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アドリアーナ=ルクヴルール

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第四幕その五


第四幕その五

「ただこの花は私の・・・・・・」
 再びそのすみれの花束を手に取った。そして撫でる。
 撫でるうちに涙が溢れてきた。止まらない。止めようがなかった。
「可哀想な花、昨日野原に咲いたばかりなのに今日にはもう朽ち果てていく花。信頼出来ない恋の誓いのように」
 彼女は泣きながら語った。涙がすみれを濡らす。それがすみれを一層艶やかで儚げにしている。
「これは最初の口付けだろうか。いや、最後かも知れない。けれどこの哀れな花に口付けするわ。優しく、強く。私の終わった愛の為に」
 そう言って涙で濡れた花に口付けした。すみれの香りが彼女を覆う。本来なら芳しい筈のその香りも今はもう死の、全ての終わりの香りのようであった。
「これでもう全ては終わったわ。この花の香りが全てを消してくれる。過ぎ去りし日々も何もかもこの花と共に終わるのよ。そう、もう二度と繰り返すことはないわ」
 花を暖炉の中に入れた。涙で濡れた花は今炎に包まれその中に消えていった。
「さようなら、何もかも・・・・・・」
 アドリアーナは肘掛け椅子の前に来るとそこに崩れ落ちた。もう立てなかった。
 ミショネは彼女の側に来た。そして優しく声をかけた。いたわる様に。
「アドリアーナさん、それは違いますよ」
 言葉を出すその顔も優しかった。まるで娘をいたわる父の様に。
「彼は・・・・・・伯爵は来られますよ」
「いいえ、そんな事・・・・・・。ありえない、ありえないわ」
 アドリアーナは椅子に顔を埋めたまま言った。それはまるで自分の心に灯ろうとする微かな希望を打ち消そうとするかのようだった。
「いえ、絶対に来られます」
 彼はまた言った。優しいが毅然とした声で。
「もうすぐ来られますよ。そして全てが明らかになります」
「そんな奇跡みたいな事が・・・・・・」
「アドリアーナさん、奇跡は誰が起こすと思います?」
 彼はアドリアーナに尋ねた。
「この世の全てを司る神が」
「いえ、それは違います」
 彼はその言葉に対して反論した。アドリアーナは見ていなかったがその顔は真摯なものになっていた。そして正面を向いていた。まるで哲学を語る若者の様に。
「奇跡は人が起こすものです。人が願うからこそ奇跡は起こるのです。神はそれを手助けされるだけです」
「人が起こすもの・・・・・・」
「そうです、奇跡も、喜劇も、悲劇も全て人が作るものです。現に貴女は舞台でそれを全て作り出しておられるではありませんか」
「・・・・・・・・・」
 アドリアーナはその言葉を聞いて沈黙した。ミショネは自分の劇を最も診てきた人である。その彼が今こうして彼女に語っているのだ。それは彼女の心を強く打った。
 この時ミショネは喜劇と悲劇も出した。これは彼女が女優だから出したのである。しかし彼は劇を出した事を後にどう思ったであろうか。喜劇も悲劇も人が作り出すというのは事実である。そしてそれがもたらす喜び、そして悲しみもまた現実なのである。これは非常に残酷な話であるが。
「・・・・・・そしてその奇跡とは?」
 アドリアーナは彼に尋ねた。
「私は伯爵に手紙を書きました」
 先程使用人に持たせたあれである。
「手紙を?」
「はい。いらぬお節介でしたか?」
「いえ・・・・・・」
 アドリアーナはその言葉に対し首を横に振った。
 その時屋敷の玄関の方から馬の嘶きが聞こえてきた。
「お、来られましたよ」
 彼はあえて彼女にも聞こえるように声を弾ませて言った。
「そんなことが・・・・・・」
 彼女は顔を起こした。その瞳はまだ涙で濡れている。
「ところが起こるのです。それが奇跡というものです」
 ミショネはそんな彼女の顔を見て微笑んで言った。
「アドリアーナ!」
 マウリツィオの声がした。
「聞こえましたね。あの声は忘れられた事はない筈ですよ」
「いえ、違うわ。これは私の幻聴なのだわ」
 彼女はまだ信じられない。
「ではこれから貴女が見るものは幻覚ですかな?」
 ミショネはそんな彼女を少しおどけた調子で言った。しかしその顔はやはり優しいままである。
 足音が近付いて来る。それはアドリアーナにも聞こえている。
 一歩一歩近付いて来る。そしてそれは扉の前に来た。
「あの人が来られるのね!」
「そう、やっと信じる事が出来ましたね!」 
 ミショネはそれを見て満心の笑みで言った。
「はい、もうこうしてはいられません!」
 彼女は立ち上がった。そしてドアの方へ向かいそのドアを大きく開いた。その向こうにはマウリツィオがいる。
「これでいい、これでいいんだ、これで」
 ミショネはそう言うとその場を去った。そして一人食堂へと入って行く。
 マウリツィオが部屋に入って来た。息は大きく弾んでいる。
 ドアの前で待っていたアドリアーナは彼を抱き締めようとする。だがハッとして立ち止まった。
「何故ここに・・・・・・!?」
 アドリアーナは恨みを込めた声と眼差しでマウリツィオに言った。
「・・・・・・許してくれ」
 マウリツィオは罪悪感に捉われ下を向いて言った。
「・・・・・・・・・」
 アドリアーナは沈黙した。だがその眼は恨みを込めたままである。
「気の迷いだった。僕が馬鹿だった」
「あちらであのお方がおられてもそれが言える?」
 アドリアーナはそう言って彼を見た。問いかける眼で。
「今の僕は君だけが全てだ。信じてくれ」
「それは前にもお聞きしました。もう何度も何度も」
「それは謝る、だから許してくれ」
「けれどまたあの人のところへ行ってしまわれるのでしょう!?また今度も」
「それは無い、僕のこの軍人としての誇りに誓って」
「私は女優です、女優に軍人の誇りと言われても」
「では言い替えよう、君を愛する一人の男としての気持ちに誓って」
 マウリツィオは全てをかなぐり捨てた。そのうえでアドリアーナに言った。
 
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