夢幻空花(むげんくうげ)
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十、光に対して希望を条件反射的に見てしまふといふ思考は誤謬である
――希望とは闇に紛れ込んでゐるものであり、闇の中に灯る御灯の光に希望を見てしまふ思考はそもそもが誤謬である。光に騙されてはならぬ。闇の中で一点だけ灯る御灯に目の焦点が合ふといふアプリオリな、つまり、生理現象に釣られるやうにして光の背後に存在が控へてゐるからといって、光に希望を見るのは誤りである。闇の中にこそ深海生物のやうなGrotesqueな異形のものがうじゃうじゃゐるそれらが希望の正体であり、光の下で均整な姿形をした一見すると「美」を纏ってゐるやうに見えるものは曲者で、真善美に惑はされてはならぬ。確かに陽光の下、自然は美しく輝いてゐるが、だからといって、自然が存在の希望を受け止めてゐるかといふとそんなことはなく、むしろ自然は穏やかな表情を見せてゐるのは僥倖なことで、自然は何かにつけて存在に牙を剥き、それは凄まじいものである。一度見せた凶暴な自然現象は、何年にも亙って爪痕を残し、例へば人間に限れば、日常を取り戻すのに希望が見出せず、自然に襲はれたときは茫然自失に陥るのがこれまた自然の道理なのだ。さうして絶望の中、一寸先は闇といふ具合に人間は途方に暮れる。この時の状況が余りにも強烈なので闇にではなく光に希望を見出さうと、つまり、それは「希望の光」と呼ばれるのであるが、これが自然の惑はしでしかなく、光明に希望を見ることは悪魔の囁きにも似て土壺に嵌まる端緒になり得るのである。つまり、闇の中に灯る光は周りを見渡せなくするし、視野狭窄に陥る蓋然性が高いのである。さうなると己が間違った道を歩んでゐるかどうか判別できなくなり、大概は直感に頼り、残念な結果に終わること屡屡である。雲間から一筋の光が指す光景は珍しくもないが、しかし、自然の恐ろしさを刷り込まれた存在は、その一筋の光に希望を重ねてしまふ悪癖がある。これは矯正されるべきもので、希望は闇にこそ遍く同確率で鏤められてゐて、存在は闇に鏤められた希望を引っ摑んで闇を例へば実体が姿を隠してゐることから虚数の世界と看做せば、闇には闇に隠れた実体群で充溢してゐて、存在は闇を引っ摑んで無理矢理にも虚数の世界の闇に隠れた実体を触感で以て存在を認識し、さうして闇に穴を開けて、光が差し込んでくるのであるといへる。
――分け入っても分け入っても深い闇
闇尾超
――趨暗性が強い私は、闇と光を選ぶといふ段になると必ずといっていひほど闇を選ぶのだ。これは生まれ持った天稟のものに違ひなく、闇の中にゐると落ち着く。これは幼き頃から感じてゐる、陽光下の息苦しさに由来するものであった。幼き頃は何故息苦しいのか解らずにいつも泣いてゐた。その息苦しさが何に由来するのか段段と解ってくると、陽光の抑圧ぶり、それは暴君のそれに近しいものであることが解ってくると、尚更私は光を厭ふべきものと看做したのである。それは何故か。私には陽光下の存在――存在なんて言葉は後に知ることになるのであるが――が、「それ」であることを強要されてゐるとしか思へなかったのであった。陽光下では存在は逃げやうがない。「それ」は徹頭徹尾「それ」であらねばならぬ。つまり、陽光下では私は私であることを強要されるのだ。それが息苦しさの根本理由であった。埴谷雄高はこれをして自同律の不快と名指して見せたが、しかし、それは思春期で大概は吾の有様に見切りをつけて過ぎ去る一過性のものに違ひないのであるが、私の場合は、私であることの息苦しさは今以て消え去ることがない大いなる蹉跌であり、其処から一歩も抜け出せぬのである。息苦しさには時空間が私の周辺で歪み、キリキリと私を締め付けるやうに感じられるやうになったことで、その束縛感は更に増幅され、それに対してはもう、お手上げなのであった。だから、私はそれが嫌で昼間は寝てゐて夜になると起き出す昼夜が全く逆転した生活を送るやうになったのである。
乖離性自己同一障害。私はこの私の趨暗性をさう名付けて遣り過ごさうとしてみたが、全ては無駄であった。それもこれも光に正義があると刷り込まれてゐた結果の惨敗なのである。それに気が付くまでに何年かかっただらう。結局の所、私が辿り着いた結論は光に希望はないといふことなのであった。希望は闇にあるとコペルニクス的転回を行うことで、蹉跌が瓦解したのである。蟻の一穴ではないが、一度瓦解を始めると全ては崩落し、成程と全てに合点が行くのであった。
故に光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬である。この結論に至ることで私は救はれたのであった。
闇尾超の光嫌ひは有名で、趨暗性といふ言葉は闇尾超にこそ当て嵌まる言葉であり、何故闇尾超が光を嫌ってゐたのかといふことは知らなかったが、さういふことであったか。成程、もう消えかかってゐる記憶を弄ってみると、幼き頃の闇尾超は確かに年がら年中泣いてゐた。自分でも何故泣いてゐるのかその理由が解らないらしく、闇尾超ばかりでなく、周りの大人たちも皆戸惑ってゐたのを覚えてゐる。後年闇尾超はNoteにも書いてある通り、学校にも行かず、昼間は寝てゐて夜になると活動を始める昼夜逆転の生活を送ってゐたが、皆はそれを自堕落なためといって闇尾超に対して眉を顰めてゐたさうだ。しかし、それは間違ひであった。闇尾超は光の下では否が応でも何故だか解らぬがとことん嫌ひな「私」と対峙することになり、それに堪へられなかったのだ。それを闇尾超は陽光の暴君的な抑圧と呼んでゐるが、存在がそれであることを強要される光の下を極度に嫌ってゐたことになる。それに対して息苦しさを覚え、それに加へて時空間がキリキリと締め付ける感触に悩まされてゐた闇尾超は、当然の帰結として、光に希望を条件反射的に見てしまふ思考は誤謬であるといふ結論へと至ったのであった。コペルニクス的転回か。闇尾超がいふ通りだとすると、希望は闇では遍く鏤められてゐることになり、また、闇尾超は闇を虚数の世界とも規定してゐるが、これは私の考へと同じである。その虚数の世界に遍く鏤められた希望とはのっぺらぼうの眷属なのだらうか。何故のっぺらぼうが出てくるかといふと、闇尾超がいふ希望が闇といふ虚数の世界に遍く同確率で鏤められてゐるといふことは、どうしても私の思考の悪癖からのっぺらぼうを想像してしまふのだ。しかし、闇に希望が遍く同確率で鏤められてゐるとは限らない。それは斑に鏤められてゐると考へられなくもないのである。何故なら、闇にはものとして隠匿された存在も秘められてゐて、さうすると闇には見えぬながらも確かに存在してゐるものがあり、闇に遍く希望が鏤められてゐるとはいひ切れないのである。とはいへ、闇尾超は存在に対してさう述べてゐるのではなく、飽くまで希望に対して述べてゐるので、或ひは闇尾超のいふ通り希望は闇の中に遍く同確率で鏤められてゐるとといふ考へも全く否定できるものではない。
仮に闇尾超のいふ通り、光にではなく闇に遍く希望が鏤められてゐるとすると、闇の中で悪戦苦闘してゐる「私」は、希望の中で悪戦苦闘してゐることになる。それは唯、希望が見えてゐないだけで、希望は絶えず「私」にぴたっとくっ付いてゐて、闇へと手を伸ばせばすぐにでも希望に手が届くことになる。しかし、現実はそんなことは決してないのだ。闇に手を伸ばしても希望は摑める筈もなく、その行為は虚しい結果を残すだけといふのが現実ではないであらうか。ここで、思考の相転移といふ考へを持ち込んでみる。闇の中で希望が全く見えずに悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返す中で、「私」はさうしてなんとか希望を見出すこと屡屡である。それは思考が相転移を起こしたと看做せないだらうか。思考の相転移とは、私論に過ぎず、闇尾超の思考の堂堂巡りの末にどん詰まりに追ひ込まれた思考はぴょんと跳び上がり第三者的審級の位置に飛び出るといふ思考に似てゐなくもないのであるが、思考は悪戦苦闘、試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すうちに相転移を起こすのである。相転移を起こした思考はそれまでとは全く違ふ思考の断片や端緒が見え出し、思考の仕方すら変はるのである。然し乍ら、一度の思考の相転移では未だに希望の欠片すらも見出せずに、また、只管に試行錯誤を何度も何度も何度も繰り返すことになる。さうするとまた、思考は相転移を起こし、それまでには全く見出せなかった思考の地平が拓かれるのであるが、それでも未だに希望は見出せない。藁をも縋る思ひで試行錯誤を繰り返し、何とかこの錯綜し混濁し澱んで腐りきった溝水の如き状況から抜け出さんと藻掻き苦しむ中で、再び思考は相転移を起こす。さうすると、「私」は思考の相転移で変はった思考の欠片や断片の変質により、やうやっと希望の端緒を見出すのだ。そこに至るまでの試行錯誤の繰り返しの失敗の数数は山のやうに堆く積まれ、それに倦み疲れずに試行錯誤を繰り返し、藻掻き苦しむことでやうやっと希望の端緒が見えるのである。ここでいふ思考の相転移とは、思考の仕方の変質を意味するばかりではなく、思考の断片や糸口も全く変容するその様を称して思考の相転移と呼んでゐるのであるが、不意に思考ががらりと変はるといふことはそんなに奇異なことではなく、極普通の出来事として誰にも思ひ当たるものがある筈である。闇尾超がコペルニクス的転回と呼んだ思考の転回は、この思考の相転移のことであるといってもをかしくない。
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