彼
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巫哉
7
日の光もささず、時の流れもない感覚。自らを形どる体の感覚さえ忘れそうなどろりとした安寧と虚無を漂うことが、すなわち『彼』にとっては眠るということだった。
ヒトの形をとってその歴史を見守ることが『彼』にとっての起きていると同義ならば、この経てきた4000年は圧倒的に眠っていることが多かった。
その、ながいながい4000年の中の今より瞬きするようなほんの少し前、『彼』は日紅に見つかった。
そう、まさしく見つかったというのがしっくりくる出会いだった。
『彼』はその時眠っていた。いつものようにゆらゆらと波間を漂うような感覚に身を任せていたら、なんといきなり自分ではないものに鼻と呼ばれる部分を挟まれた。
『!?』
『彼』の意識は一瞬で覚醒した。
眠っている『彼』に触るなど、この世の何にもできる訳がないのだ。眠っている時は『彼』の実体も霞のように何にも見えないはずで…ましてや触るなどできようはずがない。けれど目を開けた『彼』は再び驚いた。
目の前で『彼』の鼻を掴んで目を丸くしているのはなんと、人間の幼子だった。格のある神ならまだしも、人間が意図的に姿を消し、しかも眠っている『彼』を見つけるとは!
さっと視たが、妖(あやかし)の類でも、物凄い霊力を持っているわけでも、守護霊の霊力が強大というわけでもない。本当に、ただの人間の小娘だった。尚更解せない。何が起こった?『彼』は一瞬、自らがただのヒトに成り下がったような気さえした。
「ねんね?」
幼子はくりくりした目を動かして、拙くそう言った。
寝ているのかと尋ねているのだろうということはわかったが、『彼』は返事ができなかった。
「ここねー、さむいよ。かぜ、ひいちゃうよ」
そう言うと幼子は鼻水をすする真似をした。
『風邪なんかひくかよ』
『彼』はようやくそう言ったが、自分でも間の抜けている返事だと思った。
しかし幼子はそれに対して何も反応しない。ただぱちぱちと目を瞬かせながら見ているだけだ。
『つーかいい加減手離せくそガキ頭から喰うぞ』
そう言ってもやはり何の反応もなかった。手も離そうとしない。このくらいのヒトの子なら怯えて泣くものだが…そう考えた時にやっと『彼』は気がついた。声を出していなかった。ヒトは口から声を出し、顔の横についている耳というもので音を聞きとるのだった。
「―…あー…あ…声、これで聞こえるか?」
声が聞こえた途端、幼子は驚いてきょろきょろとあたりを見回した。
なにをやってるんだ、こいつは?
「おい?」
「よんだ?」
幼子は後ろを見ながら言った。本当になんだこいつは。『彼』には今まで、ヒトとの関わりがごく少ないと言えど何度かあった。それでもここまで理解できないヒトに会うのは初めてだった。何故目の前にいる『彼』と話をするのに後ろを見るのか。
「おい、どこ見てる。俺はてめぇのケツと話す趣味はねぇぞ」
『彼』は幼子の頭をがっしりと掴むと自分の方に向けさせた。
幼子は、じっと見詰めたまま、なんと今度は『彼』の上唇をぐいと掴んで引っ張った。
「この野郎…」
鼻と唇を引っ張られた間抜けな格好のまま、『彼』は唸った。
「おにーちゃんがいったの?でもこのくち、うごいてないよー?どうやってしゃべってるの?」
拳骨で幼子の頭を小突いて、『彼』は腕を払った。
声は聞こえるけれど、『彼』の口が動いていないと、だから他にヒトがいて自分を呼んでいるのだと思ったということらしい。そうだ、ヒトは言葉を発するのに唇を動かすのだった。『彼』は思った。久方ぶりに起きたせいで、ヒトに疑われないような擬態の仕方すらすっかり忘れているようだ。
いや、『彼』は起きたのではない。起こされたのだ。信じられないが、どうやらこの目の前のヒトの子供によって。
『彼』はじっと幼子を視た。しかしいくら視ても、なんの変哲もない普通の子供だ。
ただの偶然か。
そう結論付けて『彼』はまた眠ろうとした。偶然と片付けるにはどうも納得できなかったが、考えてもわからないものは仕方がない。ヒトはどんな不思議で不可解な事も納得させる言葉を持っている。偶然、いい言葉だ。眠ろう。
「ねーねー」
しかしそれを高い声が邪魔をする。
「何だ。まだいたのか。さっさとどっかいけ」
今度はきちんと唇を動かして『彼』は応えた。
言うか言わないかのうちに幼子はべたっと『彼』のお腹に抱きついた。
「何がしてぇんだてめぇは!」
「ひべにね、こうしててあげる」
「はぁ!?頼んでねぇよ!」
「そしたら、おにーちゃんさむくないよ」
幼子は『彼』の顔を覗き込んでにっこり笑った。
『彼』はもう幼子をほおっておくことにした。ヒトの子は飽きやすいものだ。そしたら勝手にどこかへいくだろう。
「おにーちゃん、あったかい?」
「あああったかいあったかい」
『彼』は適当に答えた。
「えへへ。ひべに、やくにたった?」
「たったたった」
「じゃあ、ありがとうございます、は?」
「は?」
「かんしゃしたら、ありがとうございますっていうんだよ!」
「……………。アリガトウゴザイマス」
「おにーちゃん!ちゃんときもちをこめていいましょう!ってせんせいにいわれるよ!」
ヒベニと言うらしい幼子は頬をぷくっと膨らませると『彼』の鼻先に人差し指を突き出した。
しかし勢いがありすぎてヒベニの指はそのままぶすりと『彼』の鼻の穴に入った。
「ぅおい!」
「ほら、もういっかい!」
「あ…ありがとうございます…」
鼻にヒベニの指を生やした間抜けな格好のまま、『彼』は言った。
「どういたしましてー」
ヒベニは満足したようににこにこと笑って言った。
それから引き抜いた指を汚いとばかりに『彼』に擦りつけている。
なんて餓鬼だ。図々しいにも程がある。大体人間同士でもいきなり初対面のヤツの鼻の穴に指を突きさすか?『彼』は唸った。そんな挨拶、聞いたこともないし見たこともない。
「あ、そういうことかー」
また唐突にヒベニは言った。どういうことだ、『彼』は思ったが十中八九、ろくでもないことなのは明らかだ。
「やましたひべにです!おにーちゃんのおなまえはなんですか」
名前?名前なんて…と頭に浮かぶうちに、ぼんやりと『彼』は自らの名を口にしていた。
それは、ヒベニの勢いに押されたからなのか。
はっとして口を噤んだときにはもう遅い。
…言ってしまった。ヒトの子ごときに…。自らの迂闊さに肝が冷えたが、しかしヒベニはこてんと首を傾げると言った。
「み、こ、や?」
『彼』は思わず笑った。よりにもよってそこを聞き取るとは。確かに『彼』の真名は人に比べるとかなり長く幼子なら全て覚えれずとも仕方ないが、たった三文字、しかもどこをどう切り貼りしたのか。
『彼』はそれで気が緩んだのか、もう一度、ゆっくり自らの真名を幼子に説いた。
どうしてその時、そんなことをしたのか、『彼』自身にもよくわからないのだ。一度目に呟いたのはうっかりだったが、二度目は『彼』の意思だ。
どうせこんな幼子には聞き取ることもできまいと思ったのか、それとも別の理由があるのかはわからないが、その時、『彼』がこの世に存在してこの方、誰にも知られず、一度も呼ばれることのなかった名を『彼』は確かにヒベニに教えた。
『彼』が予想していた通り、ヒベニは首を傾げたまま、もう一度言った。
「みこや」
「そうだ。俺の名はミコヤ、だ」
『彼』は言った。それから笑った。楽しい気分だった。ずっと『彼』の名を知る者などいなかったのに、それを妖でもなく、神でもなく、ヒトの子に伝えたということがなぜか物凄く面白いことのように感じたのだった。
「ヒベニ」
「なに?」
せっかく起きたのだ。延々と途方もなく長くを生きなければいけないこの身。目の前のヒトの、一生に関わるぐらいなら良い暇つぶしにはなるだろう。
それにこのガキの神経の図太さ、図々しさ、見ていて飽きない。どんな人間になるのかを見てやるのも一興。
「みこやびろ~ん」
ヒベニは『彼』の顔をもみくちゃにしながら好き勝手やっている。
「おい。喰うぞ!」
「えーやだーひべにおいしく…」
いきなりヒベニが黙った。じっと、『彼』の目を見ている。
「なんだよ」
「めのいろ、かわってきてる」
「目?」
『彼』ははっとした。
「なにから、なにに」
「くろ、から、えっと…ちゅーりっぷの、あか。きれい。あ!かみもだよ。かみもからすのくろから、しらが!」
「こんのくそガキ白髪じゃねぇよ!銀だ!ヒトと一緒にするな!」
「えーでもしろだもんしらがだもん。そういうんだよ。みこやおにーちゃんじゃなくておじーちゃんだったんだね」
とりあえずヒベニを小突いてから、『彼』は自らの髪に手を触れた。
「変わってきてるって言ったな。どれくらい変わってる?」
「はんぶんぐらい」
「半分…」
瞳の緋に、髪の銀。それは、誰も視ることのできない『彼』本来の色。
『彼』の真名を知ったからか。いや、正確には知ったのではなく、「聞いた」。だからこうして触れあっていても何も起きない。
『彼』はフンと鼻を鳴らした。名を知られたから、姿も偽れないのか。妖や神にとって真名は魂そのものだとはいえ、誰が決めたのか、よくできている。
「ぜんぶしらがになっちゃった」
「おまえ、俺が怖くねぇのか」
今更のように『彼』は聞いた。普通のヒトが瞬く間に髪や瞳の色が変化することなど、あるわけがないのだ。しかも目の色は血のような赤。髪も一遍の曇りもない銀だ。ヒベニは白髪と言ったが、ヒトのそれとは明らかに違うはずである。
「みこやのこと、ひべにすきだよ」
「はァ!?」
怖くないかと聞いたのに、何故好きだなんて発言になるのか。つくづくヒベニの思考回路にはついていけないと『彼』は思った。
大体、すきとは。会って間もないこんな怪しいモノを信用するなんて、よくこの歳になるまで生きていられたものだ。
「だから、こわくなんて、ないよ」
ヒベニが少し間をおいて言ったその言葉に、『彼』は虚を突かれた。
すき、だからこわくない?
「てめぇ、バカだな」
『彼』は憎まれ口をたたいたが、何故だか動揺していた。
好きだから、怖くない。
その言葉は、『彼』の心に小石のように沈んでいった。
日紅がだんだん大きくなって、一緒にいる月日を重ねて行くうちに、『彼』の胸に沈む言葉も増えて行った。それは時に、言葉だけではなく、日紅の表情や、態度だったりもした。
けれど、今、それが積もり積もっていっぱいになってしまった。
『彼』は、苦しい。もう自覚している、苦しいと。これ以上はもう、一粒でさえ乗せることができない。その積もったものを全て捨ててしまえれば楽になれるのだけれど、そうはできない自分もわかっている。
「苦しい」なんて、まるで、ヒトみたいに。
そうだ。あたしは、小さかったけれど、本気で、心をこめて伝えたかったんだ。
巫哉は、怖くないかと問いながら、別のことを気にしているみたいだった。
だから、あたしは、巫哉にそのときの精一杯で伝えたかった。
『彼』が何を考えているかは分からないけれど、誰かに好かれていること、愛されていることは、その人の力になるんじゃないかと、とても嬉しいことだから喜んでくれるんじゃないかと、小さな頭で考えたんだ。
巫哉、その気持ちは今でも変わっていないよ。
夢は続く。日紅の忘れている日紅の過去。小さな日紅は強引に巫哉を家に連れて行こうと必死だ。
『彼』の真名を日紅は知った。ちゃんと聞いた。忘れないように。
日紅はふと不安になる。
これは夢よね?自分が夢の中にいるとわかる、夢。明晰夢というものだ。けれど、日紅の意識はそのまま、夢の中でよくあるような意識の混濁や倦怠感がないままに存在する。
まるで、日紅の過去に今の日紅がそのままタイムスリップでもして、覗いてるかのような現実感。
「日紅朝よー」
なんとも緊張感のない声がどこからか聞こえる。
お姉ちゃんだ。朝なのだ。起きなきゃ、でも。
目の前にはむすりとした『彼』が小さい日紅を抱えたまま、家に向かっている。
巫哉。
あたしは巫哉の言うとおり、本当の名を知ったよ。
これで、全部、上手くいくんだよね?もとに、戻れるんだよね。仲が良かった、あたしたちに。
夢が遠ざかる。無邪気で幼い日紅の笑顔と、『彼』が風景と共に急速に白み滲んでいく。
この、理由のない不安も、みんな…。
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