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コントラクト・ガーディアン─Over the World─

作者:tea4
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第一部 皇都編
  第二十六章―黎明の皇子―#2


 皇都を囲う城壁に設けられた東門を出ると、まず前方、左方向、右方向に向かって街道が伸びている。

 右方向に伸びる街道と前方に伸びる街道に挟まれた草地に、青々とした葉が茂る木々が密集している個所があって───そこがヴァムの森だ。

 この右方向に伸びる街道は、ディンド卿たちを襲ったブラッディベアが出現した道で───この街道の先にはトファルの森が広がっている。

 姿をくらましたレナスを伴ってヴァムの森へと入る。探ってみたところ、この地点には人や魔物がいる気配はない。

 今日はレド様の【千里眼】を併用させていただくことはできないので、【測地】で【地図製作(マッピング)】をしようと考え───私は片膝をついて、両手を地面に突いた。【測地】を発動させると、ぼんやりと森の全体像が視えた。

 【測地】を施すどころか、この森に来ること自体久しぶりだ。

 以前は自分を中心として半径20mほどしか探れなかったのに───今は森全体を探れることに、自分でも少し驚いてしまう。

 それだけ、魔力量が増えたということだ。


 昨日の件で、地中の魔素はかなり減少している。それでも、樹木や木の実、草花に蓄えられた魔素を感じ取ることで、地上の様子は感じ取れた。

「【地図製作(マッピング)】」

 私が呟いた直後───いつものように、ノルンのアナウンスが響く。


地図製作(マッピング)】を開始します────
管理亜精霊(アドミニストレーター)】に【接続(リンク)】────【記録庫(データベース)】を検索…
転移港(ポータル)第7研(セブンス・ラ)究都市(ボラトリー)トファルヴァム>と断定────
転移港(ポータル)第7研(セブンス・ラ)究都市(ボラトリー)トファルヴァム>の【立体図(ステレオグラム)】を書き込み(ダウンロード)開始────完了


 ラギとヴィドの話から、この森には何かあるのかもしれないとは思っていたけれど───やっぱり、古代魔術帝国の遺跡があったんだ。

 “第7研究都市トファルヴァム”───それが…、あの塔───古代魔術帝国の施設の名称?
 確かに、“都市”と言っていい大きさではある。

 この都市名が───“トファルの森”と“ヴァムの森”の由来となったのか。


立体図(ステレオグラム)】を投影します────
立体図(ステレオグラム)】を最新の情報に書き換えます……


 私の正面に、縦に長い楕円形の森の立体図が現れる。

 よく観察しようとした矢先、それは淡い光を迸らせた。ノルンのアナウンス通り、最新の情報に書き換えられたのだろう。

 まるで一つの塊のようにこんもりと茂る木々の形が蠢き、凹んだり凸出したりして微妙にシルエットが変わる。現在の形───“ヴァムの森”へと。

 良かった────冒険者らしき影は見当たらない。そのことに安堵しながら、なおも観察すると───森の後方近くに、円く刳り貫かれたような空き地が見て取れた。

 位置的には───ラギとヴィドが魔物の集落を見たのは、この辺りのはずだ。この空き地に魔物が集落を造ったということなのだろうか。

 とにかく───確認するためには近くまで行ってみるしかない。

「レナス───森の奥まで入るから、念のため、【認識妨害(ジャミング)】を腕時計のものに切り替えて。それと、【冥】を携行しておいて」
「かしこまりました」


◇◇◇


 レナスと共に、森の中を進む。精霊獣の棲むあの森とは違って───この森は、木々はそれほど密集しておらず点在してるだけで、灌木など下草の方が目立つ。

 だからこそ、日光が木々に遮られることなく届き、低ランカーの稼ぎになるような薬草などが育つことができるのだ。

 私は数年振りに入った森の様子に少しだけ懐かしさを覚えながら、奥へと向かう。

 とある地点で、踏み出した足元の草が赤黒く変色していることに気づいて───私は足を止めた。これは…、血?

 見回したら、所々に血の跡がある。血の跡を辿っていくと───血だけではなく、地面が抉れて土が剥き出しになっている個所が目についた。視線を上げれば、幹が抉れた木や潰れた灌木もある。

 どの痕跡も、それほど時間は経っていないように見えた。

 これは────おそらくラギとヴィドが魔物と交戦した跡だろう。

「………」

 それにしても、ラギとヴィドの二人分だとしても、かなりの出血量だ。周囲の状態から、強い力で転がされたことも、吹き飛ばされたことも窺える。

 これは大ケガどころじゃない。ラナ姉さんが神聖術を使ってくれていなかったら───ラギとヴィドは命を失っていたかもしれない。

 そう思うと───今更ながら、血の気が引いた。

 果物や薬草などが入った血と土に汚れた麻袋は、灌木の陰で見つけたものの───ラギとヴィドの剣は見当たらなかった。二人を襲ったというオーガが持ち帰ったに違いない。

「…行こう、レナス」
「はい」


 なおも進んで行くと────前方の木々の合間から、あばら家らしきものが見えた。

 魔獣や魔物は魔力に敏感なので、いつもなら自分の魔力を周囲の魔素などに紛れさせて気配を消すところだが、魔素が少な過ぎてできそうにない。

 私は考えた末、白炎様のときと同様に、固定魔法【結界】を応用することにした。

 私とレナスをいつもより薄い───けれど、魔力を漏らさない程度の【結界】で覆って、ギリギリまで近づく。

「っ!」

 木々の合間から見えたそれは────確かに、ヴィドの言う通り、魔物の集落だ。

 だけど、よくよく見ると、いつもの集落と様相が違う。屋根は丸太を蔓で括ったものを載せているが、壁は大きな石を積み上げて造られている。

 崩れ落ちないところを見ると、無造作に積み上げてあるように見えて、何か工夫を凝らしているのかもしれない。

 何故いつもと違うのか不思議に思ったが、地面に目を遣って納得した。

 地面というより剥き出しの床は────あの地下施設とおそらく同じ人工物らしき素材が敷き詰められている。あれでは、柱を突き立てることはできないだろう。

 魔物の家には扉はなく───出入口がぽっかりと開いている。並ぶ家々の一つの出入り口から、不意に魔物が出て来た。

 それは────剣を手にしたオークだった。

 出て来た魔物がオークであることに、私は違和感を覚える。そして、すぐに思い出した。ヴィドは────自分たちを襲ったのは、()()()だと言っていたはずだ。

≪木に登って、集落を上から確認する≫
≪御意≫

 私はレナスに【念話(テレパス)】で伝えると───視線を廻らせて、二人で乗っても大丈夫そうな枝を持つ木を探す。ちょうど良さそうな木を見つけ、レナスに手で合図して、二人でその木の許へ向かった。

 足元に【重力(グラビティ・)操作(オペレーション)】を発動させて、レナスと共に、天辺に近い木の枝まで一気に跳び上がる。

「っ?!」

 枝に跳び乗って───眼下に見えたその光景に、私は息を呑んだ。

 まず、感じたのは────広い、ということだった。【立体図(ステレオグラム)】で見たときは縮小されていたせいか感じなかったが、その空き地は広く────おそらく、皇都の平民街に匹敵するくらいの面積はあった。

 平民街ほどには密集していないものの、空き地の目一杯にあばら家が並んでいる。

 集落の規模としては────セレナさんたちと臨んだ集落潰しのときの3倍近い。

「これ、は────」

 無意識に言葉が零れて、途切れた。

 皇都のすぐ側に、こんな───こんなものが存在していたことに、誰一人気づかなかったなんて────

「リゼラ様───あれを」

 レナスに囁かれて、我に返る。レナスの指さした方に視線を向けると、集落の中をオーガが歩いているのが目に入った。

 先程のオークが出て来た家の方を見ると、そこには───やはりオークがいる。見間違いではない。

 まさか───オーガとオークが共生している?

 魔物は弱肉強食で、人間のみならず他の魔物を食す。オーガがオークを襲うのはよくある光景だし、はぐれのオーガがオークの集団に襲われることもある。

 食糧難には共食いすることすらあるのに────それなのに、共生している?そんなことがあり得るの?


 ふと、他の家より大きく石壁に囲われた個所が目についた。

 それは、集落の中央にあって────屋根はあるが、格子状に丸太が敷かれているだけで、雨を凌ぐことはできそうにない。

 出入り口と思われる石壁が途切れた所に、オークが2頭立っていた。

 石壁の中にいるのは───“ゴブリン”の集団だ。
 あれは───明らかに囚われている。

 “ゴブリン”は───オーク同様ラノベなどのファンタジーお馴染みそのままの魔物だ。

 人間の成人男性の半分ほどしか身長がなく、暗緑色の分厚い皮膚が丈夫なためか、雌雄どちらも体毛がまったくない。

 だが、いくら皮膚が丈夫でも、その小柄な体格でオーガやオークに敵うはずもなく───二足歩行の魔物の中では最弱と見なされている。

 ただ───その分、繁殖力があると謂われていた。膨張期に限らず繁殖して、かつ成長も他の魔物に比べ早い───とも。


「まさか───ゴブリンを繁殖させて…、食糧にしているの?」

 だから…、オーガとオークは共生することができているの?────思わずそう呟くと、傍らにいるレナスがたじろいだ。

「人間を襲うことなく、集落内で自給自足をしていたから────これまで誰にも気づかれなかったということですか?」
「いえ────武具を持つものが多すぎる。おそらく人間にも被害は出ているはず。皇都民や、皇都に滞在している冒険者や商人には表立って被害が出ていないだけなのだと思う」

「ですが…、そうすると、あの魔物たちは────わざわざ人間を襲うために遠出をしている、と?」

 レナスの言葉を、私は首を振って否定する。皇都から離れた所だとしても、冒険者に被害が出たら冒険者ギルドは討伐に乗り出すはずだ。

「では、何処で人間を?」
「私は────街道を行き来する旅人を襲っていたのではないかと考えてる」

 この森の側を通る街道になら、人目につくことなく出られる。

 少人数の団体なら全滅させるのは容易いだろうし、全滅してしまえば、冒険者にしろ商人にしろ───皇都もしくは隣街に辿り着いていないことが発覚するには時間がかかる。

 この集落がいつできたのかは判らないが、まだ被害が発覚していないだけだと考えられる。

「なるほど。…しかし、魔物にしては随分、頭が回る────」

 レナスは呟いて、自分の言葉で思い当たったようで────眼を見開いた。

「まさか────ディルカリドの魔獣が…?」
「おそらくは」

 石壁を造る機転や食糧を確保するようなやり方を鑑みても───ディルカリド伯爵の造り上げた魔獣が、この集落にいる可能性が高い。

 もしかしたら───レナスと共に討ったあの魔獣のように、前世の記憶を持っているという可能性もある。

 私は【心眼(インサイト・アイズ)】を発動させると、眼下の集落を見据え────ノルンに呼びかける。

「ノルン───投影はしないで、【立体図(ステレオグラム)】の更新だけをお願い」


───了解しました、(マスター)リゼラ。投影はせずに、<転移港(ポータル)第七研(セブンス・ラ)究都市(ボラトリー)トファルヴァム>の【立体図(ステレオグラム)】の書き換えのみを開始します───


 【立体図(ステレオグラム)】の更新をノルンに任せ───私は【心眼(インサイト・アイズ)】で集落を隈なく眺める。

 レド様の【千里眼】のように障害物を透かして視ることはできないので、家々の内部まで探るために魔力を両眼に流し込んだ。

 すると───集落の中でも一際大きいあばら家の中に、もう馴染みとなってしまったディルカリド伯爵の魔力が視えた。

「…見つけた」

 ディルカリド伯爵が造り上げた────おそらく、知能の高い魔獣。4m近い巨体のオーガだ。


───(マスター)リゼラ、<転移港(ポータル)第七研(セブンス・ラ)究都市(ボラトリー)トファルヴァム>の【立体図(ステレオグラム)】の書き換えが完了しました───


「ありがとう、ノルン」

 私は、【心眼(インサイト・アイズ)】を解かずに、今度は“転移港(ポータル)”と呼ばれる広場自体を視る。

 じっと視続けていると、集落の下に幾つかの魔術式が浮かび上がるように現れた。

 分析結果からすると───中心に3つ三角形を成すように敷かれた魔導機構は、3つとも【転移門(ゲート)】だった。ただし、これは研究都市とやらとは繋がっておらず、他の都市と行き来するものみたいだ。

 私から向かって左奥にも、小さな魔導機構があった。
 それも【転移門(ゲート)】の一種で、【脱出(エスケープ・イ)(グジット)】というものらしい。

 これは、地下施設の【転移門(ゲート)】と繋がっており、名称通り、地下施設の緊急用脱出口だ。この研究都市の【全体図】や【記録庫(データベース)】には記されていない。その用途から鑑みても、機密事項なのだろう。

 そして、それらすべてを覆うように───重ねて敷かれた巨大な魔導機構。

 それは、この【転移港(ポータル)】の存在を隠すためのものだった。【認識妨害(ジャミング)】の上位互換となる魔術で、名称は【隠蔽(ハイディング)】。

 古代魔術帝国が滅びてなお発揮されていた、その効果が切れたのは───おそらく魔素の不足。

 昨日の地下施設での一件が原因であることは───明らかだ。

「リゼラ様?」

 レナスの私の名を呼ぶ声に、私は分析結果から意識を戻す。

「いえ…、何でもない」

 感情を押し殺して、首を振ってそう応えたけれど───その仕種も声音も弱々しいものになってしまった。

 レナスが心配そうにしていたが、気づかない振りをして、私は再び眼下に視線を落とした。


◇◇◇


 その日、再びレド様の許を訪れることができたのは───昨日同様、夕食を済ませてからだった。

 あの後───しばらくレナスと共に集落を見張っていると、3つのBランクパーティー『黄金の鳥』と『暁の泉』、それに『リブルの集い』を引き連れたガレスさんが来た。

 運のいいことに───と言っていいのかは判らないが、ギルドの開業早々に冒険者同士の揉め事が勃発して、受付業務が滞ったために───ラギとヴィドが駆け込んだとき、まだ多くの冒険者が出かけられず、ギルド内に留まっていたらしい。

 集落の監視、ヴァムの森とその側の街道への立ち入り制限を、とりあえずレナさんたちに任せて───集落の確認をしたガレスさんと共に、私はギルドへと一度戻った。

 まずは───街道の先にある街への『被害の確認』と『警告』のために冒険者を派遣するに当たって、街道を通るのは危険なので迂回ルートの考案と指示───それと、商人ギルドにも確認と警告を(おこな)った。

 商人ギルドで確認したところ、やはり小規模の商隊や、行商人の都入りが例年より目に見えて少ないことが判明した。

 それから───集落の規模と皇都に近過ぎることの危険性の報告、対処を要請する文書を、ギルドマスターであるガレスさんの名で作成して、ガレスさんに皇城へと提出してもらい───私の方でも直接おじ様に注進したりなど、何やかんやで、お邸に帰り着いたときには、すでに日が暮れていた。


 レド様は────未だ目を覚まされていない。

 私は、ベッドの側に置かれたイスに座って、レド様の寝顔をぼんやりと眺める。その寝顔は安らかで────それだけが救いだ。

 私がお邸へ帰ったとき、白炎様は()うに帰られていて───結局、会えずじまいだった。

 ラムルによると、白炎様でも、レド様が目覚めない原因ははっきりとは解らなかったみたいだ。

 ただ───白炎様が仰るには、ジグとレナスがすぐに意識を取り戻していることから、おそらく魂魄に損傷を負っているせいではないだろう───と。

 それなら…、レド様がお目覚めにならないのは、やっぱり────

「…っ」

 瞬く間に胸のうちを覆っていく後悔の念を────今は押し(とど)める理由がなかった。

 ラギとヴィドは、昨日、ヴァムの森に向かったのが遅かったのもあって、昼休憩をとることなく採取を行っていたとのことだった。

 森の入り口付近に生えているものは低ランカーのために残し、採り尽くさないよう心がけて薬草や果物を採取しながら、徐々に奥へと入っていったようだ。

 そして、オーガに遭遇したのは────昼下がりだったという。

 私が────【魔素炉(マナ・リアクター)】をフル稼働させて、地下施設の【最新化(アップデート)】をしていた時刻だ。

 つまり、これも────私の“祝福”の一環なのだろう。

 もし、この時点で集落が発見されていなかったら、被害は増え続けて、ついには皇都まで及び────取り返しのつかない状態までなっていたかもしれない。

 最初の発見者がラギとヴィドだからこそ、ラナ姉さんに助けてもらうことができ───他に被害者を出す前に私たちが知ることができた。

 他の低ランカーが発見した場合、オーガから逃げ切ることができず───逃げ(おお)せたとしても、助からなかった可能性の方が高い。

 このタイミングで、集落の存在が発覚したのは良かったのだということは───頭では理解できる。

 でも────だからといって、ラギとヴィドが発見してくれて良かったとは思えなかった。

 勿論、他の低ランカーだったら良かったとも思わないし────昨日、ラギとヴィドの他にはヴァムの森に入っていた者はいないと知って、安堵したのも本当だ。

 だけど────ヴァムの森で見つけた惨状、それに、ラナ姉さんから聴いた二人のケガの詳細から考えると────ラギとヴィドは、ラナ姉さんがいなければ、おそらく命を落としていた。それくらいの大ケガを負っていたのだ。

 もしかしたらラギとヴィドは死んでいたかもしれない。その事実に───私は、心の底からぞっとした。

 私が────おじ様への注進を優先して、地下遺跡の【最適化(オプティマイズ)】を先送りにしなければ────レド様にどうするか訊かれた、あのときに【最適化(オプティマイズ)】をしておけば───ラギとヴィドが、そんな大ケガを負うこともなかった。

 そうしたら、レド様のお傍を離れる必要もなく────レド様が…、あの悲惨な末路を思い出してしまうこともなかった。

 そう考えると、胸が苦しくて────息が詰まった。

 あのときは、あれが最善だと思ったけれど────本当に最善だった?
 もっと────もっと他に…、レド様が前世の記憶を取り戻したり、ラギとヴィドが大ケガを負う必要のない────良い方法があったんじゃないの?

 そんな疑問が拭えなくて────レド様のこの状態も、ラギとヴィドがケガを負ったことも、私の判断ミスのようにしか思えなくなって────考えれば考えるほど、胸の苦しさは増していく。

 レド様を絶対に護り抜くと…、お傍にいて決して不幸にはさせないと誓ったのに、どうして────どうして…、あのとき、レド様のお傍を離れてしまったのだろう────そう思ってしまったら、もう駄目だった。

 後悔と自分の不甲斐なさが膨れ上がって、涙となって溢れ出る。

 零れた涙が頬を伝う。涙は止まることなく───次々に溢れ出て、頬を流れ落ちていった。

 嗚咽が漏れそうになって、私は慌てて両手で口を塞ぐ。

 ジグとレナスは、今も隠し部屋で護衛をしてくれているはずだ。泣いていることを知られたら────きっと心配をかけてしまう。

 涙を止めようとしたけれど────止まらない。

 泣いたってどうしようもないのに────それでも涙が止められない自分が情けなくて…、余計に涙が溢れた。

「リゼ────どうした…?何故、泣いている…?」

 不意に耳に入った────昨日からずっと聴きたくて堪らなかった、レド様の耳の奥に残るような低い声。

 だけど、そのときの私には都合のいい幻聴だとしか思えなくて────その問いに応えることなく、私は両手で口を塞いだまま俯いていた。

 そっと(まなじり)に残る涙を拭われて────確かな感触に、私は驚いて顔を上げる。

 レド様が────左腕をベッドに突き上半身を起こして、その濁りのない淡紫色の瞳を私に向けていた。
 
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