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アドリアーナ=ルクヴルール

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第三幕その五


第三幕その五

「それはすぐにわかるよ」
 マーキュリーはそう言うとその場を去った。この黄金の林檎は神々のみが食べることを許される不老不死の林檎。トロイアの戦争で活躍した英雄アキレウスの父ペレウスとその母であるニンフの娘テティスとの婚礼の時に招かれなかった争いの神エリスがそれに怒りこの林檎を婚礼に出席していた女神達の中に投げ込んだのだ。それは無論彼女達をいがみ合わせ争いを起こさせる為だ。
 そこへコーラスが聞こえて来る。舞台外で歌っている。古代ギリシアの様式だ。
「気をつけなさい、フリジアの美しい羊飼い!果実はどれも虫食いだらけ!争いが貴方に降りかかりますよ!気をつけなさい、貴方に与えられる贈り物とそれを与えてくれる美しい女神に」
 だがそれはパリスには聞こえない。これもギリシア劇の様式なのである。舞台外の話は舞台の中の人間には決して聞こえないのだ。
 ここで結婚式の立会人であるヘラ、すなわちジュノーが入って来る。言わずと知れた天空の神ゼウスの妻である女性の守護神だ。派手に着飾り堂々とした姿だ。彼女はまず自分の存在をパリスに示した。
「私のことは知っていますね」
「はい」
 パリスはジュノーの言葉に頷いた。
 次に女戦士アマゾネス達を従えた智と戦の女神アテネ、ミネルヴァが入って来た。彼女は鎧兜で武装している。
「私のことは知っていますね」
「はい」
 パリスはミネルヴァの言葉に頷いた。繰り返しもまた古典的な劇の特色の一つである。オペラでもそうだ。
 最後にボッテイチェリノ名画『春の祭典』のように優雅と喜びを司る女神達を従えアフロディーテ、すなわちヴィーナスが入って来た。彼女は衣で身を覆っているだけである。
「私のことは知っていますね」
「はい」
 パリスは三度答えた。女神達はパリスを取り囲んだ。そして彼に尋ねた。
「この中で最も美しい女神は誰ですか?」
 これは神話通りの展開であった。
「そ、それは・・・・・・」
 パリスは迷った。彼は女神達を見ながらあれこれ考えている。
 そこでヴィーナスが衣を脱ぎ捨てた。すると白い露な裸身が現われた。
「うっ・・・・・・」
 パリスはそれを見て思わず息を飲んだ。そして彼女の方へ歩み寄る。
 そして黄金の林檎を彼女に与えようとする。だがその時ふと公爵夫人に目を転じた。
 彼は公爵夫人の方へ歩み寄った。そして彼女の足下に跪き林檎を差し出した。
 それを見た女神達は公爵夫人に歩み寄り彼女を取り囲んだ。そしてそれぞれ彼女の美しさを褒め称えた。アマゾネスや女神達、そしてキューピット達が彼女の周りを踊りそして去って行った。後には黄金色の林檎を手にする公爵夫人がいた。
「素晴らしい、見事な劇だ」
 公爵は拍手をしながら僧院長に声をかけた。
「有り難うございます」
 僧院長は一礼してそれに応えた。満足気である。
 こうした劇は当時よく行なわれていた。音楽家や戯作家達もよく王侯達に自分の作品を捧げた。モーツァルトもそうした作品を残しているしハイドン等もそうである。これをおべっかと断ずるのは実にたやすいがその中にも名作が多くあるものなのである。十九世紀になってもロッシーニはシャルル十世の即位の折に『ランスへの旅』という作品を残している。これは彼らしい楽しい名作である。
「ところで奥様」
 拍手を役者達と共に浴びた僧院長は公爵夫人のところへ来た。
「あの貴婦人ですか?」
 マウリツィオの恋人のことである。見れば青いドレスを着た美しい夫人がいる。さる伯爵のご令嬢だ。
「違いますわ」
 公爵夫人はいささか不機嫌そうに言った。
「そうですか」
 僧院長はその言葉に首を傾げて言った。
「伯爵の」
 公爵夫人はそう言ってマウリツィオを右手に持つ絹の扇で指し示した。
「愛しい美しいお方は」
 そう言って隣にいるアドリアーナの方へ顔を向けた。
「マドモアゼル、ご存知ありませんか?」
 そう言ってあえて優雅に微笑んだ。その微笑には毒を含んでいる。
「私が!?」
 アドリアーナはその思いもよらう奇襲に戸惑った。
「そうですわ。話題のもう一方の主役です。宮廷ではとある女優ではないかと言われていますが」
「それってデュクロじゃなかったっけ」
 微笑みつつアドリアーナに語り掛ける公爵夫人の横で僧院長はボソリ、と言った。
「そうなのですか?私の聞いたところによりますとお相手は優美な淑女とか」
 そう言って微笑んだ。この微笑みには豹の牙を隠している。
「それは何処でお聞きしました?」
 公爵夫人は尋ねる。
「劇場仲間から。もっぱらの噂ですわよ」
 アドリアーナは返す。負けてはいない。
「夜の誰にも知られていない逢い引き」
 公爵夫人は暗にアドリアーナに彼女の恋人との密会を囁く様に言う。そこには甘い毒を含んでいる。
「月の下での秘密のお話」
 アドリアーナはそれに対しこの前の別荘での話を出した。爪が微かに見えた。
 二人の言葉の掛け合いは客人達も見ていた。
「何か変な掛け合いですこと」
 淑女達は首を傾げて話している。
「それは一体何のお遊びですか?劇か何かの台詞ですか?」
 僧院長も不思議に思い二人に尋ねる。
「恋人に捧げた小さな花束」
(それはあのすみれの花の・・・・・・)
 アドリアーナは心の中で言った。あの控え室でマウリツィオに与えたあのすみれの花だ。
(くっ・・・・・・・・・)
 公爵夫人はそれを出して勝ち誇っている。無論顔には出していない。その優美な仮面の下で笑っているのだ。それは女虎のような顔である。
 しかし女豹も負けてはいない。仮面の下で虎をキッと見据えた。
 
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