武士
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第五章
「そうした輩には気をつけろ」
「わかりました。それでは」
「そうした輩が出ない様に取り締まります」
「そして我々自身も」
憲兵である彼等自身もだった。このことは毅然として守らなければならなかった。このことを肝に銘じて軍務にあたっていた。
戦局自体は日本に有利に進んでいた。朝鮮半島から満州に入り北京に向かっていた。確かに戦局自体は満足のいくものだった。
しかし脚気に倒れる者は増えるばかりだった。戦死よりも深刻な状況にありそれは遂に茂平にも降りかかった。彼もだった。
脚がむくみ動けなくなった。それで寝込む様になった。
それで後方に下がったが部下達が見舞いに来て心配する顔で言ってきた。
「隊長、大丈夫でしょうか」
「お身体の方は」
「案ずることはない」
茂平は平然として部下達に返した。
「これ位のことはな」
「しかし脚気です」
「それでもですか」
「そうだ。周りを見るのだ」
軍が置いている病院の中だ。茂平はその中のベッドにいる。大部屋でありベッドは何十もあるがその殆どにだった。
将兵達が寝ている。見れば負傷している将兵よりもだった。
脚気で寝込んでいる者が多かった。怪我をしていないのですぐにわかる。茂平はその彼等を見る様に部下達に言ったのだ。
「俺だけではない」
「多いですね、実に」
「脚気の者が」
「それでどうして騒ぐ」
こう言うのである。
「誰もがかかっている。それに俺はまだ軽い」
見れば彼よりも重症の者も多くいる。それも見てのことだった。
「案ずることは全くない」
「ではやはり」
「ここは」
「そうだ。落ち着いて治療を受ければいい」
脚気は当時死に至る病だったがそれでもだった。彼は今も毅然としていた。
その毅然としたまま言いだ。そしてだった。
部下達にあらためて顔を向けてこう告げた。
「俺は大丈夫だ。心配する必要はない」
「では、ですか」
「我々は」
「来てくれたことには礼を言う」
このことを言うのは忘れない。
「しかしだ」
「軍務に専念しろ」
「そういうことですね」
「そういうことだ。それではな」
「わかりました。それでは」
「我々は戻ります」
彼等は敬礼と共にベッドの中の茂平に応えた。茂平も寝ていたが半身を起こしてそのうえで敬礼に応えた。そうしてだった。
彼は暫く入院していた。幸い症状は重くならなかったが病院の中に得体の知れない男が来た。見れば目は細く吊り上がり顔は四角くエラが張っている。しきりに揉み手をし腰を曲げ卑屈そうな笑みを浮かべている。
その者が入院している兵達にこう言っていたのだ。
「何っ、赤子の?」
「いえ、胎児です」
「水子の様ですが」
「その水子をだな」
茂平はその話をベッドの中で聞いていた。半身を起こし医者達の話を聞いていた。
「食えばか」
「それで脚気なぞすぐに治ると」
「そう言っておりますが」
「そんな話は聞いたことがある」
茂平は厳しい顔になって述べた。
「漢方だな」
「はい、一漢方にはそうした薬もあります」
「人の肝なり赤子は薬になります」
「そうした話もあるにはあります」
「古書にも出ているな」
このことは軍人になってから知ったことだ。当時の軍、とりわけ将校は文武両道について厳しかったのでそれで古書も読んでいるのだ。
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