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だからってなんだよー 私は負けない

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第1章
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 私の家は母子家庭なのだけど、訳あって借金もあるので、それを返すためお母さんが、頑張って働いているけど、正式に離婚出来ていないので母子手当も貰えないのだ。だから、昔から貧乏なのだ。

 お父さんとお母さんは、京都府の漁村の出身で、付き合うのを両方の両親から反対されて、お母さんが高校卒業すると同時に、二人で家を飛び出して、大阪に出たらしい。その後、二人で小さな食堂を開いていたのだけど、大阪からここに越してきたみたい。

 木下庄一郎 84歳 奥さんは25年程前に先絶たれて、子供は居ない。この辺りでは、庄爺と呼ばれることが多い。そして、この辺りの土地をかなり持っていて、他人にも貸したりもしているらしい。お父さんが余呉湖にわかさぎ釣りに行った時、そんな人と知り合って気が合ったのか、今 私達が住んでいる家を貸してくれて、どうも大阪時代のお店の借金も立て替えてくれたみたいなのだ。そして、田舎だけど駅の近くに50坪ほどの土地にプレハブの食堂を新たに開いていたのだ。数年はまぁまぁ順調で、庄爺への借金を返しながら、その土地も買い取ったみたい。

 だけど、まもなく私が生まれて、しばらくするとお父さんはアルバイトの女の子とお店で貯金をしていたお金も持って、蒸発してしまったのだ。それから、お母さんは赤ちゃんだった私の面倒を見ながら食堂を続けていたけど、仕入れもうまく行かず5~6年で客足も途絶えて来て、お店を閉めたのだ。それからは、近くの椎茸工場に3時まで働きに出て、後は道の駅の食堂でバイトもしている。だけど、庄爺には家賃も含めて月に10万近く返済しているみたいなのだ。だから、お母さんの稼ぎもそんなにないから、うちの家は貧乏のまま生活している。

 保育園の時は、その貧乏のせいか陰でこそこそと言われて、一緒に遊ぶということもあんまり無かったのだ。いじめに近いこともされたこともある。小学校に入ってからも、いつも同じ服を着ていたので、男の子達からは臭いんちゃうか きっとパンツなんかもず~っと同じなんやろー 見せろやー お××こも腐ってへんか見たるからー とか言われて、恥ずかしくて、隠れて泣いていた。時々、優しい女の子からは、哀れみみたいに 使わないからと、鉛筆とか自由帳なんかもくれたこともあった。それでも、私には有難かったので、ニコニコとお礼を言っていたのだけど、みじめだった。

 お母さんは夜9時まで働いているので、うちの家の晩ご飯はその後で、遅いのだ。だけど、時々、道の駅で売れ残った生ものなんかも食卓に出る時もある。私が、2年生になる頃から、貧乏ながらも何故か 幾分 生活に余裕が出てきたようにも感じていたのだ。

「ねぇ お母さん 晩ご飯の後 時々、庄爺の家に行くよねーぇ? 」

「そうよ 昔からお世話になっているからね それに、お年寄り 独りだから いろいろとね 食事はちゃんとしたかしらとか・・・洗濯物も・・・」

「だってさー 年寄だっていっても・・・お母さん まだ 若いし・・・」

「バカね すぐりの心配することじゃぁないのよー」

 でも、お母さんは、まだ33歳で、この辺りには、そんなに若い女の人は少なくて、自転車で出掛けて行く姿を見て 「ぷりぷりした おけつがたまらんのぉー」とか言っている畑仕事の男の やーらしい言葉を私は聞いたことがあるのだ。だから・・・子供心に心配していたのだ。 
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