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ソードアート・オンライン 穹色の風

作者:Cor Leonis
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アインクラッド 前編
  救われた出会い

「はあっ、はあっ……!」

 狭い裏通りの石畳に、乾いた足音が速いテンポでこだまする。それらは周囲の建物で反射し、複数個に分離、他人の足音に成りすましてトウマの鼓膜を揺さぶる。その度にトウマは恐怖を感じ、首を回すが、当然そこには誰もいない。しかし、トウマの心に植えつけられた恐怖と焦りはさらに強さを増して、足を止めどなく回転させる。

 そして、永遠に続くとも思えた一人鬼ごっこは、たった1分程度で終わりを告げた。限界まで達した焦りに苛まれた脳がトウマの足を臨界以上に動かそうとしたのだ。システムとステータスが規定した速度を超えようとした足は、まるで何かに導かれるように交差し、もつれ、トウマの体を石畳に投げ捨てた。

「はあっ……ゲホッ! ゴホッ!!」

 肺の中の空気が逆流し、この世界では必要ないはずの酸素を根こそぎ奪い取る。現実世界の惰性なのか、体は逃げていく空気を求めて喘ぐ。だがそれも空気の流れを逆流から停止までしか改善できず、存在しないはずの苦しさと吐き気が、トウマの胃と肺をきりきりと締め上げる。

 トウマは苦しさから抜け出そうと、必死に右手を伸ばす。すると、指先にひやりとした棒状のものが触れた。
 藁をも掴む思いでその棒を掴み、引き寄せる。握った棒が動くことはなかったが、代わりにトウマの体自体が引きずられ、ついに頭がそこに触れた。体を起こし、体重を預け、そこまでの間で少しだけ恢復した思考で、ありったけの息を吐き出した。肺を完全に空にしてから、今度は胸がはちきれんばかりに空気を体内へ送り込む。

 それが効いたのか、最大レベルで警鐘を鳴らしていた苦しさと空嘔(からえずき)も、今背中にあるものに意識を向けられる程度には治まった。振り向くと、どうやらはじまりの街南東のゲート付近まで来てしまっていたようで、トウマの背中を支えていたのは、テラスに設置された柵だった。その向こう側には、今は夜の闇に染まった空が際限なく続いている。
 そして、その底なしの闇は、数瞬忘れられていた恐怖を再び思い起こさせた。
 走っているときに何度も感じた、冷たい死神の鎌が首筋を撫でるような感触。
 ――逃げ出してしまった自分がβテスターであることを見抜かれ、追っ手を差し向けられたのではないか。そしてその追っ手が、今まさに自分を探して走っているのではないか。

 駆けているときに捨ててきた恐怖が今になって追いつき、トウマの心を支配した。それはトウマの中にあるいくつもの恐怖と不安を呑み込み、掛け合わさり、膨れ上がっていく。
 そしてついに、禁断の思考が、恐怖に支配されたトウマの心でその鎌首をもたげた。

(――ここから飛び降りれば、ゲームオーバーになりさえすれば、ログアウトできるんじゃ……)

 甘美で甘露な、しかし邪悪な悪魔のささやきが、トウマの心を根底からぐらつかせる。不明瞭な期待感が確証を得ない論理を補完し、完全無欠のように見せかける。
 そして、今のトウマに、冷静な判断力など望むべくもなかった。
 震える両手で柵を掴む。かしゃん、という金属音が響き、無機質ゆえの冷たさが掌の体温を奪う。トウマは柵から身を乗り出し――。

(……ッッ!!)

 こみ上げてきた恐怖感に負け、咄嗟に飛び退いた。一度落ち着いた息と心拍数は乱れに乱れ、掻き鳴らされる鼓動がトウマから音を奪う。音のない世界で、堂々巡りの思考が廻り始める。
 ――飛び降りたくない。けれど、一刻も早くここから逃げ出したい。
 二つの恐怖のせめぎあいに、トウマは柵に近付いては離れ、身を乗り出しては飛びずさる。
 そして、トウマが力なく柵の傍に座り込んだとき、彼にかけられた一つの言葉によって無限回廊(ループ)は壊されたのだった。


「何やってるんだ?」
「へ? う、うわっ!?」

 ――ついに追っ手が来たのか?
 そう考える暇もなく、トウマは慌てて立ち上がろうとして、あえなく失敗した。無理に力を入れた足の筋肉は、いつも支えているはずのトウマの自重に耐え切れず、膝からがくんと折れて後ろに倒れる。
 その後も何度か立ち上がろうとするが、足の筋肉は情けなく震えるばかり。ならばと痙攣する声帯を必死に動かそうとするが、言葉はおろか風切り音すら発せない。
 トウマがどうしようもなくなって俯くと、数秒後、その誰かの気配が近寄ってきたのを感じた。
 反射的に顔を上げる。
 すると、トウマの前に、一つの顔があった。輪郭線が細く、肌は白め。少し長めに切り揃えられた髪が、微妙に目にかかっている。パーツだけを見れば、暗そうな高校生といった感じ。トウマにも、こんな顔立ちをしたクラスメートには何人か心当たりがある。
 しかし、眼前の彼が浮かべる表情は、同級生のそれとは全く異なっていた。唇は直線で結ばれていて、髪の奥の瞳は冷たい光を湛えている。理知的、あるいはクールと形容するのが相応しいだろう大人びた表情は、トウマが知る同級生の、もっと言えば、今までに出会った人物が浮かべたもののどれにも当てはまらない。

 そしてトウマは、自分の思考がやけに落ち着いていることに気付いた。他の音が聞こえないほどうるさかった鼓動も、今は耳を澄まさなければ聞こえないくらいまで沈静化している。声帯の痙攣も止まったようで、今すぐにでも声が出せるだろう。たしか、物質の振動は温度とイコールだったから、彼の冷たい視線によって冷やされた体や頭の動きが止まったのだろうか。
 トウマは、頭の隅に残っていた物理の記憶を引っ張り出した。温度云々はともかく、どうやら、思考が横道にそれる余裕がでるくらいには落ち着けたらしい。
 トウマはゆっくりと息を吸い、言葉に変換して吐き出した。すると、さっきまで震えなかった空気が、まるでその性質が変わったかのように振動し、トウマの響きを伝えた。

「……お前も、ログアウトしに来たのか?」
「……ログアウト?」

 こちらを覗く切れ長の瞳が、驚きで丸くなった。彼は右手で口元を覆い、考える仕草をしながら視線をあたりのあちこちに向ける。やがて、彼の目が、今自分がもたれている柵で留まった。

「……なるほど。自殺しに来たわけか」
「自殺じゃない!!  このゲームがプレイヤーの復活をプログラミングしていないのであれば、プレイヤーがゲームオーバーになるということはログアウトすることと同義なんだ!! ……だから、だからこの柵を乗り越えてここから飛び降りれば……!」

 気が付くと、トウマは叫んでいた。同時に、自らに言い聞かせるような響きを帯びた言葉の数々が、放たれた瞬間にUターンしてトウマに入り込んでいく。入り込んだ言葉が荒唐無稽な安心感を心の中に植え付ける。

「無理だな」

 しかし、トウマの切実な思い込みを、その安心感もろとも、彼はたった四文字で打ち砕いた。

 トウマは反論しようとした。しかし、彼の四文字にはトウマの一万文字よりも強い説得力が宿っていて、思わずトウマは息を呑む。すると、彼はその四文字の根拠――自らが解析したというナーヴギアの構造とその役目を語ってみせた。


「……じゃあ、じゃあお前はどうしてここに?」

 彼の説明が終わって間もなく、トウマはそう尋ねた。ここははじまりの街南東のゲート付近であり、アイテムショップなどもない。普通に考えれば、フィールドに出る以外に立ち寄るような場所ではないからだ。

「武器の強化素材集めと、レベリング」
「なっ……!」

 彼はその問いに、さも当然そうに答えた。対して、トウマはあまりにも予想外な答えにのどを詰まらせてしまう。何か言おうと試みるが、様々な感情と言葉が複雑に絡み合い、開いた口の大きさを超え、唇に引っかかって出てこない。それらを何とか紐解き、合成するまでに数秒の時間を要した。

「ふざけてるのか!? ゲームオーバーになったら本当に死ぬって言ったのは、そっちじゃないか!!」
「別に俺は死ぬつもりで外に出るわけじゃない。さっきも言っただろ? 「武器の強化素材集めと、レベリング」ってな」

 トウマは怒り顔で言うが、彼はいたって冷静に返す。このSAOがデスゲームと化したことを理解しているのに、はじまりの街中央広場にいた者たちのように、恐怖に呑まれているわけではない。

「……何でお前はそこまでして危険な場所に向かおうとするんだ? ゲームを自分の手で終わらせたいからか?」

 素朴な疑問がトウマの口から飛び出した。それに対して、目の前の彼はゆっくりと首を横に振る。

「この街でじっとしているのは、俺の性に合わない。それが主な理由だ。――まあ、コルが尽きたら飢え死にするっていうこともあるがな」

 苦笑を浮かべて話す彼に、トウマはじっと見入っていた。そして、それと同時に一つの感情が心の奥底から湧き上がってくる。後ろ向きに寝そべっていた思考が徐々に身を起こし、前へ前へと傾いていく。
 ――彼の近くで、この世界を進む彼を見てみたい。彼がこれから起こす“何か”に、少しでも自分が関わってみたい――。
 もちろん、マイナスの思考も存在した。自分が死ぬことへの恐怖、自分が元テスターであることがばれないかという不安、そんなことをしなくとも、外部の人間が助けの手を差し伸べてくれるのではという、根拠のない期待。
 だが、それらがトウマの思考を再び後ろに引き戻すには、今のトウマの心はあまりにも前に傾きすぎていた。
 トウマは一つの決意を心に秘めて、石畳にだらしなく広がった両足に力を込める。すると、あれほど自分の言うことを聞かなかった体が、驚くほどにすんなりと動いた。
 そのまま立ち上がり、こちらを見ている彼と対峙する。
 そしてトウマは、自分の未来を決める決定的な言葉を放った。

「俺をパーティーとして連れて行ってほしい。……俺の名前はトウマだ」
「……分かった。俺はマサキだ」

 マサキと名乗ったプレイヤーの受諾に、トウマはこの世界に来てから一番の笑顔を見せた。すぐさまパーティーを申請する。それは、数秒も経たないうちに受諾された。
 ゲートに向かうマサキの後を、トウマは少し早足で追いかける。今、彼の中では、先ほどの恐怖や不安と同じく何の根拠もない、それでいてベクトルは正反対を向いている希望や自信で満ち満ちていた。



「――ということなんだ」

 トウマは十分ほどにもなる回想を終え、口を閉じた。マサキの手元にあるカプチーノも、立ち上る湯気がずいぶんと弱々しくなっている。
 トウマはウインドウを呼び出すと、古ぼけた木椅子に背を預けたマサキの前に、自分が持つ全てのアイテムとコルを出現させた。途端に、マサキの顔が珍しく驚愕に染まる。

「これで、俺が持ってるアイテムとコルは全部だ。初心者の強化にでも使ってほしい」
「何故?」
「何故って……キバオウが言ってただろ? 「βテスターは罪を償うために、溜め込んだコルとアイテムを提供しろ」って……俺、自分が元テスターだって告白しなきゃいけなかったのに、何も言わずにマサキを騙してた。だから――」
「馬鹿馬鹿しいな」

 マサキはトウマの言葉を遮り、吐き捨てた。四分の一程度になったカプチーノを呷り、カップを手に持ったまま、温められた息と共に続きを吐き出す。

「βテスターからアイテムや情報を搾取すればこの状況が改善されると、本気でそう思っているのなら、新規プレイヤーたちでパーティーを組み、ソロのテスターを一人ずつ襲っていけばいい。ボス攻略に集まった奴らのレベルなら、それも難しくはないだろうからな。……だが、そんなことをしたところで、何も変わりやしない。今度は新規プレイヤーの中で情報とアイテムの独占が発生し、争いが巻き起こる。攻略に参加できるプレイヤーの数は少なくなっていく一方。……全く以って傑作だな。ナンセンスにも程がある」

 マサキは言い切ると、カップをソーサーに置いた。陶器同士の接触音が短く響く。その音の波は空気を伝い、トウマを共鳴させた。

「それじゃあ俺は……俺は一体、どうしたらいいんだ!? 俺はもういちゃいけないのに、マサキにどうやって罪を償えばいいんだ!?」
「……なら、それを探せばいいんじゃないのか?」
「え……?」

 震え、涙交じりの声を上げるトウマに、マサキは向き直った。涼しげな瞳でトウマを覗き、平坦な唇を動かす。

「俺は向こう(リアル)で理論物理学者だった。そして、その世界じゃ、解らないことなんてそこら中に掃いて捨てるほど有り余ってる。……だから、考えるのさ。長い時間をかけて、小難しい数式を転がして、頭でイメージを思い描いて。一つの理論に何年もの時間をかけることだって、珍しいことじゃない。……お前はまだ、一ヶ月程度しか考えてないんだろう? ――だったら、今は保留にしておいて、また考えればいい」
「でも……」
「もう一つ。もし、お前が本当に俺と離れたいと思っているのであれば、自分のウインドウから一方的に解散を告げて逃げ出せばいい。もし俺からメールなり再結成の要請なりが来たところで、お前は拒否すればいいだけのことなんだからな。……そしてお前は、それをしなかった。つまり――」
「そうだよ!!」

 静かなマサキの声に、突如轟いたトウマの叫びが重なった。心の奥からは感情が堰を切ったように溢れ出し、涙と言葉になって飛び出して、空間に溶け込んでいく。

「俺……もっとマサキとパーティーでいたい。……しょうがないだろ? ずっと……ずっと心細くて……でも、マサキと一緒にいたときは、これ以上ないってぐらいに楽しくて……、親友がいるのがこんなに嬉しいことなんだって気付けたのに……」
「だったら、別に別れることもないだろう。人間って生き物は、どこかで無理をすれば、それだけ別の場所に(ひず)みが生まれるんだよ。嘘をつけば、それだけ心が悲鳴を上げる。心が悲鳴を上げれば、体が動かなくなる。これはお前も知っているだろう? 結局、嘘をついたところで、いいことなんて何もないのさ」

 マサキは冷静に言い終えると、カップに残っていた液体を飲み干し、立ち上がった。一瞬、トウマがびくりと体を震わせるが、躊躇うことなく、右手をトウマの肩に乗せ、ささやく。

「俺なら心配しなくてもいい。あの程度の輩なら、いくらでも論破できるからな。――とりあえず、ここで感情を全部出しておけ。明日から、また忙しくなる」
「!! ……マサキ……」

 マサキは最後にパーティー存続の宣言を残すと、レストランを出て、自分の部屋へと続く階段を登る。
 背後では、無人のレストランが作り出す静寂を、トウマの慟哭(どうこく)が彩った。


 ――相変わらず、薄っぺらい言葉だ。
 上からのしかかる体重にギシギシと抗議の声を上げるベッドの上で、マサキは口元を歪ませた。その形には嬉しさや喜びは全く込められておらず、代わりに嘲笑と嗤笑(ししょう)が浮かんでいる。
 そしてその笑いの裏で、マサキは自身の行動を分析にかけていた。

 普段のマサキなら、去っていこうとする誰かを引き止めることなど、間違ってもしないだろう。近付いてくるのもよし、去っていくのであれば、それもよし。それが、マサキが人と対峙するときのスタンスなのだ。
 だが、今は違った。マサキはトウマを引き止めるために、自身が持っている心理学の知識を最大限利用し、離れようとするトウマを必死に自分と繋ぎとめようとした。
 それだけではない。思えば、彼と出会ってからというもの、マサキは彼に対して、自分のものとは思えない反応をいくつも見せ、その度に自分が一番驚いてきた。そしてそれらの行動は、トウマという人物に対して、マサキがどれほどこだわっているのかということを如実に表している。今日の行動は、その際たるものだろう。
 ――何故自分は、彼にこんなにも固執しているのだろう?
 そう思った瞬間、マサキの喉の奥が、不意に渇きを訴えた。容器に入ったお茶をアイテムストレージから出現させ、口の中に注ぎ込む。食道を下っていくお茶が、触れた場所を満遍なく湿らせ、胃へと向かう。しかし、どれだけ水分を送り込んでも、喉の疼きは収まらなかった。
 仕方なく、マサキは夕食を食べ損なったことも忘れたまま布団をかぶり、目を瞑る。幸いなことに、眠気はすぐにやってきて、マサキは身を委ねた。
 徐々にまどろんでいく意識の中で、小さくならない喉の疼きと、トウマが食堂でのやり取りの中で発した“親友”という響きが、声高に自らの存在を主張し、マサキの脳を掻き回していた。
 
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