状況に備えていないわけではありませんが、ただそれはそれ。
 力づくは、誰もが望まない選択なのです。
「ねえ、お願い。私は行かなくてはいけないの。どうしても行きたいのよ。父の墓に」
「父上様のお墓ですって?」
「そうよ。生まれてから一度も行ったことのないお父様のお墓。こっちにあるんでしょう? 私知ってるんだから。お母様は結局今まで一度も連れて行ってくれなかったけど、私だって……お父様に一度くらいお会いしたいのよ……。だからお願い」
「なりません。それは母上様が是非を下す事柄でございます。まずは山に帰り、そこで今一度お二人で取り決めをなさってください」
「実の父の墓にも行けない娘の気持ちなんて、お前のような作り物にはわからないのだわ! だからそんなことが言えるのよ!」
「私はつくりものですが、しかし母上様がどうして姫をここまで連れてこないのかはわかります。それは単に山のため。――物事の一つも知らぬ小娘の小言一つであの山を滅ぼす理由はどこにもないのだ! いい加減目を覚ましなさい!」
 一度大きなため息。
 あやかしのではありません。もちろん姫ヶ里のでも。
 それは扉をがっちりとロックしている少女と御正のものでした。
「どうするんですか、先輩。いい加減にしないと応援来ますよ。そうなったら私、嫌です」
「僕だって嫌さ。しかしね西園寺。これは難しい話だよ。使命と信念なんていうのは、水と油だ。対立したら絶対交わらないのさ。そういう時ってのは、僕は基本的に業務的になるのだけどね」
「じゃあ今回も?」
「しかし今日はオフなんだ。私情を挟んでも、文句を言われる筋合いはないね」
「それでこそ私の先輩です。では私はどうしますか」
「どうしたいかね」
「は?」
「君は、あの二人を見てどうしたい?」
「珍しいですね。私に決めさせてくれるんですか」
「オフだからね」
「そうですか」
 にんまりと大きな笑顔一つ浮かべて、西園寺は一度咳払いをします。
 彼女は仕事に入るとき、いつもこうして大きな咳を一つするのです。
 それが、彼女なりのルーチンなのでした。
「あの女は気に入りませんけど、あのバットマンもどきも気に入りません。私はあの女の方を助太刀したいと思います」
「そうかね。ならそうするといいよ。僕は何も言わないからね」
「本当にどうしちゃったんですか先輩。まあ、好きにやらせてくれるって言うんだからいいんですけどね」
「殺すんじゃないよ。追い返す程度にしなさい」
「報復が怖いですよ、それは」
「ここは人間の社会だ。あやかしには少しだけ、心苦しい思いをさせるね」
「成程。ははっ」
 快活に笑う西園寺とは逆に静かに睨みつける山の怪は、ぎらりと光る刃を西園寺へと傾けます。
「失せろ小娘。これは山の掟の問題だ」
「いいや、違うね。これは人間とあやかしの問題だ。あやかしが人間の公共交通機関を利用しちゃってるんだもんね」
「わけのわからないことをぬかすな」
「西園寺、時間はないよ。直ぐに終わらせ給え」
「了解です、先輩。ようし、楽しくなってきた」
「さあ、姫ヶ里さん。野蛮なことは僕の部下に任せておきましょう。ただ傍にいるとかなり危険なのでね。扉のむこうで休んでいることにしませんか。コーヒーくらいならおごりますけど、いけます?」
「「え? いや、あの……?」
「いいんですいいんです。あの女は、元々こっちに収まる器じゃないんですから。さあ、こちらに」
「貴様! 姫をどこに――」
 山の怪の言葉を最後まで聞くことはできませんでした。
 それは轟音と器物だった破片にかき消されたからです。
 人の目では追えないようなその一瞬の出来事の詳細は、単純に西園寺の体当たりという、技とも呼べないような技。
 彼女の立っていた場所はあの衝撃の土台となったために陥没しています。
「あ、あの人、何者ですか」
「僕の部下ですよ。ただの少女とはいきませんけどね。とある事情でうちの職場が引き抜いたんです。物理法則の中で窮屈な思いをしていたところをね」
「はあ……?」
「いえ、いいんです。そんなことはいいんですよ。ただ伺いたくてね。お父様のお墓にということでしたけど、それはどうして?」
「……私、生まれてからあの山にずうっと閉じ込められていたんです。悪い思いをしたことはありませんけど、遠い昔にお母様が人の世に出てお父様と恋に落ちた話を聞いたその日から、ずうっと外の世界に憧れていて……」
「それではあなたはあやかしと人との子供ということですか」
「みたいですね。力は山の怪のものを濃く受け継いだようですけど」
「ふむ。つかぬことを伺いますが、お母様は本当にあなたを山に閉じ込めていたのですか?」
「はあ?」
「いえ、では質問を変えましょう。あなたのお年は?」
「今年で十六です」
「成程」
「あの、なにか?」
「いえね? あの偉大な姫ヶ里様が、人間と交わった子供を山に閉じ込めておくとは考え難いのですよ。ですからね? これは、本当に野暮なことですけど。もしかしたらお母様は閉じ込めるつもりなんかではなかったのかもしれませんね」
 車体が大き揺れるのと同時に、矯正がどこかで聞こえました。
 こんなことのあった車内はすでにパニックになりかけていますが、この御正と少女とはとても落ち着いた様子で、一号車のシートに並んで座っています。
「寒いですね」
「え?」
「いえ、あの大穴ですけど。あれを空けたのはあなたですよね」
「え、ええそうです」
「お母様、きっとそれを予見してらっしゃったんですよ。山の怪が山から離れて力が制御出来なるなんていうのは、とっても幼稚な話です。事実、僕があなたの母と出会ったのはこ凍える冬の町並みで、オフィスから出てくる人間の男性を待っているところだったんですからね。今でも覚えていますよ。あれだけ偉大な存在が、たった一個の人間と一緒にいるために数時間出待ちのような真似をしているんです。あなたのような着物を着込んで、凍える手を吐息で温めながらね」
「……お母様ったら、そんなことを」
「あなたの母上は立派に人の社会に溶け込んでいました。それはもう立派なものです。ですから、きっとあなたにも、力の制御をさせたかったはずなんです。そのための区切りを設けたとして、それが十六歳という節目であるわけがありましょうか。当然人として成人を迎える十八の時だと思いますよ? きっとね」
「――本当は、お父様のお墓がどうなっているかを一度見てみたかったんです。憧れなんかじゃなくて、お母様がお父様を今でも愛しているかどうかを、見てみたかったんです。だって酷いじゃないですか。私が生まれてから一度も、お母様は人の世に出ていないんですから。その間にお墓がどうなっているのかなんて、気にしていない様子で」
「ですが、それはあなたの問題ではないでしょう。ここにきてようやくわかったでしょう? 人の世とは、とても息苦しくて鉄臭くて、本当に冷たいものなのです。こんな世界に、あなたが踏み入れてはいけませんよ。手続きさえしてくれれば付き添い人も提供できたというのに」
「それじゃあ、意味ありません」
「と言いますと?」
「……笑いませんか」
「どうでしょう。冷笑、苦笑、爆笑。笑うといっても色々ありますから、聞いてみないことにはなんとも」
「それじゃあいいです。そんなこと言う人には話しません」
「ああそんなに拗ねないで。どうか聞かせてくださいよ」
「……御正さんは、運命って信じますか」
「信じますね。正確には、縁、と呼ぶものですけど。人と人とが出会うときというのは、大抵運命的なものです。それが良きにしろ悪きにしろ」
「お母様は、丁度とある旧家に顔を出すために山を降りた時に、出張中だったお父様にお会いしたと言っていたんです。それがとてもいい雰囲気だったみたいで、お母様ったら自分が何者かを隠してお父様と話に暮れたんだそうですよ? お母様がお父様に自分の身分をなんと言ったかわかりますか」
「さあ。なんて言ったんです?」
「木こりだそうです。お母様ったら、人間のお仕事なんてそれくらいしか知らなかったんです」
「お父様は、相手が嘘をついていることを知っていたんですね。それでいて、一緒にいたかった」
「そうです。結局その時もらった名刺を頼りに、それから数ヵ月後にお母様はお体一つで人間の街に出ていくわけですけど――私ね、御正さん。運命的な出会いってしてみたかったのだわ。お父様のお墓参りに出て行ったらうっかり素敵な出会いがないかって、そう思っていたんだわ。馬鹿ね。新幹線なんて知らなかったから、道行く人にいろいろ聞いて、麓の人からもらったこのお金でチケットを買ったんです。それで、これで乗れるのを教えてもらって、何もわからないままこうして揺られていたんですけどね。きっと間違った道を行ってるんです。私、わかるんです。企んでいる時点で、運命的だなんていえないですものね」
「どこに行きたかったんですか?」
「湯布院という町に」
「これでいいんですよ、姫ヶ里さん。このあといくらか面倒なことがありますけど、これでいいんです」
「嘘ばっかり。御正さんってお優しいんですね」
「……どうでしょう」
 何かが弾ける音が、大穴の向こうから聞こえて車内で反響しました。
 遠くで底冷えのする地鳴りが三度続きました。
 そんな中で、姫ヶ里は涙を一筋こぼしたのです。
「御正さん」
「はい」
「こんな生活、疲れませんか」
「どうでしょう。いい加減慣れましたよ。僕はここで生まれた、人間ですからね」
「結局、生まれた場所でないとうまい具合にはならないんでしょうね。わかりました。もう帰ることにします。お母様に、許してもらえるかはわかりませんけど」
「まあ待ちなさい。そんなにむきになるものじゃないんです。いいですか。人間だろうがあやかしだろうが、心があれば悩むし、悲しむし、辛いんです。どこで生まれたって、どんな言葉を喋っていたって、どんな身分であっても、それは同じなんですよ。僕はこの仕事について四年になりますけど、大変多くのあやかしを見てきました。その全員が、一筋縄ではいかない物語を持っているんです。全員がですよ? あなたもそうじゃないんですか」
「環境がどうこうという話じゃないって、ことですか」
「そうです。悲しい事件もありました。恐ろしい事件もありましたよ。それでもね。あやかしの事件はなくなりません。人の世で一所懸命くらしている人たちのサポートも、僕らの仕事なんですからね。いいですか、姫ヶ里さん。あなた、そんなままなら一生変わりませんよ。現にあなた、お母様の意思を取り違えるだなんて大きな失敗をしている。これを環境のせいにできますか」
「……できないです。私が、勝手に悶々としただけですから」
「でしょう。世界は惰性で変わってはくれないです。変えるなら、壊さないと。そのためには、親御さんの意思を反故にするような真似はいけませんね?」
「はい……。すみませんでした…………」
 ぼろぼろと涙をこぼす少女の手を握り、御正は笑います。
 涙を流す彼女にはそれが見えてはいませんでしたが、見せるための笑顔ではないのですから、これでいいのでしょう。
 御正が決めることです。
 姫ヶ里にはどうにもできません。
 逆もまた、そうなのですから。
「――さて、それじゃあそろそろ終わった頃でしょうから見に行きましょうか。そしてあなたの口で伝えなさい。このあとどうするかをね」
「そうします。このあと私は、そうですね――」
 御正よりも先に立ち上がった姫ヶ里。
 世間知らずな山の姫のはじめての遠出は、こうして少しばかりの傷跡となって、彼女の今後に影響を与えていくのでしょう。
 その瞬間に立ち会ったのが御正であったことを良く思うのも、きっと今より後の話なのです。
 物を知らない彼女には、理解しなければいけないものがあまりにも大きすぎる出来事だったのですから――。




1-5

 ――この事件の後日談を少しばかり話すならば。
 トラブルの直接の要因と判定されたのは山の怪であるとされ、御正と西園寺はそんな暴走したあやかしを制圧したというのが事の顛末として伝わりました。
 山の怪がどうして人間の社会に降りてきて突如新幹線を襲ったのか。
 この事件にはとても多くの謎が含まれていましたが、御正は一貫して「僕にはわかりかねます。偶然出くわしただけなので」と主張し続け、その向こうに何かを察した対特殊外人捜査の面々は、その彼の主張を受け入れるに至ったのです。
 彼は元々そういう人間なのですから、今に始まったことではないと柔軟な態度を見せてくれたのかもしれません。
 御正自身がそれを察していたのかはわかりませんが、少なくとも、彼のしたことは間違いのない善行と言えるのでしょう。
 死んだ親の墓に行きたいという、ひとりの少女の願いを叶えてやったのですから。
「――あの姫ヶ里とかいう女、どうなりましたかね」
「さあね。今頃こってりお母様に絞られているんじゃないかな。そのあたりは家族の話だから、野暮な真似はよそうじゃないか」
「別に知りたいなんて思いませんよ。ただ先輩がせっかく匿ってやったんですから、親御さんの墓には会えたんだろうなと、そういう話です」
「ああ、それか。ふむふむ。聞きたいか?」
「聞きたいです。是非」
 春の訪れを感じさせる日の昼頃。
 今日は澄み切った青空の割に冷たい風が、開け放たれた窓から入ってオフィスを満たしています。
 モニターに向き合ってキーを叩く御正の隣のデスクでは、散らかったプリントの上に突っ伏した幼い少女がいました。
「あのあと僕が彼女を送っていったのは知っているね? もちろん」
「ええ。どうせ先輩のことですから、お墓まで連れて行ったんでしょう」
「その通りだ。随分と長い距離ではあったけど、ヘリをチャーターしたからそのあたりは問題なかった。力の暴走も、まあ僕がいたからね」
「先輩がいなくて大変でしたよ。全く」
「大変だったのはお前だけだろうね。僕はそもそも、仕事を溜め込まない男なんだから
「それはそうですけど……。私なんて先輩がいなくちゃ何もできないんですからね」
「威張ることじゃない。――どこまで話したか。ええと、到着したんだ。取り敢えずね」
「確か九州まで行ったんですよね」
「そうだ。それから目当ての街まで行って、お墓を探した。あいつの記憶もあまり定かではなかったからね。元々、母親のぼやきを盗み聞きしたようなものだから」
「よくそれで見つかりましたね。さすが、女には優しい先輩です」
「嫌な言い方をするものじゃない。というかだね。これがこの話のオチというか、笑いどころなのだね?」
「驚きました。この話、ギャグストーリーだったんですね」
「そうじゃない。そうじゃないんだが、ただ笑うしかなかったんだ。僕らはね。それというのもだ。結局、お墓は見つからなかったんだよ」
「ええ? どうしてです。 まさか記憶違いでも?」
「さあね。ただ、姫ヶ里の姫が聞いた場所には、お墓はなかった。これだけは言える」
「そうですか。なんともまあ、肩透かしな話――でもなさそうですね」
「わかるかね」
「だって先輩。とっても機嫌良さそうですもの。それくらいわかりますよ。一体何年一緒にいると思ってるんですか」
「半年だ」
「その通りです。ふふん」
「誇れるくらいの長さではないけどな。半年は」
「あの先輩と半年一緒にいるんですから、それはすごい事なんですよ。みなさん言ってます」
「成程。僕はそういうふうに見られていたのか」
「まあそれはこの際いいです。それで、お墓がなかったという話の続きですけどね? まさかそれで終わりじゃないでしょう」
「一応ね。これ、見るか。昨日届いた手紙だ。差出人は姫ヶ里。例のお姫様さ」
「そこにはなんと?」
「うん? お墓、ありました――ってさ」
「はあ? 一体どこに」
 突っ伏していた西園寺が勢いよく顔を上げ、モニターと御正との間に割り込んでいます。
 丁度向かいのデスクから卑しい笑い声が聞こえますが、この際それはどうでもいいのでした。
 西園寺には、お墓の真相が何より気になったのです。
「いやな。墓、随分昔に場所を変えていたんだとさ」
「どこに」
「決まってるだろ。姫ヶ里が支配する、あの山だ」
「そんな。それじゃあはじめから、そこにあったんですか」
「そういうことだ。種族を超えて愛したのに、死んで『はいさようなら』なわけがあるかと、怒られたらしい。ふふ。中々面白い勝気な神のようだね。彼女だから、きっとここまで人を愛せたんだろう」
「いや、でもそれっておかしいですよ。だって、じゃあ身内はなんて言ったんですか。拒否したはずじゃないですか」
「知るか。この手紙にはそこまで書いていないよ。ただ、僕が思うにだけどね。きっと、人間の男の方も、同じことを考えたんだと思うよ」
「よくわかりません。先輩。そんな風にはぐらかすのが、私は嫌いですよ」
「知るかね。こんなの僕の憶測でしかないんだ。あとは君が勝手に察したまえ」
「愛だなんて、十七の私にわかりますか」
「ふん。色恋のいろはを部下に教え込むほど、僕は暇じゃないんだ。いいからどきなさい。仕事ができない」
「先輩だって言うほど色恋に敏くなんてないくせにそういうこというんですもんね。嫌だなあ、童貞は」
「おいちょっと待て。僕は確かに恋愛経験は豊富ではないけど、童貞ではないぞ」
「慌てて否定しちゃいけませんよ先輩。ばれます」
「全く。西園寺と渡り合うには百歳以上低年齢化しなくてはいけないから疲れるよ」
「どういう意味ですか!」
 運命だなんてものは、結局のところそんなものなのかもしれない――と、御正は心のどこかで思いもしましたが、それで誰かが不幸になったかと言われればそんなこともないように、運命的だろうとそうでなかろうと、目の前の現実から逃げるのはとても大変な作業なのかもしれません。
 あの日あの時、あの新幹線に偶然居合わせたのも運命的であったと言えるでしょうし、御正が姫ヶ里という少女に必要以上に肩入れしてしまったのも運命的でした。
 果たして、どんな運命を辿っていても、九州に彼女の父の墓はなく、はじめから母の下にあったのでしょうか。
「そう言えば先輩。聞いてみたいんですけどいいですか」
「嫌だ」
「あのですね? あの日、先輩は珍しく私に任せましたよね。その、選択を」
「なんのことかね」
「ですから、山の怪のことです。どっちの味方をするか――と」
「ああ、そんなこともあったね。それがなにか?」
「いえ、どうしてそうなったのかなって。私はまだまだ先輩に管理されていなきゃいけない身分じゃないですか。先輩も、そのことを理解した上で私に役割を分担してますし。その、あんなふうに自由だったのは初めてじゃ?」
「嫌かね、自由は」
「嫌です」
「おや、そう? 普通はそうじゃないんだがね」
「だって不安じゃないですか。先輩? 私、上手く出来ましたか? あの時、本当に山の怪を黙らせてよかったんですか。あっちにも使命があったのに」
「いいかい、西園寺。君はきっと、これから色々なものを見ていくんだ。本当に様々なものをね。それをどう咀嚼するかは僕が決めることじゃない。僕の管理外だ。僕はただ、お前の力を管理するだけ。お前の思想までどうこうしようとは思わないよ」
「それは、そうですけど」
「正直言うと、お前がそういうふうに思うのは想定済みだった。自分で選択することなんてなかったものな。そんなものさ。十七の少女なんて。でも、だから自由にした」
「どうして?」
「知らんよ。ただ、そう言われたんだ。僕の、信頼する元上司にね」
「來背さんですか? そうですね?」
「ノーコメント」
「ええ!?」
 御正が來背に訪ねに行ったことというのが、要はそれだったのです。
 彼女を見てもらった上で、彼女をどうするべきか。
 御正なりの不安を、御正なりにぶつけたのでしょう。
 これもまた、運命的だったのかも、しれません。
「お前は自由に考えなさい。そして、自由に悩みなさい。その挙句に何か大きな失敗をしたら、そこは僕の役割だ。これからは、そういうふうにお前を育てていくことにしようかな」
「育児放棄ですか!」
「信頼の形だと言ってもらいたいね。そもそも僕がいつお前を捨てた。お前のことでこんなに頭を痛くしている僕が、それを無駄にするなんてもったいないことをするものか」
「……先輩」
「ただ、この手紙に少しわからないところがあってね。この意味をお前にも聞いてみようかな」
「どれです?」
「最後だ。ここに、『運命的な出会いも、果たせました』と書いてある。この意味はなんだろうな」
「知りません」
「早いな。本当に考えたかい?」
「はい。ですからいいんです。今はとりあえず、私のことばかり考えていてください」
「はあ……?」
 ひとまずこの話はこれでおしまい。
 御正と西園寺の新設コンビは、こんな風に今日も仕事をこなしていくのです。
 運命という縁に、たぐり寄せられながら――。


終わり
 
< 前ページ 次ページ > 目次
ページ上へ戻る
ツイートする
 

感想を書く

この話の感想を書きましょう!




 
 
全て感想を見る:感想一覧