ホフマン物語
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第一幕その三
第一幕その三
「それは」
「そう。例えば」
ここで口の右端だけで笑った。
「かっての恋人ともう一度会う為とか。どうかね」
「そこまでは私は」
「いや、君は知っている」
リンドルフは笑った。歯を見せずに。顔だけで目は動かさずに笑った。
「彼女のかっての恋人を。その名は」
「知りません」
「私に嘘は通じないぞ」
笑ったまま言う。また目が紅になった。
「決して。さあ言い給え」
「それは誰かね」
「それは・・・・・・」
「言えば君には祝福が待っているぞ」
「祝福」
「そう、その祝福とは」
それを言おうとしたところでまた扉が開いた。そしてニクラウスが入ってきた。
「むっ」
「おや、失礼」
ニクラウスはこちらに顔を向けて来たリンドルフを見てまずは謝った。
「お話中でしたか」
「いえ、いいです」
リンドルフはすぐににこやかな顔を作ってそれに応えた。
「どうぞ。もう開店の時間ですし」
「わかりました。それでは」
「はい」
こうしてニクラウスは部屋に入った。リンドルフはそれを見届けた後でアンドレに向き直った。
「いや、名は言わなくていい」
そしてこう述べた。
「宜しいのですか」
「誰かはわかったからな。それより」
「はい」
「その誰かは御前さんの奥様に何かをしたかね」
「何かといいますと」
「わかっているだろう。手紙なり何なりを送ったのかどうか。どうじゃ」
「それでしたら」
アンドレはそれを受けて答えた。
「手紙を。一通」
「一通か」
「奥様にあてたものだな」
「ええ。それが何か」
「君はお金には困っていないかね」
リンドルフはここで思わせぶりにこう言った。
「お金ですか」
「さっき君に祝福があるやもと言ったな」
「ええ、まあ」
「それでだ。若しかするとその祝福はお金かも知れないのじゃ。どうじゃ」
「困ってはおります」
アンドレも思わせぶりに返した。
「ちょっとばかり」
「大いに、ではないのかね」
「素直に言うとそうなります」
「わかった。ではこれだけの祝福があるだろう」
そう言って彼に懐から出した札を何枚も握らせた。
「えっ、これだけもですか」
「おや、足りないのか」
リンドルフは驚くアンドレの顔をニヤニヤと見ながら言った。
「足りないのなら」
今度は金貨を数枚彼の上着のポケットに入れた。
「これでどうかな」
「勿体無い程です。それでは」
それを受けて恭しく懐から手紙を取り出した。そしてリンドルフに手渡す。
「どうぞ」
「うむ」
彼はその手紙を受け取った。それからアンドレに鷹揚に顔を向けて言った。
「御苦労。では楽しい一時を」
「はい」
アンドレはうきうきした足取りで酒場を後にした。リンドルフはそれを見届けた後で立ったまま手紙の封を切って手紙の中身を読みはじめた。
「ステッラからあの男への手紙だな」
彼は差出人と宛先を見てまずはこう呟いた。
「鍵まである。どうやら本気のようじゃな」
手紙からステッラがその男に対して本気で恋焦がれていることがわかった。リンドルフは手紙を読むにつれ危惧を覚えはじめていた。そしてまた呟いた。
「早めに手に入れてよかったわい。まだ間に合う」
それから言った。
「わしは詩人でも画家でも音楽家でもない。ましてや恋がああだとかそういうのには疎い。じゃがそれでも知恵には自信がある。今はそれを使うとしよう」
さらに言葉を続ける。
「燃えてきたわい。目が爛々と輝き、心臓に電池が宿ったようじゃ。さあ、プリマドンナを陥落させるにはどうすればよいか」
その筋肉質の顔にエネルギッシュな邪悪が宿った。
「詩人を出し抜く、いや陥れるのは昔から酒と女と決まっておる。ここは酒場。では決まりじゃ」
そこでニヤリと笑った。
「全ては決まりじゃ。ではわしはそれに合わせて動くとしよう」
そう呟き終えたところでボーイ達がホールに入って来た。そしてボーイの一人がリンドルフに挨拶をしてきた。
「リンドルフさん今晩は」
「うむ、今晩は」
リンドルフは鷹揚な仕草でそれに応える。
「今日はお早いですね」
「ここの酒を飲みたくなってな。美味いとびきりの酒を」
「また御冗談を。ここは安酒場ですよ」
「ふぉふぉふぉ」
それに対してわざとじじむさくした笑いで応じた。
「上院議員ともあろう方が飲まれる場所だとは思えませんが」
「何、ここには学生さん達が来られる」
「はい」
「若い人達と一緒に飲む酒というもの程美味いものはないのじゃ。しかもここにはあの大詩人もよく来られる」
「ホフマンさんですね」
「うむ。彼は唄も美味い」
「そうですね。若しかしたら歌手としても通用するかも知れないです」
「それでですじゃ。ここは美味い酒と学生さんとのお喋り、そして大詩人の唄を堪能するところ」
「それは何より」
「今日も楽しませてもらいますじゃ。色々と」
「ところでリンドルフさん」
「はい」
リンドルフはボーイの言葉に顔を向けた。
「一つ忘れ物がありますよ」
「それは何ですかな」
「うちのことですよ。うちはお酒だけが美味しいのではありません」
「といいますと」
「食べ物もです。これはお忘れなきよう」
「おっとと、これは失敬」
ボーイの言葉に顔を崩して笑ってみせた。
「そうでしたな、これはこれは」
「今宵もソーセージにアイスバイン、ベーコンと用意してあります」
「そちらも楽しみにしておりますぞ」
「はい。おや、もう来ましたよ」
扉の向こうからガヤガヤとした声が聞こえてきた。
「学生さん達ですよ。ではどうぞごゆっくり」
そう言って中央の一番いい席を勧める。
「わかりました。では」
「はい。どうぞ今宵もお楽しみ下さい」
こうしてリンドルフは席に座り出された酒や料理を前に佇んでいた。扉が開き若者達が元気よく店の中に入って来た。
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