ホフマン物語
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第二幕その五
第二幕その五
「では皆さん御静粛に」
「静粛に」
場が静まりかえる。案内されてきた演奏者のハープの序奏がはじまる。オランピアの口がゆっくりと開いた。その間にスパランツェーニは彼女の後ろに回っていた。
「クマシデの並木の鳥達や空の太陽が娘達に話し掛ける」
彼女は歌いはじめた。
「皆愛する娘達に話し掛ける。それを聞いて娘達は心を高鳴らせる」
「おっと」
声が弱まりそうになるとスパランツェーニが彼女の後ろで少し動いた。すると声は元に戻った。
「!?」
ニクラウスだけがその動作と声の弱まりに気付いた。そして目を顰めさせる。
「どういうことなんだ」
「やるせなさを歌い上げ、さざめく心を突き動かす」
オランピアの歌は続く。信じられないような高音で、しかも複雑な技巧が続く。まるで宝石を転がせるような。モーツァルトのオペラのアリアのそれのように。
「何て難しい歌なんだ」
ホフマンにもそれはわかった。だからこそこう呟いた。
「それを何なく歌えるなんて。天才だ」
「人間のものとは思えないね」
ニクラウスも真剣な顔で答えた。
「ああ」
「まるで」
「まるで?」
「機械みたいだ」
「本当だね」
やはりホフマンは彼の言葉の意味には気付いてはいなかった。これは他の客達も同じであった。そして歌は続いた。
「愛に震える心を動かせる。それが歌なのです」
歌い終わった。場は拍手と歓声に支配された。
「いや、素晴らしい」
客達は皆賞賛の言葉を述べる。
「ここまで素晴らしいとは。人間業とは思えません」
「左様でしょう」
スパランツェーニはそれを聞いて満足気に頷いた。
オランピアは父が客達の受け答えをする間ずっと左右に会釈をしていた。それもやはり機械的な動きであった。
「ところで皆さん」
「はい」
彼はまた客達に声をかけてきた。
「食事などどうでしょうか。丁度スープがいい具合に出来上がっていまして」
「スープですか」
「はい。まずは腹ごしらえということで」
「悪くないですね。それでは」
「はい」
客達はテーブルに向かおうとする。一人を除いて。
「あの」
ホフマンはオランピアに声をかけてきた。だが彼女は返答しない。
それに気付いたスパランツェーニがそっとオランピアの肩に触れた。すると彼女は気付いたように彼に顔を向けてきた。
「はい、何か」
「素晴らしい歌でしたよ、本当に」
「有り難うございます」
感情のない声でそう返す。
「また歌って頂けますか」
「はい」
「それは何よりです」
彼女は頷いた。ホフマンはそれを聞いて満足そうに笑った。だがそれを見て他にも哂う者がいた。他ならぬスパランツェーニ本人であった。
「上手くいきそうじゃな」
邪な笑みを浮かべて笑った後でホフマンに声をかけてきた。
「さあ貴方も」
「スープをですね」
「はい。さあどうぞ」
そう言って奥の部屋に案内しようとする。
「彼女はいいのですか?」
「節制しておりまして」
彼はこう言って誤魔化す。
「あまり食べないのですよ」
「そうでしたか」
「はい」
オランピアは頷いた。そしてここでもスパランツェーニは彼女の肩に触れていた。しかしホフマンはそれには気付かなかった。
「では皆さん参りましょう」
「はい」
客達は隣の部屋に消えていく。部屋にはオランピアだけが残った。彼女が一人いるとすぐそこにホフマンがやって来た。
「あの」
ホフマンはおずおずと彼女に近付いてきた。
「オランピアさん、申し上げたいことがあるのですが」
「はい」
彼女はそれに応えた。
「実はですね」
「はい」
「貴女のその眼差しと声が」
「はい」
「とても気に入りまして」
「はい」
彼女は無機質に頷き続ける。
「僕は今一人です。そして貴女も一人でしょうか」
「はい」
「それは有り難い。神の配剤だ」
ホフマンはそれを聞いて神に感謝の言葉を述べた。
「では申し上げましょう」
「はい」
「これから。二人で生きていきたいのですが」
「はい」
「宜しいのですか?」
「はい」
彼女は相変わらず頷き続けるだけであった。
「何ということだ。夢ではないのか」
「はい」
「僕達の魂は一つになれるんだ。永遠に」
「はい」
「貴女は僕の太陽だ。僕の心を照らし出す」
しかしオランピアはそれには応えなかった。
「どうかしたのですか?」
応えるかわりに部屋のあちこちを動きはじめた。まるでホフマンを避けるように。
「オランピアさん、どうしたんですか」
ホフマンはそれを見て自分が避けられているのでは、と危惧を覚えた。
「僕を避けられるのですか?」
「やっぱりここにいたか」
ここでニクラウスが部屋に入って来た。
「ニクラウス」
「何をやっているんだ、一体」
「聞いてくれ」
呆れた様な声のニクラウスに対して情熱的に語り掛けた。
「彼女は僕を愛しているんだ」
「彼女がかい?」
「ああ。今告白をしたら頷いてくれた。これが何よりの証拠だ」
「はい」
「ほら」
立ち止まって頷いたジュリエッタを指差してこう言った。
「なっ、本当だろ」
「あの声で言ったのかい?」
「ああ」
彼は頷いた。
「何度もね。君も聞いただろう?」
「うん」
「この通りさ。彼女は僕を愛してくれているんだ」
「君は正気なのか?」
「!?一体何を言うんだ」
ホフマンはそこの言葉に頭を打ち据えられたように感じた。
「僕が正気じゃないとでも言うのかい?」
「少なくとも目は覚めてはいない」
ニクラウスはなおも言った。
「違うかい?」
「違うね」
彼は憮然とした顔で言い返した。
「僕だって馬鹿じゃない。分別はあるさ」
「これまではね。だけれど今はどうかな」
「本当に疑っているんだね」
「そうさ。今の君はあの眼鏡のせいで盲目になっている」
「これかい」
それに応える形で懐からあの眼鏡を取り出した。
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