ボリス=ゴドゥノフ
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第六幕その二
第六幕その二
「ロシアの運命が」
彼等は畏まる民衆達に対して言う。上から語り掛けるかの様に。
「これで決まるのだ」
「ボリスを倒す」
「そうだ」
民衆の言葉に応える。
「ボリスを倒せ」
彼等はさらに言った。
「そしてディミートリィ様を玉座に」
「本来おられるべき場所に」
「それこそが神の御意志」
正確に言うならばそれが彼等の望みであった。都合よく神の名を出すことはよくあることである。それに多くの者は容易に騙される。心を攻められるからである。
「皆の者、神に従え」
僧侶達はなおも言った。
「そしてディミートリィ様を玉座へ」
「ディミートリィ様を玉座へ」
「ロシアを治めて頂くのだ」
「そして陛下はどちらに」
「もうすぐこちらに来られる」
彼等は言った。
「出迎えの用意はいいか」
「はい」
民衆達もワルアラーム達もそれに答えた。
「何時でもいいです」
「是非共おいで下さい」
「では畏まって待て」
僧侶達は威厳を正してそう宣告した。
「もうすぐだからな」
「はい」
遠くから歓声が聞こえて来る。そしてそれと共に軍勢がやって来た。民衆はそれを認めると一斉に立ち上がった。
「万歳!万歳!」
彼等は叫ぶ。
「ディミートリィ様だ!皇帝陛下だ!」
「我等の救世主だ!」
「これ、待て!」
僧侶達は興奮する民衆を宥める。
「座っておれ。皇帝陛下の御前であるぞ」
「いや、よい」
そこにやって来た軍の先頭にいる馬に乗った男がそれを許した。見れば紫のマントに金の鎧兜を身に着けている。剣の柄も鞘も宝玉で飾られている。
「陛下」
僧侶はその男に顔を向けた。そして恭しく一礼した。
「民が私を迎えてくれたのだ。どうして邪険にできようか」
グレゴーリィであった。彼は馬の上から鷹揚に言葉をかけた。
「はい」
「皆の者」
彼は民衆と自分の兵士達に対して言った。
「モスクワまでもうすぐだ」
「ハッ」
兵士達はそれに頷く。
「そしてそこでボリスを倒す」
「民を救うのですね」
「そうだ」
彼は言い切った。無論これもまた芝居である。
「我ディミートリィ=イヴァーノヴィチは誓う」
そしてその芝居を続ける。民を従わせる為に。
「神の思し召しによりロシアの皇帝となり簒奪者ボリスに虐げられている民達を救い出す」
「わし等を」
「そう、そなた等をだ」
彼はまた言った。
「そしてロシア正教を。全てを救おう。ロシアを復活させるのだ」
だがそれは嘘であった。彼の率いる兵はポーランドの兵であり指揮官達はポーランドの貴族達であった。よく見れば彼等の十字架はロシアの十字架ではなかった。
イエズス会の者もいた。しかし民衆達やワルアラーム達はそれには気付かない。僧侶達は知っていたが何も言いはしない。そして平然と彼等を見ていた。
「変わった御坊様達もおられるな」
「ああ、きっと凄く徳の高い方々だぞ」
民衆達はイエズス会の者達を見てこう囁き合っていた。彼等のことを全く知りはしなかったのである。
「行こう、諸君!」
グレゴーリィは剣を掲げた。そして高らかに宣言する。
「モスクワへ!黄金の丸屋根が輝くモスクワへ!」
「陛下の宮殿に!」
兵士達も民衆達も叫ぶ。
「そして本来の玉座に戻られる!」
「ロシアは正しき血筋の下に!」
「行くぞ!」
グレゴーリィは馬を進めた。
「モスクワへ!」
「栄光と平和の為に!」
兵士達だけでなく民衆達もそれに続いた。後に彼等により殺された無残な屍達を残して。
モスクワは陥落した。ボリスの子等も彼に従った貴族達も殺された。フェオードルは姉を庇い、クセーニャはフェオードルを庇って死んだ。モスクワは炎に包まれた。そして多くの者が命を落とした。
クレムリンでグレゴーリィが皇帝になる。マリーナがその隣にいる。彼等は今権力の座についた。それを讃える声が宮殿に木霊する。
だがモスクワには死臭が満ちていた。犬が子供の首を咥えて走る。かって聖愚者をからかっていた子供の首であろうか。見れば多くの子供達も死んでいた。子供達だけでなく髭のある男も太った女も死んでいた。皆もの言わぬ骸となり烏や犬にその身体を貪られていた。
その中を一人の僧侶が歩く。あの聖愚者であった。
「流れよ赤い涙」
彼は言う。遠くに偽の皇帝を称える歌を聴きながら。
「泣くがいい、正教徒達よ。またすぐに戦乱が起こり、暗い闇に覆われる」
彼にはわかっていた。これからのロシアが。戦乱がなおも続きロシアが暗黒に覆われ続けることが。
「これがロシアの苦しみだ。泣くのだ」
屍達を見下ろして言う。
「泣け、ロシアの民よ。飢えたる民達よ!」
勝利を讃える歌がクレムリンから流れる。だがそれと同時に聖愚者の沈痛な叫びもまた木霊していた。それはモスクワを覆っていた。そしてロシアも。その空は今漆黒の無気味な雲に覆われていた。嵐と雪が吹き荒れ屍達を苛んでいた。
ボリス=ゴドゥノフ 完
2006・2・14
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