黒い親友が白魔術を学び始めて俺を痛めつけようとしている
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5.さらに別の日の放課後
放課後を知らせる鐘が鳴った。
日高は、自分の席でしばらく座ったままだった。
体はどこも痛くない。あの日の夜に風呂場で全身を確認したが、確実にできていたであろうアザは一つも見つからず、触って痛い箇所もなかった。
着ていた服も、学ランやワイシャツ、ボクサーパンツに至るまで、直後に竹岡によって見事に復原され、理科準備室で起きたことを証明する物的証拠は何もない。
そんなつもりは毛頭なかったが、仮に学校や警察に相談したとしても、まったく相手にされないのだろう。
窓際の席を見る。
竹岡はいない。指定の場所に向かったのだ。
今日、彼に呼び出されたということは――。
何を意味するのかは、薄々わかっていた。
言われたとおりに行くのかどうかということも、もう決めていた。
時間はあったからだ。決意を固めるまでの、十分な時間が。
黒板を消し終わった日直が教室を出ていき、最後の一人になると、日高はゆっくりと席を立った。
「やあ。来てくれてありがとう。今回はすっぽかされる可能性もあると思ってたよ」
体育館の中にある広い倉庫で立っていた竹岡は、穏やかな顔で日高を迎えた。
「俺をまたこういう人気のないところに呼び出した理由を、念のために聞きたい」
「やっぱり気になる? この前もそうだったけど、来てとしか言わなかったもんね」
竹岡が笑う。
やはり悪魔の笑いだった。
「最終報告。やっとできるようになったからだよ。人を生き返らせることが、ね」
背の低い跳び箱の上に置かれていた、やや縦長の箱。竹岡はそれを開けた。
取り出したものが、体育倉庫の天井の照明を受け、銀色に光る。
「出刃包丁、か」
「あれ? あまり怖がってない?」
「いや、怖いとは思っている。ただ、きっとそういうことなのだろうと予想していたうえでここに来たからな」
「勇気あるなあ。好きだよ。そういうところも」
竹岡が出刃包丁の背で、反対の手のひらを叩く。
「じゃ、今度はキミが答える番。どうなるのかわかっててもここに来てくれた理由、聞きたいなあ」
日高は竹岡の目をまっすぐに見据えて、答えた。
「来た理由は、お前がこれ以上おかしなことを続けるのをやめさせたいからだ。説得に来た」
プッという音が、小さいながらも体育倉庫に響いた。
竹岡が吹き出したのだ。
「説得でやめるとでも思った? 今日だって、コレで刺されたときのキミの反応、コレでバラされていくキミの反応を、本当に楽しみにしてたのに」
そう言って、出刃包丁をいろいろな角度に動かす。
一瞬、反射した鈍い光が直接目に入ったが、日高はまばたきせず受け止めた。
「難しいとは思っているが、やめさせる。たとえ今日は死んだとしても、だ。今のお前は異常だ。昔のお前に戻したい」
「ふーん。なんで僕のほうを変えようとするの? そんなめんどくさいことしないで、そっちが逃げまくったり、目撃者がいるところにずっと紛れてたりすることは考えなかったの?」
「幼稚園の年長組のころ、お前のお母さんに言われたことがある」
「……なんて?」
「『仲良くしてくれてありがとう。この先もうちの子を助けてあげてね』って」
ここで竹岡が真顔に戻った。
「へえ。そんなこと言ってたんだ。僕の母さん」
「あの約束に期限は決められていない。今も生きたままだと思っている」
「だから僕を元に戻したいってこと?」
「そうだ。それが約束を果たすことになる」
「うれしいね。やっぱりキミは僕のヒーローだ。大好き。でも、やめないよ。僕、罪を犯してることにはならないと思ってるし。せっかく、キミをどんなに散らかしても、ちゃんと後片付けができるようになったんだ。やめないよ」
日高は首を振った。
「いや、お前がやったこと、やろうとしていることは罪になる」
「ならないでしょ? だって服もケガも完全に元どおりだし、命も元どおり。何もかも元どおりにできるんだよ。やってないところまで戻るんだからね」
「いや、元どおりにはできない」
「どういうこと」
「いくら白魔術で体の傷を元に戻せても、心の傷は戻したことにならないだろ」
どうやら意外な指摘だったようだ。
形のよい顎を、竹岡が手で触った。
「心の傷は戻らない、か……」
「ああ。自分で言うのは嫌だが、少なくとも俺はそうだった。傷も痛みも残っていないが、ショックは残っている。消えていない」
「そっか。なるほど。それは考えたことなかったな。ごめんね」
「傷つける対象が俺だけのうちはまだいい。だがいずれ飽き足らなくなったり、そうでなくても何かでカッとしたりして、他の人間に手を出すようになってしまうかもしれない。そうなったら取り返しがつかなくなる。まだ被害者が俺一人だけのうちに引き返そう。つらい経験もしてきたお前なら、一度気づきさえすれば、人間の心を誰よりも理解できるはずだ。もう変な目的での白魔術の勉強はやめて、人に危害を加えることも二度としないでくれ」
しばしの間、二人の視線は交錯していた。
うつむくことでそれを外したのは、竹岡のほうだった。
「わかったよ」
「……わかってくれたか」
「うん」
「ありがとう、竹岡」
「こちらこそ。キミがそんなに考えてくれてたとはね。ビックリだ」
出刃包丁を箱にしまい、脇に抱える竹岡。
日高の目に灯り始めていた希望の光が、一段と強さを増した、そのときだった。
「心の傷も元どおりにできるように、もっと白魔術を勉強するよ」
竹岡はそう言うと、日高の横を通り過ぎていった。
(完)
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