夢幻空花(むげんくうげ)
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四、 オイラーの等式に吾を見よ
――オイラーの等式、つまり、exp(iπ)+1=0に吾を見よ。埴谷雄高は虚数に案を得て《虚体》を導出したが、虚体では存在の尻尾すら摑めぬことを思ひ知った私は、それでは存在に更に躙り寄れるものはないかと思案に思案を重ねた結果、ネイピア数のiπ乗が-1になるといふオイラーの等式に辿り着く。仮にネイピア数eが物自体の象徴だと仮定すれば、物自体の虚数i×π乗したものが実数-1になるといふことは、物自体に虚体×π乗すれば-1、即ち私の内部になると看做せなくもない。ここでは私の内部が皮膚を境にして負の実数の在処と看做してのことである。それは、何を意味してゐるかといふと距離である。私の外部は距離があるほどにそれは過去のものであり、それを推し進めれば現在は私の皮膚上のこと、そして、未来は私の内部といふことになる。このこじつけに吾ながら苦笑せずにはをれぬが、だが、このオイラーの等式には、もしかすると存在に躙り寄る鍵が隠されてゐるのかも知れぬ。私は物自体の虚体×π乗を《杳体》と名付けて、その杳として正体を明かさぬ存在に躙り寄らうとしたのである。
闇尾超にとっての杳体は私にとっての異形の吾のことである。それにしてもかうして闇尾超は杳体に辿り着いたのだ。-1が私の内部か。言ひ得て妙だな。さしずめ、それは私にとっては五蘊場のことに違ひない。だが、数学史上最も美しいといはれるオイラーの等式に私を映して闇尾超には何が見えたのだらう。闇尾超も数学に化かされたのか。数式は何とでも解釈可能だ。だから、数式に、それもオイラーの等式に足場を置いては無間地獄の陥穽に呑み込まれるだけだ。数式に暗示を受けるのはいいとしても、それをして存在の何かを摑んだと思ふのは、誤謬の始まりだ。へっ、誤謬を賛辞してゐた私が、誤謬だから駄目だといふのは大いに矛盾してゐるが、しかし、数式は劇薬なのだ。存在に躙り寄るには数式の高くて固い岩盤を掘り進めなくてはならないのだ。そんなことは闇尾超にも百も承知の筈だが、それでも尚、オイラーの等式に拘ったのは、自らの死を前にして先を急いだのかも知れぬが、それは生き急ぎといふものだ。多分、闇尾超はオイラーの等式を前にしても霧が晴れることはなかった筈である。それは、誤謬といふ《楽》に腰掛けてしまったことで、闇尾超はそれ以上の思索を深めることはできなかったのではないだらうか。虚体×πが何なのかの解釈がなければ、それは不完全といふことに過ぎぬ。更にいへば、ネイピア数が物自体? 笑はせないで欲しい。数学者からすれば、それは誤謬もいいところで、ネイピア数は実数であり、そこから仮定すれば、物自体ではなく実体だらう。乗数に虚数があるから闇尾超は目が眩んだに違ひない。
しかし、杳体御仁と綽名されてゐた闇尾超は更にオイラーの等式を追ひ求め、虚数iのi乗が実数になることに思ひ至った筈である。それはこの後に出てくるだらうが、虚体の虚体乗は実体になるといふ闇尾超の思考の一端がこのオイラーの等式に吾を見よ、に隠されてゐるに違ひない。
然し乍ら、思索の端緒はいづれの場合も数学なのか。数学は確かに凡人の私などの思索よりも更に深く深く深く掘り進めてゐるとはいへ、それは結局の所、私が、あの蒼穹を宮崎駿監督のImageに乗っかって自在に飛んだのと変はりはしないのでないか。其処には誤謬に遊ぶ楽が既に隠されてゐて、思索の、つまり、闇尾超の思索の限界が既に開示されてをり、ややもすれば、闇尾超の思索の自由を奪ってはゐないのであらうか。しかし、闇尾超には時間がなかった。それだけは事実である。無から有を生み出すには余りにも時間が足らな過ぎたのだ。これは闇尾超を責めるわけには行かぬな。それは闇尾超が私に託したことなのだ。だから、この大学Noteを私に残してくれたのだ。
そんなことは意にも介さずに残酷な現実は今日も私に日常を齎す。そして、この日常が曲者なのだ。ある日突然、日常は私に牙を剥く。それは自然災害だらうが、悪疫の蔓延だらうが、素っ気なく日常には死が転がってゐるのだ。それに目を瞑ってきた現代人は、しかし、自然現象が激烈さを増し、死者を黄泉の国から此の世に顕したことで、否が応でも死を身近に感じざるを得なくなった。現代文明は死を押し隠すことに精を出してきたが、図らずも現代文明は死を黄泉の国から此の世に顕すことに帰着したのだ。何とも皮肉だな。しかし、世界は徹頭徹尾不合理なものなのである。合理の権化が仮に数学ならば、闇尾超よ、お前はいくら時間がなかったとはいへ、数学を思索の端緒にしたのは拙かったのだ。思索の端緒は不合理でなければならぬのである。人間の思考の悪癖であるが、しかし、この悪癖が様様な発見に結び付いたのでもあるが、合理的であることが何か正しいものの如く此の世を跋扈し、大手を振って闊歩するのは、私は何とも苦虫を噛み潰したやうな思ひとともに、薄気味悪さを感じてゐたが、世界が、現実が、人間に牙を剥いて襲って来始めたので、安堵してゐるのは確かなのである。身近に死が転がってゐない世界、若しくは現実なんぞ決して受け容れられぬ。
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