柚木からのおかしな返信に首を傾げつつ、電子ロックを解除する。
「必ず戻る…って」
「柚木ちゃん、まじ方向音痴だからな…」
最後の『開発分室』の電子ロックを解除する。紺野さんの話では『八幡はちょろい』ということだけど、こういう状況で誰にも油断なんて出来ない。しばらく壁際に潜んで、反応がまるでないことを確認すると、思い切って踏み込んだ。
「八幡ァ!!………?」
紺野さんが、怒鳴り込みの勢いのまま、ふにゃふにゃと語尾を濁してしまった。…結論から言おうと思う。
――八幡は、僕の想像以上にちょろいひとだった。
「…はぐ、……ふぐ」
何か言ってるけど、よく聞き取れない。…さるぐつわをはめられているからだ。…そして、彼女は動けない。…ベッドの支柱に、荒縄で何かのプレイっぽく縛りつけられているから。そのベッドの上で、ルービックキューブを高速で回転させながら、流迦ちゃんがくすくす笑っている。
「なんだ、あの縄…どこをどう通ってるのか…」
「………八幡ぁ!!」
紺野さんが叫んで、僕の携帯を奪った。
「なっ」
「…実にいい縛りだ!!」
叫びながらものすごい勢いで写メを連写し始めた。…うわあぁ!僕の画像フォルダに荒縄でいやらしい感じに縛られた女性の画像がみっちりと!!
「ちょ…ちょっとやめてよ!こんなの見つかったら怒られるよ!」
「あン?誰にだ」
「や!その…親とか…ほら…」
「そんなことより、解いてあげたら?」
流迦ちゃんの声に、はっと我に返る。八幡と呼ばれた荒縄の女性は、しくしく泣きながらいやらしい縛られ方のまま支柱にもたれていた。
「あ…すみません、ちょっと待って」
とりあえず、さるぐつわを先に外す。…間近で見ると、眼鏡の奥でうるむ切れ長の目と、リップが乱れた口元が色っぽくて、綺麗な人だ。さるぐつわを外されて、ふっと浅く息をついた唇の形は、柚木の次くらいに僕好みだった。…夜道で会ったときから、ちょっと綺麗な人だなと思っていた。明るいところで見ると、柚木とはまた違う華奢な美貌で、こう…思わず見惚れてしまった。
「姶良!その女に気を許すな!…そいつは敵だ、もう少し放置しておけ!!」
「ちょろいって言ってたくせに…解くよ、じっとしてて」
「ちっ、つまらん…送信っと」
―――送信?
「そ、送信ってあんたまさか…」
「あ、大丈夫大丈夫…俺のケータイにだから」
「…紺野さんの…って、柚木に持たせたやつじゃないかぁ!!」
携帯を奪い返して送信中止を死ぬほど連打したが、時既に遅し。2、3秒ののち、液晶に『送信完了』と表示された。
「…………あぁはあぁぁ」
情けなく空気が吹き出すような声がまろび出た。交際45分にして、早くも破局の足音が。
「あ、悪い悪い。すっかり忘れてた。これじゃ、俺達が敵の女幹部を捕獲してHなお祭りに興じてるみたいだな。あはははは」
「あははははじゃないよ!こっ…こんな写メを女の子に送りつけて!あんた、エロ画像を見せて女の子が恥ずかしがるのを楽しむ変態なんじゃないか!?」
「…嫌いじゃないぜ、そういうのも」
「………エロ画像でも何でもいいから解いてください………」
八幡が泣きそうな声で呟くのを聞いて、流迦ちゃんがげらげら笑い出した。
「おっおい、そんな大口あけて笑うな、間違えて噛んだらどうする!…さ、口の中のものを出せ!!」
「…口の中?」
けげんそうな顔で、紺野さんを見返す流迦ちゃん。八幡の縄を解きながら、僕は内心ヒヤリとしていた。紺野さんにデータの受け渡しを思いとどまらせるために、『流迦さんは自決用の毒を奥歯に仕込んだ』と、嘘八百を並べ立てて涙まで流させたのは、僕だ。
――どうしよう。本気の紺野パンチを食らうかもしれない。いや、パンチなんて可愛いものじゃなくて『紺野殴打』かもしれない。
「お前が奥歯に仕込んだ毒だ、早く出せ!!」
紺野殴打に備えて身構えた瞬間、流迦ちゃんが薄笑いを浮かべた。
「…珍しく、勘がいいのね」
彼女はハンカチで口元を覆い、赤いカプセルを吐き出した。そしてちら、と僕の方を見た。
――本当だったのかよ!
…脚ががくがくして動けない。この計画が失敗してたら、流迦ちゃんは本当に毒のカプセルを噛み砕いてたのか、と思うと嫌な汗がどっと出た。
「ったく、こんなもん何処から…」
「薬品棚は、電子ロックにしないことね」
「全部済んだら、病院に進言してやる」
そう言うと、泣きそうになりながら手足をさする八幡に手を貸して、立ち上がらせた。
「お前も馬鹿なことにばかり巻き込まれやがって…で、なんだこれは。あいつらか」
「これは…この子が…」
立ち上がり、しくしく泣きながらボタンを掛ける八幡。漢文の授業で聞いたことがある『雨露をふくむ梨の花』という表現を思い出す風情だ。…泣いてた理由にさえ目をつぶれば。
「…おじさんたちが戻ってくるまで、手品ごっこして遊ぼうって…なんか、縛り方が変だなぁと気がついた時には、もうこんなで…」
「…お前、かわいそうなほど馬鹿だな」
「……放っておいてください」
自分が縛られていた縄を片付けながら、まだ涙をぬぐっている。僕は、ずっと気になっていた事を聞いてみた。
「なんで、あいつらに肩入れしたの。あなたは、そういう人に見えないんだけど」
「肩入れしたというか…その辺にいたから巻き込まれたというか…。私は伊佐木課長のアシスタントをしてて…そしたら、烏崎さんが、伊佐木課長からの直々の指示だから、アシスタントのお前も手伝えって…」
涙を拭いながら答えた。
「なんで、こんなことになっちゃったんだろう…」
「自業自得だ、馬鹿」
緊縛画像をあらためながらも、紺野さんが容赦なく言い放った。
「で、お前はどうする気だ。俺達は流迦ちゃんを奪還して雲隠れするぞ」
「私は……ここに、います」
流迦ちゃんが、くく…と小さく笑ってベッドから飛び降りた。
「殺されるよ、あなた…」
「…私が、『あの人』を裏切るわけにはいかないもの」
僕も紺野さんも、黙ってしまった。笑っているのは、流迦ちゃんだけだ。
「……後悔は、しないんだな」
「しません」
そう言って、弱々しく笑った。…たまらなかった。こういう人に、僕が何を言っても無駄なんだろう。
「――あーあ、『荷物』が増えちまう」
「え」
僕の反応より、八幡の反応より早く、紺野さんの右手が八幡の腹を打った。どむ、という鈍い音とともに、八幡が崩れ落ちた。
「…冗談じゃねぇぞ。折角のお宝画像が、遺影になっちまう」
「あんた、鬼畜か」
「流迦ちゃん、縛っとけ。…さっきの縛り方でな♪」
「はーい」
「こっ、こら、駄目だよ!貸して、僕が縛るから!」
「ま、生意気。…私の『縛り』に、張り合う気?」
「マニアックな縛り方を競いたいんじゃないよ!…ほら、戻るよ」
八幡が暴れられない程度に緩く縛ると、肩に抱えあげてみた。…重い。信じらんないくらい重い。脱力した人間は重いとは聞いていたけど、ここまでだったとは。ふらふらしてると、紺野さんが脚の方を持ってくれた。
「…詰めが甘いわね、姶良」
「なっ…なんだよ、これ以上女の人に酷いことを」
「その女のことじゃない」
流迦ちゃんは薄い微笑を浮かべながら、窓を顎でしゃくった。窓から見下ろせる渡り廊下を、血相を変えて駆けてくる烏崎が見えた。
「データは入ってない、携帯には紺野が出ない。…相当、きてるんじゃない」
「…ふーん、そうだね。放置するのは、まずいね。…ねぇ流迦さん。ここの電子ロックの情報を把握してるってことは、ちょっと書き換えも出来るってことだよね」
「同じ事を、考えてたとこよ」
僕の眼を覗き込んで、綺麗な弓形に唇を吊り上げた。僕も笑い返した。…血縁って不思議だ。幼い頃の僕が知ってる『流迦ちゃん』は、本来の流迦ちゃんじゃなかった。なのに、10年ぶりに会う流迦ちゃんと僕は、互いの考えそうな事が手に取るように分かる。流迦ちゃんの思考に感化されるみたいに、僕の思考も加速していく。…僕たちはとても『相性がいい』。
少し、脳がピリピリする感じがする。いつも僕の思考にフィルターを掛けてせき止めていた何かが、麻痺してるような…。でもそれは多分、ただ単に僕の思考を妨げるもの。あっても何の役にも立たないもの。働く必要のない器官だ。
「じゃ、ここから近くて、てっとり早く潜める所を教えてよ」
「イヤ。どうせ見取り図、覚えてるんでしょ」
「…まぁね」
――何だか、気分が高揚してきた。さっきまでの追い詰められた気分が徐々に薄らぎ、罠を仕掛けて叢で獲物を待つハンターのような、嗜虐的な感情に取って代わった。傍らで不敵に微笑む僕の従姉妹が、すごく頼もしい。流迦ちゃんとなら、何でも出来そうな気がする。
「この先の角でいいだろう」
「充分ね」
僕らは、お互いの目を覗き込みながら微笑みあった。
「……いない!誰もいないぞ畜生!!」
烏崎ともう1人の小柄な男が、流迦ちゃんの部屋になだれ込んでくるまでに、それから5分と経たなかった。部屋の中央に乱入して、ベッドの下やテレビの影を物色している。僕はそっとドアに忍び寄り、電子ロックに携帯をかざした。ランプが一瞬赤色に激しくまたたいて、ふっと沈黙した。…口元に、嗜虐的な笑みが広がるのを感じる。この感情の高まりに呼応するように、キューブが回転する音が高まった。
「終わったよ、流迦さん」
流迦ちゃんは、薄く微笑んで僕を迎えてくれた。
「いい子ね。…さ、やるわよ」
「うん」
「…おい、何だよお前ら」
紺野さんが、うろたえたような声を出した。…そうか。紺野さんには、今何が起こってるのか、さっぱり分かってないんだった。僕たちは目を見交わして、また笑った。
「あいつらは、もうあの部屋から出られないんだよ」
「そう。電子ロックの情報を、書き換えてやったの。あいつらもカードキーを盗むなり奪うなりしたみたいだけど、これでもう、あのカードキーでは出入りできない」
部屋の方から、ドアを何度も蹴りつける音が聞こえてきた。腹の底から可笑しさがこみ上げてきた。
「…そうか。なら、もうここには用はないな。さっさと戻るぞ」
「詰めが甘いよ、紺野さん」
流迦ちゃんから一瞬目を離して、紺野さんの目を覗き込んだ。…不審なものを見るような顔をしている。本気で可笑しくて、大笑いしそうになった。
「今は外の交通事故で混乱してるけど、夕方になったら看護士の巡回がある。この檻は、時限装置付きなんだよ。…今のままじゃね」
「…何する気だ、お前ら!」
ふい、と顔を背けて紺野さんを視界から外した。この人は、まだ分かってないんだ。その『人間的な選択』が、どれだけ自分を追い込んできたのか。僕は流迦ちゃんの指が、ノーパソのキーボードの上を滑るように動くのを、ぼんやり見ていた。
――やがてノーパソの画面に、髪を乱して部屋をうろつきまわる二人の男が映し出された。
「これは?」
「んふふ、部屋の液晶テレビの上に、カメラをつけておいたの。こっちの映像を送ることも出来るわ」
「それは面白いね」
「さ、始めましょう」
部屋にいる二人の姿が、液晶の光に照らし出されて白く変わった。ぎょっとしたように液晶を覗き込んでいる。…笑いが、止まらない。
『…お前、これはどういうことだ!!』
口元を手で隠してくすくす笑いながら、流迦ちゃんが答えた。
「それを知ってどうするの…?ただ単に『そういうこと』よ」
『八幡はどうした!?裏切ったのか!!』
なんで今、八幡を気にするんだ。知ったところで状況が変わるわけじゃないのに。そう考えると可笑しくなって、ますます笑いが止まらない。
「だから、そういうことなんだよ。僕の後ろで、ぐるぐる巻きになって気絶してる」
『てめぇ…昨日のガキか!!』
「あはは…その節はどうも」
『…誰なんだてめぇは!!』
「んー?…狭霧、郁夫ってことにしといてよ!」
あははぁはは、狭霧郁夫!自分で言ってて可笑しくなって、げらげら笑った。
『…あれはてめぇか!よくも騙しやがったな!!』
「昨日はよくも、柚木を泣かせてくれたな」
僕は声を低く落として、囁くように言った。
「…15ヶ所?…切り刻んだんだ、そんなに。…ねぇ、どうだった?血の匂いとか、肉の裂ける感じとか、内臓が腹からぶよんってまろび出てくる感じとか。中々、切れない筋があったり、骨がなかなか外れなかったり。…骨は何で切ったの。鉈?鋸?」
『や…やめろ…』
「切っても、切っても終わらない。切り終わっても、ずっと終わらない。耳から、骨を切った時の音が離れない!あんたの頭の中は、今でも自分が引きちぎった肉と臓物でいっぱいだ!!あはははははは!!」
『ぐっ…うぶっ…!!』
画面の向こうから、何かが破壊される音と、誰かが呻きながらえづく音が聞こえてきた。…脆いな、こいつら。そう分かると、自分でも不思議なくらい嗜虐的な感情がわきあがってきた。
「姶良ばっかりずるい。…ねぇ、ちょっと試してみたい音源があるの」
「へぇ?どんな?」
「カールマイヤーって、知ってる?」
「なに、それ」
「ナチスの人体実験で使われた、精神崩壊を目的に作られた音楽。毎日何時間も繰り返し聞かせることで効力を発揮するものだけど、私の作った音源は、そんなまどろっこしいことはしない。10分あれば、充分」
「へぇ、それはいい。…看護士が巡回に来る頃には、永久に口封じが出来てるんだね」
「そうよ、永久に…ふふふ」
顔を吐しゃ物まみれにして恐怖で顔をこわばらせる二人。必死で液晶の電源を落とそうとするザマが滑稽だ。そんなのは無駄なのに。液晶が壊れれば、部屋のスピーカーから流す。僕らが顔を見交わしてにっこり微笑みあった瞬間、激痛とともに目の前に火花が飛び散り、ノートパソコンが『ぱたり』と閉じられた。