TALES OF ULTRAMAN 鬼神の立つ湖
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TALES OF ULTRAMAN 鬼神の立つ湖
前書き
「もしもウルトラマンが昔の日本に現れていたらどのような物語になっていたか」という構想をもとに書きました。OVA「ウルトラマンティガ外伝」で縄文時代に活躍するティガ、という構図はすでに描かれていましたが、今回は日本特有のホラーファンタジーの香りを強めるために中世日本を舞台しています。イメージとしては「もののけ姫」のだいだらぼっちの伝承が、実はウルトラマンを指したものだったとしたら?あとは小説全体としては荻原紀子先生の「勾玉」シリーズのあの風味を出したいということで雰囲気を出すために奮闘しました。
今回登場するのはすでに先述の「外伝」があるものの、歴史ファンタジーの香りを存分に引き出してくれるヒーロは彼しかいない、ということでウルトラマンティガ(個人的に一番好きだったのも理由の一つです)、それから意外なあのヒーローも登場します。僕自身も大いに愉しみながら挑戦した作品なので是非ともお楽しみいただけたらと思います
山には鬼神様がおってな。それはもう大きい大きい体をしたお方で、どんなお侍さんも獣も敵わん。怖ろしく力持ちじゃから、その気になれば山をも動かしてしまうお方じゃ。じゃが安心せい、あの方はお優しいお方でな。災いある時にはどこからかやってきて、か弱きわしらを守ってくれる。いつも我らを見守れるようにあの山々のどこかに潜んで眠りについておられるのじゃ。
しかしな、あの山におるのは優しい鬼神様だけじゃのうて。おそろしい祟りや魔のものが森に潜んでいつも我らを狙っておる。特にお前さんのような小さな小さな幼子は魔物
の大好物じゃ。だから、決して夜に森のなかへ近付こうとするでないぞ。瞬く間に魔の物に取りつかれて魂を食われてしまうからのう。
幼い頃、村の爺が話してくれたことを思い浮かべながら、今まさに大悟はその森のなかをかき分けて夜の闇のなかを進んでいるところだった。月の光が弱い上に夜明け前の一番暗い森の中、何かを探すにはどうにも向かない夜だ。しかし、見つけるまで戻る訳にはいかない。
大悟は辺りを伺いながら余計な物音を立てないように慎重に森を進んでいった。真夜中の森で迷い人に害をなすのは獣や魔物だけとは限らない。人もそうだ。つい最近ではこの辺りにも野伏が増えたと聞く。なんでもいつぞやから将軍家の力が弱まっているとかで、村の外の様相は次第に荒れ始めているという。役人が仕事をしないせいで、町では盗賊が昼日中を大股で歩くようになった、なんて話も聞く。
大悟たちの住んでいる村は山々に囲まれているせいか、もしくはこれまた不思議な気運に守られているせいなのか、今まだ穏やかな日々の中にある。それでもやがては世間の変動の波に押されて、いくらか生活が厳しくなっていく時が来るのかもしれない。大悟はうっすらとそんなことを考えるようになっていた。
「大悟、置いていくないうとるやろ」
不意にすぐ近くで草のがさがさという音がして大悟はすぐさま振り向いた。中から姿を現したのは同じく村に住む幼馴染の堀兵衛だった。
「ごめんよ。でもどうしても美座伶の姿が見つからなくて」
「それにしてもどこ行ったんや、美座伶の奴」
堀兵衛はこぼしながら辺りを見回した。
堀兵衛が夜中に厠へ行くのに起きてみると、裏手に大悟の姿が見えたのだった。ただならぬ様子だったのですぐさま追いかけて声をかけると、やはり大悟の妹の美座伶が急にいなくなったのだという。森のなかへいるかもしれないと聞いて、堀兵衛は渋い顔を見せながらも大悟についてきてくれたのだ。
「早いとこ見つけないと」
「なあ、本当にこんな森ん中入っていったんか?あいつ、ものすごい怖がりなのにこんな真っ暗な中一人でこげな森一人入るか?」
「実は前にもこういうことはあったんだ」
前にも?と堀兵衛が訊き返すも、大悟はそれ以上のことは話さなかった。とにかく辺りは薄暗くて不穏だった。これ以上不吉なことを口にして気を弱らせたら、どんな魔物が寄り付いてくるかわかったものではない。
きっとあの場所だろう。大悟には心当たりがあった。今大悟たちがいる場所からもう少し茂みを進んでいくと、藪の開けた原っぱのような場所があるはずだった。木々の傘もぽっかりと開けて天を仰ぐことが出来、遠目には村を囲む山々のなかで一番大きな山がそびえて見える。前に森に迷い込んだ時も、美座伶はそこにいた。
どうにか藪をかき分けていくと、大悟は探していた場所にたどり着いた。ここまで来るのに随分と歩き、村からも離れてしまった。後には堀兵衛が時折物音にびくつきながら大悟にしがみつくようについてくる。
「なあ、大悟。さっきから変な音が聞こえへんか?」
音?と大悟が訊き返すと、堀兵衛がうなずいた。
「ごうごうっていう、何かずれるような音や」
堀兵衛の言った通り、低くうなるようなごうごうという音が足元を伝うようなさりげなさで聞こえてきた。何日か前に大雨が振っていたので、そのせいで近くに川の水かさが増しているのかもしれない。もしくは土が脆くなってどこかが崩れかかっている、ということもある。そんなことを考えながらも大悟はいたずら心でわざと堀兵衛を脅かした。
「魔物が僕らを呼んでいるのかもしれないよ」
おい、よせよ、と堀兵衛が情けない声をあげるのを聞いて大悟は張りつめていた肩の力が少し抜けた。堀兵衛は大悟と同じ年で十六にもなるというのに、子供のような怖がりようだ。大悟は時折笑い出しそうになりながら、自分自身も森の闇のなかの深みからはなるべく目を逸らしていた。
森の茂みがぽっかりと開けたその場所は、月の光を受けてうっすらと輝いて見えた。そしてその真ん中で座り込んで月と山をぼうっと眺める小さな人影を見た時、堀兵衛は思わず大声で呼び掛けようとした。しかし、大悟は静かに首を振ってそれを制止して、その人影にそっと近寄り優しい調子で声をかけた。
「美座伶、駄目じゃないか。一人でこんなところまで来ちゃあ」
心配したぞ、と笑いかけるとその人影はゆっくりと振り向いた。大悟の妹、美座伶はしばらくぼうっとしたまま何も答えず、その内に切れ切れの言葉で返事をした。
「探し物、してた」
九つにもなるというのに、美座伶は他の同い年の子と比べてやたらに幼く見えた。話をする時も言葉が少なく、話し方も何やらおぼつかなく聞こえる。もしかすると、頭になにか障りがあるんじゃないか、という大人たちもいた。しかし、決して美座伶は頭の悪い子ではない、と大悟は常日頃から考えていた。特に大悟や他のものにはわからない何かを誰よりも早く感じ取る事に関しては、美座伶は巫女にも通じるような力を持っているのではないか、と大悟は密かに考えていた。
「何を探していたんだ、美座伶。こんな夜中だというのに。明日じゃ駄目だったのかい」
すると、美座伶は首を振った。
「もう、見つけた」
そう言って美座伶が手に持っていたそれを掲げると、大悟と堀兵衛はそれをじっくりと眺めた。巫女が祭や祈祷で使う神器にも似ている。だが実際にそれが神器なのかどうかはわからなかった。大悟はすぐ横にあった堀兵衛の顔を覗き見たが、堀兵衛もそれが何のためのものなのかはよくわかっていない様子だった。大悟はすぐに神器に目を戻した。
祭りで見る宝剣の柄にも似てるが、それにしては刃がなかった。乳白色の柄の先には閉じた鳥の翼を象ったような飾りがついており、真ん中の切れ目があるところからひょっとすると、本当に羽根のように開くのかもしれない。全体が水晶のような部分や鉱石のようなもので出来ていて、ところどころが金色に縁どられている。そのきめ細やかな美しさに大悟はついつい目を奪われた。
「美座伶、これは置いて行った方がええ」
堀兵衛がその神器を眺めてしばらくしたあとに重々しく口にした。
「これはおそらく神様のもんや。みだりに人の子が触らん方がええ。祟りを食らうかもしれん」
けれども、美座伶は首を激しく振ると、一層強くその神器を胸に抱いた。困ったもんや、と口に出さずに目配せをしてくる堀兵衛にと美座伶を交互に見て、大悟は言った。
「よし、わかった。美座伶。これはお兄ちゃんに預けておくれ。美座伶の大切なものであればお兄ちゃん必ず守ってみせるから」
すると美座伶はこう言った。
「これ、美座伶のじゃない」
そして、美座伶はその神器を大悟に差し出した。
「これ、お兄のもの」
もちろん、大悟には美座伶の言っていることの意味はわからなかった。けれども、きっと大悟や他のものにはわからない意味があるのかもしれない。おそらくは美座伶自身にもうまく説明出来る類のことでないのを大悟は見て取った。それに、まっすぐ神器を差し出す美座伶の眼差しがあまりにも迷いないことにも気圧されていたのだった。
大悟はとうとう戸惑いながら神器を手にとった。その時に、大悟には確かにその神器が手の中で一瞬脈打ったように思えた。しばらく呆気にとられて神器を眺めていると、堀兵衛が横でぶつくさ言うのが聞こえてきて我に返った。
「とにかく早く帰ろうや。月が雲に隠れでもしたら真っ暗な森のなかやで。わしはそんなんいやや」
大悟は我に帰ってそうだね、と返すと神器を懐にしまった。美座伶から受け取ったあとはこっそり森のどこかに返しておこうと考えていたのだが、大悟はそれを手放してはならない気がしはじめていた。美座伶の言う通り、この神器と自分の間には何かしらの縁があってこの手に渡ってきたのかもしれない。
もと来た見た道をいくらか戻ると、途中で先頭を進む大悟に堀兵衛が声をかけた。
「ちょいと待ちや、大悟。お前もと来た道から外れようとしとるで」
そんなはずはないよ、と大悟はきっぱりと返した。木々の間から見える山を目印に歩いてきたので、大悟は背後の山を振り返りながら堀兵衛にこう言った。
「ここまで来るのに、確か山を前にしていただろう。だから方角はこれで合っているはずなんだ」
「いいや、そんなはずあらへん」
堀兵衛は辺りの木々をしげしげと眺めて、一人で合点したようにうなずいた。
「来た道の木を目印代わりに覚えといたんや。これは柳爺の持っている杖に似ていたから確かに覚えとる。わしは見間違えたりせえへん」
堀兵衛の言う通りだった。というのも、堀兵衛は村で一番物覚えがいい。その彼が目印を見紛うことは考えにくかった。しかし、だとすれば――。
「でもおかしいぞ、もし堀兵衛の言っている通りの方角だとすると来るときに山は見えていないはずなのに」
それだと、山がずれているみたいだ、と大悟が口走ると、
「そんなあほな」
と堀兵衛は声を漏らした。
その時、先ほどから聞こえていたごうごう、という音がやけに近付いて聞こえた。それは地面を鳴らし、大悟たちのいる場所を震えさせるほどにまで大きくなっていたのだ。ひょっとするとあれは地鳴りだったのか?それにしては妙に長く音が続くものだ、などと大悟が考えていると、ふと顔を上げた堀兵衛が大悟の衣のそでを強く引っ張った。堀兵衛は顎が外れそうな勢いで口を大きく開けている。その顔を見て、大悟は半ば笑い出しそうになりながら訊いた。
「どうしたんだ、堀兵衛」
「大悟、あれ」
堀兵衛がかすれた声を漏らしながら指さした先を見ると、大悟の顔から微かな笑いは消えて表情が固まった。堀兵衛の指さす先で彼らは山が起き上がり、もたげていた頭を上げ、その目を開くのを目の当たりにした。いや、正しくいえばそれは山ではなかった。山ほどの大きさの化け物が身を起こしたところだったのである。先ほどのごうごう、というのはおそらくこの怪物がすり足で動く音だったに違いない。
大悟は美座伶がその怪物を目にしないうちに急いで自分のもとへたぐりよせ、目を覆い隠すようにかばった。もし、美座伶があの怪物を見て声の一つでもあげたなら、怪物は確実にこちらへ気づいてしまうだろう。おまけに大悟は今にも声を上げそうな堀兵衛の口も塞いでやらなければいけなかった。
辺りを見回して身を隠せそうな場所を探すと、近くに根本にかがめばなんとか姿を隠せそうなほどの木が目に入った。よし、あそこに隠れよう。大悟は美座伶を抱き寄せたまま、それからなんとか堀兵衛を押し込むようにして木の根本の、窪んで陰になっているところに身を隠した。
怪物のすり足は大悟たちのいる場所から大分近くを通りすぎるところだった。歩調が鈍重なせいで、中々その場をあとにしない。その間、堀兵衛が隣で身を振るわせて念仏を唱えるので、大悟は堀兵衛を小突いてやめさせなければならなかった。怪物の耳に届いたら洒落にならない。美座伶は身じろぎもせず、言葉も発しない。不思議なくらいに怯えている様子が見られなかった。
しばらく身を隠すうちに大悟はついに気持ちを抑えきれず、木の陰から怪物の方を伺った。怪物は今まだそこにいたものの、こちらへは気づいていない。その時に、仄かな月明かりに照らされた怪物の姿を大悟は焼き付けんばかりに目を見開いて捉えた。怪物は岩のような肌付きをしていて、大きさは背をかがめていても小さな山の一つ分はある。頭の形はうちかえす波のようにそった妙な形をしていた。やけにぎらぎらとした目は月に照らされて、まるで人の目のようにはっきりとしていたし、口元の小刻みに並ぶ牙を見た時に、大悟は村で見た鮫なるものの絵を思い出した。大悟たちの住む村は海から遠いために鮫そのものを目にすることがない。なので、大悟の記憶に焼き付いた鮫の姿はどこかの絵師が誇張して書いたものだろう。それはちょうど目の前の化け物のように鋭い歯をいくつも持っていた。
しばらくその怪物を覗き見ていると、懐で何かが小刻みに震えた。美座伶が拾ったあの神器だ。その時、大悟は理由もわからずに怪物がこちらに気付くような気がして慌てて身を隠した。実際、怪物が歩みを止め、身じろぎをしてこちらの方角を伺い始めたのが目で見ずとも気配でわかった。
「頼む、やめてくれ。奴に気づかれてしまう」
大悟がもう少しのところで言葉に出しそうなほど強く念じると、やがて神器の震えが止まった。時を同じくして怪物は踵を返し、足音は徐々に遠のいていく。大悟は深く溜息をつきかけて慌てて押し殺した。その代わりに隣で堀兵衛が間抜けな声で溜息をもらしたので再び肘で小突いた。いつ怪物がこちらへ戻ってくるかも知れない。そう思って三人はそのまま木の陰に身を押し込めて潜んでいた。夜明けまではそれほど長くないはずだ、動き出すのは日が昇ってからにしよう。あれが魔物の類なら朝が来ればすっかり退散しているはずだ。大悟はそう願ったものの、果たして自分の知っている限りのことがあの怪物に通用するのか自信はなかった。
大悟の考えた通りだった。しばらくののち空が白みはじめ、あたりの暗がりが薄くなってきた。鳥の声が辺りに聞こえてくると、少しずつ体に走っていた緊張も解けていく。知らない内に大分汗を書いていたようで、衣と束ねた髪の先が濡れて湿っていた。
大悟と美座伶が身を起こして辺りを伺うと、巨大な怪物の気配はおろか、猪の子供一匹の気配さえ感じられなかった。けれども大悟がいくら声をかけても堀兵衛は木の陰に身を潜めて中々出てこようとしなかった。ようやく三人が帰路についた頃にはすっかり道は陽気に照らされてすっかり明るくなっていたので、もはや道に迷いようがないように見えた。
道の途中、大悟は堀兵衛に問い掛けた。
「堀兵衛、あれは一体何だったんだろう」
堀兵衛は青白い顔をしたまま首を振り、何も答えなかった。美座伶もまた何も言わずに森をきょろきょろと見回しながら歩いている。あまりにうろうろとしてまたどこかに迷いこまれるといけないと思い、大悟は常に美座伶の手を握っていた。
懐にしまった神器が肌に触れて冷たかった。神器は今では特に異変もない。岩の怪物が近くを通り過ぎた時、神器が震え出したのは怪物を呼んだのだろうか?それとも、怪物が近付いたことで神器が目を覚ましたのだろうか?道中で大悟は口数のない二人に挟まれながらそんなことを考えていた。
村では大人たちが皆ほうぼうで表に出て走り周りながら互いに声をかけあっている。大悟たちが夜中に森に迷いこんだことが知れて、皆で探し回っているのだろう。すると実際に村人の一人が大悟たちの姿を目にとめてあらんかぎりの声で叫んだ。
「おおうい、いたぞお」
途端に皆がこちらへ駆け寄ってきたので、ばつが悪くなった大悟は思わず苦笑いを浮かべた。集まった人々は口々にどこ行っていた、心配したぞ、と声をかけてきたが、間もなくして人々をかき分けて宗像の家の長男坊、正一郎の若旦那がやってきた。宗像の家は地頭だった。その嫡男である正一郎は武家の子でありながら百姓にも分け隔てなく接する男で、村人たちにも慕われていた。年は大悟たちより一回り上だったので、子供の頃はよく大悟たちの面倒を見てくれたものだった。百姓たちに混じって村の仕事を指揮することが多く、麻黒い肌の屈強な体つきから力仕事でも頼りにされる男だった。
「三人とも心配したぞ。どこいってたんだ」
正一郎は三人を無闇に咎めず、落ち着いた様子で声をかけてきたので大悟は安心したながら答えた。
「美座伶が森に迷い込んで。それで探していたんです。堀兵衛も一緒に探してくれて」
「厠で用を足していたら窓から大悟が走ってくるのが見えたんですわ。それでどこいくんか訊いたら美座伶の嬢ちゃんがいなくなったいうから」
どうして村のものたちに声をかけないんだ、と正一郎が訊くと大悟がばつが悪そうに答えた。
「村の皆を起こすのが申しわけなくて。森だってのはわかっていたから」
申しわけありません、と大悟が頭を下げると、正一郎は呆れ半分、それでいてほっと一安心したような溜息をついて大悟の肩に手を置いた。
「まあいい。何事もなくてよかった。まったく、夜中の森に分け入って怪我一つなく帰ってくるなんて運のいい奴らだ」
そう言って正一郎が笑っているところに、また人だかりが割れて誰かが近付いてくるのが見えた。堀兵衛の母親、なかだった。なかは牛のような勢いで進み出るなり、堀兵衛の頭を小突いた。
「お前さん、どこいっとったんや。村の皆さんにこげな心配かけて――」
堀兵衛の家は西の方から訳あって流れてきたということで、一家のものは皆、西方の訛りが抜けない。堀兵衛にしたって、あれほど長い年月を村で過ごしているのによくまあ家族の間でしか喋らない訛りがこうも身に着いたものだ。大悟はいくらか不思議に思っていた。
しかし、なかの方もまくしたてているうちに、堀兵衛の口数がいつになく少ないのと、その顔色が異様にすぐれないことに気が付いたようだった。そのうちになかは叱責の勢いを失いみるみるうちに気づかわし気な表情をした。
「お前さん、どうしたね。森で悪いもんでも食うたか?それともなんか悪いもんにでくわしたとか」
悪いもんに出くわしたか、という言葉を耳にした途端、堀兵衛がひぃっ、と小さく声を漏らした。それに驚いてなかや周りの村人達も少しばかりのけぞった。それから、大悟の側にすがりついていた美座伶が不意に口を開いた。
「おっきな獣を見たんだよ。それで堀兵衛、怖くなっちゃったの」
大悟はその時初めて美座伶が怪物を目にしていたことを知って驚いた。あれほどの化け物を前にしても美座伶は声一つあげずにいたのだ。
「獣っていうとあれか?」
鹿とか猪とか?村人たちの何人か何気なく口にした。
「いやいや、猪や鹿で堀兵衛がこんなにおびえることはねえべ。熊だよ、熊。そうじゃねえか?」
すると、堀兵衛は思いきり首を振って言葉を振り絞ると喋り出した。
「そんな可愛いもんやない。あれは山や。山ほどの大きさの怪物が歩いてたんや。熊とも鹿とも違う、見たこともない顔しとった」
そんな怪物がおるかいな、と村人たちはどよめいた。堀兵衛はそれでむきになり、声を大きくして言い返した。
「本当や。わしも美座伶もみた。大悟もや」
そうやろ?と堀兵衛が大悟に訊くと、村人たちの視線が大悟に集まった。堀兵衛はともかく、大悟がそのようにくだらない嘘をつくものでないことは皆して承知していた。大悟は重々しくうなずいた。
「私も見ました。山の神の類かと思いましたが、それにしてはあまりに禍々しく、私たちはその怪物に見つからぬように木の陰に隠れて朝が来るまで待っていたんです」
村人たちは再びざわめき始めた。大悟のいうことであれば、と真剣に驚きを表すものと、そんな馬鹿な話があるか、と口にして取り合おうとしないもの。そうしているうちに後の方からまた別の声がした。
「それは真か、大悟」
声の主が前に進み出ると、ざわめきはやんだ。
村人たちが一様に土と汗がにじんだような質素な色合いの衣に身を包む中で、汚れ一つない白い衣と赤い袴は光を放つように一際目を引いた。村の巫女、加魅羅だった。彼女が現れると、男達は皆そわそわと佇まいをなおした。無骨な性格の正一郎はどこか居心地悪そうな表情を浮かべている。
穢れを知れない乙女にも艶やかな女性とも見える巫女は、鼻筋の通った非常に美しい顔立ちをしていた。かつて彼女に惚れた男が敵わぬ恋ゆえに心を病み、身を滅ぼしたなどという話があった。村の女たちがこぞって面白そうに話しているのを聞いたことがあるものの、本当のことかはわからない。
「お前たちは夢を見ていたのではないと、はっきりと言えるか」
まっすぐに大悟の目を見据えた巫女に問われて、大悟は力強くうなずいた。
「あれは夢ではありません。あの怪物が大地を揺るがし、歩き回るのをこの目で、耳で、そして足で地響きをしっかりと感じました」
巫女はそれを訊くと、堀兵衛や美座伶の方へも問いただすような鋭い目線を送った。堀兵衛はうつむきがちでありながら力強くうなずいたし、美座伶は何も反応を示さなかったものの、巫女は何か思いを巡らせているような顔つきで美座伶から目を離し、再び大悟へと目を戻した。
「お前たちが見たのは、護琉座さまであろう」
ごるざさま?と大悟が訊くと、巫女は続けて語った。
「左様。我らの思いもよらぬほど太古の昔にこの大地を支配した邪神様に仕えていたお方じゃ」
邪神様?と大悟が口に出すと、巫女はうなずいた。
「大地を揺るがし、火を食らい、人や怪物も蹂躙するおそろしい神じゃ」
それから、巫女は大悟の目をまっすぐと見据えてこう問いかけた。
「他に、何かおかしなものを見つけたりはしなかったか?」
そう言われて大悟は真っ先に懐の神器を思い出した。はじめは大悟も神器のことを話そうとした。が、すぐに自分でも理由はわからないまま神器のことを口にするべきでないと直感し、開きかけた口を閉じた。すると巫女が大悟に近付いてきて二人はまっすぐに顔を見合わせる形になった。その時に大悟は巫女の顔に目を奪われながらもその反面、一刻も早くその視線から逃れようとする自分に気が付いた。
巫女の目は一目見ると甘い香りに似たような煌びやかな光を放っていた。これが他の男たちの言う艶やかさなのだろう。けれども大悟が見たものはそれだけではなかった。巫女が放つ艶やかさのその奥に、大きな虚空を見た気がした。彼女の表の顔とその奥に隠されたものを遠く隔てるための虚空。さらにその奥には蛇の牙にも似た激情の激しさがあった。その激情を垣間見た時には大悟は思わず後ずさりしかけた。しかし巫女は大悟を絡めとろうとするようにさらに近づいてくる。
その時、腰元で、美座伶が大悟の衣の裾を握る力を強めるのを感じて我に返った。美座伶もまた、加魅羅の巫女にただならぬ気配を感じているのかもしれない。だとすれば、自分の勘に従ってやはり神器のことは話すまい、と大悟は瞬時に判断した。
「いいえ、特には何も。その怪物に見つかるのではないか、と気が気でなかったものですから」
すると、加魅羅の巫女は意外にもすんなりとそうか、とだけ呟いた。堀兵衛が何か余計なことを口にしないかと肝を冷やしたものの、その心配は無用だった。堀兵衛は加魅羅の巫女の顔に終始見とれて放心していたので、美座伶が拾った神器のことなど頭から放ってしまった様子だった。
巫女が去ったあとでは、村人たちは最初の方は大悟たちを取り囲んで護琉座さま、と巫女が呼んだ怪物について興味本位で聞き出そうとした。しかし、正一郎がこれを厳めしい顔をして追い払うと、口々に色々な噂をしながら、散っていった。
やがて堀兵衛も母に引っ張られるように家へと連れていかれ、大悟と美座伶が取り残される形となった。堀兵衛となかが連れ立って家へと帰っていくその様子を自分でも知らないうちに長いこと見つめていたようだった。
美座伶に袖を引かれて顔を向けると、妹はこちらを伺っている。大悟は美座伶に声をかけた。
「さあ、私達も帰ろうか」
美座伶がにこやかにうなずいた。
美座伶は本当の妹ではなかった。大悟が九つになる頃に流行り病で両親を失い、彼はイルマという村の薬売りの女に引き取られた。イルマも夫を失ったばかりで自分の娘もいたために、女手ひとつで子供二人の面倒を見られるものかと心配する声も上がった。けれども、夫を亡くして失意のうちにあったイルマは家族が増えるのはいいことだ、と大悟を歓迎し、自分の娘である美座伶と一緒に育ててくれた。そのイルマも大悟が十四の時に病で死に、それからは美座伶と二人でイルマの残した家に暮らしている。二人きりとは言えど、村の大人たちは皆して二人に世話を焼いてくれ、子供のように可愛がってくれる。それでも、美座伶の兄として彼女を守ろうと気を張ってきた分、堀兵衛や村の同じような年のものが親にまだいくらか甘えている様を見ていると、どこかで燻る思いを嘘ということは出来なかった。
村はしばらく怪物の話で持ち切りだった。もちろん、皆が皆いまだ信じているわけではないものの、どうやら巫女がその話を本当として見たことを聴けば、多くのものはそれを実在するものとしたのである。話に尾ひれがついて頭が八つだとか、空を飛ぶだとか、実際にそれを目にした大悟達からしても幾分か訳のわからない形で話が伝わっていることもあったし、中には山の神の怒りだとするものもいた。
「生贄じゃ、生贄が必要なんじゃ」
村はずれの朽ちかけた小屋にする老婆はそんなことまで口にしながら村を徘徊していた。しかしこの老婆は元々がこんな調子だったので、本気で相手をしようという者はいなかった。遠い昔にいつからか心を病んで支離滅裂なことばかり口にするようになったのである。。
さて、そんな噂も実際のところひと月とたてば色が抜けるように風化していき、人々の口に上る頻度も薄れていく。人の生活はめぐるもの。それぞれの仕事に追われながら日々を過ごしている内に、自分の目で実際に見た訳ではない怪物のことなど頭にも浮かばなくなっていくものだ。そうして村も、ひょっとすると大悟たち自身も、怪物のことを忘れようとしていたところであった。
しかし、怪物の話題は再び人々の間を駆け巡ることになる。というのも、村人のなかで怖ろしい魑魅魍魎の遭遇は大悟たちの体験した一件で終わりではなかったのである。
六吉と藤兵衛という二人の男が、村はずれの竜が沼というそれは大きな沼で夜釣りに興じていたところでそれは起きた。六吉は子供が生まれたばかりで嫁にあまり遊びあるくもんじゃないよ、と念を押されながら、ついつい独り身の藤兵衛の誘いに載って夜釣りに出かけた。
「近頃じゃ引きがいいんだよ」
と藤兵衛が言う。
「お前も親父になったばかりで息がつまってるんだろう?昔みたいに気楽にやろうぜ。なんだったら、活きのいい魚をわんさか釣って嫁さんへの土産にしたらええじゃないか。あそこは本当に糸をたらせば魚が群れで食いついてくるんだから」
藤兵衛の言った通り沼の魚は引きがよく、面白いほどに魚が釣れた。六吉はたちまち面白くなって、嫁の言いつけも忘れた。ついには藤兵衛の持ち出してきた酒でえらくご機嫌になりながら、夜が更けるまで岸辺で過ごした。
月も高くなり夜の帳が澄み切ったところで、これは夜遊びが過ぎたかもしれねえな、と六吉は思い始めた。二人は魚を釣るだけ釣って酒を飲むだけ飲んだところで、沼のほとりで寝そべっていた。夜露を受けて艶やかになった草の上で寝転ぶのはいやに気持ちがいいもので、ついつい時間を過ごしてしまったのである。
「おい、そろそろ帰らねえとやべえぜ。嫁にどやされちまう」
六吉は近くで寝そべる藤兵衛に声をかけるも、藤兵衛はむにゃむにゃと言いながら碌な返事をしなかった。六吉は何度か様子を見て揺り起こしたが、すぐに藤兵衛は駄々をこねて寝に戻ってしまう。
三度目に藤兵衛を揺らしてあきらめかけた時、水の跳ね上がる音と共にそれは起きた。どこかで魚が跳ねたような音がしたのだが、それは異様な勢いをしていて、おまけに六吉はいきなり頭上から大きな水鉄砲を食らった。六吉が何事かとおもいながが口に入った水を吹き出していると、同じく水鉄砲を食らった藤兵衛が跳ね起きた。
「やい、ひどいじゃないか。人がせっかく気持ちよく寝ているってのに」
すると、六吉は慌てて首を振った。
「俺じゃねえよ。ほら見ろよ、俺だっていきなり食らったんだ」
「なんだと?じゃあほかに一体、誰がこんな――」
言いかけて言葉を切ったその時の藤兵衛の目は、その後も六吉の頭に焼き付いたまま忘れられることはなかった。普段から大きな丸っこい目をしている藤兵衛の目が、これ以上ないくらいに大きく見開かれて、さらには月の光を受けて磨いたみたいな輝きを見せている。けれども何かにひどく驚いているせいで、その目の瞳はそこだけ大きく穴が開いているみたいだった。。六吉はそれがどうにもおかしいやら怖ろしいやらでしばらく彼の表情から目を離すことが出来ずにいた。しかし、そのうちに彼の目が自分の頭上の何かを捉えて離さない事に気が付いた。ゆっくりと振り返った時に、それはあまりに大きな影となって二人を覆っていたので、六吉には最初、自分たちを覆うその影が何かもまったくわからずにいた。もしかすると恐怖さえ抱いていなかったのかもしれない。六吉が持つべき恐怖を感じたのは、その大きな影が目を持ち、その目が鋭く彼らを見据えていることに気が付いた時だった。
大蛇がこちらを見ていた。そびえるやぐらのような大蛇が、それだって一匹ではないことに六吉は少しあとになって気が付いた。何匹もの大蛇がこちらを見ろしており、先の割れた舌をいたずらっぽく震わせながら蠢いているのである。これもその時には気づかなかったものの、藤兵衛にはたまたまはずみで何匹の大蛇が胴のところでつながっているのが見えたという。ありゃあ国はじめの神話に聞く八岐大蛇だったのかもしれねえ、とあとになって藤兵衛は語った。ともかく、二人は腰を抜かし、途中六吉などは小便を漏らしながらも這うようにしてその場を逃げ出した。大蛇は二人を追うでもなく、ふと振り返った時にはもうその姿は見えなくなっていたと言うが二人はそれでも村まで一直線に逃げ切った。二人が悲鳴を上げながら逃げてくるのを聞きつけて、何人かの村人が目を覚ました。文句を言ってやろうとして表に出て二人と出くわした村人の一人などは思わず言葉を失った。見れば二人とも髪を真っ白にして顔をしわくちゃにして逃げ込んできたのである。
朝になる頃には村はまた大悟たちが護琉座なる怪物を目にした時のように、慌ただしいどよめきのなかにあった。正一郎が何事かと村人たちに訊いて廻ると、村人たちは口々に噂を話した。夕べ、六吉と藤兵衛の奴らが沼に夜釣りへ出かけてそこででっかい蛇を見たんでさあ。いやいや、ただの蛇じゃあありませんで。こいつが物見やぐらのような大きさをしていておまけに八つの首を持っているそうで。ちょうど国はじめのお話に語られる大蛇様のような具合だったとか。
これがひと月より前であったなら、何を馬鹿なことを、と笑って済ませたものであるが、この間の大悟たちが見た怪物の一件もある。あの話だって内心、正一郎は半信半疑ではあったのだが、巫女の言葉が正しいのであれば、確かに護琉座なるものはいるのだ。正一郎は当人から詳しく話を聞くべく、六吉と藤兵衛を探した。
「どうか、驚いてひっくりかえりませぬよう。爺様もあの様を見て腰を抜かして先ほどから伏せっておりまして」
藤兵衛の家を訪ねると、まず最初に藤兵衛の母が正一郎にそのようにことわった。何のことを言っているのです、と正一郎が訊き返すも藤兵衛の母は答えない。不思議に思いながらも居間の中に通されると、藤兵衛の母が伏せっていると言っていたはずの藤兵衛の親父が炉の前に座っていた。
「親父殿、藤兵衛はおりませぬか。今朝のことで話を聞きたくて」
すると、藤兵衛の親父は正一郎の方へ顔を上げて言った。
「私が藤兵衛でさあ、旦那」
正一郎は言葉を失うと共に、藤兵衛の母の言った言葉の意味を理解した。髪は見るも真っ白で顔つきも老けてこんでいるのだが、表情と目の中の光だけがいやに若く感じられる。三十年の時間が無理やり一気に流れたような風貌だった。しかし、確かにそれは藤兵衛だったのだ。居間の奥の暗がりの方で物音がするのでそちらへも目をやると、そこに藤兵衛の親父がいた。藤兵衛の母が話していた通りだった。寝床に伏せって時折うんうんと悪い夢を見ているように唸っている。
「何が起きたのか話してくれるか」
正一郎に促されて、藤兵衛は昨晩の出来事を話して聞かせた。なにしろ酒を飲んでひどく酔っぱらていたそうなので、途中途中の話が途切れがちだった。なので正一郎が今度、六吉の家を話を聞きに伺うと六吉の嫁が泣きはらした目で出てきて正一郎を迎えた。
「祟りですよ、祟り。あのぼんくらがしこたま酒食らって沼の近くで粗相をするからそのうち私らまで呪われちまうんだ」
正一郎は六吉の顔を見るなりなるほど、と合点がいった。六吉も藤兵衛と同じようなありさまであったので、それで六吉の嫁は悲嘆にくれていたのだろう。
正一郎に促されて六吉もまた昨晩の出来事を語った。
「最初は沼がひっくり返ったんじゃないか、なんて思いましたよ」
と六吉は言う。
「それでもって、藤兵衛の奴が間抜けな顔してお月様の方向いているから何かとおもったらいくつもの蛇の頭がこちらへ見てたんでさあ。怖くて怖くて。そりゃあ、一晩でじじいにもなりますよ。一生分肝を冷やしましたからね」
正一郎が六吉の家から出てくると、ちょっとした人だかりが出来ていた。興味本位の野次馬かと眉間にしわを寄せて追い返そうとしたものの、何やらそのなかにも怯えた顔をした者が少なからず見えた。正一郎は軽く咳払いをすると、よくとおる声で人々に語り掛けた。
「心配するな、六吉も藤兵衛も命までとられたわけじゃない。私はこれより加魅羅の巫女のもとへ参り、その進言を賜ろうと思う。各々、何かと気がかりかとは思うが、どうか取り乱さず仕事に戻ってくれ」
正一郎がそう言ってその場をあとにすると、いくらかの者達は不安げにぶつくさと何やら呟いて同じようにその場をあとにした。またいくらかの者達は野次馬根性で六吉の家の中を覗こうと伺っていたのだが、鬼の形相をした六吉の嫁に戸をぴしゃりと締められてあえなくその場を退散した。
大悟の家に正一郎が訪ねてきたのは、日が傾きはじめた頃だった。大悟と美座伶が夕食の支度をしているところにいくらかの山菜の手土産をもってやってきたのだが、疲れを隠しきれない正一郎の面持ちから、何か特別な話があるのだと大悟にはすぐにわかった。大悟は大悟で土間で魚を焼いているところだった。村の長のところのせがれである彦兵衛が少し前にやってきて、山で釣った川魚をいくらか置いて行ったのだ。いつもであれば沼で釣った魚を持ってくる彦兵衛だったが、沼には化け物がでるというので近付かなかったという。大悟もその時に彦兵衛の口から沼に大蛇が出た、という噂を耳にしていた。
「すまんな、飯時に」
いいえ、そんな。と大悟は笑いながら魚を焼いていた。その手つきが妙に小慣れているので正一郎は感心の声を上げた。
「うまいもんだな」
「男がこのようなこと、と笑う者もいますがイルマの母はそうは思っていなかったようで。まるで自分がいつかいなくなるのがわかっていたように、私と美座伶に仕込んでいきました」
もしよかったらご一緒しませんか、と大悟が誘うと正一郎はではせっかくだから、と夕食を共にした。食卓にはこわ飯に焼き魚、それから味噌汁と漬物が並んだ。漬物を口にすると、正一郎は思わず唸った。
「うん、見事な味だ。これも大悟の手によるものか?」
「いいえ、これは美座伶が」
そう言うと、美座伶がいつになく嬉しそうにうなずいた。夕食が済むと、大悟は茶を入れた。正一郎はといえば、話があることには間違いない様子だが切り出しかねているようだった。そこで大悟はとうとう自分の方が正一郎に声をかけた。
「今日はどうされました。何かお話があるのでは」
大悟が気を利かせると、正一郎はこれ幸いと肩の力を落としたように見えた。それから正一郎はうむ、と呟くと重苦しい表情のまま言葉を続けた。
「加魅羅の巫女が沼の大蛇を鎮めることとなった。それに伴い、その時の儀式に美座伶を連れていきたいのだそうだ」
「美座伶をですか?」
湯呑を差し出しながら大悟が驚いて声を上げると、正一郎はうなずいた。
「今回はいつもの神事と違う。加魅羅の巫女の言うところによれば、大蛇なる者を沈めるためには清らかなる子供の力が必要なのだという。何故それが美座伶であるのかは教えてはくれなかったのだが、この子は何か特別なところがあるのかもしれぬ」
そう言って正一郎は美座伶を見た。不思議がるようでいて、やはりどこか親にも似た眼差しを正一郎は美座伶に向けていた。美座伶はそれににっこりと笑い返した。正一郎の言っていたことがわかっているのか、わかっていないのか、彼には美座伶の様子からは判断がつかなかった。
「大悟、美座伶を我々に預けてはくれないか。美座伶が今、村に必要なのだ。私は護琉座の一件から何か薄暗い予感のようなものを感じている。このままでは村は今までにない災厄に見舞われるかもしれん。そんな気がするのだ」
正一郎がそう言って深く頭を下げると、大悟はしばらく黙っていた。湯呑から茶をすすると、やけにその音が響いた。外ではすこしばかり風が強くなっていてびゅうびゅうと鳴いている。大悟は美座伶の方を向いて言った。
「美座伶、お前、行ってくれるかい」
すると、美座伶はすぐにうなずいてまた笑った。
「美座伶、いく」
美座伶がそう言うと、正一郎は安心した顔をして何度も彼らに頭を下げた。けれども大悟の頭の中には加魅羅の巫女に対する根拠なき疑念がついて離れなかった。もちろん決して根拠のある疑念とは言えないものなので簡単に口にすることは出来ない。だが、このまま美座伶を預けるには身が落ち着かなかった。そこで、正一郎が満足気に茶をすすっているところに、大悟は切り出した。
「正一郎様、私も連れて行ってください」
大悟がそう言うと、正一郎は少しばかり顔色を曇らせた。
「お前ならそう言うと思ったぞ、大悟」
そう言って正一郎は大悟の肩に手を置いた。
「お前は美座伶を一人で行かせるようなことはしないだろうとな。しかし、万が一沼から例の怪物が出てきたときに、我々は総出で巫女と美座伶の守ってやらねばならん。お前のことまで面倒を見てやれるか定かではないぞ」
構いません、と大悟はきっぱりとした口ぶりで返した。
「自分の身は自分で守りまず。もしも、私の身が危うくなってもどうか美座伶のことを守ってやってください。ですが、そうそう足手まといにはなりません。だからどうか私を連れて行って下さい」
大悟がそう言うと、正一郎は重々しくうなずいた。
「わかった。巫女にもかけあってみよう。けれども約束してくれ、絶対に危険な真似はしないこと。危ないと思ったら一目散に逃げろ。お前は自分の面倒を見ろ。美座伶のことは私たちがしっかりと守るから。いいな」
正一郎がそう言うと、大悟はありがとうございます、と深く頭を下げた。
明後日、朝のうちから雲が覆う空の下で儀式は取り行われた。手持ちの武器やらで武装した男たちが沼の岸辺をぐるりと囲んでいる。村にいる侍はもちろんのこと、百姓の家からも武装した男たちが駆り出されている。というのも、大方の家では略奪をふせぐためや戦で駆り出される時に備えて、武器を持っているものだった。百姓とは言えど、時勢の波は丸腰では越えられないものなのである。しかしながら先にも書いた通り村は長いこと世の騒乱から離れていた。それもあって、いざとなった時に彼らが持ちだしてきた槍を存分に役だてられるものか、実際のところは怪しいところでもある。
男たちの先頭に加魅羅の巫女が立ち、その横に美座伶が巫女に手をひかれて立っている。さらにその横には岩山のような図体をした男が控えている。彼はどうやら太鼓の叩き手のようだった。名は陀羅牟といい、腰にはこん棒など差してどうにも神事の楽隊にしては物騒な雰囲気を醸し出していた。常に肩をいからせて誰彼構わず威嚇しているようであり、口数も少なく、たまに相手を見て不敵に笑う。とても愛想がいいとはお世辞にも言えぬ上、少々品のない男だった。
陀羅牟の反対側にはこれまた陀羅牟とは綺麗に対照的といえるような小柄で細身の体をした男が控えていた。彼の名は飛怒羅といい、笛の吹き手のようだった。腰にはその体格にはやや大振りな反り返った刀を差している。これが陀羅牟のこん棒に負けず劣らず、神事の楽隊に似つかわしくわない代物だった。陀羅牟と同じようにこの男もまた人を馬鹿にしたような嫌らしい顔つきを常に浮かべていた。時折、この陀羅牟と飛怒羅は顔を見合わせてほくそえんでいた。それを見る度に大悟に限らず、村の者たちは背中に嫌なものが走るのを感じていた。
「なんともいえない眺めやな」
堀兵衛が大悟のすぐ横でつぶやいた。その体には大きすぎる鎧をひきずるようにまとっている。どうやら家にある鎧を持ち出してきたようだった。
今、二人は岸辺に立ち並ぶ人々の群れから少し離れた後方の、小高い丘のようなところから前方の様子を伺っている。沼のほとりにたつ巫女や美座伶たちがやけに遠くに感じられた。
「なんでここにいるんだ」
大悟がいくらかすげなく訊くと、堀兵衛は大悟の方を向いてあほ、と言った。
「わしかて男や。美座伶と巫女さん守るためにこうして村のなかでもたくましい男たちが仰山駆り集められたんやぞ。その中にわしも入ってて何がおかしいんや。大悟、頼むから足引っ張るなよ」
堀兵衛が何か言って動く度に、鎧がかちゃかちゃと騒々しい音を立てた。
「怪物退治や、大悟。小便漏らすなよ」
「護琉座が出た時、木のうろで丸まって震えていたのはどこのどいつだったか忘れたのか」
そんな大悟の言葉を堀兵衛は体よく聞き流していたようだった。今は手にした直槍の握りを何度も撫でては握り、よく知りもしないのにその具合を確かめている。大悟は息巻く堀兵衛をよそに空を眺めた。朝からくすんだ色をしていたものの、今では重々しい雲が立ち込めており、眺めだけで息が詰まりそうな薄暗さだった。むさくるしい雲からそのまま降りてきたような生ぬるい空気を吹き散らす風もない。
突然二人のすぐ後ろで草藪ががさついたので、大悟と堀兵衛は思わず飛び上がりそうになった。堀兵衛が様にならない構えで槍を藪に向けるが、相手が何者にしろこれでは一発で打ち負かされそうなものだと思った。二人は少しの間息をするのも忘れて草藪を見張っていた。不意に見慣れた顔がいたずらっぽく歯を見せて笑いながら、藪の間からこちらを覗いてきたのを目にして、大悟と堀兵衛は同時に呆れたような溜息をついた。
「なんやお前か、哲太」
槍を下しながら堀兵衛があからさまに顔をしかめてみせると、哲太と呼ばれた二人と同い年くらいの若侍は藪をかき分けながら二人の肩に腕をかけた。
「もう元服したから『新城利明』という名前を父から頂いたんだよ」
利明さまと呼んでくれていいぞ、と利明は言うと、堀兵衛の手にした槍を見てさらににんまりと笑った。
「お前またどうしたんだ。こんなもん持って」
利明が面白そうに槍を指さしてきたので、堀兵衛は面倒臭そうに槍を持ち直して半ば背中に隠した。
「これで山ほどの大蛇を仕留めるわけだ。結構、結構。心強いもんだ」
利明(哲太)は武家の生まれではあったものの、正一郎と同じく百姓の子供たちと混じって村を遊び廻っていたので大悟とも堀兵衛とも旧知の仲だった。特に利明は堀兵衛にからむのが昔から好きで、堀兵衛も口ではうっとうしい奴と言いながら付き合いがよかった。村の男のなかでも小柄な堀兵衛に反して、利明はすらりと背が高かった。それもあって村の娘たちからも好かれているのだが、それでも当の利明はどちらかというと大悟や堀兵衛と遊びまわる方を好んでいた。しかし近頃では元服したこともあって家の仕事に連れまわされることに加えて、大悟や堀兵衛もそれぞれの稼業で忙しく、三人で会う機会は少なかった。
「おい大悟、安心しろよ。いざとなったら俺がお前も美座伶も守ってやるからな」
ついでにお前もな、と利明が堀兵衛をからかうと堀兵衛ははん、と鼻を鳴らして笑った。
「そんなこというてお前、でっかい蛇を目の前にしてその辺にのびてまうのがオチやないか」
なにを、と利明が言い返そうとするうちに、前の方で笛の音と太鼓を打つ音がして、三人の注意はそちらへ向いた。どうやら儀式は始まった様子だった。
加魅羅の巫女は美座伶の後ろに立ち、ゆったりとした動きで手に持った榊の枝を振るわせて舞を踊り始めた。辺りがすん、と静かになったあとで笛の音と太鼓の音が聞こえてきた。それに続いて、加魅羅の巫女の声が聞こえた気がした。巫女の何やら唱える声が風に乗り、確かに大悟のもとへと届いている。しかし、大悟も最初のうちは思い過ごしかと考えていた。巫女がいる場所から大悟達のいる場所までは大分距離を隔てているので、よほど声を張っても彼女の声がそうはっきりと聞こえるはずはなかった。ものの、それ声はやけにはっきりと聴こえてきたので、思わず堀兵衛の方を向いて訊いた。
「堀兵衛、お前巫女が何を言っているか聴こえるか?」
すると、堀兵衛は怪訝な顔をして訊き返した。
「巫女がなんだって?」
続いて利明が口を挟んだ。
「笛と太鼓の音しか聞こえないぞ」
確かに何か言っているようだったんだけど、と大悟が呟くと堀兵衛はさらに訝し気な表情を深めた。
「お前、あそこからここまでどんだけ離れとると思うとるんや。地獄耳でも届かんわ」
横目に利明が堀兵衛に耳打ちをして堀兵衛が首をかしげているのが見えた。二人とも心配で大悟の頭がおかしくなったではないかと案じているらしい。しかし、大悟は二人をよそに聴こえてくる巫女の声に再び注意をとられた。やまとの国の言葉かもわからないような言葉を、地を鳴らすような低い声で響かせて唱えている。もしかしたら、それは大悟の知らない古の言葉なのかもしれない。声は時折、強まったかと思うと耳元でささやくような声に変わったりと、その調子は絶えず起伏していった。怪物を清めるための言葉かと思い聴いているうちに大悟の背筋に怖気が走った。違う、これはそそのかしている。何かを呼んでいるのだ。
意味のわからない言葉を聴いているはずなのに、自分でもどうしてそのように感じ取ったのかがわからなかった。けれども、その直感は確かでいた間違いがないように大悟には思えていた。
そのまま身を固くして前方に目を凝らすと、舞を踊る巫女の姿が見える。その向こうに立つ美座伶の姿もなんとか見えた。確かに、あれほど遠くで何かを唱えていたとしてもここまで聴こえるはずがない。もしかすると堀兵衛の言った通りなのかもしれない。気を張りすぎて、少しどうかしているのではないか?大悟はそんなことも考えてみた。しかしそれでも耳元から呪詛を振り切ることは出来ず、見れば巫女の舞と呪詛の調子はぴたりと重なっているのだ。
そのうちに、はじめのうちでは意味のわからなかった巫女の呪詛が次第に聴き取り、意味を理解が出来るようになっていたので大悟は益々驚いた。いや、むしろ背筋に怖気が走った。本当に自分はどうかしているのかもしれない。それでも大悟は巫女の呪詛に耳を傾け続けた。大悟は呪詛のなかに、闇、や、世の終わる時、また捧げる、という言葉を何度か聴いた。しかし、まだおぼろげだ。すべては聴き取れない。大悟は自分の耳がさらに巫女の放つ言葉に慣れていくのを待っていた。すると。やがてはっきりとした言葉として次のことを聞き取った。
「古の荒ぶる神よ。我らはそなたのしもべ、その証にこの娘の魂を捧げんとする。清らかなる娘子を、食らえ」
大悟がやめろ、と叫ぶ雄たけびは沼から発せられたさらに大きな音で半ばかき消された。岩を砕くに等しい轟音と共に、何かが水を突き破って姿を現す。前方にいる者たちはいくらか水しぶきを受けたようだった。多くの者からどよめきがあがるが、それも間もなくぴたりと静まった。大悟も堀兵衛、利明、それから岸辺にいる男たちは皆、沼から姿を現したその巨大な蛇に目を奪われたのだ。
蛇は藤兵衛や六兵衛の話していた通り、いくつもの頭を持っていた。その頭が時折じゃれ合うように妖しく揺れる。一度護琉座なるものを目にしているとはいえ、その光景には体の底から震えが走った。誰かが矢を放て、という怒号を飛ばしたのだが、岸辺の男たちの大半は身動き一つ出来ない。蛇が動いた拍子に、体の芯を抜かれたようにへたり込むものも少なからずいた。利明も先ほどの威勢のよさはすっかり失せて、棒のように突っ立ちながら驚きに固まった表情で、時折口をぱくつかせながら蛇を見ていた。
大悟の隣で堀兵衛は目を大きく見開いたまま、震える声で言った。
「大悟、あれはあかん。大きすぎる」
大蛇の目は各々の頭がそれぞれ思い思いの方角に目を向けていた。けれども、再び加魅羅の巫女が呪詛を唱えるのが大悟の耳に届くと、呪詛はどうやら大蛇の耳にも届いていた様子だった。いくつもある頭が一斉に美座伶に目を向ける。そして、そのすべての目の先には美座伶がいた。
大悟の懐が急に重たくなった。何を考える間もなく着物のなかをまさぐると、大悟は森で美座伶が見つけたあの神器を取り出した。神棚の奥に置いておいたものを、今朝家を出る前に美座伶が指さしてどうしても持っていけ、とごねたものだから懐に入れておいたものだ。神器の柄は脈打ち、太陽が隠れて碌に光を受けてないというのに、黄金に塗られた部分は一際強く煌めいて見えた。
大蛇の頭が大きく口を開けたのを目にしたその時、大悟は神器を天に掲げた。絶えず体は自然に動いていた。まるで、ずっと昔からそうするべきえあることを知っていたように思えた。
大悟が神器を掲げたその時、強い光が辺りを包んだところまでは覚えている。神器の先が割れるようにひとりでに開いたところでその先から光が溢れて、大悟の視界を覆った。
次に視界が晴れた時、大悟はまるで自分の体が自分のものではないような心地のなかにいた。不意に何かがこちらへ突き出される事に気が付くと、その何かをひっ掴み、そのままそれを蹴りあげていた。それが先ほどまで遠くに見えていた大蛇の頭だと分かった時、同時に大悟はふとした拍子で沼の水面に映る自分の姿を見た。
体中を紫と紅のまだら模様が走り、胸には見たこともない宝玉のようなものが輝いている。宝玉は水のしずくを象ったような形をして青く輝いており、その周りを肩から胸にかけて金と銀で縁取られた鎧のようなものが包んでいた。顔は一番不可思議で奇怪な有様だった。銀色の顔はまるで兜で顔を覆ったようにも見えたが、大悟の目には仏像のようにも見えた。目も楕円の形をしていて乳白色に輝き、まるで石のようで少し気持ちが悪かった。足は脛のあたりまで水に浸かっている。沼面に映った自分の姿がまやかしでないとすれば、大悟は今までに見たこともない巨大な姿に変わって大蛇と対峙していた。
岸辺の方で美座伶がこちらを見上げていつものように笑いかけているのも見えた。よく見ると、「おにい」と自分を呼んでいる。美座伶の口の動きでわかった。美座伶には目の前の巨人が自分の義理の兄であることがわかっているのだ。そのすぐ後ろで陀羅牟と飛怒羅が間の抜けた顔をして口を大きく開けながらこちらを見上げており、その傍らでは加魅羅の巫女が自分をまっすぐ睨みつけている。大悟は束の間その顔を見つめかえしていた。
しかし、すぐに起き上がった大蛇が腕に咬みついてきたのでそちらに注意を向けた。大蛇の頭がまともに食らいついてきたというのに、痛みはそれほどに感じない。大悟は大蛇の頭を振り払うと、拳で次々と襲い来る大蛇の頭を突き返した。しかし、大蛇の頭の一つが不意に水中から踊り出して大悟の首元を締め付けてきた。その時に、大悟は自分がいつもしているように鼻や口で呼吸をしているのではないことに気が付いた。首を締められていても息苦しさというものは感じない。が、大蛇に締め付けられるうちに体の力が抜けていく。
そんな中、はずみで水面に映る自分を再び目にした時、大悟は自分の額にある水晶のようなものが赤く光り出したのを見た。自然と必要にかられるように体が動き出す。額の前で腕を交差させ、それを両脇に振り下ろすと、まだら模様だった自分の体色が赤一色の紋様へと変わり、体格も肩幅から腰つきまで、先ほどまでに比べて目に見えて大柄でがっしりとした体つきに変わった。
体の色が変わるまでどれほど力を入れても振りほどけなかった大蛇の首を、今では軽々と振りほどくことが出来た。それから、赤い体に変わった大悟は大きく拳を振りあげて大蛇の中心の頭に振り下ろした。拳を食らった大蛇はそのまま沼の底へと沈んでいく。その時に大きな波が起きて再び岸辺で戦いを見ていた者たちに水しぶきがかかった。水を浴びて美座伶の無邪気にはしゃいでいる声を聞いたような気がした。大悟が人々を脅かさぬようにとゆっくりと岸辺まで歩いていくと、それでも岸辺の男たちは持っていた槍や弓をこちらへ向けてきた。けれども攻撃してくる様子はない。皆、おびえているだけだ。大悟にはわかっていた。
不意に胸元の宝玉の色が急に青から赤い輝きに変わって点滅を始めた。鋭く鐘をうつような音も聞こえる。大悟はなんとはなしに、この体でいられる時間は限られているのだと悟った。
眼下に見える岸辺の景色がやけに近付いてきて見えるようになると、大悟には自分の体が縮んでいくのが分かった。堀兵衛と利明がこちら駆け寄ってくる。美座伶が無邪気に手を振っているのも見えていた。けれどもすべての景色、音、匂いは薄れていき、元の体に戻るころには大悟は気を失っていた。
意識を失っている間に、大悟は夢を見た。一つは、三つか四つの幼い自分が父に連れられて沼を眺めている夢だった。大悟を抱きかかえながら、沼の向こう側に連なる山々を見て父はこう言った。
「大悟、あの山々には鬼神様がいてな。いつも我々を見守り、もしもこの村を邪な闇が覆う時は我らの前に姿を表し、そのお光で闇を晴らしてくれるのだよ」
邪なる闇?と幼い大悟が訊くと父は続けて語った。
「人の心が呼ぶ怖ろしいものでな。山ほどの大きさの化け物に見える時もあれば、形なんか見えない時もある」
もっと怖ろしい姿をしてるかもしれんぞ、と父は大悟を脅かしながら笑った。大悟も意味がよくわからずにはしゃいで笑っていた。それから、父は大悟を見据えてこう語った。
「鬼神様は宿子を御選びになり、その者の力を借りて姿を現しなさる。その者が情けの心を持ってして鬼神様に縋る時には鬼神様はまことにお優しい方であられる。しかし、もしもその者の心が恨みや怒りに捕らわれて鬼に近付くときには鬼神様もまた阿修羅の如きお方に変わられる。さすればこの世もまた火の風吹く怖ろしい時代を迎えてしまうだろう」
大悟は頭の片隅でこれは過去の出来事ではないことに気が付いていた。おぼろげな記憶を辿ってみても、父の口から鬼神様の伝説を聞いたことはないとはっきりと言える。それでも父の声のなつかしさは体の芯までしみわたるようであり、大悟は父の声を介して告げられたその警告を胸にとどめた。
それから、景色は変わって、今度は大悟にはまったく理解のできない夢を見た。
不思議な形をした建物がところせましと並び立つめまいのするような場所で、護琉座のような大きさをした化け物が暴れていた。これもまた化け物のような大きさをした黄色い鳥だか凧だかわからないものが飛び回って時折、矢のようなものを放って化け物を牽制する。と、そのうちにどこからか大悟が変貌をとげたのとまったく同じ姿をした巨人がやってきて化け物と対峙した。その様子を見ているうちに、大悟にはそれが自分たちの生きている時代から途方もなく先の未来を見ているのだとわかった。巨人が最後に不思議な構えで光の帯のようなものを放つと、化け物は爆散した。そうして戦いを終えた巨人はやはり人の姿に戻るのだが、その姿は妙な着物を身に着けた青年だった。大悟はその青年を知らないはずなのに、どこか親しみを覚えた。顔立ちもどこか大悟に似ている。大悟が何か声をかけようとしたところで景色はぼやけていき、夢はそこで終わった。
目を覚ますと、堀兵衛の大きな目が随分と間近にこちらを覗き込んでいた。不意を突かれて思わず身じろぎをすると、今度はそのはずみで背中、胸、肩と問わず、軋むような痛みが走る。大悟は思わず呻き声を漏らした。
「大悟、目え覚ましたか」
堀兵衛の声は震えていた。美座伶も心配そうな顔をしてこちらを覗き込んでいる。二人が座っている反対側から今度は利明が顔を出してこちらを伺った。
「大悟、大丈夫か」
大悟は答えようにも背中の痛みで声が出せず、しばらく呻きながら辺りを伺った。自分の家ではないことは確かなのだが、屋根はある。どうやら、それなりにしっかりとした部屋に運ばれたようで、大悟はその部屋に見覚えがあった。少しばかり広々とした部屋に囲炉裏のなかで火が爆ぜる音がしている。それと、湯を沸かしているような音も聞こえていた。と、その時にまた別の声が部屋の入り口の方から聴こえてきた。
「お前たち、そんなに寄ってたかって病人を覗き込んじゃあ息苦して敵わんだろうに」
声の主はやはり大悟がよく知る声、沢の爺のものだった。沼の近くに一人で暮らしていおり、日々、村や辺りの山々にまつわる歴史や伝承を調べて書物にまとめていた。正一郎の大叔父でもあり、元々は彼も村仕事を先導する役目だったのだが、妻を亡くしてからは子供がいなかったためにその役目を甥である総一郎に譲り、自分は沼の側の森の中に立てた家でひっそりと暮らしている。村の者は変わったお方だと笑って話すものの、それでも彼は村人たちから厚く慕われていた。何か困ったことがあれば、村の者たちは沢の爺を頼り、沢の爺も快く知恵を貸す。その日頃の感謝の印として畑でとれたもののいくらかを沢の爺に持ってくる者たちもいたのでおかげで食うに困らず、悠々自適の日々を暮らしているというわけだった。
「大悟、具合はどうだ」
沢の爺は水の入った盆を持ってこちらを覗き込んでいた。それなりの齢にも関わらず、足腰はしっかりとしており、すっと立ち上がると村の誰よりも背が高かった。
「ええ、なんとか」
大悟は半身を起こしながら、自分の身に何が起きたのかを思い起こそうとした。窓から風が吹いて、汗の浮かんだ大悟の額を撫でた。まだ頭が重くてうまくものを考えられない。沢の爺が水の入った盆を側に置いた。
「ひどい汗だな、ほれ」
沢の爺が盆の水で浸してしぼった手ぬぐいを差し出してきたので、大悟は礼を言って受け取った。その時、何気なく盆の水を眺めて、そこに自分の顔が映るのを見た。
大悟はその時に沼の水面で見た、自分の変貌した摩訶不思議な姿のことを思い出した。
急に顔色を変えた大悟に、沢の爺は案じるようにそっと声をかけた。
「無理せず、休めよ。いくらでもいていいからな」
沢の爺がそう言ってまた別の部屋に引っ込んでいくと、大悟はしばらくうつむいていた。視界のすみで堀兵衛や利明が心配そうにこちらを伺い、美座伶が相変わらず無邪気な顔をしてこちらを見ているのがわかった。沼でのことが夢でないとすれば、堀兵衛や利明も大悟が巨人に変わり、大蛇と戦うところを見ていたはずなのだ。もしかすると、彼らは自分にも怯えているのかもしれない、そう思って顔を上げずにいると美座伶が沈黙を破った。
「おにい、これ」
大悟が顔を上げると、美座伶は手ぬぐいに包んだ例の神器を大悟に差し出した。巨人から元の姿へ戻った時、はずみで落としてしまっていたようだった。大悟は神器を手に取ろうとしたのだが、伸ばした手が思わず震えていることに気が付いた。大悟は手を引っ込めてその手を抱え込むようにうずくまった。それから、また少し黙って大悟は堀兵衛に訊いた。
「ここまで二人が?」
そうやで、と堀兵衛はいつになく優しく答えた。
「他の男たちは大蛇に腰を抜かして使い物にならんしな。最初、あのおっかない陀羅牟いう奴がわしらをどこかしらに連れて行こうとしたんや。けれども正一郎様がどさくさに紛れてうまく逃がしてくれてな。そっからはここまでわしらが運んできたってわけや。まあ、なんてことなかったで」
すると、利明が口を挟んだ。
「途中からは俺が一人で運んだんだよ。堀兵衛は肩が痛くて仕方がないっていうから」
お前また余計なことを、と堀兵衛は怒ったような顔をして見せたのだが、彼らが場を和ませようとしているのが大悟にはわかった。しかし、すぐに大悟は堀兵衛の言っていた他の男たちのことが気にかかった。彼らが恐怖したのはおそらく大蛇だけではない、巨人になった自分にも恐怖したに違いない。
「二人は怖くないのか?私がどうなったのか先ほど見たはずなのに」
堀兵衛と利明は口をつぐんだ。けれども堀兵衛はそれからすぐに大悟をまっすぐと見据えて言った。
「怖くなんかあらへん。少しばかりでかくなろうが、お前はお前や」
そうやろ?と堀兵衛がと秋の方を向くと、利明も「おう、もちろんよ」と深くうなずいた。けれどもすぐに利明は真剣な面持ちで大悟に訊いた。
「でも、大悟。ありゃあ一体なんだ?いつからあんなことが出来るようになった?」
「あの姿になったのはあれが初めてだよ」
大悟はそう答えると、森で例の神器を見つけたところから話すことにした。背中を上げて少し楽になったおかげでその時には幾分か声も出やすくなっていた。
「この間、美座伶が夜の森でこれを拾ってきたんだ」
そう言って大悟は手元に転がる神器を見つめた。
「美座伶は最初、これを見つけた時にこれは私のだ、と言って渡してきたんだけれども、私には美座伶が何を言っているのかがわからなかった。けれども護琉座を見た時もこれは私の手元で震えてまるで生きているようだった。さっきも大蛇が沼から姿を現した時に急に懐で震えたんだ。まるで私にそれを使え、というように」
「大悟、お前、それはおそらく鬼神様じゃないのか」
沢の爺は皆の話を聞きつけたのか、そんなことを言いながらするりと部屋に戻ってきた。
「鬼神様?」
と堀兵衛が訊くと、沢の爺は少し驚いた様子だった。
「村に伝わる守り神だよ。何、お前たち訊いたことがないのか」
堀兵衛と利明が顔を見合わせて首をかしげているのを見ると、大悟はそんはずない、と口を挟んだ。
「祭りなんかでよく翁が話して聞かせてくれただろう。覚えていないだけだよ」
それでも二人が思い出しかねている様子なので、改めて沢の爺は語り始めた。
「村には鬼神様という守り神がいると伝えられていてな。何、『鬼』なんて物騒な名前をしているがこれは鬼神様が戦いによって村を守ってきたことから来ている。山のような大きさをしていることから別の場所にいくとでいだらとか、だいだら、なんて呼ばれていることもある」
そこまで言うと、沢の爺は沸いた湯で茶を入れ始めた。
「さて、この鬼神様は普段は山の中に隠れている。しかし村を邪なる闇が襲う時には、清らかなる人の心を持ちて古の一族の血を引くものを宿り子として御選びになる。そして、その者の体に宿りて力を与えるのだ。大悟、今回はそれがお前だったということだな」
その話を聞きながら大悟は今しがた眠っている間に見た夢を、その夢の中で父が同じような伝承を語って聞かせてくれたことを思い出した。それからその伝承には続きがあることも。
「沢の爺、その伝承には続きがあるのではないですか」
大悟がそう言うと、沢の爺は不意をつかれたような顔つきで訊き返した。
「続きとな?」
「宿り子に選ばれた者が情けの心を持って鬼神様に頼るならば、鬼神様は心優しいお方でいられる――けれども、もしも宿り子が恨みや怒りに捕らわれて鬼とならんとする時、鬼神様もまた阿修羅の如きお方にお変わりになり、この世は火の風が吹く時代となる」
大悟が話し終えると、水を打ったように静かになった。美座伶は相変わらず、つかみどころのない無垢な表情で大悟を見つめている。堀兵衛は大悟と沢の爺を交互に見た。利明はというと固唾を飲んで大悟の話を咀嚼しているように見えたし、沢の爺は眉間のしわが少しばかり深くなっているところを見るに、言葉に出さずとも多くの考えを巡らせている様子だった。
「そのような話を聞いたのは初めてだよ。しかし大悟、お前それをどこで訊いた?」
沢の爺に訊かれて大悟は不意に恥ずかしくなりながら答えた。
「夢です、いましがたみた夢の中で」
すると、利明はほっとした様子で笑い出した。
「何だ、大悟。ただの夢か」
そう言って利明は釣られて堀兵衛も笑いだすものと思って彼の方へ顔を向けたものの、堀兵衛は表情を曇らせたまま利明に首を振って見せた。
「いいや、利明。ここまで来るとただの夢とも思われへん。大悟、詳しくその夢のことを話してくれんか」
堀兵衛に促されて、大悟は夢の細かい部分まで思い出せる限りを改めて話し始めた。その中で先ほど一度は笑った利明も次第に表情を固くし、沢の爺はしわの寄った表情を崩さないまま一切口を挟まずに聞いていた。大悟が話を終えると、堀兵衛がそっと沢の爺に訊いた。
「沢の爺、どう思われますか」
すると、沢の爺は少しだけ表情を和らげながらうないてみせると大悟を見据えてようやく口を開いた。
「大悟、私にもそれがただの夢だと思えぬ。実際ここまで摩訶不思議なことばかり起きているでな。邪なる闇、というのももしかすると本当にこの村に襲い掛かろうとしているのかもしれんしな」
「沢の爺、その邪なる闇っていうのは」
利明が訊くと、沢の爺はふうむ、と唸って考えると少しばかり慎重な口調で答えた。
「例えば、形あるもののなかで言えば大悟たちがこの間目にしたという護琉座さまなるお方、これも闇のお方だろう」
沢の爺がそう言うと、堀兵衛は先日護琉座を目撃した夜のことを思い出したのか少しばかり血の気が引いたような顔色になった。
「それじゃあ、沼の大蛇は?」
利明が重ねて訊くと、沢の爺はいやいや、と首を振った。
「あれはもとから沼に住まう、本来は神聖なる神の類のお方じゃ。何かのきっかけで心乱していたに違いあるまい」
沢の爺の言葉に、大悟は加魅羅の巫女が大蛇をそそのかしているように見えたことを思いだした。
「しかし、大悟のあの一撃で大蛇様も頭が冷えただろう。しばらくは沼の底から顔を出すことも乱暴をすることもあるまい」
「あの一撃って、見てはったんですか」
堀兵衛が驚いて訊くと、沢の爺は軽やかに笑ってうなずいた。
「沼のあたりが騒がしいもんだからな。表に出て見れば伝承で聞いた大蛇様とこれまた話に聞いた鬼神様の姿があったもんでな。しばらく拝んでたのだよ」
「怖ろしくはなかったんですか。私たちだって肝が冷える思いで眺めていましたよ」
今度は利明が目を丸くしながら訊いた。すると、沢の爺はさっぱりとした顔をして、それも少し笑って答えた。
「年をとるとあまり驚かなくなるもんでな。さすがにあれが大悟だったというのには少々驚いているが」
宗像の屋敷に戻ってきた正一郎は、にわかに外が騒がしくなったことに気が付いて不思議に思った。人の流れが垣の外をせわしく行き交う。また何か起きたのだろうか。聞き耳を立てているうちに、村人たちの「急げ」という言葉や「こっちだ」という呼びかけが聞こえてきた。やはり屋敷の外でまた何かあったらしいと見ると、せわしなく働いていた小間使いの喜七に尋ねた。
「喜七、あれは何の騒ぎだ」
呼び止められた喜七はちょうど縁側に腰をかけていた正一郎に顔を近付けて、声を潜めた。
「へえ、若旦那。あれは加魅羅の巫女様が集めた討伐隊でさあ」
「討伐隊?大蛇はだいご、いや、鬼神様に退治されたではないか」
「ですから」
喜七は自分の声が大きすぎたように言葉を切って、辺りを伺った。
「その鬼神様を退治なさるそうですよ。なんでも鬼神様が宿られた宿子を見たものが大勢いるとかで。その者がまた鬼神様の姿にならないうちに討伐してしまおうって話ですよ」
「馬鹿な、鬼神様と言えば村でも伝わる尊きお方。おまけに大蛇を皆の前で退治したとあらば祭りでも催して讃えるのが習わしだろうに」
正一郎が憤慨し声を荒げたので、喜七は慌てて宥めた。
「それが加魅羅の巫女様が言うにはそうではないのだそうです。巫女様が言うには、鬼神様こそが諸悪の根源。鬼神様をうち払わねば、村に災いが起きるとかで」
それだけ訊くと、正一郎は喜七の肩を掴んで問いただした。
「連中はどこに向かっている」
正一郎のあまりの剣幕に、喜七は顔を青くしておびえながらか細い声で答えた。
「確か、手始めに沼近くから探すとかで。巫女様が言うには、鬼神様は人の子に宿りなさるとかいう話で、なんでも噂じゃあ大悟がそうじゃないかって。でもその大悟もあれから姿を消しているそうで」
喜七がそう言うと、正一郎が強く掴んだ手の力がゆるんだ。
自分も鬼神が大悟に戻る姿を目のあたりにしていた。だからといって大悟に対して怯える気持ちは不思議となかった。鬼神の姿を思い返しても、だ。むしろあの鬼神の姿を見たその時からそれが大悟であると言われたなら無理なくうなずけるような心地がしていたのだ。しかし、あの時正一郎はいまだかつて目にしたことのない変身を遂げた大悟の体が心配だった。それゆえ大悟の体を労わり、うまく逃がして大叔父様のところへ逃がしたつもりだったのだが。
このままでは大悟が危ない。おそらく大悟だけではなく、美座伶、ひょっとしたら堀兵衛や新城の家の若造にも危険が及ぶだろう。
「沼の近くと言ったな」
正一郎が厳しい声でもう一度訊くころには、喜七は泡でも吹かんばかりの顔つきをしていた。
「ええ、もしかしたら沢の爺がかくまっているんじゃないかと申すものもおりました」
それだけ訊くと、正一郎は駆けだしていた。沼のあたりの抜け道なら子供の時分より心得ている。討伐隊より先回りして沢の爺の家へとたどり着けるだろうが、それもわずかの差と言ったところだ。果たして無事に大悟達を逃がしてやれるかどうか。
途中、藪の中を駆け抜ける途中で少し離れた道を進む討伐隊の掲げる松明をみた。もう夜の帳が大分降りており、こもるような暗闇のなかでおぼろげに見える松明は、妖しく揺れる魔物のようだった。正一郎は息を潜めて気配を殺しながら、裏手から屋敷を出ると、なるべく先を急いだ。
薄暗がりの社のなかでいくらかの灯かりが灯っているのだが、その光はかえって奥に立ち込める暗闇を深くした。簡素な堂内にひざまずいた加魅羅の巫女はゆっくりと顔を上げると、奥の壁に描かれた絵に向かって睨むように一瞥を向けた。それからゆったりとしたうやうやしい動作で立ち上がると。彼女は一心不乱に舞を踊り始めたのだった。壁には黒い炎に包まれたたくましい鬼神の姿が描かれていのだが、その姿の上半分は堂内を包む影に阻まれてここからでは見えなかった。
荒ぶるような舞いは徐々に激しさを増すものの、足音は闇に吸い込まれるようにして
静かだった。巫女の息遣いもとっくのとうに魂の温もりを失ったようで音を立てず、ただただ少ない灯かりを揺さぶるように影は踊っている。それを囲む闇の『歓喜』を加魅羅の巫女は確かに感じ取っていた。元より自分はこの『闇』に使えるもの。人の本質は闇。裏切り、血にまみれて、愛欲を弄んできた上にこの国の歴史は成り立っている。そしてやがては終末の暗がりが我らを永遠の静寂へといざなうのだ。それなのに何故、人は闇を恐れるのか。
舞が終ると、加魅羅の巫女は堂の扉を勢いよく開けた。夕暮れの薄暗い空から冷たい風が下りる。風は汗に濡れた巫女の髪を撫でた。
小高い山の上の堂から眼下を見渡すと、かがり火を持った男たちはすでに集まっていた。何十人もの者たちが虚ろな目をして言葉なく巫女の指示を待つ。松明を持っていない方の手には皆、それぞれに刀やら武器代わりの農具やらを手にしている。皆あらかじめ巫女が秘術をかけて手中に収めておいたものたちだった。
言葉もなく巫女がある一点を指で指し示すと男たちは皆、回れ右をして鈍重な動きで巫女の指した方角へ歩き始めた。巫女が指さしたのは沼のあたり、村で頼りにされる沢の爺なるものが大悟たちを匿っているはずの場所だった。
夕闇が大分濃くなった頃に、荒々しく土間に駆け込む音を聞きつけて沢の爺、堀兵衛、光命が顔をのぞかせた。見ると、正一郎が今にも倒れんばかりの様相で駆け込んできた。
「どうした、どうした騒がしい」
そう言って沢の爺が肩を支えてやると、正一郎は息を切らしながら言った。
「沢の爺さま、大悟はいますか」
沢の爺が答える前に大悟が重い体をひきずって床から這い出てきた。
「正一郎さま」
大悟の声を聞きつけると、正一郎は周りのものにも聞こえるように伝えた。
「皆逃げろ、村のものたちが巫女にそそのかされて討伐隊と名打って大悟をとらえようとしている」
そんな、と利明が声を漏らすと、同時に沢の爺が鋭い声を発した。
「正一郎、お前怪我をしているじゃないか」
見れば、肩のところに血が滲んでシミになっていた。しかし幸い切り口はそれほど大きくなく、傷も浅いようだった。
「来る途中、矢がかすっただけです。ですが、どうやら彼らは正気を失っているようだ。この私にでさえ躊躇なく矢を放ったのですから」
そこまで言うと正一郎は自分が来た道の方を振り返って伺った。
「さあ、ここにいたら皆命をとられてしまう。早く逃げるんだ」
沢の爺は利明と堀兵衛に向き直った。
「二人のどちらか、大悟を支えてやりなさい。それから美座伶ものことも頼んだぞ」
すると、大悟はゆっくりと立ち上がって言った。
「心配には及びません。私は一人で歩けます。さあ、沢の爺も早く行きましょう」
すると、沢の爺は手に持っていた杖を木刀のように構えて言った。
「いや、わしはここで時間を稼ぐ。若者どもは裏から逃げい」
それを聞いて、堀兵衛は首を振った。
「そんな無茶や、杖だけで大勢を相手にするなんて」
その時、沢の爺が堀兵衛を見据えると、堀兵衛はその眼の中にいつもの沢の爺のものとは違う、研ぎ澄まされた深淵を見た気がした。彼がかつてもののふであったころ常に携えていたその目の鋭い光は堀兵衛にそれ以上のことは言わせなかった。
「何、あなどりめされるな」
沢の爺が軽い調子で笑って言うと、正一郎も傍らにたって腰に差した太刀を抜きかけた。
が、知った村人相手の殺生に迷い、手近な農具を手に取った。
「私も残ります。堀兵衛、利明、大悟と美座伶を連れて逃げてくれ」
「正一郎様」
堀兵衛に肩を支えられたままで大悟がで正一郎の方を振り返ろうとすると、正一郎は鋭い声で再度告げた。
「――早く。逃げるんだ」
隣で堀兵衛が固唾を飲むのが聞こえた。それから堀兵衛は有無を言わさぬ調子で身を翻すと、大悟を半ば引っ張り出すように裏口へと向かった。すぐ横には美座伶が大悟の手をとったまま懸命に歩幅を合わせてついて歩き、後ろでは利明がしんがりを務めていた。
大悟たちが出ていくのとは反対の方角から、微かに多くの足音が連なって近付くのが聞こえたような気がした。乱れも知らず拍子の揃ったその足音に、大悟は言い知れぬ恐怖を感じた。たとえ、それが人間のものであり、ひょっとしたら自分たちの知った人々のものだとしても、大蛇の咆哮よりおそろしいものを耳にした心地だった。
大悟たちは裏口から出てすぐの草藪をかき分けて森の中へと入っていった。足音を立てないようにと気をつけて歩いてくのだがそれでも時折、踏みしめた枝が音を立てた。大悟たちはその度に飛び上がりそうになりながら、度々後ろを振り返った。今のところは追手はやってこないようだった。
しばらく歩いているうちに夜の闇は濃くなり、森の中は静かになった。カラスの声も聞こえない。どうかすると、音を立てるべき生き物たちが皆して森を去っていったみたいに感じられた。
「静かだな」
大悟は何気なく口にしながら自分がその静寂に少しおののいていることに気が付いた。傍らで美座伶も不思議そうに辺りを見回している。薄闇のなかの森は少しばかりもやがかかって見えた。
「あの二人、大丈夫だろうか」
利明が悔しさを噛み締めたような表情で元来た道を見つめて言った。
「やっぱり、俺だけでも戻って助太刀しようか」
やめとき、と堀兵衛がすかさず止めた。
「あの二人に任せた方がええ」
すると、利明は堀兵衛の方を向いて食ってかかった。
「だけど、俺も侍の子だぞ」
「だったら最後まで大悟や美座伶を守ってやりや。それだって武士の務めやろう」
利明はさらに何か言い返そうとしたものの、その時に美座伶が二人を引き剥がすような素振りをしながら割って入った。
「喧嘩、だめ」
堀兵衛も利明も我に帰った様子で、口をつぐんだものの、次には大悟がこんなことを言い出した。
「いや、皆で戻りましょう。やっぱり二人を見殺しには出来ない」
「大悟、お前何を言うんとるや」
堀兵衛が声を上げた。この時には利明も大悟に悲し気な表情で首を振って見せた。
「大悟、堀兵衛の言う通りだ。お前と美座伶に何かあったら」
「その時は」
大悟がそう言って、神器を懐から取り出すと、堀兵衛も利明もただならぬ大悟の気迫に押し黙った。
「その時には私が皆を守る」
その時、森の前方から不意に飛び出してくるいくつもの足音に大悟たちは注意を奪われた。急に前方が明るくなったと思えば、それは討伐隊のかがり火だった。先頭には加魅羅の巫女が澄ました表情で立ち尽くし、その後ろに控える七、八人の男たちが隊列を組んで弓を構えている。皆、村の男たちで夢うつつのような虚ろな表情をしており、目の中の瞳は白く濁っていた。完全に正気を失っているのが見て取れる。これはもはやそそのかしたというよりも惑わせたというべきものだろう。
しかしそれがわかっていながらも、大悟は村の男たちを目にすると胸を切られるような悲しみに襲われた。皆知っている者たちだった。その彼らが今や自分たちに弓を向けているのである。おそらく加魅羅にはこの方法が大悟を追い詰めるのに手っ取り早いことなのだと分かっていたのだろう。そう考えると、悲しみに伴って大悟の中には怒りが芽生え始めていた。
「神妙にいたせ。でなければお前だけの命ではすまないぞ」
加魅羅の巫女が大悟に向かって静かにそう言うと、大悟は男たちの弓のいくつかが堀兵衛や美座伶を捕えているのを見た。利明も咄嗟に刀を抜いたが、何人かの男たちに弓を構えられては手の出しようがなかった。
やがて、加魅羅の巫女が大悟に歩みよるとそっと彼の肩に手を置いた。
「怖ろしいだろう、これが人というものだ。恐れに身を任せていくらでも血を流すことが出来る。例え、罪なき幼子であっても」
そう言って加魅羅の巫女は美座伶の頬に手を触れたので、大悟は我慢ならずにその手を振り払った。
「やめろ」
加魅羅の巫女は特に動じる様子もなく、大悟にほほ笑みかけた。
「さすがは鬼神じゃ。その顔。最初何故そなたのような穏やかな性分の年端も行かぬ若造が選ばれたのか不思議じゃった。けれどもそなたのなかにもそれに相応しい荒ぶる魂が眠っていたようじゃ」
加魅羅の巫女は今度は大悟の頬に手を触れた。大悟はのけぞってその手ををよけると、加魅羅の巫女を鋭い眼差しで睨みつけた。
「どうして巫女であるあなたがこのようなひどいことを」
すると、加魅羅の巫女は顔を近付けて囁いた。
「巫女であるからこそじゃ。神の諸行はむごたらしいもの。私はそれに従うまでのことよ」
加魅羅の巫女はどこか遠くを漂うような恍惚の表情を浮かべた。
「私は待っていたのじゃ、大悟。この地に鬼神が目覚めた時にその真の姿を現すのを。そなたがこの前変わったあの姿はあのお方の本当の姿ではない。鬼神様の本質は闇。その名を冥神様として伝えられてきた。そう、人間がそうであればこそ人の子に宿る鬼神もまた闇を負った神となるのだよ」
熱に浮かされたように目を見開いた巫女の様子を見て大悟は言葉もなく固唾を飲んだ。堀兵衛は自分に向けられた弓の先と巫女と大悟を代わる代わる見ては顔を青ざめさせて今にも泡を吹きそうな始末だった。美座伶はというと、いつの間にか巫女と大悟の間に立ちはだかり、まるで大悟をかばおうとするような格好をしている。そのいじらしさを目にした大悟は自分のなかで先ほどから燻っていた怒りが勢いづき、体中を熱く駆け巡るのを感じ取った。村人たちをそそのかし、大悟たちの運命を弄ばんとする巫女に対してはもちろんのこと、弓を構えている村人たちにも怒りの矛先を向けかけていた。正気ではないとはいえ、平然と美座伶や堀兵衛にまで弓を向けるその様は大悟の中で悲しみから憎しみに転じようとしていた。
「さあ、大悟。鬼神に変われ。そしてこやつらを皆踏みつぶせ。でなれけばお前の妹と幼馴染の命はないぞ」
巫女に言われて大悟は懐から神器を取り出した。暗闇のせいか、一瞬大悟には神器の色の金色に塗られていた部分が黒く染まって見えた。それから夢のなかで父が大悟に言った言葉が頭によぎった。
「――その者が情けの心を持ってして鬼神様に縋る時には鬼神様はまことにお優しい方であられる。しかし、もしもその者の心が恨みや怒りに捕らわれて鬼に近付くときには鬼神様もまた阿修羅の如きお方に変わられる。さすればこの世もまた火の風吹く怖ろしい時代を迎えてしまうだろう」
周りの音が遠のいて、混ざりあっていくような心地がした。加えて、おぼろげではあるが堀兵衛と利明が大悟、よせ、と叫んでいるのを聞いた気もした。美座伶も一心に首を横に振っているのが見える。しかし、この状況を打開するには――。神器が今までと違う振動を始めた、人間の鼓動のような、今までの促すような調子とは違う、生々しい鼓動。大悟は神器の柄を固く握りしめて今にも天に掲げようとした。
しかしその時、大悟は多くの叫び声と木々の枝がいくつも折れる音を聞いた。不意の子とに驚き、我に返って辺りを見回したが、それが何者による音なのかもわからない。おまけに不意に視界は暗く覆われて、大悟はすべてがわからなくなっていた。大きな何かに包まれながら、自分がとても高い所へ持ち上げられる心地もする。いくつかの大きな振動を感じたのちに宙にうくような感触がして、辺りを風を切る音が覆った。ずっと手を引かれている感触と周りで口々に驚きと動揺の声がすることから、すぐ近くに美座伶や堀兵衛、利明がいることはわかっていた。
「皆、大丈夫か」
大悟が声をかけると堀兵衛や利明も口々に返事をした。
「美座伶、大丈夫か。怪我はないか」
大悟がそう訊くと、やはりすぐ近くで美座伶の声がした。
「美座伶、元気」
声の調子から暗闇でも美座伶がにっこりと笑っているのがわかった。
「こいつは俺たちをどこへ連れて行こうとしているんだ」
暗闇のなかで利明の声が言うと、堀兵衛の声がわからん、と返すのが聞こえてきた。
「でもあんまり騒がん方がええかもしれん。『これ』がもし護琉座みたいな化け物だったら」
堀兵衛はそんなことを話していたものの、自分たちを包んでいるその『何か』は押しつぶすでもなく優しく包むように四人を覆っていた。風を切る音に慣れていったことと、堀兵衛や利明が声を上げるのに疲れて押し黙ってしまったため、辺りはすうっと静かになったようだった。そのうちに大悟は優し気な風の音に促されるように、少しばかりうつらうつらとしはじめた。緊張が解けたことと、まだ体が本調子ではないのに無理をして逃げ回ったせいだった。遠のく意識の中で大悟は再び鬼神の姿に変わった自分を見た。しかし、それは沼で変わった姿とは違っていて、全身が漆黒に染まった体をしている。黒い鬼神の足元には炎で焼き尽くされた焼け跡が広がっており、その中に大悟は見慣れた寺の残骸や、宗像の家の屋敷の屋根のようなものを見た。それは鬼神が村を滅ぼした姿だった。
我に帰って目を覚ますと、徐々に自分たちを包む巨大な物体が移動の速度を下げ、降下し始めていることに気が付いた。ここまでの距離はそこまで長くはなかったような気もした。けれども、もしかすると大悟が時間の感覚を失っているうちに大分長い距離を移動したのかもしれない。
足元に地面を感じると、ようやく視界が開けた。夜の闇のせいか、辺りは大きな影が差したようにすっかり真っ暗だった。けれども段々と目が慣れてくると、辺りの風景が浮かび上がってくる。そこは山の中腹だった。イルマの母に連れられてこられた山にどこか似ていた。最初はよろけながらも地面に立ってみると、足元で草が背の低い草が風に揺れてくすぐるようだった。
周りを見ると、やはりすぐ手が届くほどの近くに美座伶が、少し離れて堀兵衛と利明が立ち尽くして辺りを見回している。そのうちに堀兵衛が大悟の背後の空を指さして目を見開きながら声を上げた。
「おい、あれ」
大悟が振り向いた時には、彼の背後は巨大な影に覆われていた。その全貌を確かめるには随分と首を逸らして上を見上げなければならかったのだが、次第に彼はその正体を知った。巨人が彼らを見下ろしていた。それも大悟が沼で変化したのに少しばかり似た巨人だった。目はやはり乳白色の宝玉のようでいて大悟が変わったものととてもよく似ていのだが、頭の形は丸っこく、とさかのようなものが突き出ていた。銀色の体は赤い紋様が走り、胸と肩には寺の鐘にうつような鋲のようなものがある。そしてやはり胸には青い宝玉が輝いていた。
「おい、お前たち」
少し離れた所から声がしたと思うと、沢の爺と正一郎がこちらへ駆け寄ってくるところだった。沢の爺は大悟の姿を目にして目を見張った。
「何、大悟。私たちを助けてくれたのはお前ではなかったのか」
「いえ、私たちも彼に助けられたようです」
大悟がそう言うと、巨人は大悟たちを見下ろし、うなずいてみせた。しばらくは一同もその姿に目を奪われ圧倒されていた。やがて正一郎が大悟たちの方へと向き直り、大悟たちに合流するまでのことを話した。
「討伐隊の数があまりに多くてな。私も手傷を負ってもうだめかという時に、この鬼神様が我らを救い出してここまで連れてきてくれたのだ」
確かに、見れば正一郎が庇っている肩は布にしばられており、その布には血が滲んでいた。
「けれどもよかった。皆、無事でいてくれて」
大悟が皆に向けて言ったところで、巨人の体が徐々に縮み始めた。やがては大悟たちと同じくらいの背丈までに変わると、巨人の姿は僧侶の格好をした見知らぬ若者の姿へと変化を遂げた。若者は大悟たちの顔を順に眺めると、ゆっくりと口を開いた。
「いや、無事で何よりだ」
大悟たちにもしっかりと伝わる明瞭さでありながら、どこか妙に平坦な調子のある声だった。普通ならば多少は声に絡むであろう感情の起伏というものが、大きく抜けているようにも聞こえる。
「私の名前は光命。というのもこれは今私が体を借りているこの若者の名前であるが。真の名は楚鳳と申す」
ぞふぃー?と美座伶が繰り返した。
「左様。私はあの空に見えるよりも遥か遠い星からやってきた者だ。太陽系を通りかかったところでただならぬ気配を感じたために、この地に降り立ったのだ。しかし、おわかりの通りあの姿ではどうしても目立ってしまう。それゆえにこうして若き僧の体を借りて見張っていたという訳だ」
大悟はつい戸惑いながら近くにいた堀兵衛と利明の方を見た。見れば堀兵衛と利明も、顔を見合わせて光命の話が一言でも理解出来たかを確かめ合っているようだった。無論、互いに理解は少ないと認めたようだったが。
「あなたは私たちを助けてくれたのですか?」
大悟がそう訊くと、光命は少し口元を緩めてうなずいた。
「もちろん。私の使命はか弱き生命を守ること」
か弱きとは俺たちのことか、と利明が横槍を入れたものの、正一郎に押しとどめられた。それから、光命は大悟の方を向いて言った。
「それに君は光の子だ。君がいなくては、この村に忍び寄る闇を追い払うことはできない」
大悟はその時、光命の目が大悟の懐、神器のしまわれたところへ向けられたのを見た。彼もまた、大悟が鬼神に変わることに気が付いているのだ。
「さて、あなた方がいたところから二つ離れた山までお連れした訳だが」
光命は一同を見回し、それから辺りを見渡して言った。
「追手の方もしばらくは追いつけまい。今晩はこのあたりでゆっくり休みましょう。あとのことは日が出ているうちに考えたほうがいい」
光命はそこまで言うと、大悟を目で捉えた。
「その方が考えることも明快になるかもしれない」
大悟たちを連れてその場を飛び去った巨人は、山々の連なる方へと向かっているようだった。巨人の飛び去る早さゆえに肉眼で見ることは敵わないながらも、加魅羅は秘術を使ってその気配を追っていたのだった。しかし、途中でに巨人の方でも気づかれたようだ。あえなく加魅羅の追跡はまかれてしまった。大悟たちの気配を探ろうとしても、どうやら巨人が邪魔をしているらしく辿ることが出来ない。それであれば、と加魅羅はまじないを口にした。その場に立ち尽くし、風をついばむような小さな声でまじないを唱える加魅羅のその周りを、虚ろな表情をした討伐隊のものたちが我を忘れて漂うように歩きまわる。彼らが手にした松明が、踊る亡霊のようにゆらりゆらりと影の濃くなった森の中を舞っていた。正気の者がその様を目にしたならばその異様さに森に響く悲鳴を上げただろう。もしくは声も出せずにその場にしりもちをついて腰を抜かしていたことであろう。
やがて、先ほど巨人が現れた時のように森を影が覆い、辺りに耳を裂かんとばかりに甲高い嘶きが響き渡った。加魅羅が呼び出した『それ』は森の辺りを旋回しながら森に影を落とし、巨大な翼をはためかせている。加魅羅をその影を見上げながら愛撫するようにその名を口にした。
「滅琉羽」
光命の言う通り、一同は山の中腹で一晩明かした。
朝が来て大悟たちが順々に目を覚ますと、沢の爺と光命はすでに起きて火の側で辺りの様子を見張っているところであった。
「ずっと起きていたのですか」
と利明が驚いて訊くと、沢の爺が答えた。
「何、私はしばらく前から目を覚ましたんだ。年寄りはどうにも早起きでな」
それから光命も平坦な調子で答えた。
「私は大丈夫。少し眠れば体はもつ」
そんな話をしているところに、やはり早くから目を覚ましていたらしい正一郎が戻ってきた。
「起きたかお前たち。朝飯にしよう」
正一郎はどこからか釣った魚を持ち合わせていた風呂敷で不格好に包んでかかげて見せた。
「これは一体どこで」
魚を見た利明が驚いた声を上げると、正一郎は少し得意げな表情を浮かべた。
「近くに川があってな。光命殿が教えてくれたのだ」
そう言いながら光命が目に入った途端、正一郎は罰の悪い顔を浮かべた。
「光命殿は僧の姿をされているが、いかがいたしましょう。僧でありながら魚を口にするというのが差し支えるのではないかと」
「私は大丈夫。ここに来るまでに山菜や野菜の貯えはしてあるので」
食事が終ると、一同はこの先のことを話し合った。
「私もこの辺りのことは知っている」
と沢の爺。
「このまま山を降りると湖があるはず。回り込んでさらに向こうへいけばそこにも村がある。古くからの知り合いがいる村でな。しばらくはそこへ身を寄せようぞ」
「しかし、そうたやすくよそ者を受け入れるでしょうか」
正一郎が懸念をしめした。
「それも訳もきかずに。かといって大蛇の話や鬼神の話などをしたところで到底信じますまい」
「無論。こちらとて誰が馬鹿正直にすべて話すものか」
沢の爺はそう言ってからりと笑った。
「村を出た理由はうまく言いつくろって身を寄せるだけでもいい。ひとまずは体勢を立て直すのだ」
年若き大悟、美座伶、堀兵衛、利明は沢の爺と正一郎の話し合いを見守るばかりだった。この場合、年長者の判断に任せるのがいいことは確かだった。光命はといえば、大悟たちと同じように口を挟まずに二人の会議を聞いていたかと思うと、辺りの花やら鳥やら、近くを舞う蝶やらに眼をうつしては一つ一つ見入っている。その様子を大悟が不思議そうに見ていると、大悟の視線に気づいた光命が静かに言った。
「何、私にとっては一つ一つが初めてなものでな」
結局、一同は沢の爺の提案した通り、湖の向こうの近くにあるという村へ向かうということで落ち着いた。
道は順調とは言い難かった。山道は普段大悟たちが遊びまわっていたような野山とは違い幾分か険しく、おまけに一同の疲労も癒えてはいなかった。利明が横で鞭うつような勢いで歩かせていたものの、とうとう堀兵衛はへたりこんでしまい、その様子を見た光命が一休みしよう、と一同に声をかけた。彼らはそのまま川岸の近くでしばし休息をとることとなった。
泡立つように弾ける川の水面をぼんやりと大悟が眺めていると、いつの間にか光命が隣に腰を下していた。
「何か思い悩んでいるようだ」
光命がまたいつもの抑揚のない調子そう言うと、大悟はしばらくためらいつつも、心の内にとどめていたものを吐露することにした。
「光命様、私はどのようにすればよいのでしょう。加魅羅の巫女が言っていることが本当であれば私は黒い鬼神にもなってしまうかもしれない。ですが、このまま何もしないでいることはできません。今、鬼神となった私に何が出来るのでしょうか、いや、何をすべきなのでしょうか」
光命は川の水面を眺めてしばらく黙り込んでいた。その視線は流れに沿ってどこまでも遠くを漂うかのよう見えた。と思うと、不意に己を引き戻すようにしてはっきりとした声で告げた。
「わからぬ」
それから大悟の方を向いて彼は言う。
「私の同族にもかつて道を踏み外してしまったものがいた。我々は何万年も前から強靭な肉体を手にし、強固な精神を内に秘めていたはずだったのに。しかし、魂とはどのように外側の肉体が強さを極めてもそういったものなのかもしれん。儚いものだ」
光命は少しの間言葉を切った。そしてまた続けた。
「しかし大悟、一つ答えられるとすれば、鬼神としてではなく、自分として、人として何が出来るのかだ。そのことを君が自分自身に問い続けることをやめなければ、君はきっと道を見失わずに済む」
人として出来ること、と大悟が繰り返しているうちに、光命は今度は他の皆の方を向いてこう告げた。
「さて、もう行きましょう。日が暮れる頃には何とか湖まではついていたいものだ。あまり油断していると追手との距離も縮められてしまう」
日が傾く頃、一同は湖までたどり着いた。山を降りる途中、湖が見えた。山の端が滲むような夕焼けに縁取られる様と、その頭上に広がる群青の空が湖面に映し出され、息を飲む美しさだった。けれどもいざ湖の近くまでたどり着くと、夕焼けはしぼむように色褪せ、先ほどまでなかったはずの雲が立ち込めていた。日が落ちるに早さにしては不可思議なほどの速さだ。何かがおかしいと一同がそれぞれに辺りを伺いながら歩いていると、やがて息がつまるような鈍い闇が空を覆い始めた。
年長者たちはもちろん、大悟たち若い三人もにわかに訪れたその変化に気が付いてはいたものの、妙な緊迫感を押し戻そうとするかのように、務めてそれを口に出さないようにしていた。一同は押し黙ったまま先を進み、しばらく口を開く者はいなかった。と、前方に目を向けた堀兵衛が声を上げた。
「おい、あれ」
堀兵衛が指さす先、薄暗がりに包まれた湖岸を向こうからかすかな灯かりがいくつもの群れになってこちらへと近付いてくる。視界が悪いなかでみるその灯かりは、まるで物の怪の類のように見えて薄気味悪かった。
大悟のすぐ近くで、堀兵衛も利明も唾を飲みこむ音が聞こえた。美座伶が大悟の手を強く握る。沢の爺は立ち止まって前方を鷹のような目で見据え、その隣で正一郎は腰元の太刀に手をかけた。光命はといえば、後ろの方で身じろぎもせずに前方を観察している。いや、ひょっとすると耳を澄ませているのかもしれなかった。
よく集中して聴くと、前方からいくつもの足音が聞こえてきた。堀兵衛や利明もそれに気が付いたらしく、ほっと肩を撫でおろした。
「なんや、妖怪の類ではないようやな」
しかし、堀兵衛の言葉に笑みをこぼしたのも束の間、この中で一番目が効く利明が前方から向かってくる人々に目を凝らすと、彼は肝に一発くらったような声を漏らした。大悟や堀兵衛が彼の顔を覗き込むと、恐怖で目を大きく見開いている。続いて、暗がりに目が慣れてきた正一郎が利明が目にしたものと同じものに気が付いて思わず呟いた。
「そんな馬鹿な」
灯かりが近くなって松明を持つ者たちの顔がわかるくらいに近付くと、大悟は息を呑んだ。隣で堀兵衛の「嘘やろ」と腰の抜けたような声も聞こえていた上、沢の爺が憎々し気に「化け物め」と吐き捨てるのも聞こえていた。いつも穏やかな物腰の沢の爺がそのような物言いをするのを大悟は初めて聞いた。
一同の前を今、松明を持った農民たちが虚ろな顔をして立ちはだかっていた。皆当然大悟たちの知らない顔だったので、沢の爺が話していた湖岸の村の者たちであることは想像出来た。しかし、大悟たちはその村人たちの顔つきに見覚えがあった。加魅羅の巫女によって惑わされたものたちの顔つきだ。彼らも彼女の妖術にかかっているに違いない。というのも、群れの先頭を切るその者が加魅羅の巫女本人だったからだ。
「ようやく会えたというのに随分とつれない顔じゃないか、大悟」
加魅羅の巫女は猫撫で声で大悟に語り掛けながら小さく笑った。戦慄を隠せない大悟の表情が、まるで愛おしくてしょうがないとでもいうような表情を浮かべている。
「村からは山二つ離れている。一日以上切り離しているはずなのにどうしてお前がそこにいる。いや」
むしろ何故先回りして待ち構えていられたのか、という問いを正一郎は最後まで口に出すことが出来なかった。体の底から湧き上がる動揺と恐怖が、村でも指折りの勇敢な男をも支配しようとしていたのだ。
「私をあなどってもらっては困るな」
加魅羅の巫女は面白そうに言った。それから、
「さあ、どうする。大悟。この者たちは私の意のまま。お前たちを皆殺しにするよう私は命じる。もしもお前の妹や仲間を救いたければお前の持つ力を使ってこの者たちを蹴散らすのじゃ」
加魅羅がそそのかす声は妙な響きで大悟の頭のなかへと入り込んできた。耳の穴から蛇がするりと入り込んできたような心地がする。このままでは考えることも体を動かすことも自由が効かなくなる。もしかすると、大悟自身でもこの状況を打開するためには力を使うほかないのではないかと考えていたのかもしれない。けれどもそれが自分自身での判断なのか、それとも加魅羅の怪しげな声の響きに支配されてなのかも今では
わからなかった。懐では神器が早鐘をうつ心臓のように脈打っている。
その時、大悟と加魅羅の間を断ち切るように光命が前に出た。
「お前は何者だ」
およそ加魅羅の巫女が発したとは思えぬ低く禍々しい声がしたのだが、それは確かに彼女の声だった。彼女は光命を見ると、威嚇しようと頭をもたげる蛇のような具合に顔をうつむかせ上目遣いに彼を睨んだ。
光命の方では加魅羅の巫女の威嚇を意にも介さない様子で、すっと目を閉じるとそのまま手を合わせて何事かわからぬ言葉を念仏のように唱え始めた。平坦な調子でつぶやくような声ではあるものの、その言葉のもつ凛とした響きが耳に届くと大悟をからめとろうとしていた巫女の呪縛を取り除いた。そして、それは大悟だけではなく、加魅羅の巫女が率いていた村の者たちをも解き放ったようだった。
「おい、俺たちどうしてここにいるんだ」
一人は寝起きのような声で言うと、他のものたちも口々に驚きを声にした。加魅羅の巫女の顔は今では血の気が失せ、強張った顔からは表情のかけらも見えなくなった。
「おのれ」
加魅羅の巫女が呟くような声で何かを唱え始めたのを目にして、大悟はもちろん、一同は身を固くして構えた。正気に帰った村人たちもおののくように加魅羅の巫女から後ずさっていく。
風を切るような音を聞きつけた時には、その影は大悟たちの頭上に姿を現していた。護琉座や大蛇と同じような大きさの怪鳥――嘴と翼を見るに鳥の類と見られる化け物が上空を浮遊し、獲物を吟味するように光る目をこちらに向けていた。
「滅琉羽」
と加魅羅の巫女が口にするのを聞いて、大悟はそれが怪鳥の名であると共にこの化け物は巫女の傀儡であることを悟った。
また、大悟たちがやってきた方角からは大地が轟くような音が聞こえてくると、土埃にまみれた巨大な影が闇夜のなかにぼんやりと浮かび上がるのが見えた。岩のような体ゆえに闇夜になじんでいたその影は勢いよく起き上がると、大きな牙を見せて咆哮を上げた。護琉座だった。大悟は驚くとともに、加魅羅の巫女の方を振り帰った。
「まさか、護琉座まで操れるのか」
不敵な笑みを浮かべる加魅羅の巫女はさらに呪詛を続けた。
村人たちは逃げ惑い、正一郎と沢の爺はそれぞれ太刀と木刀代わりの杖で加魅羅の巫女に向かっていくのだが、彼女は呪詛を唱えながらでも彼らの攻撃を交わすことが出来た。続いて利明と堀兵衛も加勢するが、なおのこと歯が立たない。
大悟は懐の神器が以前のように彼を気高く奮い立たせる鼓動を発し始めたことに気が付いていた。隣の美座伶としゃがんで向き合うと、大悟は優しく声をかけた。
「美座伶、行ってくるよ」
美座伶はどこか嬉しそうな顔をして元気にうなずいた。やはり不思議な子だ、と大悟は今更ながら考えた。美座伶には大悟が何をするべきなのか、どういう選択をするべきなのかすべてが先だってわかっている。そんな気がしていた。
見れば、堀兵衛が加魅羅の巫女に弾き飛ばされたところから体勢を立て直し、再び彼女へ立ち向かっていこうとするところだった。堀兵衛が巫女に向かっていく前に、大悟が呼び止めた。
「堀兵衛」
いつになく大悟が力強い声を発したのに少し驚いて振り向いた時、堀兵衛は大悟の顔を見て彼が何をしようとしているのか、それから自分に何を託そうとしているのかがすぐにわかった。堀兵衛は踵をかえして大悟と美座伶のもとへと駆け寄ると、大悟に力強くうなずいてみせた。
「安心せい、美座伶はわしらでしっかり守る。お前は遠慮なく思いっきりやってこい」
それから利明がこちらを向いて言った。
「こっちは任せろ――でも、いくらか気をつけてくれよな。俺たちを踏んづけないように
「わかってる、ありがとう」
と大悟が思わず少し笑って口にすると、堀兵衛は美座伶の手をとってその場を離れた。利明もまた加美羅の巫女との闘いへと戻っていった。今、滅琉羽は湖の上を旋回しながら飛び廻り、こちらへ向かってくるところだった。護琉座ももはやすぐそこまで近付いている。
「大悟殿」
気が付くと、すぐ隣に光命が立っていた。彼は大悟の目を見据えるとゆっくりとした口調で言った。
「共に行きましょう」
大悟はゆっくりとうなずくと、滅琉羽が羽ばたく湖の方へ顔を向けて脈打つ神器を天にかざした。夕暮れの光をすっかり飲み込んだ暗がりの中に光が溢れる中で大悟は己の中に湧き上がるその名前を叫んだ。
「――逞我」
美座伶を連れて林の茂みへと身を隠した堀兵衛は湖岸から少しばかり離れた林に美座伶を匿うと、その場所から戦いの顛末を目撃した。大悟が神器を天に掲げた時、視界は溢れる光に覆われ、やがて目が慣れてくると、湖岸に二人の巨人が立ち尽くし、右手を肩のところで構えて、天に左の拳を突き上げているのが見えた。堀兵衛には何だかそれが、今しがた長き眠りから起き上がったとばかりに鬼神たちが伸びをしているようにもみえた。
並び立つ巨人のうち、紫色の巨人、おそらくは大悟が変化した鬼神へ向けて滅琉羽が飛びかかってきた。大悟の鬼神は突撃してくる滅琉羽を組み伏せようと迎え撃つものの、敵は思う以上に素早かったようだった。大悟の巨神は突進をかわされたあげくに、あえなく鉤爪での攻撃を受けた。さらにそこへ護琉座が到達し襲い掛かろうとする。しかしこれは赤と銀色の体をした巨人、おそらく光命が変化した楚鳳なる鬼神が立ちはだかった。
巨人と怪物が混戦しているさなか、思わず目をとられている正一郎や沢の爺、利明たちの目をかいくぐるように加美羅の巫女は化け物たちに向けて呪詛を唱えていた。まじないを受けた化け物たちのどう猛さがさらに増していくのを見てとると堀兵衛は声を張り上げた。
「あかん、巫女を止めにゃならん」
加魅羅の様子に気が付いた男たちは一斉に加魅羅を取り押さえようとした。だが、彼女は蝶が舞うようにひらりとかわしてしまう。それでもめげずに正一郎が木刀を振りかざすと、加魅羅の巫女の目が大きく見開かれた。呪詛は今度男たちに向けて放たれた様子で、彼らはその場で金縛りのようにして身動きがとれなくなった。気が付くと、同じく堀兵衛も身動きを封じられている。加魅羅の巫女は懐から短剣を取り出すと、彫像のように固まった彼ら一人ひとりを見据えてこの上ない邪な笑みを浮かべた。
「さあ、誰からいこうかね」
その声はあまりに禍々しく、今までに耳にしてきた美しい声とは打って変わって朽ち果てた老婆のような声をしていた。堀兵衛はその時に彼女の正体を垣間見たような気がして思わず鳥肌が立った。今まで自分たちが魅せられていた彼女の美貌は彼女が作り出したまやかしに違いないこと、そして彼女は見た目よりも遥かに年老いていて、なおかつその正体を察するにおよそ見るに堪えない禍々しいものに違いないということ。そのことを堀兵衛は察したのだった。同時に、短剣を手にした加魅羅の巫女の目が堀兵衛をとらえにじり寄ってきた時には、彼女の美貌だけを真実として見とれていたことを心から恥じ、後悔した。
とうとうあと堀兵衛まで数歩というところで匿っていたはずの美座伶が加魅羅の巫女の前に出てきて立ちはだかった。
「あかん美座伶、逃げるんや」
堀兵衛は美座伶に言おうとしたものの、口がうまく動かない。とうとう加魅羅の巫女が獲物を狩る蛇の如く目を見開いて美座伶に飛びかかった時、堀兵衛は思わず目を閉じかけた。けれども、実際には加魅羅の巫女は美座伶に指一本触れることも敵わず、彼女は見えない手に払われるようにはじきとばされてしまった。同時に、堀兵衛たちを封じ込めていた金縛りも解けた。
「一体、どういうことや」
思わず呟く堀兵衛をよそに、美座伶は少しばかり怒って見せるような表情で加魅羅の巫女を見据えていた。
「見るな」
加魅羅の巫女は息も絶え絶えに声をもらしながら、美座伶の視線を恐れるように後ずさりした。
「私を見るな」
加魅羅の巫女が反撃をしてくるかと身構えたところで、どこからか石が飛んできて加魅羅の巫女の横顔をかすった。石の飛んできた方向を見れば、先ほど逃げていった村人たちが大挙して加美羅の巫女に向かってくる。皆大悟たちの戦う姿を見て思い直した様子だった。巫女は呪詛を口にしようとして、飛んでくる石を体にいくらかまともに食らった。雨のように降ってくる石の前では、まともにまじないをかけることもできない。村人たちもそれを見て取ったのか、次々に雨あられと石を投げ続けた。
それから彼女は、踵を返して林のなか、暗がりの道をどこへともなく駆けて逃げていった。それよりあとに彼女の姿を見たものをいないという。
そうこうしているうちに鬼神たちと怪物同士の戦いも戦況が変わっていった。自在に飛び回りながらまるで自身が矢であるかの如く向かってくる滅琉羽の攻撃に対して、大悟も最初は押されていた。しかし、そのうちに沼で大蛇と戦った時と同じように額の水晶に力が集まるのを感じると、大悟は以前と同じように額のところで腕を交差させて振り下ろした。今度は自分の体が紫色一色に変わったのを見てとると、大悟は勢いよく飛び上がる。自分の体が空を飛んでいる、それにも驚きではあったのだが、大悟は体の変化にも驚いていた。赤色の体をしている時のように、体中に力が湧いてくる心地はしない。その代わりに、姿が変わる前よりも遥かに体が軽く感じられた。自分の動きの俊敏さに慣れるのにも手間取るほどだった。
滅琉羽と大悟の両者は湖の上を飛び交いながら時折衝突し、飛行しながら組み合っては離れてを繰り返していた。戦いながらも目の端では人々が湖岸からその姿を目で追おうとしてしまいには目を回しそうになっている様も見えていた。それだけではない。大悟の耳には美座伶や堀兵衛、仲間たちはもちろん、見知らぬ顔の村人たちまでもが自分を応援している声が聞こえていた。その少し向こうでは山々の間で光命が護琉座と戦っている。光命の方も、護琉座を山の方へと押し返さんばかりの勢いで組み伏せていた。今や大悟は一人で戦っているのではい。加魅羅の望んでいたような闇の鬼神になる必要は、もはやなかった。
大悟の攻勢が衰えるばかりか勢いをましていくに連れて、どうやら滅琉羽は不利な形勢だと見て取ったようだった。不意に大悟を振り払ってその身を翻すと、逃げるように湖の向こうへと飛び去ろうとするところだった。
大悟はそのまま滅琉羽を追わずに旋回して湖岸に戻って地面に降り立った。それから、先ほど姿を変えた時と同じようにして再び元のまだらの姿に戻ると、遠くの滅琉羽を目で追い始めた。鬼神の姿であれば、人の姿でいる時には考えられないほど遠くまでを見通すことが出来た。
遥か遠くを飛び去る滅琉羽を目で捉えると、大悟は両脇に力の限り握った拳を構え、そこから胸の前で手を交差させた。それから今度は手から発する光の帯を目いっぱい伸ばすように腕を広げる。眼下では人々が一体何が起きるのかと大悟と光命の戦いを交互に見守っていた。光命も今、山々の間で護琉座と決着をつけようとしているところだったのだ。
大悟は以前夢で見た、遠い未来で戦う巨人がしていた通りの構えをとろうとしていた。両の腕を伸ばした構えから、今度は左手を立てて、右手を左の肘に添える。その時に大悟の構えから光の帯がほとばしり、湖を突っ切って滅琉羽まで届くとその体を刃のように貫く。湖の上で滅琉羽が爆散する音が響きわたり、湖面が少しばかり波立ったのと同じころ、光命もまた最後の技を決めようとしているところだった。光命が右手を胸にあてたまま護琉座に狙いをつけるように左手を伸ばすと、その指先から同じく光の帯が放たれた。
光の帯を受けた護琉座の体は山が崩れるようにして散る。その様を見ていた人々は歓声を上げて安堵と喜びを分かち合った。
戦いが終わったのである。静けさを取り戻した夜の湖岸で大悟と光命、両の鬼神は歩み寄った。それから二人は人々の見守る中で互いにうなずき、手をとりあった。
大悟たちは湖岸の村で幾日かを過ごした。村人たちは村を救った鬼神を讃えるとして祭りを催した。それは盛大な祭りで、大悟たち一同は村を救った恩人として、特に大悟と光命は英雄その人であるため、一際高い座に座らされて村人たちからの歓待を受けた。大悟としては居心地が悪くて仕方がなかった。隣にいる光命は魂が抜けたような顔をして何も言わず、ただ呆然と火の側で人々が踊り、歌うのを眺めている。歌の中で村人たちは何度も彼らを鬼神様の宿り子として崇めた。しかしもはや大悟も光命も、鬼神の宿る器ではないのだ。
両の鬼神が再び人の姿に戻った時、大悟の持っていた神器は跡形もなく姿を消していた。そのあとで辺りを堀兵衛たちと一緒に探しても見つからなかったので、大悟は鬼神様自身が大悟のもとを離れて再び眠りについたのだと静かに悟った。
光命も同じだった。元の姿に戻った時、光命の姿が見当たらないのでどこに行ったものかと辺りを見回していた。しばらくして村人の一人が湖岸の水際で光命を見つけたという声が聞こえてきた。元の姿に戻った時、光命は気を失って倒れていたという。彼はそのまま湖の向こう岸にある村に運ばれ、手当を受けた。二日ほどして意識を取り戻した時には、大悟たちのことを見るなり拍子抜けしたような顔で「どなたです?」と訊いてくるので驚いた。どうやら、大悟たちのことを一切覚えていないらしい。それどころか、どうして自分がその場にいるのかもまったくわからない様子だった。おそらく彼に宿っていた鬼神もまた彼を離れ、また別の場所へと向かっていたのだろう。その夜、湖岸の村の子供たちは矢のように飛んでいく流れ星を目にしたという。鬼神が光命の口を借りて語ったことが本当だとするならば、その流れ星は彼自身だったのかもしれない。
これまでのいきさつを踏まえてもなおこれほど居心地が悪いのだから、大悟の隣で訳もわからないまま歓待を受けている光命も大変なものだろう。大悟はその様子を見て苦笑いしながらも内心、寂しいとも心細いともいえる気持ちになっていた。鬼神が宿っていた頃の光命にもっと聞きたいことがあったのに、今ではもはや聞けなくなってしまったのだ。
「そういえば、村の皆は大丈夫だろうか」
元いた村へ帰る道中で、大悟がふと口にした。
「加魅羅の術にかけられた人々が元に戻っているといいけれど」
すると、堀兵衛が大丈夫やろ、と返した。
「加魅羅はもういなくなったんや。村の皆ももうそろそろ目を覚ましてるころやろ」
でなければ、と言って堀兵衛は横を歩いている光命に目をやった。
「この坊さんにお経でもあげてもらえば悪いもんもどっか飛んでくやろ」
堀兵衛の言葉を聞きつけると光命は生真面目な口調で返した。
「堀兵衛殿、お経はまじないではありませんよ」
村に帰る道でも、光命は結局大悟達と旅を共にしていた。他に行くところがない様子だった。それまで大悟たちと共に旅路を分かち合い、戦った光命とはまったくの別人ではあるものの、今一緒にいる光命も、彼は彼でおそらく楽しく付き合っていけるだろう。大悟はそんな気がしていた。
村に着くと、一同の帰還に気が付いた村の者たちが一気に大悟たちのもとへ駆け寄ってきたので大悟たちは思わず身構えた。けれども彼らは大悟たちの顔を見るなり、その無事を喜び、そして自分達の過ちへの後悔を口にした。加魅羅の呪術によって正気を失っていたとはいえ、一度は大悟たちに弓を向けたのだ。男たちは非礼をひざまずいて大悟たちに詫びた。それから、長老たちがやってきて改めて祭を取り行おうと口にすると村の者たちは賛同した。改めて大悟や鬼神様を讃えるのだ。しかし、それには大悟は苦い表情を浮かべた。
「ええやないか、またうまいもんが仰山食えるで」
そう言いながら堀兵衛は大悟の肩を叩いたのだが、大悟はそれでも浮かない顔をしていた。
「祭りの間、皆が寄ってきて厠へいくのにも大騒ぎするんだもの。窮屈なのは苦手だよ」
その後のことを話しておこう。沢の爺は鬼神たちの闊歩する様をこの目に見ながら後世にその様を書き記さずには死ぬに死ねぬと息巻いて大がかりな書物の執筆に取り掛かった。これには堀兵衛による記述や正一郎による加筆も多く含まれており、村で大切に保管されていた。しかしそののち、村が百姓同士の戦に巻き込まれた際に行方知れずとなってしまった。ここに記されているのはあとから見つかった写しの一部一部と、村の老人たちが口々に伝えた伝承とをつなぎ合わせて編纂したものである。
利明は今度のことでさらに武士としてさらに多くを学びたいと思い立ち、それから数年すると村を出て全国を旅して回るようになった。行く先々で彼は今回のような奇怪な事件で困っている人々を助け、やがては新城の名を捨てて旅の道中で世話になった錦田家の名をもらい、錦田小十郎影達と名乗るようになった。
美座伶はそれからしばらくして、湖岸の村の巫女のもとについて巫女の修行を始めることとなった。祭の時に巫女が美座伶を見出し、是非とも自分のもとで修行をつけたいと大悟に申し出たのだった。美座伶の人やモノのサダメを見通す力に早くから勘づいていた様子だった。大悟は美座伶が望むなら、と返事をし、美座伶は以外にも二つ返事で巫女のもとについた。それから立派に修行を治めた美座伶は大悟たちの村へと戻り、加美羅の巫女が空けた巫女の席を埋め、人々にとって心強い巫女であり続けたという。しかし、このことで堀兵衛は一生涯独身を貫くことになるのだが、それはそれで彼の本望だったのかもしれない。
さて、大悟に関する詳細な記述はどの書物にも残されていない。光命と共に旅に出たという記述もあるのだが、一方で一生涯を村で静かに暮らしたという記述もある。ひょっとすると、沢の爺や堀兵衛たちが書物のなかで大悟のその後に関する記述を残すことによって彼の子孫にいらぬ苦労がかかることを避けたのかもしれない。一説によれば、その後彼は来たる戦乱の世をくぐりぬけたあとに新天地を見出し、身寄りのない子供たちや傷ついた農民たちとともに村を開拓し、そこで新たに円加という姓を名乗ったともいう。
完
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