ボロディンJr奮戦記~ある銀河の戦いの記録~
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第109話 遺していくもの
前書き
お疲れ様です。
とりあえず仕事を押し付ける先は見つかりました。
ようやく次の話でJr.は宙に行けそうですね。
……行けるのかな?
宇宙暦七九一年 六月より ハイネセンポリス
「指導者が備えるべき風貌を完全に有する親愛なる上司にして、砂糖を煮詰めて頭のてっぺんから身体中に流し込んで凍らせたような、甘ちゃん坊やの中佐殿へ。この手紙をご覧になっているということは、ほぼ間違いなく私はこの世に居ないので、中佐から罰を受けることはできません。悪しからず」
初っ端からしてぶっ飛んでるその映像データを開いたのはこれが何度目だろうか。短い死亡通知が届いて三〇分後に、今度は軍情報部から本物の緊急コールが飛び込んできた為、その対処に奔走させられて二四時間後に届いた厳重にプロテクトされたかなり長い『手紙』について、その時はしばらくまともに聞くことができなかった。
フェザーン自治領主爆殺事件、と短い名前だけに深刻な事件は、銀河のあらゆるところに衝撃を与えた。帝国、同盟、そしてフェザーン。この世界に三つしかない『国家』の首長の、それも戦争に『加担していない』人間が、会食後のホテルのロビーから装甲付送迎地上車に乗り移る僅かな間を計って爆殺されるなど、到底考えられない話だからだ。
死者五名、重体三名、重軽傷者二二名。死者には軍用高性能爆弾を胸ポケットに入れて突っ込んできた犯人も含まれる。流石に核兵器ではなかったが、ホテルの出入口はバラバラになった死体と、何故生きているか分からない位まで破壊された人間と、偶然周りにいて吹き飛ばされた人間の流血で辺り一面血塗れ状態。爆発のあった場所と規模に比して死者が少なかったのは、自治領主が事前に見送り不要と言っていたからだと言われているが、定かではない。とにかくフェザーン創立以来四人しかいない終身制自治領主の、当然ながら初めての暗殺だった。
「自治領主の傍に黒髪の女性の死体があったら、どんな名前であったとしても私だと思って間違いはありません。私にとって名前などいつでも変更できる軍艦の識別信号よりも軽いものです。恐らくフェザーンの無縁墓地に葬られることでしょう。日頃おっしゃっていたような平和など、中佐が生きている間には到底無理でしょうが、出来れば永代供養料を支払っていただけるといつでも会えると思いますので、お知り合いの皆様にお願いして、お支払いのほどよろしくお願いします」
最初にそんな言葉が来るということ自体、チェン秘書官の精神状態を疑う話だが、これまで見たこともないような笑みを浮かべていることからして、恐らくは自治領主に再会し最も身近な秘書兼護衛として再雇用されてちょっと『おかしく』なっていたのだろう。それで愛する自治領主と一緒に亡くなったとなれば、それは彼女にとって本望だった、のかもしれないが。
「ただあと三つ中佐にお願いしたいことがあり、お手を煩わせるようで申し訳ないのですが、これまでの忠節に免じて何卒お願いしたく存じます……
一つ目は自治領主閣下の暗殺を首謀したのは地球教の幹部であることを忘れずに覚えていただくこと。今後、中佐が成功を収めることがあれば、必ずや地球教が接触してくるでしょう。彼らはこれぞと見込んだ人物を支援し、手中に収めようとします。あの悪霊の若造に目を付けられている以上、どんな形であれ中佐の未来に地球教が関与してくるのは想像に難くありませんが、どうぞ受け入れることのないように。サイオキシン麻薬中毒患者の中佐など、虫けら以下の役立たずです。
二つ目は中央情報局第二課課長のジョン=エルトン氏に私の死をご報告ください。彼はスパイマスターとしてもそれなりに優秀ですが、私とは同期で入局した間柄で付き合いも長く、局内でもそれなりに顔の利く男です。たぶん悲しんでくれるとは思いますが、あまり期待はしていません。私は最初から局を裏切っていましたが、彼と、二〇年間遂ぞ会うことができなかった彼の奥様を裏切ったことはありませんので、たぶん話せば何か中佐のお役に立つことがあるかもしれません。
三つ目は機会を見て私の知らない子供達を探していただきたいのです。産んだだけで育ての一切しなかったロクデナシの母親ですが、死を前にするとやはりどんな子供だったのかと、何故か思い至るようになるものらしいです。私のDNAデータはミニキッチン左の一番下の棚の裏の二重底に隠してあります。数に限りがありますので、大切に使ってください。私がこれまで自腹で調べた資料も一緒にマイクロデータで詰め込んであります。プロテクトキーは中佐の一番大切な赤毛女の名前と生年月日の逆入力です。設定入力時に本気で反吐が出そうでしたが、仕方ありません。
四つ目はどうか御身を大事にしてください。まずもって部下よりも前に出て自分の命を張るのは、貴方の軍人としての信念なのでしょうが、傍から見ている側としては心配で仕方ありません。もう一人の赤毛の女の子に限らず、貴方が今まで成してきたことで救われた人間の数は相当なものです。それもまた貴方の信念の賜物でもあり、私も恐らくは救われた一人なのだと思います。どうか中佐が私に会いに来られるその時まで、それを忘れることなく御身を大事になさってください……
あぁ、三つではなく四つでしたね。やり直し……するのも面倒なので今日はこのままで。それでは何事につけても察しの悪い、私の五番目の息子へ。三人目の母より」
立体画面の中で二〇代半ばの女性SPに化けていたチェン秘書官が、首を僅かに傾けつつ小さく手を振り、そこで唐突に手紙は終わる。そして最初に戻って再生が始まる。その投影機の横には空になった酒瓶が規則正しく並んでいる。並べられるのはこの部屋の唯一の住人である俺以外には考えられないのに、その並びがどうにも煩わしく思える。
「死んだ後に平等に扱わないのは間違いだ。死者は任務の為に死んだという一点において平等であるのだから、か」
まだ子供の頃。あれはこちらの世界の実父であるアントンの葬儀の後だったか、グレゴリー叔父が俺にそんなことを言っていたような気がする。自分にとって重要な部下か、そうでない部下か。友人であるかそうでないか。確かそんな話だったはずだ。だがもし死んだのがチェン秘書官ではなくエベンスやベイだったらどうだったか……俺は右手の中に納まる、やや大きめで飾り一つない真鍮製のロケットペンダントを開けたり閉めたりして思う。
言われた通りの場所にあったそのペンダントの中には、それほど長くない黒髪が二〇本と、五ミリ四方のマイクロデータメモリが収まっていた。金髪の孺子が事あるごとに胸元に下がっているそいつを弄っていたが、今こうやって手元にあると、自分はあれ程のセンチメンタリストではないと思っていたが、その気持ちが何となくわかってくるのが不思議だ。
「しかしどうしたらいいんだ。こんな宿題……」
……正直三番目以外の宿題は大したことがない。機会さえあれば喜んで悪霊はこの世から退散させてやるつもりだし、エルトン氏には既に伝達済み。最後の宿題はこの世界に生まれてからとうに覚悟している。
ペンダントに入っていたマイクロデータメモリの中身は最大容量に比してそれほど多くはなかった。内容の七割方はフェザーン高等警察の極秘資料である『人間牧場』事件の概要。歓迎パーティーでユリアンがフェザーン人に言われたように、甲斐性に応じて綺麗な女の子が『買える』という現実を示していた。『生産拠点』を抑えたので組織の概要はだいたい掴めているが、『販売』は複数の仲介を挟んでいる為、行方が分かってる『生産品』は事業に協力していた病院に残された当歳児しかない。
チェン秘書官が自ら調べた範囲でも、四人の子供は未だ闇の中。一番下の子は生後三ケ月だったはずで、当然自分の足で動けるわけがないのだが、病院に残されていた当歳児全てと親子関係は認められなかった。さらに上の三人の子供も行方が分からない。チェン秘書官は孤児院から合法非合法関係なく洗いざらい遺伝データをかき集めたが、調査開始が遅かったこともあり親子関係が適合する子供は見つからなかった。
出世して自治領主になったワレンコフもかなり協力したが、事件から時間が経過していること、到底外部に公表できない事件であること、高等警察の要員には限りがあること、販売ルートが国外(特に帝国側)にも及んでいたこと、そして長老会議の中に『寝た子を起こすような真似はするな』といったジョークとしても最悪な意見があったこと、からチェン秘書官は苦戦した。
フェザーンで公務員となり、その容姿と優秀さから潜入工作員となったチェン秘書官は、最初帝国側への潜入を希望したが、人種の壁はあまりにも厚すぎた。『特殊趣味』の門閥貴族の愛人になることも辞さなかったが、嫉妬かどうかは分からないが、ワレンコフによって同盟側に送り込まれることになった。そしてトリューニヒトと知己を得ている。
彼女を特別扱いすることはできない。近いうちに俺は最前線に立ち、最低でも二〇〇〇人以上の部下を抱えることになる。その将兵一人一人は人間で、悩みのない人間などいない。俺の指揮によって彼らの命が失われたとして、彼らの残した遺言をこなさなければならない義務はないし、逆に言えば請け負ってはならない。そもそもこの映像だって真実を話しているとは誰も保証してくれるわけでもない。だがそれでも……
「黙って知らんぷりできるような人間ではない、とレディ・チェンに見込まれたわけだ。俺は」
勝手に寄せられた期待に応える義務などないが、短い期間とはいえこれまでチェン秘書官に随分と助け(弄ばれ)られてきた俺だ。予定された赴任時期は今年の九月。予算成立・現任務の引継ぎ・新部隊の訓練と予定が詰まっている以上、動けるときに動かなければならない。時間を確認し、強制的に体内のアルコールを抜く薬(苦い)を呑み、吊るしのサマージャケットに身を包んで、自動タクシーを呼び……
「……これって『丸投げ』って言うと思うんだけど、もしかして貴方の辞書では違うのかしら?」
午後九時。メープルヒル市街中心より二キロほど離れた、市外縁部に在るホテルグランドフォークス〇六九のラウンジ。顔に超絶不愉快ですと書いてある若妻は、隣に人の良さそうな旦那さんを座らせ、俺に向かって皮肉を浴びせてくる。
「髪の毛数本とマイクロデータだけで、フェザーン籍に登録されている可能性すら乏しい人間を探せって、無茶ぶりもいいところよ。駐在武官をやっていたんだから、フェザーン人の探偵の知り合いはいくらでもいるでしょ?」
「フェザーンではシャーデン・デ・ラボンデ(ラベンダーの木庭)しか信頼できなかった」
「昔の女に甘えるの、大人の男として控えめに言って『クズ』だと思うわ」
そう言う若妻から眩しい笑顔を向けられたラヴィッシュ氏は、だいぶ困った顔をしている。心酔する株主のヤバい依頼を、ロハ(タダ)で請け負っているモノ好きな妻も、大概だと思っているのかもしれない。俺と自分の妻の間の空気を察し、恐らくはドミニクとの関係も考慮に入れつつ、優しさの籠ったやや低い声でラヴィッシュ氏は俺に言った。
「私達夫婦はドミニクオーナーからのお仕事として、メッセンジャーを請け負っております」
言葉は優しいが、事の軽重に関係なくお前の仕事はタダではやらないぞ、という意味がしっかりと含まれているのは分かる。ミリアムは元が同盟人で、意志あらば損得抜きで動くことに躊躇はないが、ラヴィッシュ氏は間違いなく『フェザーン人』だ。
「しかもフェザーンは今、自治領主が暗殺されるという事態に直面しております。帰路の安全性を考えますと大切な証拠の品をお預かりするのは……」
「次の自治領主の名前」
「……お受けいたしましょう。時間制限なしでよろしければ」
スッと、ラヴィッシュ氏の優しい夫の目がフェザーン商人の目付きへと変わる。唖然とする若妻をよそに、俺はペンで紙ナプキンに黒狐の名前を書く。
「事態は流動的で正解ではない可能性はあります。それに二週間後には誰もが知る話ですが」
「人の知らないことを一秒でも早く知ることがどれだけ貴重か。中佐は充分ご存知でしょうに」
「ドミニクはあの男のことが嫌いかと」
「私も大嫌いです。国家を率いるだけのパワフルさを持ち合わせた男だとは思いますが、あの男は奥様とではなく奥様の財布と結婚した男です」
それがラヴィッシュ氏の本音かどうかは分からないが、氏のイケメンな顔に憤怒の成分が含まれている。親でも国でも売り払う人々にしては意外だ。顔面の操作ができる男なのかもしれないが、俺の不審さを感じとったのか、氏は怒りを力づくで表情から消し、太腿の上で手を組んで応えた。
「私の同級生はあの男に捨てられました。絶世の美人ではありませんでしたが、実にフェザーン人らしくない、温厚で暖かい心の持ち主でした。そして若くしてあの男との間にできた子供を残して亡くなりました」
俺の喉を唾が落ちる。子供が誰であるかが容易に想像できる上に、表には容易に出せない黒狐のスキャンダルを異国人である俺に話している。聞き耳を立てている黒狐の手先が居れば、ラヴィッシュ氏もミリアムも、そして独立商船ランカスター号も危うい。
「私達同級生もまだ貧しく、ようやく各所で見習いになったばかり。それでも彼女のことをバカにするものも多くいました。愛より実利を取るのは当たり前……確かにそうかもしれませんが、恨み言一つ言わずに一人で子供を育てる彼女の姿を見れば、それがどれだけ空虚かわかるというものです」
そんなだから三〇過ぎても独立商船の機関長にしかなれないんでしょうね、とラヴィッシュ氏は自嘲気味に肩を竦める。原作では才走ったところはなく美男子でもないという話だったはずだが、普通にイケメンだし篤実だし、氏がローザス提督をして孫娘を託すに足りると見込んだ男に間違いはない。そもそもミリアムの審美眼のレベルが高すぎるのかもしれないが。
「そういうわけで私は、ミリアムからのお願いだけでなく、ドミニクオーナーと中佐の一件も含めると協力的にならざるを得ないわけです」
「あの男と対するのは危険かと思われますが」
「承知しておりますとも。ですがあの男でもこの国は独立商人の集合体であり、それぞれは独立・自由の精神を宿しているということを、変えることはできないのです」
だが原作では七年半後には金髪の孺子に手玉に取られた形になったとはいえフェザーンを滅ぼした男であり、あの地球教を手玉に取り、死ぬまで陰謀を企て続けた男だ。独立商会を一つ潰すなどわけない。勿論氏も商会もドミニクも、真正面から敵対するような愚かな真似はしないだろう。だがそれであっても、ミリアムも含めてリスクを取ってくれるのだから感謝しかない。
「どうかよろしくお願いします。それと次回お会いするのは早くても八月以降となるでしょうが、恐らくその頃、私は前線勤務になっていると思われますので、こういう形でお会いできるのは二年ほど難しくなるかもしれません」
俺の言った最前線と二年という言葉に、流石に高官の孫娘であったミリアムは、すかさず眉を上げて反応する。
「あら。哨戒隊の指揮官か、国境哨戒をする星域管区司令部の参謀にでもなるのかしら? なにか今のお仕事で不始末でも?」
「ミリアム。君ね……」
右手をミリアムの左肩に、左手を額に当て、目を瞑りながら俯くラヴィッシュ氏の呆れ声に、俺は苦笑を隠せない。俺と二人で会う時は歳不相応に大人びた態度を取るミリアムも、ラヴィッシュ氏と一緒だと歳相応の若い女の子になってしまうらしい。ヤンと会っていた時もそんな感じだったはずだから、包容力というか器量の大きい相手の傍ではそうなるのかもしれない。
「赴任先はまだわかりません。ですが恐らく哨戒隊司令となるでしょう。そうなると四分の一になる可能性は否定できません。その時は新しい依頼も含めて今までのお約束通り、関係の処分をお願いします」
俺が死んだ後、ミリアム(とラヴィッシュ氏)に依頼しているドミニクとの連絡業務は、全てドミニクの指示に従って処理すること。全てなかったことにするのがドミニクにとって一番いいことだ。子供探しもそれでおしまいにすれば、地獄でチェン秘書官に怒られるのは俺だ。もっとも転生してこの世界に居る俺としては、地獄というのがあまり信じられなくなってきてはいるが。
「それは心配する必要はなさそうね」
俺の心情を察したのかどうかは分からないが、ミリアムは小さく鼻息をついた後で、呟くように言った。
「貴方、どうやら運だけはブルース=アッシュビーよりありそうだもの」
ミリアムのアッシュビー観を原作で知っている身としては、それがあまり肯定的な意味ではないと分かるだけに、何とも微妙な気分にならざるを得なかった。
◆
独立商船ランカスター号を見送った後、国防予算審議は忙しさを増し、去年同様、俺は官舎に戻る方が少ないような日々を送る状態になった。昨年とは違いチェン秘書官はいないので、各所のアポイント業務も全て自分で引き受けなければならない。仕事のやり方やポイントについては去年の経験が生きているので戸惑いは少ないが、交通整理に時間を取られて、業務の絶対量は去年の七割から八割というところ。
残りの三割について、エベンスやベイに割り振れる案件については任せることにした。特に軍本体に対する案件についてはエベンスに、国防委員会内部についてはベイに割り振り、彼らは本気で迷惑そうな顔をしつつも仕事はやり遂げた。性格や性根に問題があるとはいえ、優秀な人材であることに違いはないことを証明した形になった。
それでも国防委員会ビルの職員用シャワー室と、オフィスのあるフロアの共用廊下で意識を失っているところを発見され診察室に運ばれたこともあり、意識を回復した後で同い年ぐらいの当直医と『仕事と健康』について激論を交わすことになった。
「チェン秘書官についてだけどね」
昨年同様、評議会議員総会の二日前の夜。俺はレイバーン議員会館五四〇九号室に呼び出され、議員オフィスの応接室に設けられたディナー(四人前)を前にして、とても世間にお見せすることができない不愉快そうな顔つきで、鶏チャーシューを口に運びながら、席に着くなり怪物は俺に零した。
「どうやらフェザーンで行方をくらましたことが分かったよ。中央情報局二課と七課の連中が、わざわざここまで来てご丁寧に説明してくれた」
治安警察公安部出身のトリューニヒトとしては、中央情報局は昔の商売敵である上に、国防委員会の中にスパイが居たことを『丁寧に』説明されたことが気に入らないのは分かる。そんなことは百も承知で使っていたんだと言うわけにもいかず、いつものようなキラキラした笑顔でしらばっくれていたのだろう。国防委員会内部の綱紀と防諜についても何か言われたのかもしれない。
「君の管理責任についても聴取する必要があると言ってきた。なかなか笑える話じゃないかね。前任者から引き継いだだけの秘書官が、帝国のスパイだなんてどうやって君が分かるという話だ」
「まったくです」
「秘書官が虚偽の申告をして持ち場を離れて、直接的に迷惑を被っていた君に対して疑念を持つなんて、実に無能なC(中央情報局)の連中の考えそうなことだ」
「先生のおっしゃる通りですが、チェンは一応私の部下だったことに変わりはありません。先生にはご迷惑をおかけいたしました。申し訳ございません」
「君が謝る必要はないよ。失礼なのは彼らだ。むしろ国家保安の為に、私としてはCの中身こそ洗浄した方が良いと思う」
登場人物全員が白々しい。俺はフェザーン自治領主のスパイと理解した上で、彼女をフェザーンに送り返した。中央情報局は最初から国防委員会内部を探るためにチェンを送り込んでいた。トリューニヒトは(恐らく承知の上で)そんなチェンを使って俺から『Bファイル』を探し出していた。さらにトリューニヒトはフェザーンの黒幕というべき地球教の手先とわかってて、悪霊を自分の秘書として使っている。
顔はトリューニヒトに向けたまま、視線だけオフィスと事務スペースを区切る扉に視線を向けると、トリューニヒトの瞳も同様に扉に向く。今夜、悪霊の姿はこのオフィスにはなかった。どこで羽を伸ばしているのか知らないが、盗聴器くらいは当然仕掛けているだろう。
「あぁ今夜は君のライバルはお休みだよ。半身を失ったにもかかわらず奮闘する君のおかげで、来年度の国防予算審議は昨年同様実にスムーズな決着を見た。特に政庁内部で所用もなさそうなので、彼には先に私の畑に行って、草取りを手伝ってもらっている」
俺が『アイツもスパイではないか』と懸念していると思ったのだろうか。余計な心配をかけて申し訳ないといった表情でトリューニヒトは肩を竦める。実際懸念どころか大義名分と機会があれば、即座に蜂の巣にしたやりたいのだがそこまで言う必要はない。
これまでの実績宣伝と培われた人脈金脈から、トリューニヒトが自身の選挙区で負けるとは到底思えない。むしろアイランズやネグロポンティといった手下達の選挙の応援に行く必要がある。あの悪霊に留守にする選挙区の草取り(維持管理)を任されてるとすれば厄介な話だ。草取りどころか草撒きになりかねない。
「出過ぎたことをお伺いしますが、ヴィリアーズ氏は本当にポレヴィト星域選挙区からの出馬を考えているのですか?」
「ちっとも出過ぎてはいないとも。ライバルの将来が気にかかるのは至極当然のことだ」
トリューニヒトは二度頷くと、チャーシューからリンゴとショウガのホットスムージーへと手を伸ばす。
「彼の能力はともかく現在の実績だけでは、いきなり評議会議員選挙に打って出るのは流石に難しい。再来年初頭に任期満了に伴うポレヴィト星域議会議員選挙がある。そこで一期務めてもらった後、高齢になった前任者の禅譲という形で評議会議員選挙に出てもらう考えだ」
もしトリューニヒトの言う通りであれば、奴は地球教本部での出世ではなく潜伏者として同盟内部に残るということになる。宇宙暦七九七年の選挙で評議会議員になるとなれば、地球教の大主教であった原作とは大きく異なることになる。それが同盟の未来にとって良い事とは到底思えないが、良くも悪くも奴は自己中心的な野心家のリアリストだ。地球教の教義に対する信奉など『欠片もない』という点では信頼が置ける。
「彼も君のことを随分と気にしているようでね。期が変わったら君が、第三辺境星域管区の機動哨戒隊に赴任することになることは話してある」
「え?」
「彼は喜んでもいたし、残念がってもいたよ。辺境の治安が回復することは望ましいが、ポレヴィト星域は第三辺境星域管区ではないから、『マーロヴィアの狐』の腕前はポレヴィトでは発揮されないと」
それは『辺境の哨戒隊なら帝国軍や宇宙海賊あるいは部下の叛乱を装って俺を殺せる』だろうが、『自分の手で殺せないことが残念だ』と思っているの間違いだろう。自意識過剰なのかもしれないが、少なくとも奴は地球教幹部であり、俺がトリューニヒトに帝国との講和を示唆するようなレポートを提出していることを知り、それを良しとした自治領主が暗殺されたのだ。地球教が自分達の構想の邪魔となりかねない俺を、予防的に殺すことを躊躇うことなどない。
待ち構えている暗雲が帝国軍のものだけではないという現実に俺は溜息しか出ないが、この場で出すことは許されないことも分かっている。トリューニヒト自身、地球教の事を知った上で奴を雇っているのだし、サイオキシン麻薬の頒布については今のところ小規模に抑制されているというところを見れば、現時点では対等な関係と見るべきだ。つまりそれはトリューニヒトにとっての俺の価値を棄損するようなことは慎まねばならないということ。
「そうですか。喜んでいましたか、彼は」
「ただ実際のところ、君が私の下を離れるというのは、人材面としては痛い」
それは自業自得だし、断じてお前の下に居たつもりはないが、チャーシューを突き刺していたフォークを器用に指の間で廻すトリューニヒトが、滅多に外では見せない溜息をつくので、俺は黙って鶏チャーシューに手を伸ばす。
「特に君の後任人事について、統合作戦本部人事部と国防委員会人事部が珍しく喧嘩してね。どちらも推薦者を出したくないから、押し付け合っているんだ」
「それはなんでまた……」
「誰を推薦しても君ほどの能力を発揮できるわけがないと分かっているからだよ。もし後任が業務を滞らせれば、推薦者の責任を問われてしまうからね」
俺の場合はトリューニヒトの一存で現場から一本釣りされただけ。俺の背中に見え隠れするシトレとトリューニヒトの影に勝手に相手がビビってくれただけだ。人の良いモンテイユ氏や他の同年代の中堅官僚達が、遊び仲間の体で仲良くしてくれた面もあってたおかげで、各所の交渉がスムーズに進んでいるだけに過ぎない。
外部に関してもラージェイ爺さんや、ハワード=アイランズ氏といった百戦錬磨の老獪達が、大した恩義でもないのに借りを返すつもりで、若くて未熟な俺を指導してくれただけだ。ピラート中佐の能力を備え、その上で適度な前線勤務実績があれば、機微さえ間違わなければ難しい仕事ではない。膨大な仕事を上手い具合に調整できる有能な秘書官が居れば、より仕事は楽になる。
「そういうわけで君の後任について、仕事に詳しい君が推薦してもらえると、私としては実に安心できるんだが」
そしてこれが今日、俺を呼んだ本題だろう。自分で責任を取ることなく、他者に責任を押し付けつつ、成功すれば自分の功績とする。勿論後任が失敗すれば、俺の責任だ。トリューニヒトが椅子の脇に最初から準備していたであろう一〇枚ほどの履歴書を俺に寄越してくる。
「……どなたも私より前線でも後方でも実績がある方ばかりですね」
全員が中佐で、三二歳から五四歳。士官学校出と専科学校出は半々。機動集団補給参謀、星域管区備品課長、後方勤務本部本部長付、等々、責任ある部署に勤めていた人物ばかりだ。恐らく誰がなっても能力的に問題はない。だがトリューニヒトは、この中の誰がなってもご不満のようだ。
「そこに居ない人物でも構わないよ。君の知り合いで、これぞという人物が居れば推挙して欲しい」
そう言ってトリューニヒトはスムージーに手を伸ばす。だが俺の知り合いなどたかが知れている。先輩・同期・後輩とどの顔を思い浮かべてみても、目の前の怪物を毛嫌いするマトモな人間ばかりだ。もしかしたらウィッティなら務まるかもしれないが、アイツをクブルスリー提督の元から引き離したくはない。
だが一人。俺の知り合いの中で何とかなりそうな人間はいる。現時点では階級不足だが、原作上でもトリューニヒトと繋がりがあった。犬のように仕えることもできる精神性の持ち主だ。
「誰かいい人物でもいたかね?」
俺の表情の変化をすかさず読み取ったのか、蠅を目の前にした蛙のような表情を浮かべている。その前で履歴書を奇麗に揃えてテーブルの上に置いてから、俺は口を開く。
「能力的には問題ありません。手順も機微も理解している人物です。ですが階級が不足しております」
「現階級は?」
「少佐です」
「なら問題ない。大佐になるのは少し遅くなるかもしれないが、一階級なら私が何とかしよう」
そう言って本当に何とかしてしまうのがこの怪物なので、その辺は問題ない。ただ原作での知己がここで繋がったと考えると、結局は原作とは動かすことのできない未来そのままなのかもしれない。俺のやっていることなど、文庫本に数行付け加えるだけの程度なのか。回答を促す怪物の瞳を見返しつつ、俺は応えた。
「戦略企画室参事補佐官補のカルロス=ベイを、小官の後任としてトリューニヒト先生に推挙いたします」
俺の回答に一瞬だけ目を点にした後、怪物はスムージーを飲みながら、満足げに頷くのだった。
後書き
2024.09.30 更新
コール=ラヴィッシュ:CV小野武彦
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