清教徒
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序曲その二
序曲その二
彼女は長い間悩んだ。家臣達はメアリーを処刑してしまうように何度も提案した。スコットランドの方もそれを願っていた。息子であるジェームスにとっても母は最早厄介者でしかなかったのだ。だがエリザベスは中々処刑に対して首を横には振らなかった。彼女は死刑を好まなかった。これは母が父に処刑されたのと姉のあまりにも極端な処刑を見てきたからであった。だからこそ彼女は処刑には慎重であった。ましてやメアリーは仮にもスコットランドの女王であり彼女の従妹でもある。王としての誇り、そして肉親への複雑な感情が彼女にサインをさせなかったのだ。エリザベスは決して冷酷な君主ではなかったのだ。そのうえその判断は極めて慎重なものであった。だからこそ国を守ってきたのである。
だが遂に彼女はサインした。サインしざるを得なかったのだ。何故ならメアリーがエリザベスの暗殺を企んだからである。証拠もあった。こうなってはもう議会も家臣達も抑えることができなかった。彼女は泣きながら処刑にサインをした。こうしてメアリーは処刑された。それを聞いても息子のジェームスは何も驚かなかったという。やっと死んだと言わんばかりの態度だったと言われている。それを聞いてエリザベスは言ったという。
「不実な息子ですね」
彼女の怒りはメアリーではなくジェームスに向いていた。そして彼女は従妹の亡骸を丁重に弔った。そして彼女が死んだ時後継者にはそのメアリーの息子ジェームスを指名した。それを聞いた時彼は飛び上がらんばかりだったと言われている。エリザベスはそんなジェームスのことを死の床で聞いてこう呟いたと言われている。
「メアリーも私も息子は持っていなかったようですね」
彼は即位すると宗教的にはかなり過激なことを実行した。異端審問を積極的に行いこれによりイングランドにおいても異端審問の惨たらしい儀式が広まった。そして多くの無実の者が命を落としたのだ。そして彼は王権神授説の信奉者でもあった。エリザベスも絶対君主であったが彼はそれ以上であった。何故なら自らの王権は神によって認められていると主張したのである。これを基として彼は専制政治を行った。当然不満は高まったが彼はそれを力で弾圧してきたのである。
彼の子であるチャールズ一世もそれを受け継いだ。彼は専制政治を理想とし議会とことあるごとに対立した。遂には内戦状態となった。これが清教徒革命であった。
何故清教徒革命と呼ばれたかというとこの革命の指導者オリバー=クロムウェルが清教徒だったからである。彼は極めて強烈な清教徒であり禁欲的かつ厳格であった。天才的な指導力と軍事的、政治的能力、カリスマ性を併せ持っていた。だが他人に対しては自ら、そして信仰に対して絶対的な服従を強要する男であった。彼だからこそ議会側は勝利を収めることができたが結果としてそれは国王よりもまだ厄介な独裁者を生み出す結果になってしまった。
彼は王を捕らえると処刑を指示した。しかし議会はそれに困惑した。それは何故か。
法律が存在しなかったのである。国王を処刑する法律なぞ何処にもなかったのだ。法がなくては何もできはしない。だからこそ彼等は困惑したのである。
だが革命とは言うならば暴力による政権の強奪である。力のある者が絶対的な権力を掌握するものだ。乱暴な言い方をすればそうなる。そしてクロムウェルこそその実行者であった。今やイングランドにおいては彼こそが絶対の法であった。その彼が言ったのだ。王を処刑せよ、と。それで全ては決した。
こうしてチャールズ一世は処刑されることとなた。だが彼はそれを聞いても動じはしなかった。彼はまず側に残ったまだ幼い子供達を呼んだ。そしてこう言った。
「これからは私ではなくそなた達の兄に仕えるのだ」
そして身を慎み死刑の時を待った。彼は黒づくめの服に身を包みガーター勲章をかけて処刑場に向かった。そして最後まで王であり、王として死んだ。王の首を見た多くの者は憤りを露わにしたという。彼もまた王として立派であった。だからこそ彼の支持者も多かったのだ。同時にクロムウェルへの反発者も多かった。
王が死んでもまだ戦いは終わらなかった。これはそうした清教徒革命における一つの恋の話である。人々はいかなる時代においても恋を忘れることはできないのである。
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