アドリアーナ=ルクヴルール
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第一幕その三
第一幕その三
「まあまあ落ち着いて」
公爵は彼を宥めた。
「ところで劇は何時始まるのですかな?」
彼は幕が開く時間を尋ねた。
「最初の劇はもうすぐです。それから二番目です」
彼は答えた。
「会場はもう満員ですな」
僧院長が客席を先程女神から貰った扇で指し示しながら言った。
「そうでしょうとも、今日はデュクロとアドリアーナが同じ悲劇に共演いたしますから」
彼は満面に笑みを浮かべて言った。
「おお、それは豪華ですな」
公爵と僧院長は顔を綻ばせて言った。
「デュクロを女王とすれば」
公爵がまずデュクロを例えた。
「アドリアーナは女神といったところですな」
僧院長がそれに合わせてアドリアーナを例えた。
「ミーズといったところかしら」
「天界から落ちちゃった」
姫君と女神が悪戯っぽく言った。
その時左の奥の扉が開いた。
「おや、噂をすれば」
「そのミーズ女神のご登場だ」
高官と庶民がそちらに顔を向けて言った。
扉が開いた。そこから一人の美しい女性が入って来た。
長身のスラリとした容姿をしている。黒く長い髪は縮れてはいるが艶やかに輝いている。肌は白く透き通るようである。爪と唇は紅くまるでルビーのようである。
瞳は黒くそれは翡翠のように輝きそれでいて夜の深い紫のように人を惹き付けてやまない哀しみを含んでいた。
整った顔は気品と艶めかしさを同時に漂わせている。それはギリシアの芸術の女神そのままの美しさであった。
右手に黒い鳥の扇を斜めに持っている。右手には劇の台本の台詞が書かれた巻物がある。衣装は劇の役の東洋風の衣装を身に着けている。首にはダイアモンドのネックレスが白く輝いている。それはまるで無数の星の瞬きであった。
俳優達は思わずそれに見惚れた。ライバルなのに、である。公爵と僧院長は恭しく一礼した。監督は彼女に眼を奪われている。そこまでの美しさであった。彼女こそアドリアーナ=ルグヴルール。このコメディ=フランセーズ座きっての
美貌と演技を知られた女優である。
フランスシャンパーニュに生まれた。彼の家は帽子屋をしていたが父が一旗あげんとパリのサン=ジェルマン通りに移り住んだことが彼女の運命を決定付けた。
新しく移り住んだ家のすぐ近くにフランセーズ座があったのである。彼女はフランセーズ座の舞台を覗き見るようになった。
元々芝居が好きだった。子供達を集めて子供の劇団を作った。近所のお菓子屋の親父が店を稽古場に提供してくれ練習を積んだ。その芝居は子供のものとは思えぬ程の出来栄えであった。
評判は高まりとある貴族の奥方の耳にも入った。彼女は自分の屋敷の中庭を劇場として提供した。アドリアーナはここでコルネイユやラシーヌの悲劇を上演した。
その素晴らしい演技と美貌に見惚れた奥方は彼女に対して言った。
「貴女は素晴らしい女優になるわ」
その顔は素直な賞賛であった。彼女は誰よりも早くアドリアーナの女優としての素晴らしさに魅了されたのであった。
「けれど・・・・・・」
だが奥方はここで表情を暗くさせた。
「女としては不幸になるかもしれないわ」
彼女は哀しい顔で言った。アドリアーナの純真で一途な心が男にとって実に都合良く弄び易いものであるかを知っていたからだ。そしてこの言葉は不幸なことに的中する。神とは時として何か素晴らしい力を授けるとともに哀しい運命を授けるものなのである。これは神に悪意があるのではないだろう。運命という神でさえあがらう事の出来ぬもののせいである。
それから洗濯屋で働いていたがそこでフランセーズ座の名優ルグランに出会った。彼女を見て一目で気に入った彼は彼女のパトロン兼先生となった。これがアドリアーナの女優としての本格的な活動が始まった。
ストラスブールの劇場でデヴューしやがてフランセーズ座からも声がかかる。タイトルは『エレクトル』であった。
そのデヴューは大成功であった。彼女はたちまち観客達の心を掴んだ。そしてすぐに国王付の女優となった。ルイ十五世も彼女の演技と美貌に心を奪われたのであった。
彼女は悲劇も喜劇も見事に演じきった。性格的、情念的な悲劇も人間の真実を深く抉り出す喜劇も見事に演じたのである。彼女はまさに天才であった。
その彼女が今部屋に入って来たのだ。それを見ずにおれぬ者がいるであろうか。
「サルタン=アムラットはその権力で私に降伏を強いる」
彼女は右手に持つ巻物を見ながら劇の台詞をゆっくりと練習している。
「皆出でよ!全ての出口は向こう見ずな者に対して閉ざされなければならない」
ここで彼女は練習を中断した。
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