彼
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『彼』
5
学校よりも、日紅のうちの隣に立っている木よりも更に高く高く飛翔すると、『彼』はぐるりと周りを見回した。
狭い町。人家は見果てぬように続くがその実ここがどれだけ狭いのか、彼にはわかる。
ヒトは地に足をつけ、土から生まれたものを食べ、陽光をその身に浴びなければ生きてはいけない。一生のうちに関わる他人も、土地も、ひとつ所に縛られるのが運命。弱い身、狭い視界。
『彼』はずっと、ここにいた。ここにこの町ができるずっとずっと前から。時に眠り、時に起き、そして日紅と出逢った。
「巫哉」
と、日紅は『彼』のことを呼ぶ。
その声は『彼』に温かく届く。それは日紅のこころだ。なんともくすぐったく思いながらも、『彼』は日紅を突き放せずにいる。
長く生きてきたけれど、ヒトの前に『彼』が姿を見せたのは、日紅が初めてだった。
あれはどれくらい前だったかーーー…などと考えるのもバカらしいほど、『彼』にとって日紅との出会いはほんの数日前の出来事と一緒だ。
「おぅい、黄泉よォーーー」
ふいに、ぐふぐふという妙な笑い声とともに、『彼』の目の前に拳大の丸い玉が現れた。
その玉は光の加減によって青にも赤にも見える。
『彼』は一瞥もせずに、まるで蝿でも叩き落すかのようにその玉をばちりと叩いた。
「な、何するんだ黄泉ーーーーッ!」
「うるせぇ。黙れ」
「機嫌が悪いな黄泉。ははァ…さてはおぬし」
『彼』の鋭い爪が空を切って唸った。玉は間一髪でそれを避ける。
「なななな何すんだ黄泉!今の当たってたら死んでたぞ!」
「てめぇはしぶといから、そう簡単に死ぬか」
「相変わらず短気だな!…まだ何も言ってないのに…」
「てめぇの言うことは予想が出来る。大体、俺は機嫌が悪いわけじゃねぇ」
「例の女子に振られたか?」
再び『彼』の鋭い爪が唸った。今度こそ、玉の一部がひゅうと飛んでキランッとお星様になった。
「……………んな……………」
既に球状でなくなった「もと」玉はあまりのことに絶句し、ぶるぶると震えだした。
「うるせぇ」
「こ…っ、このっ、覚えていろよ黄泉ッ!」
すうっと玉の姿が掻き消えると、『彼』はフンと鼻を鳴らした。
どいつもこいつも。俺がヒトの前に姿を現したのがそんなにおかしいか。
…いや、違うと『彼』は思う。あれは『彼』が姿を現したのではない。日紅が『彼』を見つけてしまったのだ。『彼』は別に日紅を何か特別な存在だと見て、姿を見せたのではない。なのに妖たちは勘違いをしている。
『彼』が日紅を特別なヒトだと見込んで、自ら姿を現したのだと。そして喜ぶ。よかった、よかったなと。いくら『彼』が違うといっても全く聞く耳を持たない。短く限りのある命を持つ日紅を見ようと我先に『彼』に会いに来る。
それでも、『彼』は日紅と一緒にいるのが嫌なわけではなかった。
けれど、あいつはーーーー…。
『彼』はむっと眉を顰めた。
犀、という、あいつ。
日紅が今よりも少し小さかった頃、あいつをいきなり連れてきた。『彼』は出て行きたくなかったが、日紅があまりにも『彼』のことを呼ぶので、しぶしぶ姿を現した。すると日紅はにっこり笑ってあいつのことを『彼』に紹介するのだ。
『彼』は犀のことが嫌いだった。出会ったその時から。
犀は『彼』のことを「月夜」と呼んだ。
けれど、『彼』はわかる。犀も『彼』のことを快く思ってはいないことを。その呼び声は『彼』に犀のこころとして突き刺さる。
別に、それはいいのだ。『彼』も犀に好かれようと思ってはいないから。
日紅は単純に、「二人はいつも仲いいねぇ」などと言っているが、不食の理を無視してでもこのクソ、喰ってやろうかと思ったことも一度や二度ではない。
勿論、犀も同じことを考えているようで、たまに据わった目で、『彼』を食い殺す勢いで見てくる。
『彼』は犀が嫌いだ。理由はよくわからない。でもとにかく嫌いだ。生理的に嫌いというのとはまた違う気もするが、嫌いだ。
犀も『彼』を嫌いだ。何故犀が自分を嫌がるのか、『彼』はわかりそうでわからなかった。
けれど、犀はわかっていた。自分が『彼』を嫌う理由も、『彼』が自分を嫌う理由も。
『彼』がその理由に気づくのは、それから2年の後のこと。
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