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【旧】銀英伝 異伝、フロル・リシャール

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790年の昇進


790年の昇進

 宇宙暦790年、5月3日。
 シロン星域警備部隊幕僚の任を解かれたフロル・リシャールはハイネセンの統合作戦本部ビルに来ていた。2年弱に渡るシロン星域での勤務は概ね順風満帆に終わったからである。当初心配していた汚職も、管区内の司令部よりやってきたムライ参事官によって一掃された。どうやら惑星エコニアでのヤンの活躍から芋づる式で暴かれた、ということらしい。さすが英雄ヤン・ウェンリー。同盟のために色々頑張ってくれているようだ。

 セレブレッゼ中将も概ね想像通りの人間だった。純軍事的な才覚はさておき、後方任務の専門家として、また同盟の一大貿易拠点の事務方トップとして、その能力を遺憾なく発揮していた。フロル自身もこの中将と顔見知りになれたのは、マイナスにはならないだろう。
 イヴリンとはその後、進展があったようななかったような、少なくとも今では一番親しい女性、と言えるだろう。もっとも彼女の任地変えはまだ先だろうから、これからはしばらく会えないだろうが。

 フロル・リシャールはセレブレッゼ中将の元、主に星域内の宇宙海賊の取り締まりに尽力した。また現地警察やムライ参事官とともに、公金横領事件にも手を貸した功績で、恐らく今回の呼び出しで昇進するだろう。問題は次の配属先がいったいどこになるか、である。


「フロル・リシャール大尉」
 時間より5分ほど遅れてフロルは部屋に入った。人事部の次長室である。佐官以上が人事部の次長に呼ばれる、という慣例がある。つまり、予想は間違っていないということだ。
「フロル・リシャール大尉。シロン星域の防衛と安全に関する功績によって、君を少佐に昇進とする」
「はっ!」
「また新たに第5艦隊司令部作戦参謀に任命する」
「謹んで拝命いたします」
 同盟軍第5艦隊。率いるは宿将、アレクサンドル・ビュコック少将。
 これには事情がある。同盟においては艦隊司令には中将をもってするのが常である。だが第5艦隊司令であった中将が、宇宙暦790年4月に脳溢血で意識不明の重体に陥ったのである。年度末が近づいて来ていた事もあり、副司令であるビュコック提督が司令官代理としてこれを率いていた。
 この親爺は数ある名高い同盟の将軍の中で、もっとも長生きする男だ。ヤンとも仲が良い。もっとも今のヤンとは知り合ってないが、原作では彼の大切な友人の一人である。一兵卒から叩き上げで上り詰めて来ただけあって、その作戦指揮は老練の一言。人間的にも尊敬できる爺さんで、将兵からの信頼も厚い。

 そうか、そういえばまだこの爺さんと話したことはないのか。今まで何回も見たことはあったのだが。これはチャンスかもしれない。パストーレあたりのメッキでできた提督よりも、彼の元で働く方が、いくらも得るものがあるというものだ。
 正直、またパストーレの艦隊に配属になるのではないか、と思っていたのだが、良い意味で宛てが外れた。


 俺はその足でキャゼルヌ大佐(いつのまにやら中佐から昇進していた)の部屋に行こうと思ったのだが、シロンからのお土産を持って来ていなかったので、諦めた。どうせならあとでヤンか誰かを誘って、先輩の家に行けば良い。キャゼルヌ夫人の料理は、それはそれは美味しいものだったのだから。さすがのフロルも一目をおく腕前である。もっとも、菓子作りについてはフロルに一日の長があるのだが。


 統合作戦本部ビルの廊下を歩いていると、後ろからフロルを呼ぶ声があった。フロルが振り向くと、ジャン・ロベール・ラップである。左手を軽く上げて、駆け寄ってくる。
「おお、ラップ! 久しぶりじゃないか」
「先輩こそ、お久しぶりです。お元気そうですね」
「まぁな。シロンはなかなか穏やかなとこだったぜ」
「私はそれなりに忙しかったですよ。ようやく艦隊任務が一区切り付いたとこです。今度昇進して大尉になります」
「おお、よかったな。さすがラップだ。おまえとヤンは出世すると思ってたからな」

 ラップは少し恥ずかしそうにしていたが、その能力からすれば正当な評価というところでだろう。有能な人材が正当に評価されないところから組織の弱体化は始まるが、まだその部分は辛うじて正常というところらしい。ヤンもその階級に恥ずかしくないだけの実力はあるのだが、いかんせんエル・ファシルの一件だけで少佐である。フロルの24歳少佐昇進ですらかなりのペースだが、ヤンはやはり常識外と言わざるを得なかった。もっとも、軍事的才覚はヤンの方が何倍も上なのだから、それは僻んでも羨んでも意味のないことだろう、とフロルは考えていた。

「フロル先輩ももうそろそろ昇進じゃないんですか?」
「今、辞令を受け取って来たよ。少佐だと」
「おめでとうございます!」
 ラップは嬉しそうに笑う。こういう気の良いところが、ラップの人の良さである。もっとも、良い奴すぎて、もうちょっと酸いも甘いも噛み分けられなきゃ、早死にしそうな性格である。もっとも、そうは俺がさせないが。
「これからキャゼルヌ先輩のところですか?」
「いや、あとであいつの家に押し掛けてやろうと思ってな」
「そいつは名案ですね。俺はまだキャゼルヌ夫人の手料理というのを頂いてませんのでね。できるなら一度行きたかったのです。そういえば先輩は、ハイネセンにはいつ?」
「昨日だ。おみやげを忘れて来てね、それを持ってこなきゃならんから、一度家に帰る」
「家も引っ越しですね」
「そうか、佐官待遇だと官舎もグレードアップか」
 そういえばヤンも少佐になったとき、家が変わった筈だった。
「それじゃあ今夜、キャゼルヌ先輩の家でお会いしましょうか」
「ああ、あとで俺が電話しとく。……そういえばヤンはどうした?」
「今は第8艦隊の作戦参謀やってます。今は確か訓練でハイネセンを出てますね……。先輩の次の配属は?」
「第5艦隊作戦参謀だ」
「ビュコックの爺さんですね」
「こうるさい爺さんは嫌いだが、学ぶところは学ぶ所存さ」
「それはそれは殊勝なことで」

 じゃあ、といって二人は別れた。もちろん、彼らの心の何割かは今夜ありつけるであろう美味しい食事のことである。フロルはまだ2回目の対面であるキャゼルヌ夫人の為にケーキでも作って行こうか、と思っていた。今はまだ午前中。夜まではたっぷり時間がある。大量に買って持って帰って来たシロンの茶葉を使って、美味しいケーキを作るつもりだった。


「オルタンス・キャゼルヌです」
「ジャン・ロベール・ラップです」
「フロルです。お久しぶりですが、結婚式の時に一度お会いしたのですが、覚えていらっしゃいますか」
「ええ、もちろん」

 キャゼルヌ夫人は、自分の亭主のうるさい友人にも嫌な顔一つせずに迎え入れてくれた。
 キャゼルヌ宅は官舎で、軍が用意する官舎は基本どれも同じ規格なのだが、その家はまるでまったく違う家のように、空気からなにから違うのであった。恐らくキャゼルヌ夫人の手が行き届いているのであろう。キャゼルヌが独身の頃には合理的で無味乾燥な風合いだったのだが、まったくその頃とは違う暖かみがあるのであった。ヤンの妻になるフレデリカのような才人の妻もいいが、キャゼルヌ夫人のように家で亭主をがっしり握っている奥さんというのも、なかなかいいというものだろう。そしておめでたいことに、キャゼルヌ夫人はすでに懐妊していた。恐らくこの子供がシャルロットなのだろう。既に少しお腹が大きくなって来ていた。

「この度はおめでとうございます」
「ありがとう、ラップ。こんなに早くできるなんて思わなかったけど、嬉しいものだわ」
「まぁ、俺としても人の親になるというのはなかなか興味深い体験だと思うよ」
 キャゼルヌ夫妻はそう言って玄関で我々を招き入れた。


「これ、どうぞ。お土産です」
 部屋に入ったフロルは手に持っていたシロン産の高級茶葉を手渡した。
「あら、シロンの紅茶じゃない。ありがとうね、フロルさん」
「フロルはついこないだまでシロンで勤務していたからな。もしかして紅茶党に趣旨替えしたんじゃないか?」
「俺は今でもコーヒー党ですよ。紅茶とコーヒーの美味しさをどっちも理解した上で、コーヒーを選んでいるんです。あ、あとこれはアールグレイのシフォンケーキです」
「あら、話には聞いてますわ。フロルさんの作るお菓子ってとても美味しいんですってね。この前は結婚式でしたから頂けませんでしたが、楽しみにしてたんですよ」
「それは光栄です」
 そのあとはキャゼルヌ夫人の美味しい手料理を頂き——フロルは結婚前のオルタンス嬢に会った時にシチューを食べた事があったのだが——舌鼓を打ったあと、フロルのケーキ(この二年弱の紅茶に合うケーキ集大成)が皆の好評を博したのは言うまでもない。

 食後はフロル、キャゼルヌ、ラップでフロルが持って来たシロンの紅茶を飲みながらソファに座る。
「やはりシロン星は違うな」
 キャゼルヌが偉そうに言う。
「ええ、私ももし飲むならシロンの紅茶と決めてますからね」
「でも残念ですね、ヤンの奴がいたら、泣いて喜ぶだろうに」
「ヤンの分はトランク一杯分持って来たよ。あいつがハイネセンに戻って来たら上げるつもりさ。それに、今回の勤務であっちに顔見知りもできたからな、安く茶葉を受け取るツテができたわけだ。またいつでも手に入るさ」
「それは耳よりの話を聞いたな。うちの紅茶が欲しくなったら、フロルに頼めば良いのか」
「キャゼルヌ夫人の頼みならご用意いたしましが、キャゼルヌ先輩の依頼では承諾しかねますね」
「なんだ、あいつは俺の妻だぞ」
「あなたがオルタンス嬢の夫でしょう。私はどちらが偉いかこれでも察しているつもりですよ」
 ラップはここでこらえられないように小さく噴き出した。
「お子さんは今何か月ですか?」
「もう6か月になる。女の子だそうだ」
「オルタンス嬢の娘さんならきっと可愛い女の子でしょうね。キャゼルヌ先輩の子なのが気がかりですが」
 フロルはさらっと毒を吐く。

「そういえばフロルはあのお嬢さんとどうにかなってないのか?」
 キャゼルヌはにやにやとした笑みを浮かべながら言う。仕返しのつもりか?
「別になってませんよ。アレはただのたかり屋です」
「フロル先輩、いい仲の女性でもいるんですか?」
 ラップは少し驚いたように言う。確かにフロルが女とそういう関係になった事は一度もないので、一時期には男色なのではないかという不名誉な噂まで立ったのだが、それは言い過ぎという話だった。
「キャゼルヌ先輩の得意な誇張さ」

「次の配属は第5艦隊だそうだな」
「ええ、ビュコック爺さんのとこです」
「まぁ悪い人じゃないからな。多少口の悪いところがあるが、基本気のいい爺さんだ」
「確か、一兵卒から少将になった人ですよね」
「偉い顔した士官学校出のエリートは嫌い、という話だが、まぁフロルなら大丈夫だろう」
「先輩はよくも悪くもエリートっぽくはないですからね」
 二人とも、失礼な奴である。
「しばらくはここで勤務することになりそうですよ」
「まぁ飯に困ったらいつでも来い。美味しい料理を食わせてやる」
「作るのはあなたではなく、あなたの配偶者でしょうに」
 フロルは小さく溜め息をついた。

 そのあとも、三人で賑やかに語り合ってから、時期を見計らってラップとフロルは退散した。帰り際、キャゼルヌ夫人にあのケーキのレシピを頼まれた。今度キャゼルヌに会った時に、渡しておこうと考えていた。その時には、シチューのレシピももらおうか、と思案しながら。

























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※訂正※
ビュコック提督の階級:中将→少将
リシェール→リシャール
ジョン→ジャン
代理司令→司令官代理
 
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