戦国異伝
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第九十四話 尾張の味その九
「では演じるのは弓八幡を」
「ふむ。それをやるか」
「それをです」
観世太夫の語る顔をだ。信長は見た。見ればだ。
どうも今の彼は顔色がよくなかった。顔も疲れている感じだ。どうも体調が優れぬらしい。
そのことを見た。だが今は黙っていた。
観世太夫も義昭もそのことに気付かない。太夫はそのまま言っていく。
「さすれば。それを十三番まで」
「いや、待て」
ここでだった。信長は太夫に告げた。
「御主。疲れておろう」
「いえ、それは」
「隠さずともよい。十三番まで演じると疲れる」
それでだというのだ。
「五番まででよい」
「ですがそれだけですと」
「まだ天下は治まってもおらぬ」
今度はこう言うのだった。
「治まってから万全の御主に十三番まで演じてもらいたい」
「その時にですか」
「うむ、そうじゃ」
こう太夫に言うのだった。それを聞いた義昭はというと。
信長に言われた形だがそれでもだ。驚く顔でこう言うのだった。
「いや、太夫のことじゃが」
「はい」
「よく気付いたのう」
その公家の顔での言葉だった。
「実に。あの者が疲れておることに」
「僭越でしたがそう思いましたので」
「いや、よい」
上機嫌の義昭は信長のそれもよいとした。
「疲れは休むしかないからのう」
「さすればですか」
「よく気付いたわ。見事じゃ」
これで終わらせるのだった。
「さて。それでは五番までということでじゃな」
「それでお願いします」
「観るとしよう。ただ」
「ただとは」
「鼓を打ってくれ」
義昭は信長に今度はそれを言った。
「鼓をじゃ。よいか」
「いえ、残念ですがそれがしは鼓の心得はありませぬ故」
これは実際にない。信長には鼓への心得はなかった。
「ですがらそれは」
「できぬか」
「申し訳ありませぬ」
「ううむ。それは残念じゃが」
しかしできぬのなら仕方がなかった。それでだった。
義昭はこれもよしとした。かくしてだ。
能は五番まで演じられ太夫には義昭、そして信長から褒美が贈られた。信長は太夫に茶器を渡した。だがその茶器がだった。
能の後で太夫は己の弟子達にだ。その茶器を見せてこう言うのだった。
「この茶器は凄いぞ」
「茶窯ですな」
「それがですか」
「平蜘蛛とまではいかぬが」
松永が持っている天下の茶器程度ではないにしてもだというのだ。
「これ一つで城一つはあるわ」
「何と、それだけの値ですか」
「その茶器は」
「うむ、織田信長殿はわかっておられる」
太夫の言葉には感慨があった。
「能に茶にそれに」
「他のこともですか」
「あの方はわかっておられますか」
「うむ。何時何を渡すものかとな」
だからその茶窯にしたというのだ。
「これはかなり見事な方じゃぞ」
「うつけなぞではないのはもうわかっていましたが」
「傑物ですか」
「尋常ではなくな。凄い方じゃぞ」
太夫は唸る様にして述べた。そこには義昭からの褒美もあったがそれは然程見られてはいなかった。これもまた信長の器を見せるものだった。
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