シャンヴリルの黒猫
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Chapter.2 武闘大会
35話「胎動」
満月の夜のことだった。
彼女の足元に、ある人影がかしずき、その名を読んだのは。
「ノーア様」
桃色の髪を持つ少女は、硝子の盃に注がれた酒を月に掲げ、その色合いを楽しんでいた。膝を組み、薔薇の香りのするそれをクイッと飲み干す様は、人間離れした艶やかさと妖しさを持ち合わせ、愛らしい姿とは似ても似つかぬアンバランスさを秘めていた。
再び人影が声を発する。
「ノーア様」
少女は煙たげにそちらへと目を向けた。
「私は今、ひとりでいたいのだ。去ね、シファ」
「アシュレイ=ナ=ヴュラの消息を掴んだとの報告がありました。…あぐッ」
バシッ
少女の細い腕からはとても考えつかないような強い力で頬を叩かれる。叩くなんてやわな表現では足りない。文字通り、女性の身体が十数メートル吹っ飛んだ。
シファと呼ばれた妙齢の女性は、それでも月明かりに照らされながら顔を上げた。地に垂れた長い黒髪は、立ち上がれば長身の女性の膝までもあるだろう。髪に対比するように白い雪のような肌と、ルビーよりも紅い瞳は、少女をまっすぐと見上げていた。赤くなった頬が痛々しい。少女と同じく人間離れした美貌であった。
「去ねと云っておる」
そんな眼差しには一瞥もくれず、再び盃にボトルから酒を自ら注ぐと、少女は香りを燻らせた。
「……が、そうか」
盃の向こうの赤い月を見て、口元を歪ませる。ノーアは、歪に嗤っていた。
あまりにも無邪気に、恐ろしく。
それは、新しい玩具をみつけた幼い少女のように。
「楽しくなってきたじゃないか」
月明かりに照らされた少女は、嗤う。
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