コントラクト・ガーディアン─Over the World─
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第一部 皇都編
第二十五章―過去との決別―#10
※※※
セレナの父である元ディルカリド伯爵───ザレムと、ハルドの祖父であるドルトは───ラムル、セレナ、ハルドだけでなく、捕らえたディンド、ヴァルト、アーシャには目もくれず───発動した魔術に何か不具合でもあるのか、自分たちの足元に展開した魔術陣を見て、ぼそぼそと何かを話している。
少し距離があることもあり、その内容は聞こえない。
魔術陣に囚われているディンドたちだが────ザレムとドルトの様子を見るに、どうやら今すぐにどうこうされるわけではなさそうだ。
もしかしたら、魔術が浸透するまで時間がかかるか───もしくは、魔術自体、隷属させられるというほどのものではなく、意識を朦朧とさせる程度なのかもしれない。
ザレムとドルトの動向から目を離さぬまま、ラムルはそこまで考え───セレナとハルドに告げる。
「まずは────動けないディンド様たちから、ディルカリド伯爵とドルトを引き離す」
セレナがザレムと魔術で戦うには、魔術の射程範囲内にディンドたちがいてはやりにくいということもあるが───ディンドたちを囮や盾にされることだけは、絶対に避けなければならないからだ。
それに、今いる位置は、魔術陣の中央付近にいるザレムと彼を護るドルトとは、切り刻まれた魔獣の死体によって隔たれているため───直接、対峙できる個所まで移動する必要がある。
「【認識妨害】を発動させて───あの地点まで移動する」
ラムルが右方向の200mほど先を指し示すと、セレナとハルドは決意の籠った眼でラムルを見て頷いた。
「それでは────行くぞ」
ラムルのその言葉を合図に、【認識妨害】を自身に施すべく、三人は自分の腕時計に手を伸ばした。
ラムルたちが姿をくらませ奔ること1分弱────目標地点に辿り着く直前になって、ザレムとドルトは、ようやくラムルたちの姿が見えないことに気づいたようだった。
ラムルたちがディンドたちを解放しようとしていると考えたのか───ドルトが、ディンドたちのいる方角へ踏み出す。
ラムルとしては、気づかれないうちに【認識妨害】で姿をくらませたまま、セレナの魔術でザレムとドルトを無力化できればと考えていたが────やはり、そう簡単にはいかないようだ。
ディンドたちから目を逸らさせるためにも、姿を現して───正面から戦うしかない。
目標地点に到達した三人は足を止め、ラムルはセレナとハルドに振り向く。
「【認識妨害】を解いて戦う。二人とも────覚悟はいいな?」
「「はい!」」
セレナとハルドの返答は力強く────揺るぎない。
「行くぞ!」
「「はい!」」
「セレナ───まずは、魔術で牽制を」
セレナが短杖を両手で握って突き出し、魔力を流す。セレナの目の前に浮かび上がった───無数の30cmほどの魔術陣から、氷刃が射出される。
突如現れた氷刃に、ザレムはさして慌てることもなく、コートの内ポケットから取り出した魔術陣が刻まれたメダルを掲げて───生み出した豪風で、氷刃を巻き上げて散らした。
その攻防に気付いたドルトが、ザレムを護るためだろう────慌てて身を翻した。
ラムル、セレナ、ハルドの三人は───【認識妨害】を解き、ザレムとドルトの前に姿を晒す。
ドルトはただ驚いたような表情を見せたが───ザレムは一瞬だけ目を見開いたかと思うと、子供が玩具を見つけたような表情を浮かべた。復讐に囚われている人間にしては、どこか違和感を感じさせる反応だ。
ザレムとドルトは短く言葉を交わした後、こちらに向かって歩き出した。二人は、魔術陣の範囲ぎりぎりまで近寄って来る。
対するラムル、セレナ、ハルドは、警戒を強めて身構えた。
◇◇◇
「久しいな────セレナ」
ザレムは表情を緩めることなく、セレナに向かって言う。言葉の内容とは裏腹に、その声音からは再会した感慨など微塵も感じられなかった。
この距離ならば、ラムルにかかれば、ザレムもドルトも無力化できるはずだが───ラムルは、先程のセレナの決意を尊重してくれているのか動かない。
それとも、情報を引き出せということだろうか────そんなことを考えながら、セレナは口を開いた。
「…生きていらしたのですね、お父様」
「お前こそ、落ち零れの分際で───伯爵家が取り潰されて、よくぞ生き残れたな。どういう経緯で、ルガレド皇子なんぞに仕えることになったかは知らんが────ちょうどいい。落ち零れでも少しは足しになるだろう。それに、魔術陣も幾つか持たされているようだな。この私にすべて差し出せ」
尊大にそう言い放った父は、以前と変わらず────セレナに対して、落ち零れと呼び、理不尽なことでも命じる権利が自分にはあると、当然のごとく思っているようだ。
そして、セレナはその理不尽な命令にも黙って従うはずだ────と。
「お断りします」
セレナの唇から、自分でも意外に思うほど、するりと言葉が零れ出た。
ザレムは、まさかセレナに拒否されるとは思っていなかったらしく───驚愕のあまり、束の間、表情が抜け落ちた。
しかし、すぐに我に返り───屈辱に顔を歪ませる。
「…お前───随分と増長しているようだな。ルガレド皇子から新たな魔術陣を与えられて、調子づいたか」
セレナは、ザレムの言葉の意味が解らず困惑する。新しく与えられた魔術というのは───【認識妨害】のことだろうか?
「由緒ある“氷姫”を扱えなかったから、自分でも扱える魔術陣を強請ったのか?」
続けられたザレムの言葉に、セレナは合点がいった。
ザレムは、先程の氷刃を別の魔術だと勘違いしているのだ。
自分や息子───つまりセレナの兄が“氷姫”を発動したときは、氷塊の形状も違ったし、数ももっと少なかったから────
「先程の魔術のことを仰っているのなら───あれは、“氷姫”で出したものです。確かに別の魔術も与えられてはおりますが───魔物や魔獣に放ったものも、すべて“氷姫”によるものです」
「ふん、見え透いた嘘を。“氷姫”は才能ある者にしか扱えない、難しい魔術陣だ。落ち零れのお前が、私やゲレトよりも上手く扱えるはずがなかろう」
「………」
“氷姫”は、長い年月が経つうちに磨耗したのか───削れてしまっている箇所があって、そのために魔力の経路が途切れているところがあり、発動はするものの、魔力が旨く行き渡らずに魔術が本来の規模にならないのだ───と、リゼラは言っていた。
短杖に不具合が生じた場合に備えてリゼラと共に検証した結果、メダルの何処を持つかによって魔術の規模が変わることも判明している。
扱いが難しいと考えているということは───父も兄も、魔術の規模が一定ではないことに気づいてはいたが、それが持ち方で変わるとは思い至らなかったのだろう。
父は、相変わらず───自分と亡き兄ゲレトだけは、“別格”だと信じているらしい。
以前のセレナなら、先程の父の言葉を鵜呑みにしていた。
鵜呑みにして────父と兄という存在を過大評価して、きっと自分を卑下していた。
だけど、今のセレナには、ただ滑稽に響いただけだった。
(ああ…、この人は────“本物”を知らないんだわ。本当の“別格”というものを────)
だから、臆面もなく自分が選ばれた存在などと宣い───自分には他人を虐げる権利があるなどと思い込めるのだ。
本当に選ばれた人というのは────“別格”というのは、リゼラみたいな存在を言うのだ。
魔力量や才覚は勿論、人格面でも────いや、何もかもが、ザレムやゲレトなど、リゼラの足元にも及ばない。
「一つ、お聞きしたいのですが────お父様。貴方は何故、生きているのに戻って来なかったのですか?」
「そんなもの────決まっている。ゲレトの無念を晴らすためだ」
ザレムは、さも当たり前というように───セレナの問いに答える。
「…お兄様の無念───ですか。確かに、お兄様の死は理不尽なものでしたけれど…、それは───領民や使用人に対する責任を放棄してまですることなのですか?」
「はっ───何を言うかと思えば。領民や使用人のことなど、大事の前には些事でしかない。お前には解るまい。あれは───ゲレトは、いずれ我が伯爵家に栄光を齎す存在だった。それを────それを…、あのベイラリオの愚息めが…っ!」
ザレムの双眸が怒りに染まる。愛する息子を殺されたザレムの怒りは、セレナにも、ある程度ならば理解はできる。
だけど────
「バレスとデレドだって、お兄様と同じ貴方の息子ではないですか。魔力量だって───お兄様とそんなに変わらない。領民や使用人を切り捨て、無関係な人々を巻き込んでまで仇を取るよりも───バレスかデレドに伯爵家の将来を託すことだってできたはずです」
魔力量に関しては、ルガレドやリゼラのように量れるわけではないが───魔術の発動回数を比べれば、おおよその見当はつく。
それによって───兄や弟たちよりも発動できる回数が少なかったセレナは、“落ち零れ”だとされていたのだから。
「バレスとデレドが───ゲレトと同じだ、と…?バカを言うな。同じなわけがあるか。ゲレトは、彼のバナドル王の愛妃の───偉大なるエルダニア王国を造り上げた尊いお方の再来なのだぞ。バレスとデレドのような───凡愚と一緒にするな」
「……お兄様が、バナドル王の側妃ディルカリダの再来───ですか?
それは…、何を根拠に仰っているのですか?」
セレナの声音が低くなったことを気にも留めず───ザレムは酔い痴れたように答える。
「ゲレトの────あの青い髪だ。彼のディルカリダ様と同じ────」
エルダニア王国を大国に押し上げたという、バナドル王の側妃ディルカリダ────彼女とディルカリド伯爵家の関係については、判明したすべてをリゼラから聴いている。
セレナの生家はディルカリドと名乗ってはいるが、ガルド=レーウェンに与したことで取り立てられたディルカリド家の分家筋だったということは、ディルカリド伯爵家に連なる者として教えられていた。
つまり────セレナの家系は始祖の直系ではない。
リゼラの推測通り【青髪の魔女】がディルカリドの始祖だとしても、それが伝わっていないことは十分ありえる。
だから、ザレムが、歴史研究家ビオドの説を信じていても────別におかしくはない。
けれど────ゲレトをディルカリダ側妃の再来だと信じるその理由が、才覚などではなく髪色だと答えるザレムは、ディルカリダ側妃を信奉しているというよりも────ただ、先代ベイラリオ侯爵の妄想に惑わされているだけのようにしか見えなかった。
そもそも、セレナの髪色がそうであるように───ディルカリド伯爵家の血筋は青系統の髪色を持って生まれることが多いのだ。
それに、ゲレトの髪色は青というよりも、黒に近い紺色だった。正直、ジェミナ皇妃に対抗するために、こじつけただけに感じる。
そうなると、ゲレトに関しても────ザレムが、ゲレト自身を見ていたとは────復讐に走るほど愛していたとは、もう思えなかった。
この男は────先代ベイラリオ侯爵の妄想を借りて描いただけの将来を惜しんで────愛情など伴わない空虚な復讐を企て、そして────魔力を搾取するために実の息子を捕らえ、逃げられないようその手足を無残にも斬り落とした────
(ああ────こんな人を…、ずっと恐れて────こんな人に言われた言葉を信じて…、いつも傷ついて─────こんな人に…、ずっと愛されたいと思っていたなんて────)
セレナは、改めて───目の前にいる“ザレム=アン・ディルカリド”という存在を見る。
どうしても消すことができなかった畏怖の念も────先程までは僅かばかりあったはずの愛する息子を亡くしたことに対する同情も────酷い言葉を投げかけられても消えることのなかった肉親としての情も、ここまでの問答で、セレナの中から完全に消え失せていた。
あるのは────解放感と微かな寂寥感だけだ。
「もういい。お前のような落ち零れと話していても、時間の無駄だ。そこの───ウルドの息子…、確かハルドという名だったな。ハルド、その“落ち零れ”を私の許に連れて来い」
セレナの傍に立つハルドに、ザレムは居丈高に命じる。
この愚かな男は、セレナのときと同様、ハルドが問答無用で自分に従うものと信じているのだ。
「断る。あんたはオレたちの主であることを放棄した人間だ。もう命令される謂れはない。今のオレの主は…、この国の第二皇子であられるルガレド殿下と───ルガレド殿下の親衛騎士であるファルリエム子爵リゼラ様だ」
ハルドは迷うことなく───澱みのない声音で、ザレムの戯言でしかない命令を撥ね除ける。
「それに、お嬢は───いや、セレナ様は…、“落ち零れ”なんかじゃない」
続いたハルドの言葉に────セレナは眼を見開いた。
ルガレドに下る際、リゼラの手前、一度だけ“セレナ様”と呼ばれたことはあったが────ディルカリド伯爵家にいたときは、ハルドに“セレナ様”と呼ばれたことはなかった。
それどころか、ハルドは冷たい眼を向けるだけで、言葉を交わしたことすらなかった。
共に冒険者をするようになって、徐々に態度も軟化して───ヴァルトに倣って“お嬢”と呼んでくれるようになり───ヴァルトに対するほどではないけれど、会話もしてくれるようになった。
そんなハルドが、わざわざ“セレナ様”と言い直してから、『落ち零れではない』と────そう言ってくれた。
過去の───ディルカリド伯爵令嬢だった頃のセレナをもハルドに認めてもらえたことに、熱いものがセレナの胸に込み上げる。
「ふん、ドルトの孫とは思えない愚かさだな。やはりウルドの子だ。あいつら同様、不忠で使えない。────ドルト」
「はっ」
「また処分するのは面倒だ。その不忠者はいらん。“落ち零れ”だけこちらに連れて来い」
「仰せのままに」
そう応えたドルトが、ゆらりと、こちらを振り向いたかと思うと───次の瞬間には、セレナの前でドルトとハルドが切り結んでいた。
ドルトの両手剣を───おそらく身体強化をしているハルドが、ショートソードで受け止めている。
「ラムルさん、お嬢を頼みます!」
「解った」
ラムルとそんな遣り取りをした後───ハルドはショートソードを振って、ドルトの両手剣を払いのけた。ドルトが大きくよろめきながら後退して、セレナから距離が開く。
ハルドはドルトを追って踏み出し、再びショートソードを振るった。
「っく、この不忠者が…っ!」
ハルドの追撃をいなしながら、ドルトが絞り出したような声で言い放つ。
「ヴァルトもオレも、不忠者なんかじゃない!忠義を捧げるべき主を自分で選んだだけだ…っ!!」
ハルドのそんな反論が耳に入り、その言葉の意味が───セレナの心に染み入る。
ハルドは、セレナのことだけでなく、ヴァルトのことも認めてくれている────そう思うと、こんな状況であるのに胸が温かくなった。
自分の家族や親族から“出来損ない”と蔑視されて嫌厭されていることを、ヴァルトはまるで気に留めていないかのように振舞ってはいたが────本当は孤独に感じていたのを、セレナは知っていた。
ハルドが認めてくれていることを知れば────ヴァルトは、きっと喜ぶに違いない。
ヴァルトの喜ぶ様を───その笑顔を見られたら…、セレナもどんなに幸せなことか。
それを見るためにも────
(あの男を倒して、ヴァルトを────仲間たちを…、取り戻さなければ)
セレナは、緩んでいた表情を再び引き締め───杖を握り直して、決意を湛えた双眸で、父だった男を───ザレム=アン・ディルカリドを見据える。
「…何だ、その眼は。まさか、私に逆らうつもりか」
ザレムは低い声音で脅すようにそう言ったが───セレナは、もうザレムの戯言を取り合う気はない。
セレナは、それに応えることなく───ただ、短杖に魔力を流した。
◇◇◇
無数の氷刃を、一筋の豪風が巻き上げ────セレナが繰り出した魔術は、ザレムには届かない。
もう何度目になるか────先程から同じ攻防を繰り返している。完全に膠着状態に陥っていた。
だが───セレナは、この攻防の中で一つだけ気づいたことがあった。
それは、ザレムが繰り出す風の魔術が、あの魔獣を切り裂いた竜巻とは別物だということだ。
同じ風系統の魔術なので、調整して豪風や竜巻を使い分けているのかと思っていたが───ザレムに調整している様子は見られないし、こちらが魔術の規模を少し変えようと、ずっと豪風の規模は一律だ。
とすると───今行使している魔術陣では、一筋の豪風しか出せない可能性が高い。
(それなら────あの風以上の規模で攻撃すればいい)
セレナは、リゼラのように魔力を操作して、自分の裁量で魔力を注ぐことなどできない。そこで、リゼラに提案されたのが───時間を目安にして、魔力量を調節することだった。
つまり、短杖の持ち手部分に刻まれた魔力を吸い取る魔術式に、何秒指を当てるかで調節するのだ。
まだ検証を始めたばかりなので、何秒当てればどのくらいの魔力量になり、魔術の規模はどれくらいになるのか、正確には把握できていない。
だけど、さっきの魔物や魔獣との戦いで、魔術を撃ち続けたことにより、大雑把にではあるが掴めた。
セレナは短杖を握り締め───先程よりも長く魔術式に指を当てる。杖が淡く光を帯び始めた。
けれど───魔術の規模が大きくなれば、その分だけ発動にも時間がかかる。それを、ザレムが見逃すわけがなかった。
ザレムは、咄嗟に手にしたままのメダルで魔術を発動した。氷刃を蹴散らすためではなく───セレナを傷つけるために、豪風が放たれる。
まずい────とセレナが思ったときには遅かった。豪風に気を取られ、しっかりとイメージできなかったために魔術陣は霧散して、セレナの魔術は不発となる。
迫りくる豪風────これは、おそらく【防衛】では防ぎきれない。固く目を瞑って、痛みを覚悟したそのとき────今まで気配を消すように控えていたラムルが、セレナの前に躍り出た。
ラムルの手に大剣が現れる。ラムルはその剣を軽々と振り被ったかと思うと豪快に振るって、豪風を斬り払った。豪風の断片が宙に溶けるようにして、消える。
魔術を剣で斬るなど────少なくともセレナには前代未聞だった。
それに、鍛練のときラムルは主に暗器を操り、大剣を振るうところなど見たことがなかったこともあって────セレナは、しばし驚きに呆けた。
「何をしている、セレナ!早く次を放て!」
「は、はい!」
ラムルの一喝で我に返ったセレナは、慌てて短杖に魔力を流す。
しかし、ザレムの方が早く───コートの内ポケットから、新たなメダルを取り出して掲げた。魔術陣はザレムの魔力を吸い取り───セレナの魔術が完成する前に、発動する。
今度は火系統の魔術らしく、炎が無数の矢となって降り注ぐ。
「これは、私が何とかする!魔術を発動させるのに集中しろ!」
「はい!」
ラムルの揺るぎのない声音に、セレナは安心して────ただ魔術を発動することに没頭する。
ラムルは、手にしている大剣でできるだけ火矢を薙ぎ払うと、大剣を双剣へと替えた。それは、リゼラのものよりアーシャのものに近く、大振りの短剣程度しかない。
襲い来る幾つもの火矢を───ラムルは両手の剣を振るい、目にも留まらぬ速度で以て、一刀の下にすべて斬り捨てる。リゼラによって魔剣へと創り替えられた双剣は、いとも簡単に魔術を掻き消した。
これには、ザレムも呆気にとられて棒立ちになった。
そこへ、セレナの魔術が発動して─────防ぎようのない数の氷刃が降り注ぐ。
「お館様…!!」
叫んだのは────ドルトだ。
主の危機を察したドルトは、見た目からは考えられない重さのハルドの攻撃を、渾身の力で弾き返すと───ザレムに向かって、床を蹴った。
ドルトは、無数の氷刃が届く前に、何とかザレムの前に滑り込む。
「っく!」
両手剣を振るって、幾つか氷刃を弾いたものの───剣の質も、技量もラムルには及ばないドルトでは、弾くことができたのは、ほんの一部だった。
止められなかった多数の氷刃が、ドルトの身体を斬り裂く。
そのうちの一つが、ドルトの首にかかっていたペンダントの革紐をも千切り───コインのようなペンダントヘッドが宙に舞ったのを、セレナは眼の端に捉える。
あれだ────セレナは、矢庭にそう思う。
見れば、ザレムも同じペンダントを身に着けている。目を凝らしてみると、ペンダントヘッドであるコインには魔術陣らしきものが刻まれていた。
あのペンダントのおかげで、その禍々しい魔術陣上にいても魔術の影響を受けないでいられるのではないか────と。
氷刃に腕や足、胴体───身体のあちこちを斬り裂かれたドルトが、崩れ落ちる。
ザレムは、自分を庇って足元に伏したドルトに目を遣ることなく、コートの内ポケットに手を伸ばした。
取り出した魔術陣がどんなものなのか判るはずもなかったが、切羽詰まったような───ザレムのその表情から、それがこれまで行使したどの魔術よりも強力なものであることを、セレナは直感する。
(あの魔術を発動させては駄目…!)
セレナは、咄嗟に短杖から“氷姫”を取り出して掲げた。
魔術の規模は大きくなくてもいい────とにかく、ザレムよりも先に魔術を発動させなくては。その一心で、“氷姫”に指を絡ませ、掌を密着させる。
イメージするのは、二つの氷刃。
狙いは────ザレムの首にかかっているペンダントと、手に握られた魔術陣だ。
“氷姫”が掌からセレナの魔力を大量に吸い上げて────今までになく、強い光を迸らせた。
“氷姫”がセレナのイメージを読み取り、セレナの目の前に二つの魔術陣が即座に展開する。それぞれの魔術陣から吐き出された氷刃が、セレナが思い描いた通りに飛んでいった。
氷刃が起こした奔流が風となって、セレナの髪をふわりと舞い上げる。
(何かしら───何だか、とても熱い気がする。でも、すごく身体が軽い…)
そんなことを思いながらも、氷刃に目を向けていたセレナは───ラムルとハルドが自分を見て驚愕していることに、まったく気づかなかった。
※※※
“落ち零れ”────ザレムのことを、そう呼んだのは実の父だ。
その由来は、魔力量は申し分がないのに、父とは違い、“氷姫”をうまく発動することができないからとのことだった。
ザレムは、父に何度も黙って罵られながらも、内心では反発していた。自分が“落ち零れ”だからではなく────“氷姫”が、取り扱いの難しい魔術陣であるだけだ、と。
加えて───先代ベイラリオ侯爵が自身の孫であるジェミナが“ディルカリダ側妃の再来”だと提唱し始めたことも、ザレムが父に疎まれる一因となった。
ジェミナがディルカリダ側妃の再来であるという根拠は、その“青い髪色”だと言う。
ディルカリダ側妃と関係が深く、エルダニア王家と縁づいたこともあったディルカリド家を差し置いて、そんなことを言い出した先代ベイラリオ侯爵に憤慨した父は、虚構に過ぎないと吐き捨てつつも───ザレムの髪色が青ではなく母譲りの茶色であることでも、ザレムを罵るようになった。
ザレムは父を憎んでいたが、それ以上に───髪色が青系統というだけで、自身は美貌も才覚も持たないくせに、美醜で他人の優劣をつけるジェミナを憎悪していた。
美男子とは言い難いザレムを侮り、美貌はあっても才覚のない輩を優遇するジェミナを、何度縊り殺してやりたいと思ったことか。
だから────長男のゲレトが青い髪色を持って生まれたとき、ザレムは狂喜した。ジェミナなどではなく、この子こそが───自分の血を分けた我が子こそが、彼のディルカリダ側妃の再来だ────と。
すでにこの世にはいない父のことも、これで見返せたような気がした。
セレナを“落ち零れ”と称して冷遇したのは、自分より魔力量が少ないということも当然あったが───その髪色も理由の一つだった。
セレナの青味がかった白髪は、ゲレトの紺色に比べ色味が薄く───同じ青系統な分、劣っているという印象が増した。
ザレムが有能であることの証明にならない娘など眼中になく、その存在すら、こうして立ちはだかるまで忘れていたというのに────
その“落ち零れ”であったはずの娘が、今、その手で掲げているのは───紛れもなく、ディルカリド家に代々伝わる魔術陣────“氷姫”だ。
家宝であるそれを、ザレムが見間違えるわけがない。
“氷姫”によって創り出された2本の氷刃が飛来して、そのうちの1本がザレムが掲げていた魔術陣を弾き飛ばし───もう1本が首にかけたペンダントの紐を斬り裂く。
氷刃が、ペンダントの紐と共にザレムの首を浅く抉ったが────ザレムは、それどころではなかった。
(それでは、本当に────これまで放った魔術すべてが、“氷姫”によるものだというのか?私やゲレトでさえ上手く扱えなかったというのに────あの“落ち零れ”には使い熟せた────と?)
それが事実なら────“氷姫”が扱いの難しい魔術陣なのではなく、父の言う通り、ただザレムが無能だったということになる。
それは、ザレムにとって屈辱的なことであったが────そんなことは、今のザレムには、もはや些細なことでしかなかった。
それよりも、何よりも────
(何故だ────何故…、あの“落ち零れ”が、彼の方の再来の証である髪色になっている…?)
青味がかった白髪────それが、セレナの髪色だったはずだ。
だが、今、目の前にいる娘の髪色は────ジェミナやゲレトのような青系統の色合いなどではなく────正に“青”としか表現しようのない深みのある青色をしていた。
(まさか…、ディルカリダ様の────【青髪の魔女】の再来は、ジェミナでもゲレトでもなく────)
足元の魔術陣に囚われつつあるザレムは────自分が欲していたものが、かつて手の内にあったという事実に────そのことに気づくことなく手放してしまったという事実に愕然としながら────徐々に思考がぼやけていく中で、娘を蔑ろにしていたことを初めて後悔した。
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