フィデリオ
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第一幕その二
第一幕その二
「あの人が私の夫となるのだったら」
彼女は呟いた。
「甘い喜びを以って希望が心を満たすのに。朝から夜まで」
もう彼と結ばれた時のことに想いを馳せていた。まるで夢見る少女のように。いや、その時の彼女の心はまさに少女のそれであった。
「休む時も。一切の苦しみもあの人の側だと癒されるでしょうに」
しかしそれはまだ夢の中だけであった。そして永遠に夢の中のものとなるのではないかと内心心配していた。だがここで別の声がした。
「おうい」
「お父さん」
彼女の父である看守長ロッコが部屋に入って来た。白髪頭の壮年の男である。髪は白いが髭は黒かった。白い頭と黒い顔で実にコントラストであった。厚い看守の服を着ていた。
「フィデリオは帰って来たか?」
「いいえ」
彼女は首を横に振った。
「まだよ」
「そうか」
彼はそれを聞いて頷いた。
「用事があるのだがな」
「何かあるの?」
「うむ。わしは総督様にフィデリオを寄越すよう手紙を書かなければならんのだ。それで探しているのだが」
「そうだったの」
「もうそろそろこっちに来る頃だと思ったのだがな。昼飯を受け取りに」
「じゃあここで待ったらどうかしら」
「そうだな。それがいいか」
そう言いながら昼食を手に取った。するとそこで扉が開いた。
「おっ」
「帰って来たわね」
マルツェリーナの声がはしゃいだ。開かれた扉から一人の青年が入って来た。
「どうも」
高いが鋭い、それでいてツヤのある声でその若者は応えた。何処か女のそれに似た声であった。見れば美しい顔をしていた。
「ああ、フィデリオ」
ロッコは早速彼に声をかけてきた。
「何でしょうか」
「鎖の方はもういいのか」
「はい、大丈夫です」
彼は凛とした声で答えた。
「どんな囚人でも断ち切ることのできない鎖ばかりですよ」
「そうか、それならいい」
ロッコはそれを聞いて顔をほぐれさせた。
「御前は本当によくやってくれているよ。御前みたいな若者がいてくれて本当に助かる」
「有り難うございます」
「何時かこれに報いなくてはな」
「報いとは」
マルツェリーナはそれを聞いて顔を明るくさせた。
「まさか」
「まあそれはいずれな。ところでだ」
「はい」
「総督様がこのセヴィーリアから御発ちになられるのは知っているな」
「勿論です」
「なら話は早い。わしは総督様に御前のことについて手紙を書かねばならんのだ」
「どうしてでしょうか」
「決まっている。御前の立派さについてだ」
「いや、それは」
ここで彼は謙遜した。
「私なぞはとても」
「いやいや、御前程立派な若者はそうはおらん。ここは是非申し上げておかねばならんからな」
「申し上げたらどうなるの?」
「まず御金が貰える」
ロッコは誇らしげにそう述べた。
「世の中まずお金がないとな」
「それはそうだけれど」
「お金があればどんな苦しみも乗り越えられるだろう?懐にあの音がするだけでな」
「それはそうですけれどね」
「あらヤキーノ」
ヤキーノがここで帰って来た。
「食べ終わったんで戻ってきました」
「そうなの」
「おう、御前も聞け」
ロッコは彼に対しても声をかけた。
「御前も御金は好きだろう」
「そらやまあ」
「お金があれば力も湧いてくるし幸福も訪れるんだ。何もかもお金がんくては話にもならない」
「それでフィデリオさんのことを総督様にお願いするのね」
「そうだ。働きに見合ったお給料を渡してもらうようにな」
「有り難うございます」
フィデリオはそれに対して恭しく頭を垂れた。
「ですが私は看守長にも申し上げたいことがあります」
「何だい、それは」
「御金よりもさらに重要なものがあるのです」
「?何だ、それは」
ロッコはそれを聞いて首を傾げた。フィデリオはそんな彼に対して言った。
「信頼です」
「信頼」
「はい。何故私が御供をするのを認めて下さらないのですか」
「わしの仕事の補佐か」
「そうです。信頼して下さるのなら是非」
「気持ちは有り難いが」
「では何故」
どういうわけかロッコはここで言葉を濁したのであった。他の者にはそれが極めて不自然であった。
「お父さん、どうしてなの?」
マルツェリーナが父に問うた。
「フィデリオさんを御供にすればいいのに」
「そうだな」
彼は娘に対して応えた。
「そうすればわしの負担も減る。わしも歳だ」
「ええ」
黒いのはもう髭だけであった。それからもわかる。
「総督様もそれを認めて下さるだろう」
「では何故」
「一つ問題があるのは」
「それは何?」
「うむ、これは内緒だがな」
彼はここで三人を見回した。
「あまり大きな声で話すことじゃない。こっちへ来てくれ」
「ええ」
「わかりました」
彼等はそれを受けてロッコの側に集まった。ロッコはそれを見届けてから話をはじめた。
「この牢獄の奥にな、一人の囚人がいるのだ」
「奥に」
「そうだ。その囚人はどうもかなりの重罪人のようなのだ」
「何をしたのかしら」
「そこまではわからんが。そこに入ってもう二年になる」
「二年」
「そうだ」
声をあげたフィデリオに答えた。
「二年だ。かなり長いな」
「ええ」
(まさか)
フィデリオはそれを聞いて何やら思うところがあるようだ。しかし顔にも口にも出さない。
「それでその人は何処の人なの?」
「それはわからない」
娘に対してそう答える。
「何て名前ですか?」
「それもわからないのだ。一切不明だ」
ヤキーノにもそう答える。看守長であるロッコですら知らないということに三人は何やら重大なものを感じ取っていた。
「わかるだろう、それだけ言えば」
「はい」
三人はそれに頷いた。
「フィデリオよ。それでもいいか。知れば何やら厄介なことになるぞ」
「構いませんよ」
しかし彼はそれでも言った。
「看守になった時からその覚悟はできていますから」
「そうか」
ロッコはそれを聞いて頷いた。
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