夢幻空花(むげんくうげ)
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一、 此の世界の中で
晩夏の高い蒼穹の下、私はまだ、夏の暑気がたっぷりと残った陽射しを浴び、碧い碧い蒼穹を見上げる。そこには白い月がまだ昇ってゐて、白い月は晩夏の遠い地平線に鬱勃と湧き立つ入道雲を見下ろしてゐた。地は陽射しで温められ、さうして自然の摂理として生まれる上昇気流が地面に心地よい風を吹かせ、私はその風に身を委ね、宮崎駿監督の初めての監督作品「未来少年コナン」の最終回に主人公の一人の少女ラナがアジサシとともに意識が飛翔するやうになんだかあの碧い蒼穹を飛翔してゐるやうな奇妙な感覚に囚はれる。その心地よさはいくら高所恐怖症の私でも気持ちがいいものであった。この自在感は、意識のみだから為せる業で、肉体は相も変はらず地面に佇立したままである。それでは意識は、肉体と違って自在を獲得したかといへば、決してそんなことはなく、唯の戯れに意識は飛翔して見せただけで、それは「未来少年コナン」といふAnimationが見せたImageをなぞってゐるに過ぎぬのであった。つまり、それは私の手抜きともいへるのだ。他者が作ったImageに無断で乗っかってゐるだけで、其処には何の創造性もないからだ。だから、私は返って心地よかったに違ひない。何の負荷も私自身の思考にかけずに他者から借りたImageにただ乗りするだけで、意識が自在を恰も獲得したかのやうに敢へて勘違ひする誤謬の自在感を私は心ゆくまで愉しんでゐたのである。
さうすると、もしかすると人生の醍醐味は誤謬にこそ潜んでゐるのかもしれぬといへる。誤謬することで私はどれほどの”自由”を愉しんできたことか。そもそも誤謬してゐるから気が楽で、仮に間違ってゐても誤謬故に端から間違ってゐるので気にする必要はなく、その気楽さが更に私を自由にさせ、つまり、心には重力からの解放が齎されるのであった。
――重力からの解放?
確かに誤謬に夢中遊行すれば、心は重力から解放されるが、しかし、それは解放された振りに過ぎず、重重しい肉体は相変はらず重力に縛り付けられたまま地べたに佇立してゐるままである。意識のみが仮象の中で重力の軛から解き放たれ、仮象の自在を知るのである。それは無重量の中の肉体の有様とは似ても似つかず、例へば自由落下するJumbo Jet機の中の無重量室の中では肉体は無重量に慣れるまで自由が利かずにふわふわと浮かんで不自由そのものだが、仮象の自在は将に自在そのもので、其処で仮象される私はちゃんと肉体らしき仮象を保持しながらの自在なのである。それが成り立つのはそもそもが誤謬だからに外ならぬ。
それでは仮象とはそもそもが誤謬なのであらうか。或ひはさうかもしれぬが、仮象であっても現実の予言的な側面があり、強ち仮象だからと言って、誤謬とは限らないのもまた事実である。これはむしろ当然のことであり、くどくどと述べることではないのであるが、事、自由、若しくは自在に関すれば、それは誤謬の仮象であればこそ自由、若しくは自在が満喫できるのである。それはこんな風な具合である。恰も自由、若しくは自在は極限値が存在する無限級数の如くに振る舞ひ、その極限値を求める時にひょいと飛び越えてはならぬ閾を、つまり、それは無限なのであるが、その無限へと飛び移って極限値になるやうにして、自由、若しくは自在に事象は相転移する如く変化するのである。現実はそもそもが不合理で、不自由極まりないものである。それを掻い潜って生あるものは存在するのであるが、物理的に存在は現実に束縛されてゐるのである。哲学者は、究極的に存在は時間に束縛されてゐるといってゐるものもゐるが、個人的にはそれはさうかもしれぬが、しかし、時間とはなんぞや、と問ふてみた時、その答へは曖昧模糊とした答へしか得られぬのが関の山である。とはいへ、”時間は流れる”のだ。流れがあれば其処には多分、カルマン渦が発生する筈で、その一つの代表的なものがもしかすると渦巻き銀河なのかもしれぬ。これも誤謬の仮象の一つに過ぎぬが、時間を表象するとなれば、それは誤謬の仮象を駆使する外ないのである。別の言ひ方をすれば、例へば時間を表象するには超越論的観念論の問題となり、確かに時間は此の世に存在するが、それを表象するには誤謬の仮象を用ゐて観念を曲芸的にでっち上げる外なく、その糸口としての自然現象のカルマン渦がその一つとして私は看做したのである。
時間のカルマン渦が仮に存在するとしたなれば、その表象として渦巻き銀河が考へられるといったが、もっと身近な存在に台風があり、もっと身近には不規則に細胞に折り畳まれて収納されてゐる二重螺旋のGenomeがある。渦に円運動といふ反復運動といふ視点を持ち込み、その視点で渦を語れば螺旋と渦は視点が違ふだけの同じ現象であるといふ結果に至るのである。そのことを考慮に入れて尚更極端なことをいへば、質料に形相があれば、その形相が既に時間を表象してゐるといへるのである。その根拠は何かといふと、時間とは既に空間とは切っても切れぬことは言はずもがなであるが、時間だけを考へるのは、既に時代にそぐはず、時空間として此の世は概して四次元多様体として考えるのが、先づ、基本である。その上で、此の世は十次元とか超弦理論から導かれるのであるが、超弦理論が正しいとは限らないので、それもまた、誤謬の仮象かもしれぬのである。更にいへば、量子重力論といふものがあり、其処には出来事を表すのに時間の因子はなく、つまり、諸行無常なるものは、時間の因子がない中での絶えざる変化であり、それは湯水が湧くやうに状態が湧いてくるやうに状態が湧いてくる、つまり、時間因子から自由な変容があるのみなのである。
話は大分脱線してしまったが、量子重力理論はひとまず置くとして、形相、即ち、時間と看做せば、時間は流れることからそれに応じたカルマン渦の発生を予想したのであるが、時空といふものを持ち出せば、形相は既にそれが時間を表象してゐるのである。つまり、形相のない不可視な時間は、存在するとはいへ、それは大昔から何らその認識の仕方は変はってをらず、直感で認識する外ないのである。さうであることを知りつつも、それを脇に置いて、例へば、極端なことをいへば、この時空に存在するものは全て形相があるものとしてしまへば、形相がないものは、これまた極端なことをいへば時間に縛られながらも、一方で、在り来たりの時間を超越した存在といふことにもなると考へてみる。そんな存在に千変万化する幽霊が当て嵌まると看做せば、幽霊といふ存在はある意味時空からその存在の拘束を解かれた存在で神出鬼没に此の世に出現することになる。そして、個人的には此の世に幽霊が存在した方が断然此の世は面白いと思ってゐる。これもまた、誤謬の仮象が為せる業の一つであり、誤謬の仮象に夢中遊行する楽しみは、涯が尽きないのである。
以上のことを踏まへて改めてこの碧い蒼穹の下の世界を眺めると、森羅万象は時間の結晶であり、世界を眺望するといふことは時空が開示されるといふことなのだ。否、ある意味、既に時空といふものからも自由な世界といふ現象が湧き立ったゐるだけなのかも知れぬ。この眺望こそ誤謬の仮象とのGapを知らしめ、現実に対してのずれを認識する良い機会なのだ。現実は概して不合理で残酷である。それに対して誤謬の仮象が現実と違ふことを認識しないと、その存在は夢遊病者のやうな状態で何時まで経っても仮象から抜け出せないまま、即死の危険性が高まるばかりである。それは泥酔したものが道路に横たはって車に轢き殺されるやうな危険性なのである。いい気分で道路に横たはったはいいが、走りくる車に轢き殺される悲劇は、現実に起きてゐることであり、お笑ひ種で済まされぬが、道路に横たはるのは泥酔してほぼ夢の中にゐるに等しい状態で更に夢を追ふためにこそ道路に横たはるのであり、それが即死に繋がるのである。つまり、このやうに仮象に閉ぢ籠もり、現実といふものを認識しないと、仮象に埋もれて現実に圧殺されるのだ。多分、四六時中仮象とばかり向き合ってゐれば、その存在は精神錯乱し、憤死するのが落ちである。
私は世界を眺めるのが好きである。しかし、これは矛盾を孕んでもゐる。この蒼穹下の世界のなんと美しいことか。世界は誤謬の仮象すら簡単に飛び越えて、私の想像すらできぬ予測不可能な変化を彼方此方で同時多発的に引き起こし、さうして千変万化するのだ。万物は流転する。しかし、それは至極当然のことで、高高ちっぽけな存在に過ぎぬ私のみの予想通りに世界が変化して行くのであれば、それは、他者にとっては途轍もなく窮屈な世界であり、迷惑千万なことこの上ないのである。それに、世界が私の予想通りに展開するのであれば、そんな世界はちっとも面白くなく、忽ちにして私は世界に飽きて仕舞ひ、それならば仮象と戯れてゐた方がどんなに有意義かと、世界に見向きもしないだらう。世界の魅力の一つは多様なものがごった煮の状態でありながら秩序を持って世界に呑み込まれてあっと驚く事象が起こるからである。世界は存在してゐるものに対しては何一つ見捨てはしない。どんなものでも世界に招き入れるのだ。とはいへ、世界はこれまで多くの死滅を見守ってきたのも事実だ。また、一方で、世界は密かに選別を行ってゐて、予め世界に存続できないものは世界から弾かれて世界はそれを拒絶してゐるのだらう。世界に関してはそのどれもが正しいが、しかし、事、生物に限れば、生存競争を勝ち残ったもの、適材適所で生き長らへてきたものしか、その存在を許さぬ。しかし、例えば突然変異などのやうにそのものの発生において異形であっても世界はその存在を許す。けれども、その異形のものが生き長らへるかどうか世界は厳然と選別を行ひ、それは冷徹極まりないのだ。
また、私の仮象が現実とまるで違ふことからも解る通り、仮に私の仮象と現実が寸分違はず一致するとしたならば、それは渾沌を極め、世界の道理が立たぬ。道理が立たぬ世界は既に世界の資格を失ってゐて、それが仮に存在するのであれば魑魅魍魎が跋扈する地獄絵図にも等しい”悪”ばかりが蔓延る絶望の世に違ひない。唯、そんな気がするだけのことだが、しかし、大概、直感といふものは本質を鷲摑みにし、正鵠を穿ってゐるものだ。とはいへ、世界に秩序が、道理が存在することは否定できぬ。秩序があるからこそ、私は此の世界の中で予測不可能なことが同時多発的に起きながらもそれぞれに対してかうなるだらうといふ予測を立てては予定調和の中に不安を最小限に抑へながら、日常といふものを生きてゐる。平穏な日常が成り立つことは僥倖で、それが世界の慈悲ならば、此の世界は慈悲深いといふこととになるが、世界は時に牙を剝き残酷極まりないのも事実である。世界は不合理である。世界は節度あると看做すことは世界を買ひかぶってゐてそれは身を滅ぼす因になり得るのだ。
だから、この美しい世界において、大人でない私は日常をそれが終始平穏無事であらうとも右往左往して過ごすことになる。此の世界が好きといひながら、私は結局の所、此の世界を心の底では信じてゐないのである。なんと矛盾してゐることか。しかし、存在はそもそも矛盾してゐるものである。矛盾してゐるからこそ、此の世界に存在を許されてゐるのだ。果たして矛盾してゐない存在は存在してゐるのだらうか。どんな存在もその内部では矛盾を抱えてゐてその矛盾を矛盾から解放しやうとして日常を生き、例えば、前日矛盾であったものが、新たな論理を見出した結果、矛盾でなくなる事象を何度見てきたことか。然し乍ら、私はまだ、他力本願の境地にはほど遠く、此の世界に全的に身を任せることに恐怖を感じてゐる。なるやうにしかならぬとはいへ、それを金科玉条の如くにする恐怖は、世界の残酷さを身をもって体験してしまったから、その残像が消えぬまま、私は平穏無事な日常をびくびくしながら過ごすのだ。世界はある日突然、牙を剝き、存在を襲撃し、死に飢えた死神のやうに死者を死屍累累と堆く積み上げる。その死んだものたちの、そして、生き残ったものたちの怨嗟が此の世に充溢してゐて、それは時間が長く長く流れることで最初の衝撃的な針が振り切れたやうな動揺と心の傷を癒やすのであらう。
また、この不合理で冷酷な世界は、例へば”特異点”といふ矛盾を抱え込んでゐる。これは此の宇宙の創成にも関わる大問題で、極限まで、存在するものを小さくして行き、超えてはいけない一線を飛び越えてその存在を無にしてしまった時、無限の扉が開いてしまふのか、それとも無が此の世界を鎮めるのか、いづれにしても何が起きるのか特異点では未だに不明なことである。それは無から有が生じるのかといふ此の宇宙創成時に関はる問題で、少なからずBlack holeの問題にも関係する。ここで、誤謬の仮象を用ゐれば、それは夢幻の世界である。つまり、特異点の問題が解決しない限り、世界は夢幻を孕む摩訶不思議な世界が成り立つのである。夢を見るのは特異点と深く結び付いてゐて、夢の世界での全肯定は或ひは特異点ではあらゆることが肯定されるそれこそ摩訶不思議な世界なのかもしれぬのである。だから、夢に啓示を覚えて夢を正夢として、また、物語の断片として後生大事に扱ふ人がそれこそ五万とゐるのである。それもこれも特異点に帰すのである。果たして闇尾超も特異点の問題に躓いたのだらうか。夢がこの宇宙をぎょっとさせ、宇宙を転覆させるその端緒になるとでも考へてゐたのであらうか。夢といふ世界の原理である全肯定のその世界は、夢幻の世界に留まらず、それは食み出してしまってこの現実世界に影響してゐると考へたのだらうか。そんなことを考へながら、蒼穹を気持ちよささうに流れる雲を私は今、見てゐる。上昇気流がある高さまで届いて雲を生じ始めてゐる。凪の時間は終はって風が上空に吹き始めたやうだ。この現実が秩序ある世界といふことは特異点からは遠くに存在し、全肯定の世界ではなく、冷酷無比な振る舞ひをするのかも知れぬ。
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