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【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール

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疑念の夜


疑念の夜

 右手の戦斧《トマホーク》は0.25Gの軽重力下にあっても、まるで通常の重力下であるかのように、その重みをフロルに感じさせていた。ともすれば、その手が震えそうになるのを、フロルはなんとか抑えている。
 構えた刃先を向けている男が、いったい誰なのか。フロルにプレッシャーを与えるのは、その事実だった。

——ラインハルト・フォン・ミューゼル。

「卿は|薔薇の騎士連隊《ローゼンリッター》か」
 ラインハルトは、フロルに向かってそう言った。無論、フロルは正式な|薔薇の騎士連隊《ローゼンリッター》ではない。彼は少しばかりの期間、|薔薇の騎士連隊《ローゼンリッター》の中で教練を受けただけであり、よくいって準隊員というところである。
 だが、それを指摘することはない。
 |薔薇の騎士連隊《ローゼンリッター》の名は、それだけで敵に威圧感を与えるからである。だが、それがラインハルトに有効であるのか、甚だ疑問ではあったが。
「まぁ、そんなところだ、准将殿。中佐が相手では不満かもしれんが、付き合ってもらうぞ」
 相手が、あのラインハルトであるというだけで、フロルは舌が縺れるような緊張感を感じている。彼の手にある戦斧を、果たして今まで彼が繰り返してきたように、思うがままに操ることが出来るのか。

 だが同時に、フロルは考えていた。
 ここで、ラインハルトを殺せば、自由惑星同盟が滅亡することはなくなる。
 ヤン・ウェンリーが惨めな死を迎えることがなくなる。
 そして、イヴリンが——

「もらった!」
 フロルの戦斧は正しく彼の望むような曲線を描くはずだった。鋭く構えたそれが、体勢の崩れたラインハルトの急所に、吸い込まれるように届くはずだった。

 しかしヘルメットの奥の、ラインハルトの顔は微塵も怯えを見せていなかった。
 その姿勢からでは、その右手の戦斧を振るうことも適わない。
 ラインハルトにできることは、振り下ろされる死に神の鎌ならぬ斧がその身に届くまでの短い間、ここにはいない神への祈りを捧げることだけだったろう。
 にもかかわらず、ラインハルトは、まったく怯えていなかった。
 その蒼氷色《アイスブルー》の瞳が、鋭く雷のような光を放ち、フロルを貫いていた。

 まるで、自らが死ぬことなど欠片も怖くないように。
 自らが死ぬはずがないと、確信しているかのように。

「ラインハルト様!」
 その声は、ヘルメットを貫いてフロルの耳に届いていた。
 焦ったようなその声。
 鋭いキルヒアイスの声だった。
「駄目ッ!」
 その声に被さった言葉は、フロルの親しんだ声色だった。
 イヴリンの声である。
 悲痛な、叫びの声。

 フロルは後ろを振り向いた。
 そしてそこにキルヒアイスの姿を見た。
 大上段に構えられたその戦斧は、もう何をしても手遅れの位置にある。次の一瞬で、フロルの頭をその炭素クリスタルの刃が斬り砕いているだろう。

 いや、いたはずだった。

 イヴリンが、フロルとキルヒアイスの間に、割り込んでいなければ。

「やめろ!」
 
 フロルの叫び声は、しかし遅すぎた。
 その声と、フロルの視界を血が覆ったのは同時であった。

 嫌な音を立てて、体が崩れ落ちた。
 まるで糸の切れた人形のように、崩れ落ちた。
 その音が、フロルの耳に残った。
 
 フロルは、左手でバイザーの血を拭った。
 右手の戦斧は、既にない。

「イヴリン……?」
 フロルは、横たわったイヴリンに歩み寄る。
 イヴリンは、微動だにしていない。

 フロルは膝を突いてその体を抱き起こす。
 イヴリンの髪が、その橙色の髪が力なく広がった。
 その香りが、フロルの鼻をかする。

「イヴリン!」
 彼女は既に死んでいた。

 その目は力なく開き、碧色の瞳が開いている。
 口は痛みに耐えるように、閉じられていた。

 フロルは、両手にかかる重みが、理解できない。
 フロルは、それがいったいなんであるか、理解できない。

——理解、したくなかった。

 声を出そうとして、声が出ない。
 イヴリンの流した血の赤色が、わからない。
 
——どうしてこんなことになったのか。

——どうしてイヴリンが血を流しているのか。

——どうして、誰が——

 フロルは顔を上げた。
 温度を失いつつある体を抱きしめながら。

 豪奢な皇帝の礼装に身を包んだラインハルト・フォン・ローエングラムがフロルを見下ろしている。


「ラインハルトぉぉぉ!」


 叫び、飛び起きてすぐに、荒い呼吸と心臓の拍動を自覚した。
 胸を掻きむしるように、寝間着を握りしめる。
 寝汗が服を濡らしきっていた。
 
 瞼の裏に残っている赤い血の色が、フロルには忌々しかった。
 イヴリンの死に顔が、フロルの胸に激痛を与えている。
 ベッドサイドのナイトテーブルに手を伸ばす。時計は、午前3時11分を示していた。
 
 初めて見た悪夢ではなかった。
 それどころか、何度見たかわからぬ悪夢である。
 種類はいくらもあった。自身が死ぬ夢、イヴリンが死ぬ夢、ヤンが死ぬ夢、カリンが死ぬ夢……誰もが死んでいく夢であり、そしてそのどれもがラインハルト、あの政戦両略の天才によって殺されていく夢なのだ。
 
 フロルは4度、戦場でその姿を見て、捕らえんとして、そしてそれをなし得なかった。
 今度こそ、仕留めたと思ったことも一度ならずある。
 だがその全てを、あの常勝の天才が上回っていったのだ。

——格が違う。

 何度考えたが、それは明白であった。
 フロルは、一度として自身がヤンやラインハルトに匹敵する天才であると考えたことはない。彼は常にその才覚で己の昇進をなし遂げようとしてきたが、それもコネや上手く立ち回った面というのもあっただろう。
 彼は自分が未来を知っているというアドバンテージを持っていたが、だとしてもそれだけで同盟軍の元帥になれるわけではないのである。
 無能者が、ただその知《・》識《・》のみで昇進を重ねられるほど、現実は容易ではない。

 そして彼は戦いを重ねれば重ねるほど、己の力不足を自覚していた。
 
——自分はヤンやラインハルトに遠く及ばない。
——自分はどこまでいっても天才では、ない。

 だからこそ、彼はその原作知識と、彼の経験している現実の誤差を埋めるべく、過剰なまでに情報を仕入れんとしてきた。グリーンヒル大将に接近して、情報部の一部を指揮下に入れたのも、その目的だった。
 彼が動けば、彼が歴史に介入すればするほど、元の歴史からずれていくのだ。
 ならばこそ、フロルは自分が及ぼした影響を、正確に理解する必要があったのだ。

 更に言えば、原作知識がこの世界の将来そのものであるという確証もないのだ。
 フロルはこの世界が、銀英伝の世界であることに疑いを持ってはいなかった。だがフロルという異分子《イレギュラー》が存在する時点で、本来の世界ではないのだ。大げさに言えば、フロル以外に異分子《イレギュラー》がいないとも限らない。
 幸いにも、彼は未だにそのような人物を見つけていなかった。だが、その懸念は薄まることがあっても尽きることはない。

 
 ドアをノックする音がした。
 フロルが見ると、小さく開けられたドアからこちらを見つめるカリンの姿があった。目を擦りながら、眠そうに入ってくる。
「フロルさん、大丈夫? なんだか、叫んでいたけど……」
 カリンは眠気のせいか、舌足らずになった口調でそう言っていた。

 薄暗い夜の部屋に、月の明かりが差し込んでいた。寝室の窓から外を見れば、ハイネセンの夜空が切り取られて見ることが出来ただろう。
 白を基調とした室内は、夜の色が滲み出て、深い藍色に染まっていた。

「大丈夫だよ、カリン。こちらにおいで」
 フロルは辛うじて息を整えて、カリンにそう言った。
 カリンは覚束ない足取りでフロルに歩み寄る。
 月の光を浴びたカリンは、その幼い容貌から可憐な少女への境界にいる者特有の危うさと綺麗さを擁していた。あと数年もすれば、誰もが振り返るような美少女になるだろう。フロルは識《・》っていたが、それを心の底から信じられるようになりつつあった。
 
 フロルは、力を入れれば折れてしまいそうな華奢な体をそっと、抱き締めた。
 その腕の中にいる存在が、どれほど彼に温かみを与えているかを感じながら。



***



 ダスティ・アッテンボロー少佐は、普段は決して手に取らないであろうハイネセン・タイムズを読んでいた。ハイネセン・タイムズは、彼の父、パトリック・アッテンボローが現在勤めている新聞社の発行する新聞である。無論、ダスティが彼の父の記事を好んで読もうとしてるわけではない。彼はそもそも真面目に新聞を読む男ではないし、忌まわしい父親が書いた記事があるかもしれない新聞など、余計に買う男ではなかった。
 その新聞があったのは、同盟軍病院におけるジャン・ロベール・ラップ少佐の病室である。
 ラップは宇宙暦794年夏の定期検査において、慢性骨髄性白血病であることが診断され、長期入院となったいた。軍務から長期間離れるのは、792年の戦傷以来2度目であった。これは彼の武運がないという他なかったが、もし彼に運命の女神が好意的であったならば、あと2つほどは昇級していたであろうと言われるほどには、有能な男である。
 もっとも、その停滞のおかげで、後輩であるアッテンボローに階級を並ばれてしまっているのだが、それを悔しがるような器の低い男ではなかった。彼は一般的な軍人、一般的な成人男性並の出世欲はあったが、それはあくまで健全なものであって、転じて人を妬み誹るような人格の持ち主ではなかったのである。
 
「アッテンボローは、最近フロルと会ったかい?」
 新聞と睨めっこしているアッテンボローにそう問いかけたのは、病床で体を起こしているラップである。当の本人は既にその新聞を読んでいる様子であった。当然、アッテンボローが読んでいる記事が何かも、見当をつけている。
「いえ、私も転属するので、忙しくて会えていませんね。フロル先輩も、まだハイネセンに戻ってきてまだ一週間ほどでしょうし」
 アッテンボローは新聞から顔を上げてそう言った。彼の顔は、困ったような表情を取ろうとして、だがしかし彼らしからぬ表情のせいで顔の筋肉が拒否反応を起こしたような、そんな顔をしていた。
 それに小さく笑ったのは、もう一人の見舞い人、アレックス・キャゼルヌ少将である。
「俺も本当は、空港で出迎える予定だったんだが、ヤンに頼んでしまった。俺もしばらく会ってない。俺も一応昇進するらしいからな」
「アッテンボローも、キャゼルヌ先輩も、それだけの仕事はしてますからね。数多くの給料泥棒から比べれば、妥当な昇進だと思いますよ」
 ラップは笑みを浮かべながら素直に二人の昇進を喜んだが、
「我らが給料泥棒は今日いったいどこにいるんだ、それで」
 一方でここにいない彼の同期のことを、二人に訊いた。

 言うまでもなく、ヤン・ウェンリーのことである。

「先約、だそうだ」
 答えたのはキャゼルヌである。その顔はキャゼルヌ特有の、悪戯っ子のような笑みだった。
「先輩、その顔はいったいなんです……。まさか……!」
 アッテンボローの驚いたような顔は、果たしてキャゼルヌの望む反応であった。
「デートだそうだ」
 口笛にならない口笛をしたのは、ラップである。
「とうとう色恋沙汰でもヤンに先を越されるか。さすがに、こればかりは辛いなぁ」
「ジェシカ先輩はどうしたんです?」
 アッテンボローはその性格にふさわしく、直球に尋ねたきことを尋ねたが、ラップは恥ずかしそうに笑みを溢しただけだった。言葉には出さなかったが、まんざらでもないということであろう。

「それにしても、どうしたもんかな」
 キャゼルヌの言葉で、三人の意識は、再び当初の話題に戻った。
 フロル・リシャールの、話だ。
 三人が示し合わせたように見たのは、テーブルの上に置かれた新聞である。その第3面には、とある写真が大きく映っていた。

 フロル・リシャールと、ヨブ・トリューニヒトの親しげなツーショットである。

「……フロル先輩は、こういうの嫌いだとおもったんですがね」
 そう言って眉を顰めたのは、アッテンボローである。それはその場にいる3人にとって、共通の思いであったろう。彼らは多くの点で似通った感性を持っていたが、政治に対する苦手意識、アレルギー感というのはその最たるものだったろう。
 ヤンの政治家嫌い、トリューニヒト嫌いは特に有名である。

 しかしそれは全体からすれば少数派というべき感性だった。
 トリューニヒトは自由惑星同盟において、今やもっとも有力で人気のある政治家の一人であった。彼は国防族議員のトップとして、国防委員長としてその権力を強め、国民を|正《・》義《・》の戦争へと鼓舞する優れた指導者、という評価を得ていたのである。

「あの薄気味悪い笑みを見るだけで、吐き気を催すんだがなぁ」
 もっとも、そう切って捨てるのがキャゼルヌである。
「だからこそ、俺も不思議なんですよ。フロルが、あのトリューニヒトと仲良く笑みを浮かべているのが、まるで笑えない冗《・》談《・》を見ている気分なんです」
「ああ、まるで悪い冗談だ」
 相づちを打ったのは、ラップである。
 だが、ラップにとって唯一の救いは、写真の中のフロルが、社交用の笑みを浮かべているということだった。ラップやヤン、キャゼルヌやアッテンボローとフロルの付き合いは長い。
 フロルの社交的スキルが、ヤンのそれの何倍も巧みであることを知っていたし、そのおかげでいらぬ苦労をしているということもまた、知っていた。だからこそ、それが本心からの笑みでないことに気付いていたのだが、彼らにとって問題なのは、そういう人間関係の取り扱いが上手いはずフロルが、仮にも大衆の目に触れる新聞において、彼の嫌いなはずの|政治家《トリューニヒト》との懇意を隠さなかったという事実なのだ。

——まさかトリューニヒト派になるだなんてことはないだろうな。
 というのは三人が三人、脳裏に浮かべて口に出さなかった言葉であろう。
「俺が思い出したのは、フロル先輩の古い渾名ですよ」
 ラップが考え込みながらそう言った。
「古い渾名?」
「——パストーレの懐刀、か」
 キャゼルヌもまた覚えていた。
 ラウロ・パストーレ中将は有名なことに、トリューニヒト派の人間である。その蜜月の関係から、パストーレは才覚の不足を補ったと言われるほどなのである。それは明らかに悪口であったが、根拠のない悪口ではなかった。
 だからこそ、パストーレの懐刀という言葉は、無能者を見事に補佐する有能さを示す渾名であると同時に、一部には悪名として記憶されていたのだ。
「フロル先輩は少将に昇進して、第4艦隊の副司令になる。そういう噂が流れたはずですよね、キャゼルヌ先輩」
「俺が聞いた話も、噂の域を越えんが、恐らくその通りになるだろうな。内定という扱いだが、事実上の決定だよ」
 キャゼルヌは頭をかきながらそう言った。
「またパストーレの元に戻るわけだ。そうなれば自然と、昔の渾名も再び囁かれ始まるだろう。俺は知っている。フロルはパストーレのような無能者は大嫌いだということをな。だが、アイツはそれを甘受している。こりゃあ、今度、問い詰める必要があるだろうよ」
 キャゼルヌは黙り込んでしまった二人に向かって、そう言って区切りをつけた。皆が皆、一点を見つめている。
 写真の中のフロルとトリューニヒト、その強く握られた手を。



***



 フレデリカ・グリーンヒル中尉は、緊張していた。
 それは普段着慣れないナイトドレスを着ているからかもしれない。
 はたまた、ハイネセンでも有名なホテル・カプリコーン最上階のレストランに来ているからかもしれない。
 恐らく一番の理由は、彼女の向かいに座っている男の存在だろうが。

 そんなことを、フレデリカは瞬時に考えた。箇条書きにいて、自分が緊張している理由を分析したのである。
 彼女の回転の速い頭はいつもより過剰に働いていたが、自己分析をしている時点で自分が緊張しているのは明らかだった。頭の回転も、やや空回り気味という具合である。
 そう、フレデリカは緊張している。
 まだ食事が始まったばかりにも関わらず、食欲がほとんどないのがその証拠だった。既にミモザのグラスを空けていたが、当然のごとく全く酔いが訪れる気配はない。
 
 もっとも、緊張しているのはフレデリカの前に座っている男の方かもしれない。
 ヤン・ウェンリー准将。

 彼は困ったように頭をかきながら、なかなか目線を合わせずに口を開いては閉じ、ということを繰り返している。何かしらを話しかけようとしているのだが、何についてまず言及しなければならないのか、悩んでいるという様子だった。
 そもそもヤンは女性との経験が非常に少ない。
 28歳になるまでそれなりに女性との接点はあったのだが、それは主にエル・ファシルの英雄になってからの話である。士官学校時代には、当時の士官候補生全員のアイドル、ジェシカ・エドワーズと図らずも交友を持っていたが、それも友人という範囲を超えたわけではない。
 あるいは、ヤンはそういう感情を抱いていたのかも知れなかったが、それを認識するほどヤンの恋愛方面に対する感受性は豊かではなかったので、今となっては本人にもわからなかった。
 軍人として不本意ながら名声を得てからは、これまた不本意ながら多くの女性からのアプローチを受けたヤンであったが、それを快く受けるほど真正直な人間ではなかった。それはヤンの持つ英雄というネームバリューに対してであって、ヤン本人を対象とした恋慕ではないと考えていたからである。 女性に対してなんの欲求もないというわけではなかったが、彼はそれよりも食欲や睡眠欲や知識欲が上回っていた。淡泊、という他ないものだったが、女性と付き合ってそれに気をかけるという面倒を負いたくなかったという物臭な一面の発露とも考えられただろう。
 キャゼルヌあたり訊けば、そう答えるに違いない。

 だから、ヤンは唐突にフレデリカ嬢と二人っきりで夜のディナーを共にするという事態に混乱していたのである。周囲の目線が、しばしばこちらに向けられることにヤンは気付いていた。好意的に考えれば、フレデリカ・グリーンヒルの健康的で凛とした美しさに目が奪われているのかもしれなかったが、レストランの窓際という上席に座ったカップルの片割れが、あの|ヤン・ウェンリー《エル・ファシルの英雄》だと気付いた者もいたことだろう。
 それがまた、ヤンを憂鬱にさせるものだった。
——きっとこれで、明後日のタブロイド紙には<ヤン・ウェンリー、ホテルでの密会>だなんて低俗な見出しが躍ることになるわけだ。
 
「やはり、帰りましょうか?」
 そんな憂鬱を顔に出していたのだろうか、声をかけたのはフレデリカの方であった。
「あ、いや、そんな、別に中尉とのディナーが、どうこうというわけではないんだ。それは勘違いしないで欲しい。いや、ただ、あの、突然だったから」
「そうですわね」
 慌てたように言い訳じみた言葉を紡ぐヤンに、フレデリカはくすりと笑った。
「私は、フロル先輩にレストランのディナーチケットがあるから、行ってこい、と言われたんだ。自分は仕事があるから、と。カリンちゃんと一緒にディナーをして欲しい、と言われていたんだが」
 ヤンは弁解をしながら、そのことを思い出していた。電話が来たのは、唐突に昨夜のことである。フロルから、急いでいる様子で電話がかかってきたのである。本来ならば、フロルとは話したいことがあったのが、それを言わせる暇のなく、一方的にお願いされたのだ。ディナーチケットがある。本来ならば、自分がカリンを連れて行くつもりだったが、仕事が入ってしまい、行けなくなってしまった。自分の代わりに、行ってくれないか。
 無論、ヤンは最初断った。特段仲が悪いわけではなかったが、ヤンは年頃の女の子との付き合い方もわからなかったからである。だが、ユリアンがフライング・ボールの部活合宿で家におらず、仕事も一段落していて暇であるというヤンのプライベートなスケジュールを熟知していたフロルに、最後は説得されてしまったのである。
 しかも、カリンがしっかりおめかしするのだから、ヤンもちゃんとした服装で来い、という半ば強迫じみた文言によって、ヤンはスーツの上下という彼の中ではもっともまともな盛装をしてこのレストランに来ているのである。
 
「私は、カリンちゃんから電話があったのですわ。リシャール少将と行く予定だったのに、少将は予定をすっぽかした。食事は美味しいそうだから、同伴する人を見つけて、食べに行きたい、と」
 フレデリカはそう言いながら、また水を口に含んだ。緊張やら興奮やら、よくわからないが長年の想い人と、二人っきりでディナーという状況は、冷静沈着を旨とする彼女をして平静ではいられなくしていたのだ。さきほどから、喉が渇いて仕方がなかった。

「はぁ」
 ヤンはなんとも締まりのない相づちを打ったが、どうやらこのディナーのセッティングはフロルとカリンによってなされたものらしいと、理解したのである。
「ですが、なんでかしら。二人とも、お互いの予定を勘違いしていたのかしら?」
 とフレデリカは口では不思議がっていたが、これがフロルの親切の押し売りであるという可能性も、しっかりと考えていた。フレデリカにしてみれば、このディナーはとんでもなく幸せなものなのだ。心臓にかかる負担を除けば、純粋に嬉しいのである。
 
「そんなことはない、と思うんですが」
「可能性としては、余ったディナーチケットを押しつけられた、ということかしら」
 ヤンが考える限りでは、もっともありえそうな話である。ヤンの手元に速達で届けられたチケットには、ご丁寧にも日付が固定されたものであり、今夜しか使えない類いのものだった。その日に予定があったフロルは、暇を持て余しているであろうヤンに押しつけた、という絡繰りである。
「まぁ、フロル先輩が突拍子もないことをするのは今に始まったことじゃないんですが、今回はグリーンヒル中尉にご迷惑をかけてしまって、私の先輩ながら、申し訳ないというかなんというか……」
 ヤンはただ、グリーンヒル大将のご令嬢、しかも美貌の持ち主であるフレデリカに不快な思いをさせているのではないかということだけが、心配だったのである。

「そんなことありませんわ!」
 だからこそ、その思考を読み取ったフレデリカの否定は、声が大きかった。
 自分が上げすぎた声量に肩を竦めながら、フレデリカは小さく一呼吸して、優しく微笑んだ。
「ヤン准将とは、是非お話したいと思っていましたから」
「はぁ、それは、なんというか、光栄です。クリスマス・パーティー以来でしたからね」
「ヤン准将は、エル・ファシルを覚えていますか?」
 ヤンは苦笑いを浮かべた。

「ええ、もちろん。あれ以来、私の人生はおかしな方向を向いてしまって、未だに苦労しています。偉くなるもんじゃ、なかったってね」
 
 ここに来て、フレデリカはようやく落ち着きを取り戻していた。何度も思い出した記憶を、そして伝えたかった言葉を、フレデリカは口にしようとしていたからだ。
「私もあの時、母と一緒にエル・ファシルにいたのです。母の実家がそこにありましたから。食事をする暇も碌になくて、サンドイッチを囓りながら指揮をとっていた若い中尉さんの姿を、私ははっきりと憶えています。でも、そのサンドイッチを咽喉《のど》に詰まらせた時、紙コップにコーヒーを入れて持って来た14歳の女の子のことなど、中尉さんの方はとっくに忘れておいででしょうけどね」
 語りながら浮かべた笑みは、朴念仁のヤンをして、息を呑ませる美しさがあった。
「……」
「そのコーヒーを飲んで、命が助かったあとで、何とおっしゃったのか、も」
「何と言った?」
「コーヒーは嫌いだから紅茶にしてくれた方がよかった、って」
「それは——」
 ヤンはまた弁明しようとして、勝ち目がないことを悟った。
「申し訳ない。だけど、噂に違わぬ記憶力だね、中尉は」
「『フレデリカ、でいいですよ、中尉さん』……あの時は、本当にお世話になりました」
 ヤンは困ったように、頭に右手を伸ばし、握ろうとした軍帽がないことに気付いた。結局宙を彷徨った手は、頭をかくことに落ち着く。どんな表情をすればいいのか、ということに悩みながら、声をかけようとした瞬間、ウエイターが近寄ってきた。無闇に手を上げたヤンの挙動を、勘違いしたのである。

「お呼びでしょうか」
 ヤンは己の困った右手を見てから、ウエイターに言った。
「あ、ええっと、そうだな、シャンパンを適当に見繕ってくれないかな。私と、彼女に。それでいいかな、中尉」
「ええ、私は構いませんわ」
 ウエイターは丁寧に頭を下げて、テーブルを去った。

 少しの間を置いて、ヤンは言葉を続けた。
「あの時の作戦は、謂わば味方を囮《デコイ》に利用した奇手だ。味方を使って自分の脱出を図ったのだから、本来は褒められるような類いのものじゃない。そもそも民間人を置いて逃亡を図ったのも同盟軍なんだから、私のやったことは民間人を見捨てるという同盟軍の愚行を帳消しにした程度のことでしかない。だから、その、感謝されても困るというか、私がやったのは——」
「民間人に一人の犠牲も出さず、敵の包囲網を突破したのですわ、閣下。あなたがいなければ、私や母が今頃どうなっているか想像もつきません。だから、閣下がどうお思いだろうと、私はあなたに感謝しているんです」
 
 そこに、ウエイターがシャンパンを持ってきた。二人の会話は途切れ、置かれたシャンパングラス、軽い音を立てて開けられるシャンパンボトル、そして注がれ、泡がグラスから溢れそうになる様子を、黙って見ていた。
 金色の泡は、まるでフレデリカの髪のように綺麗に、輝いている。

「では、再会を祝して、もう一度乾杯しようか」
 頷いたフレデリカと、ヤンのグラスが軽やかな音を立て、
 蝋燭だけが灯されたテーブルの上で、二人の視線は交わった。

「ですが、どうして、こんなことになったのかしら」
 ヤンは苦笑いを溢しながら、何の気なしに口を開いた。
「あるいは、フロル先輩は、中尉の過去を知っていたのかもしれませんね」
 だがその言葉に、フレデリカは、一瞬言葉を失った。
 父親からの、忠告を思い出したのである。
 フロル・リシャールは、あのエル・ファシル脱出行の中に、なぜかおまえたちがいることを知っていたのだ、ということを。
 誰にもグリーンヒルが語ったことのない、プライベートを知っていたのだ、ということを。
 
——だから、リシャール少将は私とヤン閣下の接触を演出した?
——だけど。
——どうして?



***



「さすがの俺でも、これは趣味が悪いと思うぜ、フロル」
 バグダッシュはホテル・カプリコーン最上階の、レストランにあるバーのカウンタに一人座っていた。囁き声より小さな声量は、周りの喧噪によってかき消えていたが、咽喉《のど》に張られた超薄型声帯マイクによって拾われた音声は、電話をかけてきたフロルにしっかりと届いていた。
 バグダッシュは、ヤンとフレデリカを監視していたのである。

『ほぅ、情報部の仕事で趣味の良いものがあったとは知らなかったな』
 耳の穴にすっぽり入る形の小型受信機が、鮮明にフロルの言葉を届ける。軍の暗号変換器によって3重のプロテクトのかけられた特殊回線は、盗聴もハッキングも困難な代物だった。つまり、この二人の電話は、誰に聞かれる心配もなかったのである。

「皮肉を言うな、フロル。そもそも、なぜあの二人を監視する必要がある。あの二人は、なんの嫌疑もかけられていないぞ」
『だからお前を使ったんだ、バグダッシュ』
 フロルの返答は、つまりこの監視が非公式な諜報活動であることを意味していた。バグダッシュは、その命令がフロル個人から発令されたものであり、フロルが一切の書類に残していないであろうことも、瞬時に理解した。つまり、フロルが私的にバグダッシュを動かしたということを、である。

「……なんの意味がある。あの二人が、おまえの敵になるというのか」
『違う。あの二人が、切れすぎるからだ、バグダッシュ。おまえが見ているカップルは、同盟史上最高の頭脳を持ち合わせた人間だ。戦術的、戦略的才能に天性のものを持つヤン・ウェンリーと、同盟軍きっての記憶力と事務処理能力を持つフレデリカ・グリーンヒル。そんな二人が力を合わせたならば、相乗効果をもたらす。リン・パオ、ユースフ・トパロウルの再来だよ、あの二人は』
 その言葉はバグダッシュを納得するどころか、フロルに対する疑念を増すことになった。
「ならば同盟にとっていいことじゃないか。なぜ監視する必要がある」
『バグダッシュ、おまえには言うまでもないことだが、諜報の神髄は、情報を操作し、戦局を、人をコントロールすることだ。だから、俺はあの二人をコントロールしなきゃならない』
「なるほどな」

 バグダッシュは、誰に見せるわけでもない笑みを浮かべた。それは決して、善性のものではない。バグダッシュは、フロルのいかにも諜報部員らしい言葉に対して、笑みを浮かべたのだ。
「フロル、おまえもどうして、それらしくなってきたじゃないか」
『……躊躇を捨てることにした、ただそれだけのことだよ、バグダッシュ』
「だが、あの二人はお前に対して疑念を抱かないか」
『いや、少なくともヤンは気にしないだろうし、フレデリカも聞いてくることはない』
 フロルの言葉は、電話越しであっても何かしらの自信が滲み出るものだった。
「どうしてだ」
『フレデリカ嬢はヤンに惚れている。さっきリン・パオ、ユースフ・トパロウルという先人の例を出したがな、あの二人は男女としてはお似合いなんだ。だから、余計に脅威たりうるのさ』
 バグダッシュにとって、その言葉はある程度の説得力を持っていた。恋愛感情という奴が絡むと、上手くいくものが上手くいかなくなるものだと、考えていたからである。特に長年情報部に籍を置いたバグダッシュにとって、恋愛など本気でできたものではない。危険なのである。身内を持つ、自分以外に大切な人間を作る、ということはどれだけ危険であるのかを、彼は経験で知っていた。
 だからこそ、バグダッシュはフロルとイヴリン・ドールトンにも監視を付けていた。フロルに断らず、である。だが、きっとフロルはその監視に気付いているだろう。その程度がわからなければ、とてもじゃないが情報部のセクションを率いることはできない。

「そもそもあのチケットはトリューニヒトからおまえさんに渡されたチケットだろう。使わなくてよかったのか。なかなか美味そうなものを食ってるぞ」
『俺はあまり外食をしないんだ。ある程度なら、自分で作れるからな。だから、料理の出来ない二人にプレゼントした、というのは建前だな。盗聴器、小型カメラの類はあったか」
「ああ、たっぷり13個も設置してあったぜ。既に全部排除してある」
 トリューニヒトが、設置させたものに違いなかった。

『どこのセクションだ』
「あの機具のタイプは軍部じゃないな。恐らく、司法警察の、それも公安関係だろう」
 フロルが呆れたように溜息をついた。
『そういえば、法秩序委員長はトリューニヒトの子飼いだったな。ネグロポンティだったか』
「ああ、恐らくその想像で間違っていないよ。トリューニヒトの一派は、政治や司法を徐々に蝕み始めている。公的機関の私的利用だ。重大な犯罪行為だよ。軍部でも、情報部2課はベイ大佐が実質的にリーダーだ。あれは知られていないが、どうやらトリューニヒトの犬だ」
『金の流れを追ったのか。恐らく、間違っていないだろう』
「まったく、嫌になるぜ。政治家がどんな汚職に手を染めていても、軍需産業からディベートをもらっていても、俺たちはそれを告発する手段を持たないんだからな。メディアへの影響力も増しつつある現状じゃ、そのうちトリューニヒトはルドルフになるぞ。政治家を処断する権限を持つ法秩序委員長自身が、汚職政治家なんだ。なんと素晴らしきま民主国家じゃないか」
『……政治の腐敗とは政治家が賄賂を取ることじゃない、それは政治家個人の腐敗であるに過ぎぬ。政治家が賄賂を取っても、それを批判できない状態を政治の腐敗と言う、か』
「なんだ、その言葉は」
『人の台詞さ。バグダッシュ』
 フロルが言った言葉は、ヤンが将来言うであろう台詞である。
 あの時、ヤンはそう言って救国軍事会議の面々を戒めた。だが、現状はまさに政治の腐敗の様相を呈していた。しかも状況は、刻一刻と悪化する一方なのだ。

「フロル、おまえがどういうつもりでトリューニヒトに接近しているか知らんがな、気をつけろ。あいつはただの三流政治家じゃない。あれは——」
『知ってるさ。言われるまでもない。あれは、同盟史上最悪の煽動政治家さ。さて、もうそろそろ電話を切るよ。イヴリンを待たせている』
「ほぅ、デートか」
『知ってるくせに、惚けるのはよせ。じゃあな、監視を頼んだぞ』

 そう言って、フロルからの通信は途切れた。
 バグダッシュは、手で暖めていたコニャックを、一気に呷った。フロルは、こちらがフロルの動向を逐一追っていることに気付いていた。
 空になったグラスを見ながら、バグダッシュは考える。

——踊らされているのは、いったい誰なのか。
——俺か。
——フロルか。
——トリューニヒト、か。




















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なんとか約束を守れました!
年内最後の投稿です!

というわけで碧海かせなです。
来年もばしばし頑張るので、よろしくお願いします。

感想やコメントは私の創作における原動力、というかエネルギーに直結するので、いくらでもお待ちしております。
もしよければ「読んだお(^q^)」という一言だけでいいので、コメントくださいね。
私も、できるだけ丁寧に返信したいと思いますので、よろしくです。

それでは、終わりの見えないこの物語ですが、これからもよろしくお願いします。
ではでは。
また来年!
 
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