戦国異伝
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第百十三話 評定その十
「尾張の味噌でなくてはな」
「そうなのですか」
「そうじゃ。焼き味噌も尾張の味噌じゃ」
常に口にしているそれもだった。
「それ以外はないわ」
「そうですか。それは今宵も」
「焼き味噌を食うとしよう」
「それに梅もですね」
「忘れはせぬ」
信長は食事の時に最初に絶対に梅を口にする、そしてその種を左の手の平にぷっと吐く、それから食事のはじまりにするのだ。
それ故にだった。梅もまた。
「欠かせぬ」
「どうしてもですね」
「この二つはな。しかしやはり上方の味は好きになれぬ」
これはどうしてもだった。
「水っぽい、尾張の濃い味がよい」
「では今宵も」
「無論味は尾張の味じゃ」
気取ることなくそれがいいというのだ。よく偉くなれば料理の味も変えたりする者がいるが信長はそれはしないというのだ。
それでこうも言った。
「醤油や塩、酢を利かせてな」
「はっきりとした味ですね」
「それでよい。ではまずは茶を飲み」
「そのうえで」
「飯にするとしよう」
その濃い味の料理をだというのだ。信長の評定は彼が様々な考えを含ませてその上で見事行われたのだった。
相模の北条氏康はその話を小田原城で聞き家臣達にこう言った。
「織田信長、やはり一角の者じゃな」
「うつけではなく」
「そうした御仁でありますか」
「湯漬けを喰らう時も湯の量を間違えぬな」
信長の目をこう評する。
「絶対に」
「申し訳ありませぬ」
氏康の今の言葉に嫡子の北条氏政が申し訳ない顔で頭を垂れる。
「それがしは」
「よい、一度過てばわかる」
我が子に対して確かな口調で告げる。
「湯と人は同じぞ」
「はい、湯漬けの湯の量がわからずして人の器はわからぬ」
「湯の量程度のことがわからねば器はわかりませぬな」
「そういうことじゃ。さて」
氏康は今度は家臣達に対して言った。
「織田家についてじゃが」
「まだ遠いですな」
「遠い近畿や東海、四国のことです」
「どうも我等には実感がありませぬな」
「関東でも甲信のことでもありませぬし」
北条二十八将の面々は口々に言った。彼等は上洛し天下に号令する気は殆どなく関東の覇権に専念していた、それでなのだ。
「特にこれといって」
「実感はありませぬな」
「わしも天下は望んではおらぬ」
氏康自身もこう言う。
「それよりも関東じゃ」
「この関東を手中に収めどう治めていくか」
「それが問題ですな」
「そうじゃ。天下は望めば身を滅ぼす」
こう考えているところは毛利元就と同じだった。氏康は彼のことも然程知らないがこの考えは一致していた。
「だからこそじゃ」
「この関東に専念する」
「そうされて」
「うむ、だがこの関東に織田家が来るならば」
その時はだと。氏康はその細面の整った、そこに向こう傷がある顔をきっとさせてそのうえで言ってみせた。
「振り払う火の粉は払う」
「ではこれまでの様に」
松田が言った。
「この小田原城に篭城しますか」
「武田や上杉の時の様にじゃな」
「はい、それでどうでしょうか」
「篭城して倒せる相手ならばよいがな」
だが氏康はこう松田に返した。表情は神妙なものに変わっていた。
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