道化師
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第一幕その四
第一幕その四
「あたしがどんな女か。わかってるでしょう」
その側にあった鞭を手に取った。
「どっかに行くのならよし、さもないと」
「そういうわけには」
「じゃあこの鞭で接吻してあげるわ」
トニオを睨み据えていた。
「さもないと」
「やろうっていうのか」
「あたしはね。誰かの腕ずくにっていうのは嫌いなのよ」
「何だと」
「誰の手でもね。無理やりものにはされないわよ」
「くっ」
「わかったわね」
もう一度彼を見据えて言う。
「もう言わないわよ」
「チッ」
ここまで受けて彼は引き下がった。
「わかったよ」
「じゃあね。舞台で」
「ああ」
「舞台は舞台だから。現実と一緒にしないことね」
「じゃあな」
彼は渋々ながら立ち去った。そして後にはまたネッダ一人となった。
「あたしをものにできると思ったら大間違いよ」
彼女は鋭い声で呟いた。
「あんたみたいな奴に。どうにでもなる筈がないじゃない」
そう言い終えると懐から煙草を取り出した。それに火を点けて一服しているとネッダ達が村に来た時に彼女を見てその名を呟いたあの男がやって来た。
「ネッダ、そこにいたのか」
「シルヴィオ」
ネッダは彼女を見て思わず声をあげた。
「どうしたのよ、こんなところにまで」
「探していたんだよ」
彼は言った。
「酒場とか。そしてやっと見つけたんだ」
「けど今は」
「明るいっていうのかい?」
「そうよ、人の目があるわ」
実は二人はカニオにも他の誰にも隠れて付き合っていたのだ。所謂不倫というものである。初老にさしかかり、陰気で異様に嫉妬深いカニオよりも若々しくて闊達な雰囲気の彼に心惹かれていたのだ。若い女の性と言うべきか。
「大丈夫だよ」
だが彼はネッダのその心配を打ち消した。
「何でそんなことが言えるの?」
「カニオもペッペも飲みに行っているのを知ってるからさ」
「馬鹿、さっきまでトニオがここにいたのよ」
「あいつが?」
「ええ。あたしに言い寄ってきたわ」
嫌悪感を露にして言う。
「けれど鞭で追っ払ってやったわ」
「身の程知らずな奴だ」
「そう思うでしょ。それを教えてやったわ」
「いいことだ」
シルヴィオはそれに頷いた。
「それでね」
「何?」
ネッダの側に来て抱き寄せようとする。ネッダはそれに応えて煙草を消して立ち上がり彼の腕の中に抱かれる。抱かれながら尋ねた。
「何時まで。あんな一座にいるんだい?」
「何時までって」
「またすぐにここを出て行くんだろ?」
「仕方ないじゃない」
ネッダは悲しい顔をしてそれに返した。
「あたしは旅芸人なのよ。渡り鳥みたいにあちこち出歩いて」
「そうなのか」
「そうよ。だから仕方ないのよ」
「じゃあ俺はまた御前が来るまで待たなくちゃいけないのかい?」
「御免なさい」
「御免なさいじゃないよ」
シルヴィオはこう言った。
「俺はもう我慢できないんだ」
「こうしえ会えるのに?」
「何時でも会いたいんだよ」
彼は剥き出しの若々しさを向けてきた。それがネッダにはたまらないのだ。
「何時でも」
「だからそれは」
「ネッダ」
彼はここでネッダの名を呼んできた。
「俺は本気なんだ」
「本気って」
「一緒に行かないか?今夜」
「今夜って一体何を考えてるの!?」
「決まってるだろう、駆け落ちさ」
その言葉に迷いはなかった。
「駆け落ち!?」
だがネッダはその言葉にギョッとした。
「シルヴィオ」
そして恋人を見る。
「それは」
「嫌なのか!?」
「いえ、違うわ」
ただその勇気がないだけだった。
「そんなことしたら」
「それしかないんだ」
ネッダのことしか頭にない彼にはそれしか思いつかなかったのだ。
「俺達が一緒になるには」
必死の顔で言う。
「けど」
「あの時言ったじゃないか」
拒むネッダに対して語り掛ける。
「二人ではじめて会ったあの時に」
「ええ、それは」
「じゃあいいだろ!?」
ネッダを誘う。
「俺と一緒に」
「けどそれは」
「ネッダ」
彼女の名を呼ぶ。そしてその目を見据える。
「御前は。俺と一緒になりたくはないのか?」
「いえ」
勿論一緒になりたい。そしてカニオの元から離れたかった。
「けれど」
「けれどもそれもない」
「何か騒がしいな」
トニオはネッダのいる方から声がしているのに気付いた。今までふてくされて寝ていたのだ。
「何だ!?」
「明日の朝だ」
「明日の朝だって!?」
彼はシルヴィオの声に気付いた。
「何をなんだ?明日の朝とは」
「一緒に行こう」
「一緒に」
気になってネッダの方を覗き込む。それを見て目を顰めさせる。その直後に邪悪な、悪魔の如き笑みを浮かべた。
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