冥王来訪 補遺集
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第二部 1978年
原作キャラクター編
何れ菖蒲か杜若 アイリスディーナとベアトリクス 美人義姉妹の道
前書き
ハーメルンの方での書下ろしですね。
最前線ではなくなった東ドイツで、女性将校の扱いはどうなるであろうか。
『隻影のベルンハルト』本編にも書かれていることですが、国家人民軍は前線部隊への女性兵士の勤務を面白く思っていませんでした。
BETA戦争がひと段落ついたら、どうなるのであろうか。
史実を交えて、私なりに考察した話になります。
なお、この話をハーメルンで公開したときは、ブックマークが減りました。
当時はショックを受けましたが、今ではいい思い出です。
ここは、東ドイツの東ベルリン。
夕暮れ時の町の中心部に立つ、ブロンズミラー張りの建物、共和国宮殿。
そこには政治局員たち30名ほどが、一堂に会していた。
議長は、三十余名の政治局員と将官たちへ向って諮った。
「今日、この閣議に諸君の参集を求めたのは、ほかでもない。
士官学校の女学生の件だ。
一昨年、ソ連赤軍の指示や世論の声で、女子生徒に門戸を開いた。
だが今となって人民の中から、にわかに……。
BETA戦争がひと段落ついたから、家に返せという言葉が出てきた。
どう扱ったらよいものだろうか。それについて、私に意見あらば言ってもらいたい」
――"Offiziershochschule der Landstreitkräfte „Ernst Thälmann“"――
エルンスト・テールマン陸軍士官学校。
1963年から1990年まで存在した東ドイツの士官学校で、1964年よりエルンスト・テールマンの名称を用いるようになる。
「婦人兵と女子生徒の一時入学中止をしましょう。正直足手まといです」
シュトラハヴィッツ将軍が驚くようなことを告げたのだ。
閣僚会議――東ドイツの内閣に相当する機関――の次席である第一副首相が、
「西の婦人解放運動の活動家が聞いたら、仰天しますな」
と、彼をあざ笑った。
「同志副首相、笑い事ではございません。来年以降は婦人兵の士官学校入学はやめさせましょう。
小官は、男女の過ちで部隊編成が乱されるのは、もうこりごりです」
「去年入学した女子生徒の三分の二は、自主退学なんですよ。
約半数が訓練についていけなくて、その他の連中は恋愛関連で……」
奥座にいる議長は、思わず眉を顰める。
「まあまあ、シュトラハヴィッツ君、そんなに怒るな。
君が言う、恋愛関係とは何かね」
「必要結婚です。
天下の国家人民軍で、不純異性交遊とは、破廉恥とは思いませんか!」
時は、正に20世紀末の足音が聞こえる1978年。
この時代の欧州は、古い時代からの性的価値観が揺らいでいた。
経口避妊薬ピルの登場によって、1960年代を通じ伝統的な結婚観、家族像が崩れ始めていた。
1945年のベルリンの惨禍――1945年のベルリン占領の際、ベルリン在住のドイツ婦人の三分の一が、ソ連兵によって辱められたとされる事件――で自軍の性病蔓延に苦しんだソ連赤軍の指示により、1950年代から純潔教育を続けていた東ドイツ。
彼らもまた、その性革命の影響を免れなかった。
1970年代初めにピルの販売許可や、限定的ではあるが堕胎の許可、西ドイツより1年早く同性愛の非刑法化を実施した。
ゆえに、1960年代に青少年であったユルゲンたちと、その親の世代であるシュトラハヴィッツ将軍の間には価値観の隔たりができていたのだ。
憤懣やるかたない顔をするシュトラハヴィッツ将軍は、興奮した調子でなおも続ける。
「それも、まだ卒業も部隊配属も決まる前ですよ。
こればかりは……もう少し如何にか出来なかったものですかと……」
「うむ。そうであろう。
大体、屈強な男どもが若い女と一緒にさせて置いたら、何が起こるか分からん。
君は、その経験者だからわかるだろう」
議長の顔色は良かった。
諸臣はみな彼の考えをうすうす感じ取っていたので、一斉に、
「わが国には婦人兵の戦闘部門への配置など早すぎた」とか、
「そんなの軍事作戦に支障があると断りましょうよ」と、衆口こぞって言った。
しかし、アーベル・ブレーメは反対して、
「同志シュトラハヴィッツ。実は私も辞めさせたいのは山々だが……」
立ち上がったシュトラハヴィッツ将軍は、見下すようにして彼をのぞく。
「なぜですか。理由をお聞かせください」
アーベルの心は揺れた。
彼は、経済企画委員会に名を連ねた官吏であり、通産省の事務次官である。
古参党員の父を持つ血統と深い見識を持つ人物として、歴代議長の信任が厚かった。
議長の執務室を訪ねて、彼の意見を否定し、自説を展開するのは今に始まった話でない。
ただ、数日間かけて内容を詰めた政治局員たちの提案を一笑に付すという罪悪感と不安。
その一方で、国益を無視しても、自分の愛娘ベアトリクスを陸軍の将校にしてやりたいという欲望が突き上げてくる。
結局は、彼にしては珍しく、『もうどうとでもなれ』という気持ちで口を開いた。
『こうでもせねば、もうベアトリクスの望みを、私の一存でかなえてやる機会はあるまい』
肘掛椅子に座ったまま、アベールの体は汗にまみれていた。
「婦人兵は確かに足手まといになる。
戦場では常に辱めの危険が付きまとうのは事実。
男女の過ちの可能性が高いのもまたしかり。
だが、彼女たちが退役した後、国家安全保障の必要性を理解し、また、国家人民軍の次世代を育成する「健全な」母になる。
私は、そう考えているのだよ」
シュトラハヴィッツ将軍は、思わず失笑を漏らす。
「俺はウクライナで女衛士を交えた部隊運営をしてましたが、まあ面倒でしたわ。
よからぬ問題を起こさないために兵舎を分けるしかない。
別棟の厠や浴場を作るしかない。
何より、男女混成で運用する場合は信頼できる政治将校か、指揮官を四六時中置くしかない」
国防相は彼を冷ややかな視線で見つめながら、
「でも婚前妊娠の騒ぎが起きたと……」
シュトラハヴィッツは、頭を下げ、平謝りに詫びいる。
「兄貴。ヴィークマンの件は俺の管理不足です。
ですが2万の兵の管理をしながら、BETAと戦争をして、その上、婦女子のお守りまでは……」
「戦争がひと段落ついたことという形で、婦人兵の新規徴募は減らす。
優秀な人物は、目の届くところで預かる。これでどうだね」
シュトラハヴィッツは、ホッとした様に相好を崩す。
「いや、兄貴。助かります」
ハイム将軍も同調する。
「私もじゃじゃ馬ならしは、荷が勝ちすぎると思っておりました」
「では、女子の主席卒業は大臣官房付け。
女子の次席卒業は、参謀本部直轄の戦術機部隊で、面倒を見る形に……」
議長は、即座にその説を取り上げた。
「よし、その線で行こう」
東ドイツの国家人民軍も、また、西ドイツの連邦軍同様、婦人志願兵と女性将校の割合は少なかった。
史実を紐解けば、1989年の国家人民軍解体の時点で、女性の将官はいなかった。
最高階級が軍医大佐で、軍病院の責任者の一人にしか過ぎなかった。
また三軍と国境警備隊を合わせて、婦人将校は200人に満たなかった。
人民警察とシュタージにも婦人警官や女性職員はいたが、圧倒的に少なかった。
20万人近い非公式協力者の中で、婦人の割合は少なかった。
では、どの程度であるか。
一説では、東独で男性83パーセント、西独72パーセントである。
単純に引いた割合から計算すれば、東独国内の女性の非公式工作員は17パーセント、西独では28パーセントである。
それゆえ、アイリスディーナやベアトリクスが、どんなに上に昇ることを望んでいても、東独の社会システム上、難しかったのである。
また、国家人民軍は1956年の建軍以来、第三帝国の国防軍の文化が入ってきていた。
プロイセン軍の伝統色濃く残る軍隊社会において、婦人兵の扱いは困難を極めた。
大祖国戦争で婦人兵を大動員したソ連の顰に倣い、婦女子の部隊、俗にいう娘子軍を組織する。
そのような男女の性差を無視した構想も、夢のまた夢であった。
未開社会から近代社会に入ったソ連や北欧と違い、ドイツは、中世という文化的な豊かさを経験していた。
社会主義での平等を喧伝しながら、男女の性差や文化的役割は、その崩壊まで変えられなかった。
東独の社会主義政権は、人材の有効活用という点から婦人の労働参加を積極的に進めたが、当の婦人たちが望まなかった。
そして、彼女の夫や子供も、そういう事を求めていなかった。
無論、1960年代の段階で既婚女性の6割が就業していたが、それは西ドイツと違い、男女の給与水準の差が少なかったためである。
ある程度豊かな人並みの暮らしをするためには、婦人は家庭から出て働かざるを得なかったのだ。
さて、同じころのパンコウ区にあるベルンハルト亭。
「ただいま、もどりました」
外出先からアイリスディーナが帰ってくると、屋敷の居間から声がする。
なにやら、ユルゲンとベアトリクスが語り合っている最中であった。
椅子に座ったユルゲンはワイシャツにサスペンダー、グレーの乗馬ズボンに黒革の長靴。
仕事から帰ってきたばかりだったのだろう。
灰色の軍帽と深緑の折襟が付いた将校用の上着が無造作にソファーの上に放り投げられていた。
ベアトリクスは、黒のノースリーブのカットソーに、リーバイスのジーンズといういでたちで、ユルゲンにしなだれていた。
上から灰色のエプロンをかけているところを見ると、勝手場にいたのだろうか。
ちなみに、ジーンズの所持が違法だったソ連とは違い、東ドイツでは米国メーカーのジーンズが、少数だが合法的に入手可能だった。
1970年に正式に輸入され、リーバイスのジーンズ1万2千本が国営商店に並び、即時完売するほどだった。
また、西ドイツの親族や友人から、郵便で送ってもらうことも許されていたのだ。
「あら、アイリス。おかえり」
ベアトリクスの声で気が付いたユルゲンは、アイリスディーナのことをまじまじと見る。
彼女の姿は軍服ではなく、白いセーターに茶色いロングのフレアスカートという恰好だったので、
「今日は休みか」と尋ねた。
アイリスは、右肩にかけたハンドバックをテーブルに置くと振り返り、答える。
「ええ、そうですが。
ところで兄さん。お二人は、何をお話しされていたのですか」
「今後の事さ」
「兄さんが、米国に行った後の事ですか」
「そうだ。ベアと色々話してた」
ベアトリクスは、ユルゲンの背中にぴったりくっつけていた体を離すと、
「それでね、私気づいたの。
この人のために尽くす方法は、軍隊だけじゃないって」
ベアトリクスは結婚した後も軍隊に残って、ユルゲンの補佐をする立場になる。
その様にばかり考えていたアイリスディーナには、衝撃的だった。
あっけにとられていると、ベアトリクスは優しい声で語りかける。
「でも、今すぐにじゃないわ。
この人がアメリカに行ってる間は収入がないし、あんまり早くやめると軍籍も残らないし……」
「でもやめるんだ……」
ユルゲンはギリシア彫刻の様に整った顔を赤く紅潮させ、アイリスディーナのほうに近づく。
青く透き通った瞳で、妹アイリスディーナの近寄りがたく気高い美貌を眺めやる。
「アイリス、お前も結婚を理由に辞めても構わない」
ベアトリクスも、妖しい笑みを浮かべながら、脇から口をはさむ。
「相手は、別に木原じゃなくても、いいのよ。
父や議長に言えば、いい男性を紹介してくれるわ」
たちまち、アイリスディーナの表情が上気してくる。
この穢れを知らぬ理知的で、どことなく高貴な香りを漂わせる妹。
彼女を、軍隊という男社会の中に放り込む事を、ユルゲンは今更ながら悩んでいたのだ。
「女が剣をもって、その刃を血で濡らすことはない……。
それに、BETAは今、一番近くて月面だ。
ゼオライマーという強い味方の存在で、人類には、十分すぎる準備期間ができたという事さ」
安心させる様なユルゲンの言葉とは対照的に、アイリスディーナの表情が、にわかに曇る。
「兄さんも、木原さんを利用するということですか……
あの方は、見返りを求めずに戦ってくれているのかもしれないのにですよ」
「アイリス、いいか。よく聞いてくれ。
俺はこの戦争になった時から、お前たちの為ならば、それこそ悪魔に魂を売って、何でも使う気でいた」
「本気で言ってるのですか」
「もちろんさ」
アイリスディーナは、答える代わりに深々と息を吸い込んだ。
込み上げてくる怒りを、何とか抑え付けているようだった。
「時には、正攻法じゃない方法……。
シュタージに接近して、裏口からこの国の制度を変える。
なんって事も、夢想していた……
でも、そんな考えも、現実の前では愚かだった」
アイリスは兄の言葉をあやしんだ。愚かだったとは。
「どういうことですか」
彼女のそうした様子が、ふとベアトリクスを不安にさせてきたのかもしれなかった。
急に、つきつめたその瞳に涙さえ差しぐんで。
「木原マサキがくれた資料の中にね、こんなことが書いてあったのよ。
シュタージの将軍、エーリッヒ・シュミットは、KGBのグレゴリー・アンドロポフ少尉だってね」
と、彼女は思いきったようにあふれる涙と共に言った。
「シュタージの高官が、KGBの正規職員だったのですか!」
アイリスディーナは、世にそんな恐ろしいことがと、いまだ信じられぬ様子だった。
「そうさ。だからもし、ベアをシュタージに送り込んでいたら……」
ベアトリクスは、ユルゲンをじっと見て居た。
こんな深い悲しみの瞳をする彼女を見たのは、ユルゲンには初めてだった。
「私の事はどうでもいいわ。この人は今頃……」
ゆっくりとユルゲンの顔がベアトリクスの顔に近づく。
「泣くな」
そっと、彼女の肩に手を置く。
「ご、ごめんなさい」
「お前さえ、そばにいるなら十分さ」
ユルゲンは、ベアトリクスを咄嗟に擁く。
ユルゲンが彼女に与えたキスは、その情熱だけで窒息させる様なものだった。
後書き
令和6年(2024年)4月以降は、新規書下ろしになりますね。
書いてほしい話があったら、感想欄にコメントをください。
お待ちしております。
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