コントラクト・ガーディアン─Over the World─
しおりを利用するにはログインしてください。会員登録がまだの場合はこちらから。
ページ下へ移動
第一部 皇都編
第二十四章―妄執の崩壊―#7
※※※
ファミラ=アス・ネ・イルノラドは、彼女にしては珍しく、夜が明ける頃に目を覚ました。
今日の午後───ジェスレム皇子は、参拝のために教会へと赴く予定だ。
それに随従するよう言付けられたのは、急なことに昨日の夕方に差し掛かった時間だった。
ジェスレム皇子と顔を合わせるのは、不興を買ってしまったあの日以来となる。
あれから、ファミラは部屋に軟禁され───ジェスレム皇子に呼ばれることがないどころか、部屋から出ることすら許されなくなった。
だから───名誉を挽回するためには、ジェスレム皇子と対面することができるこの機会は絶対に逃せない。
何としても、もう一度ジェスレム皇子に気に入られなければならなかった。
(ジェスレム皇子に会う前に、髪や肌の手入れを念入りにしなくちゃ。それに、着飾らないと────あれから、ドレスは新調できてないし、しょうがないから持ってる中から選ぶしかないわね…)
そんなことを考えながら、ベッドから抜け出す。
昨日の入浴の際、侍女に、不興を買う前は使うことを許されていた最高級の香油やスキンクリームを持ってくるよう命じたけれど───許可が必要なため、すぐには持ってくることはできないと断られた。
大至急許可を取って、翌朝早くに持ってくるように命じておいたが───侍女が現れる気配はない。
(一体、何しているのよ…っ。時間がないというのに…!)
本当に───役に立たない侍女だ。
呼びつけてやりたいところだけど、現在、ファミラは使用人を呼ぶベルは取り上げられていた。
それでも、今にも扉が開くのではないかと、期待を込めて扉の方を見遣ると───否が応でも、自分が押し込められている部屋が目に入る。
簡素な風呂場とトイレが付随するだけの小さな部屋だ。ドレスルームはなく、装飾のないクローゼットと小さなドレッサーが、ベッドを囲むように部屋の壁に沿って設えられている。
部屋の規模も設えも───何もかもが、最初に宛がわれていた豪奢な部屋とは比べ物にならない。
侍従はここも客間の一つだと言っていたが───ファミラには使用人用の部屋にしか見えなかった。
(バカにして…!わたしは───わたしは、こんな扱いを受けていい人間じゃないのに…!)
ファミラは、“剣姫”という───本来なら、ジェスレム皇子と並んで尊ばれるべき存在なのだ。それを、ジェスレム皇子も、あの侍従も侍女も解っていない────ファミラは、本気でそう思っていた。
とはいうものの、母であるレミラがあまりにも褒め称えるので、自分が皇族に匹敵するような尊い存在だと錯覚しているだけで────ファミラは、“剣姫”というのはどういった存在なのか、知りもしなかった。
“剣姫”とは────現在では、“剣聖”と並び、剣術を極めた女性が名乗ることを許される尊称だ。
しかし、元々は────戦時や非常時に、騎士団もしくは軍団を率いる皇女の称号だった。
特に、軍事国家たらんとする時代には、皇女であろうと参戦を免れることはできず────幾人もの“剣姫”が誕生することとなった。
中には自身で剣や指揮をとり、実力で名を馳せた者もいたが────大抵は、指揮官が別にいて、単に象徴的存在として戦場に随従しただけである場合が多かった。
だから、たとえファミラが正しく“剣姫”と称するに値する存在だったとしても、功績や名声を挙げることなく、レミラが語ったような────万人がひれ伏し、万人に傅かれるようなことはありえるはずもない。
レミラとファミラ母子のこの勘違いは一部では有名な話であり、陰で失笑されていることを、レミラもファミラも気づいていなかった。
この邸の侍従や侍女たちが、ファミラを丁重に扱っていたのは───ファミラが公女であることも一因ではあるが───ファミラが“剣姫”であるからではなく、単純にジェスレム皇子の親衛騎士だからだ。
そのジェスレム皇子に見放された今、侍従も侍女も、ファミラへの対応が変わるのは当然の結果だったが───自分が万人に傅かれるべき存在だと思い込んでいるファミラには解るはずもなかった。
日が完全に昇っても───貴族の子女が起床するような時間帯になっても、侍女は現れず、ファミラの苛々は募るばかりだった。
扉の外で控えている護衛という名目の見張りや、廊下を行き来している侍女や侍従に聞こえるように───ファミラの怒りを思い知らせてやるために、思いきり音を立てて何か壊してやりたかったけれど、軟禁されてすぐ癇癪を起こして花瓶や水差しなど手当たり次第に壊してから、この部屋には壊れるようなものは置かれなくなってしまったので────それもできない。
(早くしないと───湯あみどころか、化粧する時間もなくなっちゃうじゃない…!)
扉でも蹴ってやろうと思い立ったとき、その扉がようやく開いて───ジェスレム皇子の侍従が数人の侍女を引き連れ、部屋へと入って来た。
その中に、昨日、最高級の香油とスキンクリームを持ってくるように命じておいた侍女を見つけ、ファミラは目を吊り上げて怒鳴る。
「あんた、一体何やってたのよっ!今日は早朝から風呂に入って、髪や肌の手入れをするって言っておいたでしょ!?」
侍女は一瞬、怯んだ様子を見せたが、謝罪することもなく黙っている。再度、怒鳴ってやろうとしたとき────遮るように侍従が口を開いた。
「昨日、通達しました通り───本日、ジェスレム殿下が教会で参拝をなさる予定です。ファミラ公女にも随従していただきます。まずは───朝食をお持ちいたしましたので、速やかにお食事を済ませてくださるようお願いします。その後、着替えていただきます」
「朝食はいらないわ。それよりも、浴室の準備をしなさい。ジェスレム様にお会いするからには、ちゃんと手入れしないと────」
「いいえ、その必要はございません。無駄なことはさせないようにと、ジェスレム殿下より言いつかっております」
「む、無駄なことですって…っ!?」
怒りのあまり顔を赤くしたファミラのことを無視して、侍従は淡々とした口調で侍女たちに命じる。
「朝食の準備を」
部屋の片隅に設えられた小さなテーブルに、クロスやカトラリーなど、侍女たちは手際よくセッティングしていく。
そして、侍女の一人が押してきたワゴンに載せられた朝食をテーブルへと移し始めたとき────ファミラは淑女らしからぬ大股でテーブルへと近寄り、スープの入ったボウルを乱暴に払いのけた。
床へと落ちたボウルは耳障りな音を立てて割れ、入っていたスープと破片を撒き散らす。
「朝食はいらないと言ったでしょう!さっさと浴室の準備をしなさいよ!」
そう声を張り上げると、ファミラは満足感を覚えた。言ってやった───思い知らせてやった、と。
ファミラが朝食を摂らなければ、この生意気な侍従はきっと困るはずだ。だけど、ファミラは朝食を食べてやるつもりはない。存分に困ればいい。この自分をぞんざいに扱った報いだ────と。
しかし、侍従から、ファミラが期待していたような反応は得られなかった。侍従は顔色一つ変えることなく、ファミラに告げる。
「そうですか、朝食はご不要───と。それでは、着替えをしていただきます」
侍従の目配せを受けて、侍女の一人がスープと割れたボウルの片づけをし始め───残りの侍女がクローゼットへと向かった。
「……礼服以外は、すべてドレスですか」
侍女たちが開け放ったクローゼットの中を見て────侍従が、思わずといった風に、呆れたような声音で言葉を零した。
ファミラは、ジェスレム皇子の“親衛騎士”として、この皇宮へと上がったはずだった。それなのに────戦闘に適した服が一着もない。
そういえば、ファミラがこの邸に来てから、彼女が剣術の鍛練をしているところは一度も見たことがないと、侍従は思い当たった。
「…仕方がない。その礼服を」
侍従は溜息を吐いて────リゼラが“金ピカ”と称した目に痛い派手な礼服を着せるよう、侍女たちに指示する。
「何、勝手に決めてるのよっ!そんな格好でジェスレム様に会えるわけがないでしょ!」
湯あみの件が自分の思い通りにならない苛立ちを忘れ────新たな苛立ちで、かっとなったファミラは叫んだ。
そんな格好では────ジェスレム皇子の目には留まらない。
「今日は、最高に美しく着飾らなきゃならないんだから…!」
怒りで顔を醜く歪めて、そんなことを宣うファミラに───どこまでも自分の職務を理解していないファミラに、貴人の理不尽な我が儘はジェスレムで慣れているはずの侍従も、さすがに呆れ果てる。
ファミラがジェスレムに切り捨てられたことを知っている侍従は、秘かにファミラに対して同情を覚えていたのだが────これでは、切り捨てられても仕方がないのではないかと思ってしまった。ジェスレムと実にお似合いではある────とも。
「ファミラ公女───本日、赴くのは夜会ではありません。貴女様は、ジェスレム殿下の親衛騎士として───護衛として随従するのです。貴女様が想定する格好で行けば、周囲から失笑されるばかりか、足手まといになりかねない。ここに残っていただきます」
慌てたのは、ファミラだ。
それでは、ジェスレム皇子に会う機会が失われてしまう。
侍従の言いなりになるのは癪に障ったものの───悔しさを押し殺して承諾した。
「…っ解ったわよ。礼服で我慢するわ」
◇◇◇
(どうして、こうなるの…!)
一人、馬車に揺られながら、ファミラは唇を噛む。
馬車の中に、ジェスレムはいない。別の馬車に乗っているからだ。
あの後───化粧を施すことだけは、どうしても譲れなかったので、侍女に化粧をさせてから礼服に着替えた。
取り上げられていた魔剣を侍従から渡され、腰に提げることも背負うこともできなかったファミラは、魔剣を胸に抱えて持って行くしかなかった。
そして、皇城内の皇族専用のエントランスでジェスレムを待ってから、馬車に乗り込んだ。
当然、同じ馬車に乗せてもらえると思っていたファミラは、ジェスレムとは別の馬車に乗せられ────愕然とした。
ジェスレムがにこやかな表情でファミラの挨拶に応えてくれ、あのときのことは挽回できたのだと喜んだ矢先だったので、余計にショックを受けた。
何故、こんなことになってしまったのか────先程から、いやジェスレムの不興を買ったあの日から、その疑問ばかりがファミラの頭を廻る。
いずれ皇王となるジェスレム皇子の親衛騎士となって、皇王となったジェスレムの妃となって、共に栄光の道を歩み────周囲から崇められながら一生を終え────後世に名を遺す存在となるはずだった。
それなのに、何故こんなことに────
(そうだ────リゼラだ…!きっと、あの“出来損ない”の仕業よ…!)
ファミラは不意に閃いた。あの不肖の妹が、ファミラに関する悪辣な嘘を周囲にバラまいているに違いない。
おそらく、ジェスレムも、あの侍従や侍女たちも、それを信じて───突然、ファミラに対して冷たくなったのだ。
そうでなければ────この自分がこんな仕打ちを受けるわけがない。
ファミラは、先程より強く────ぎり、と唇を噛む。
(何て───何て性悪なの…!お母様の言う通りだったわ…!)
自分の神託が良いものでなかったことに拗ねたリゼラが部屋に引き籠ってから、初めてお茶会に参加したときのことだった。
とある夫人にリゼラがいない理由を訊かれて───母は何故か嬉しそうに微笑んだ。
『あの子は、この間、6歳になりましたの。そのため、神託を受けさせたのですけれど────その神託が気に入らなかったようで、拗ねておりますのよ。今日もお茶会には出たくないと駄々を捏ねまして。あまりにも暴れて手が付けられないものですから、置いて来たんですの』
母の答えに、ファミラはびっくりした。リゼラがお茶会に行きたくないと駄々を捏ね、暴れたなど────そんな事実はなかったからだ。
そもそも、リゼラは部屋から出て来てすらいなかった。
『ねえ、お母様。さっきはどうして、あんな嘘を言ったの?』
イルノラド公爵邸に帰りついてから、ファミラがそう訊ねると、母は真面目な表情でファミラにこう言い聞かせた。
『あの子は…、アレは───出来損ないで無能なの。きっと嘘を吐くようになるわ。才能がある貴女を妬んで、貴女やわたくしを悪者に仕立て上げようとするはずよ。そのときアレの嘘を皆が信じてしまわないように、先にアレが我が儘で傲慢で嘘を吐くような人間であることを、皆に広めておかなければならないの。
いい?これは、貴女がアレに貶められることがないようにするためなの。だから、貴女も、皆がアレに騙されないように────アレが我が儘で傲慢で嘘吐きであることを、皆に教えてあげるのよ?』
大好きな母が、妹よりもファミラを優先して────自分のためを思ってやったのだと知って、ファミラは嬉しくなった。
嘘を吐いているのはリゼラではなく母の方であると────まだ幼い子供だったファミラは思い至らずに、ただ母の言い分を鵜呑みにしてしまった。
そうして、ファミラも、リゼラの真の姿を広めなければならないと───お茶会や夜会で、リゼラは我が儘で傲慢であると言い触れ回るようになったのだった。
最初は自衛手段であるはずだったその行為が、ファミラに愉悦をもたらすようになるのに、そう時間はかからなかった。
『まあ…、何て我が儘な子なのでしょう』
『ファミラ様も大変ですわね、そのような妹をお持ちになられて』
皆がファミラの話に同調してくれて────同情の眼差しと言葉を寄せられるのが、心地良かった。
まるで、物語に出てくる薄幸のヒロインにでもなったみたいで────ファミラはその気分を味わうためだけに、嘘を吐き続けていた。
すでに本来の目的を見失っていたが、ここにきて、あのとき母の言っていたことが正しかったのだと判って───あの出来損ないが自分を陥れようとしているのだと解って、ファミラは怒りでどうにかなりそうだった。
(教会に着けば、ジェスレム様とお話しできる。そのときに、アレが言っていることは嘘だと───アレは酷い性悪の嘘吐きだと教えなきゃ。ジェスレム様はきっと解ってくださるはずよ…!)
そう決意した途端、焦燥が消え────ファミラの胸は軽くなる。
ファミラが性悪な妹の嘘を暴いてみせれば───真実を知ったジェスレムは、きっとファミラへの態度を悔い改めるに違いない。
そのときは、寛大な心で以て許してやってもいい。
そうしたら、ファミラの尊さを思い知って────ジェスレムもファミラを蔑ろにすることなく対等に扱い、あの生意気な侍従や侍女たちもファミラに従順になるだろう。
ファミラは、そんな都合のいい妄想に酔いしれながら、馬車が教会へと到着する瞬間を待ち望んだ。
ページ上へ戻る