【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール
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狐を罠にかけろ(下)
狐を罠にかけろ(下)
11月19日、フロルが参謀長を務めるチェン艦隊は同盟軍の端にいた。それはヤンが算出した、ラインハルトが来るであろう宙域だった。フロルはわざと他の艦隊から少し離れて布陣し、いかにもこれから前線に進みでようと準備の最中である、と装った。だが、フロルは艦隊周辺に十重二十重に傍受衛星や観測衛星を設置し、獲物を狩りに来たつもりの狐を待ち受けた。
チェンは有能であった。彼は総司令部からの命令に基づき、フロルが望むことを彼に言われるまでもなくすべてやっていた。そしてこの作戦の意味が、敵小艦隊の殲滅にあることも気付いていた。更に言うと、
「リシャール大佐、君が総司令部にけしかけたのではないかね?」
ということまで気付いていた。
「お気づきでしたか」
「まぁ、当てずっぽうでしたが、君は数日前から目の色を変えてましたからね。それに、私もこの敵はなかなか脅威になると思っています。私たち以外の同盟艦隊がまたやられる前に、とっちめるのは必要でしょう」
そうチュンは言うと、フロルに囮役としての作戦案を提出させ、そしてそれを採用した。
◯七四◯時、チェン艦隊の左側面の衛星一つが消息を絶った。チェンは即座に全艦に戦闘態勢を指示した。一人のオペレータは
「ですが、隕石か何らかの要因で破損しただけかもしれません」
と言ったが、フロルは首を振ってそれを退けた。5分後、さらに9つの衛星が通信を途絶するにあたって、接近は明らかになった。恐らく電波妨害であろう。フロルは艦隊を左舷回頭ながら、未だ暗闇の向こうにいるラインハルト艦隊を見つめていた。
「敵に、気付かれましたね」
キルヒアイスは司令官の豪奢な椅子に座っているラインハルトに向かってそう言った。ラインハルトもそれは気付いている。戦闘の偵察部隊が、通常の2倍以上の密度で設置されていた防御網に接触してしまった時点で、奇襲は成り立たなくなった。ラインハルトは一抹の不快を奥歯で噛み締めたが、ただそれだけであった。
「ふん、敵艦隊が臆病なだけだ」
「では、攻撃は続行ですね」
「そうだ。火力を集中し、敵艦隊に突撃せよ! 敵の数は我が艦隊と同数だ! 怯むことはない!」
ラインハルトの声は彼の艦隊によい緊張感と信頼を与えていた。ラインハルトは既に20回近くの戦闘において、一方的に主導権を握り、敵を殲滅してきたのである。彼の部下たちの信頼は、絶対的なものになりつつあった。
「来ましたね」
とはチュンの言葉だった。フロルはそれに黙って頷き、チュンは艦隊を凸陣形に変形させる。
ラインハルト艦隊が猛烈な勢いで突撃して来た。その勢いは宇宙の虚空を鮮烈に照らす光の柱のようだった。
それに対して、チュンの指示は冷静である。
「敵艦隊の中央部に、火力を集中させよ! 一点だ! 艦隊のレーザー砲とミサイルと、敵先頭の一点だけに集中せよ!」
それは苛烈なまでの火力の集中だった。かつてこれほど攻撃を集中させた者がいただろうか。それは後になってヤンが好んで使う常套手段であった。フロルはそれを前借りしたのだ。フロルはチュンに提出した作戦案に、いくつものパターンを用意していた。そして今、その一つをチュンが絶妙のタイミングで拡大再生しているのだった。いかに装甲が厚いと言えど、これを防ぎ切ることはできない。ラインハルト艦隊の先頭部隊は、瞬く間に爆発消滅していった。
「くそっ、つまらんことを!」
ラインハルトは悪態を吐いた。先頭部隊の損害は軽視できぬが、だからと言って他の大多数は無傷なのだ。だが、そのあまりに過剰な火力の集中によって、艦隊の足は一瞬鈍くなったのである。
「全艦隊、中央部を空けつつ敵に接近せよ。攻撃目標は敵中央部隊。火力を集中させよ!」
「よし、来た! 中央部隊はそのままゆっくりと前進せよ、ゆっくりとだ。左右の艦隊は中央部隊の後ろに行けるよう微速後退! 堪えてくれ! 攻撃目標は各位に任せる。艦隊運動に細心の注意を払え!」
チュンが艦隊の陣形を腐心して保つ間に、フロルは声を上げた。それほど、ラインハルトの攻撃は激しかった。それは獅子が率いる軍隊だったのだ。
ラインハルトは攻撃を集中された中央部隊を思い切ってわざと薄くさせた。そしてこちらの中央部隊に火力を集中させた。恐らくわざと薄くした中央に向かって、我が艦隊を突出させるつもりなのだろう。そして引きずり出したところ、後退しつつこれを叩くつもりなのだ。ならば、それをそのまま利用させてもらおう。
「敵中央部隊突出しつつあります!」
ラインハルトの旗艦でオペレータが声を上げる。
「よし、前進をやめろ。前後の艦隊を交互に下がらせつつ、ゆっくり後退だ。攻撃の手を緩めるな!」
ラインハルトは先手を取られたが、ただそれだけだった。同盟艦隊は我が艦隊の出鼻を挫いて、我が艦隊を押す潰そうとしているが、好きなようにはさせぬ。罠にかけたのは、こちらなのだ。
「敵艦隊が完全に突出しています」
戦局は彼の望んだ通りだった。敵艦隊は中央から引きずり出され、もう少しでU字陣に入る。そしてこれを叩いて、敵の出血を強いるのだ。
その時、ラインハルトの脳裏に過った光があった。それは彼の拳を反射的に強く握らせた。
(なんだ、この違和感は?)
突如飛来した違和感は彼の全身を駆け巡り、そしてそれは増大を続ける。彼は握りしめた拳を唇に触れさせた。そして気付く。
「全艦隊、急速だ! 急速前進せよ!」
「今だ!」
これはフロルの叫びであって、
「全艦隊突撃! 中央突破せよ!」
これはチュンの檄だった。
引きずり出されたかに見えた中央部隊は、その首輪を外されたかのように、猛烈な勢いで前進を始めた。もともと薄かった敵中央部隊に、猛烈な攻撃を集中させる。いつのまにか両翼が畳まれていた左右の艦隊はその中央艦隊の後ろに続き、一気に敵中央艦隊を蹴散らした。フロルの目的は、最初から敵の中央突破だったのである。敵がこちらの左右逆進をすると知っていて、それに一歩先んじて中央突破したのだ。
「だが、敵も早い」
フロルは呻くように言った。ラインハルトは後退しつつこちらを叩くのを即座に諦め、すぐに全速で同盟艦隊の左右を逆進していた。当初の作戦案に固執していれば、無理に後退して全速で突撃した同盟軍に無様に中央を突破されただろう。
10分後、同盟軍は帝国軍の背後に出た。即座に反転し展開を始める。ラインハルトもまた背面展開を始めた。これはフロルの思惑を裏切った。このままラインハルトは前進しながら迂回するだろうと考えていたのだ。だが、彼はこのタイミングにかけて、反転した。今、両軍はほぼ同じ速度で反転しつつある。そしてそれは、一歩先んじて同盟が勝りそうであった。
同盟は突撃を開始した。ラインハルトの艦隊で、反転が終わっていない艦が無防備な状態で攻撃を受ける。だがその9割は既に迎撃態勢にあった。戦線は崩壊しない。
さすが、ラインハルトというところであった。ともすれば背面をとられるところを、即座に見抜いて五分五分に戻したのだ。
「だが、これで終わりじゃないぞ」
フロルは自分が笑っていることに、気付いていなかった。
「敵も、なかなか」
ラインハルトは敵の攻撃を受け止めながら、艦隊の再構築を開始した。それは平凡な将には出来ぬ芸当だったろう。キルヒアイスも、矢継ぎ早に指令を飛ばした。だが、ここでまたも戦況が一変する。ラインハルト軍が艦隊陣形を構築し終えたその瞬間、上、下、後の三方向から、新手の敵が殺到してきたのである。
「敵艦隊が3方向より来襲! 我が艦隊上方、下方、後方!」
ラインハルトの顔に衝撃が走った。仕組まれていたのだ。我が艦隊の動きは敵によって察知され、そして敵もそれを待ち構えていた。我々は兎を狩る狐のつもりで、それを待ち受けていた罠に飛び込んだのだ!
そして我が艦隊の作戦を見抜いた、前方の艦隊。彼らは我々を倒すつもりはなかった。ただ、罠にかけるまで時間を稼いだだけだったのだ。
敵前方艦隊は我々の包囲を完全にするため、凹陣形でこちらに押し寄せて来た。3方向の艦隊も十分な戦力で包囲を完成しつつある。もうすぐ包囲が完成する。そうすれば、我々は全滅の憂き目を見るだろう。ラインハルトは死神の足音を遠くに聞いた気がした。
だがその時、ラインハルトは指を鋭く鳴らした。
「敵前方艦隊に突撃! 至近距離まで一気に突っ込め! 怯むな! まだ終わりではない!」
キルヒアイスは敬愛する自分の友の指示を信じて、即座に復誦した。ラインハルト様が負けるわけはない。我々が二人いる限り、進む道に完敗の2文字はないのだ。
フロルはこちらに突撃するラインハルト軍を見て息を呑んだ。ここで突撃だと? これでは死ぬだけではないか。
「敵艦隊! 突っ込んできます! は、速い!」
オペレータが悲鳴を上げた。フロルは目を疑った。ラインハルトは砲撃距離を無視して死兵の勢いで突撃している。これではまともに撃ち合うことも出来なくなる。敵艦の爆発にこちらまで巻き込まれるのだ。
そして、フロルはラインハルトの意図を察知した。それは、常識を真っ向から無視したものだった。
「艦隊を後退させろ! これでは砲撃が出来ん!」
チュンは指令を飛ばした。これはやむを得ない指示だった。そしてこれがラインハルトの作戦だった。敵は眼前であり、その一瞬だけ双方の砲撃が止んだのだ。そしてフロルは次の展開が読んだ。
「敵艦隊、我が艦隊目前で左舷回頭します!」
驚愕の声が上がる。
前方では艦と艦が擦れ合うほどの距離だった。
ラインハルトは我が艦隊が包囲せんと凹陣形をとったのを利用して、その凹曲線を使って、まるでスイングバイするかのように包囲がまだ完成されていない左方向に艦隊を向け、それを逃がしたのだ。
20分後、全艦隊が合流した時、ラインハルトの艦隊は逃げ切った後であった。敵艦隊は恐らく半数を失ったであろう。だが、フロルはまたもラインハルトを逃したのだった。
フロルはコンソールに拳を叩き付けた。
あと一歩……、あと一歩で敵を逃した。今回はフロルがグリーンヒルに働きかけたおかげで、戦力も十分に揃っていた。その窮地を、まさか凹陣形をあのように利用して脱するなど、誰が思いつくというのか。あの場合、あれは確実に間違いではなかった。あれを好機をして利用するラインハルトの奇計、それはフロルを驚嘆させ、恐怖させうるに足るものだった。
フロルは緊張で凝り固まった首を動かし、頭上を見た。スクリーンに映し出された星空は、何事もなかったかのようにその美しい光を輝いてみせている。
ヤンならば、どうしただろうか。
フロルはそれを考えていた。
周囲の人々は、皆小賢しい敵を軽微な損害で叩きのめしたことに、矜持を満たし、手を合わせて喜んでいた。
その歓喜の中、フロルだけが拳を痛いほど握りしめていたのだった。
その姿を、一人、チュンが静かに見つめていた。
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