我等ノ往事
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壱
前書き
嗚呼、余素ヨリ所謂操觚スル人ニ非ズ、然ラバ百情ガ感ズル所、悒鬱ガ積ム所ニ際セバ、其ノ衷情洋々乎トシテ發揮シ、世人ト共ニセント欲ス、壱ニ收拾ス可ナラザルナリ、又安ヲカ之ヲ障礙スルヲ得ルヤ、故ニ余盡力シテ心志ヲ誠ニセシム、文句ヲ美ニセシム、以テ心頭ノ繚亂ヲ闡明センノミ。
余古明地戀之ト合家ノ親友ト常ニ地底ニ於テ居ス、其ノ四邊牢トシテ幽暗ナルモ無限ニ、地獄ト一壁ノ隔アリト雖モ、等閑ナル者ニ於ケルヤ、亦眞ニ獄裡ノ如キ。然レドモ此ノ間ノ衆生嚮ニ外界人ノ擯斥スル所ト爲サレル、世間ニ於テ歸スル所モ無ク、故ニ此處ヲ得テ堵ニ安ンズルナリ。是等ノ居民ノ性情亦眞ニ怪誕タリ、既ニ世人ノ友ナラザル所ト爲リ、余亦能ク其ノ性情ニ通ゼズ、是ヲ以テ余長年ニ一知己ヲ得ズ、茫然トシテ游魚ヲ如クシテ濁浪ニ於テ浮沈シ、常ニ山水間ニ情懷ヲ寄ス、心志ヲ陶冶セル所以ニ非ズ、自ラ山水間ニ避キテ余ノ心志ヲ閑却スルノミ。
蓋シ清白タル者ノ心ヤ清シ、而モ余ノ平生ハ決シテ清白ニ非ズ、豈ニ山水ノ清新ナルモ匡濟ス可キ所ナルヤ。其ノ退却スル所以ヤ空然ニ之ヲシテ朦朧トセシムルニ外ナキナリ。是ヲ以テ一身モ今茲ニ居スレドモ衷情常ニ疇昔ニ在リ。
惟フニ紛爭ノ世、妖怪ノ利トスル所ナリ。若シ夫レ哀號モ四野ニ遍シ、垂死ノ楚痛アル者随處ニ於テ見ルハ、世人ノ勇敢ナル將ニ抹殺セントセル、而シテ詭激ノ風將ニ起サントスルナリ。國政明ラカセネバ則チ人心定ム可カラズ、然ル後天下ノ妖氣一旦ニシテ起コス可シ。故ニ古來王政清平ノ時禍亂ノ豪傑有リト雖モ都テ御稜威下ニ殄滅セル、爲政者其ノ驕逸ヲ恣ニスレバ則チ天子朝臣或ハ相率ヰテ妖邪ト化ス。國運モ御宇ノ人ヨリ決シ、天子ハ靈德ヲ以テ御國ヲ鎮圧シ、雷神惡鬼ヲ平定スル所以ハ、亦實ニ治世ノ功勞ニ倚藉シ國家ノ康寧ヲ恢弘スラクノミ。之ニ因テ、妖怪ノ動止ハ時節ニ循フ、人世ノ苦楚ニ臨ミ則チ從ツテ猖獗ス。
百餘年前ノ曩昔ヲ回顧スレバ、歲ハ慶應ニ在リ、天下大ニ亂ル。武士横行シ、叛軍蜂起シ、幕府ノ大君ノ威德曾チ之ヲ底止スル能ハズ。蓋シ德川家ノ太平凡ソ數百年ナリ、方今氣數將ニ一朝ニシテ斷絕セントスべシ、古來ノ壱切當涂者ニ同ジクスルナル。方今ノ國ヤ、宛モ拂曉ノ朝露ノ如キ、眞ニ風中ノ薔薇ニ似ル、安ゾ再ビ得テ見ル可キヤ。
某日余從容トシテ洛陽ニ遊ブ、其ノ風光一改シタリ、全ク舊來ヨリ異ニスルヲ見ル。貧者堵ニ安ンセズ、公卿其ノ淡泊ヲ失セリ、壱ニ連年棄置シタリ而モ卒爾トシテ重任ヲ以テ加フル者ノ如キ。浪人タル武士ハ市肆ヲ燒夷シ、疾癘アル者路頭ニ於テ立ツ、加之孝明帝新ニ崩ジタマへリ、擧國ノ氣象眞ニ衰微シテ測ル可カラザルニ至ランノ勢有リ。嗚呼、人心一變スレバ豈ニ永ク復歸ス可カラザル者ニ非ザルヤ。余嘗テ其ノ種々ノ興廢ヲ見タリ、彼ノ我ニ於ケル黄粱一夢ノミ然レドモ余曾チ之ガ爲ニ心ヲ動カソザル能ハズ、萬人ノ春光ニ感ズル、豈是ニ非ザルヤ。
蓋シ余平生ノ所見、人ニ於ケルヤ過多タリ、妖怪ニ於ケリヤ過少タリ、余猶是妖怪ノ無知ノ童蒙ナリ、世間ノ況味ノ甜苦ヲ知ラズ。。余以爲ラク所ノ至テ貴ブ可キ者、或ハ亦毫毛タリラクノミ。天地ノ間唯人能ク其ノ心ヲ用ヰル、他ノ物則チ冥々裏ニ自カラ興衰ス、是ヲ以テ余美ヲ愛シテ心ノ美ヲ得ルヲ愛ス。洛陽ヲ見テ一驚スルハ、人心ノ變易斯クノ如キハ、誠ニ古今未曾有ヲ以テナリ。
余乃チ夜行シ、衛門府ニ入ル。余惟フニ夫レ衛門府ハ檢非違使ノ所在ナリ、罪人モ東西獄ニ居ル、此處豈ニ遊ブ可キヤ、長シヘニ留マルハ立ドコロニ去ルニ如カジ。然レドモ庭中ニ在テ朗々タル歌聲ヲ聞ユ、曰ク、
袖ひちて 結びし水の 凍れるを 春立つ今日 風や溶くらむト
彼處ゾ但一間ノ牢檻有リ、就中一人コソ地下人ノ服ヲ着リ、莞爾トシテ歌フ。
余之ニ謂フ、君ハ何人カ。
對シテ曰ク、僕ハ天文博士宮古月是ナリト。爾コソ是何等ノ夷狄ノ女人ヤ、蠻夷ノ衣裳ヲ着リ、私カニ禁府ニ行クト。
必ズシモ聲ヲ大ニセズ、汝博士タリ曾チ人妖ヲ分別スル能ハザリヤ。何故此處ニ在テ斯クノ如キノ歌ヲ作スヤ。但我ニ言フべシ。
汝ハ何物ゾ、妄ニ宸掖ニ近ヅクニ敢スルヤ。是莊嚴ノ所ナリ、豈ニ恣睢ス可キヤ。
余頗ル懌バズ、其ノ牢檻ヲ啓クルト欲ス、然レドモ本來鎖閉無キナリ。乃チ兩臂ヲ以テ其ノ首ヲ抱擁シ、觸手ヲ以テ周身ヲ緊縛シ、之ニ謂フ曰ク、博士君、數日余洛陽ニ行キタリ、爾來未ダ一人從容トシテ君ノ如キ者ヲ見ズ。然シ汝何ヲ以テカ牢檻ニ居スレドモ是クノ如キノ心ヲ存スルヤ。必ズ我ト言フべシ。
彼長嘆シテ曰ク、僕ヤ獄裡ノ一介ノ囚徒ニシテ、宇内蕞爾タル一鴻毛ナリ。毁誉モ國法ノ幽明ニ存シ、生死モ絲綸ノ一下ニ在リ、又焉ゾ晏如タルヲ得ルヤ。夫レ天文ハ、皇運ノ關スル所ナリ。天文ヲ察シテ朝廷ヲ輔弼スルハ、吾人ガ平生ノ職分ナリ。僕嘗テ天象ノ大觀ヲ察セキ、以テ國家ノ經略ヲ揣摩セン、官ノ天職ナリ、安ヲカ罪有ルヤ。
所謂皇運ナル者、特ニ大和朝廷ニ在ルノミニ非ズ、八百萬神明ノ氣數ニ在ルナリ。朝臣ハ開國ヲ以テ自彊ノ計ト爲ス、豈ニ神州ノ根柢ヲ念ゼシヤ。目下幕府ヲ廢シテ開國セバ、爾後西洋ノ氣象將ニ本國ヲ犯シ、以テ國魂神ヲ動ゼントス、遠ク彗星ノ孛フ、熒惑ノ災ニ勝ル。僕以テ當涂者ニ言ハキ、曰ク是クノ如キハ國家必ズ餘殃有ラン。彼輩猶我ヲ以テ扇動スルコトト爲ス、乃俄然ニシテ茲ニ在テ我ヲ拘ル、將ニ以テ牢獄ニ付セントシ、嗣後ノ存亡知ル可カラズト。然レドモ此レ悲ム可カラザナリ。僕感ズル所ヤ來日神州將ニ西洋ノ國ト化セントス、陰陽無ク、神道無ク、八百萬神無ク、亦妖怪無シ。乃チ此ノ京師將ニ歌ヲ作ス可キ人無クセントスべシ、故ニ歌フラクノミト。
君其レ逃セヨ。
汝跳梁セ勿レ。夫レ直諫ハ人臣ノ職ナリ、黜陟ヲ以テシテ爲スヲ肯ゼザンバ、將焉ゾ彼ノ人臣ヲ用ヰルヤ。天子ノ宸斷ヲ違犯ス、將安ゾ國朝ニ忠ニスルヤ。汝豈ニ以爲ラク我逃スル能ハザルヤ。如今萬事休セメ、爾我俱ニ休セメ、壱切陰陽ト神靈トスラ將ニ斷絕センニ至ル、況ヤ天文博士ヲヤ。遮莫四海ニ逃セン、何ノ補益スルカ。然リト雖モ、鎖閉無クシテ我逃セザル者、僕ノ丹心ヲ顯昭セシメンナリト。
是ノ時ニ當リ、宮城ノ空裡ニ於テ、雲氣忽焉トシテ起ク。余恐懼トシテ宮古君ヲ抱擁シ、彼曰ク、此ハ皇運ノ氣ナリ。幕府必ズ亡ボスべシ。然レドモ此所謂「回光返照」ノ者ナリト。
余之ヲ笑フ、君ハ博大ナル壯語ヲ高唱シタリ、豈ニ千秋ノ史上ニ光芒留ムルヲ欲スルニ非ザルヤ。何ヲ以テカ帝室ヲ輔導シ、國光ヲ恢弘スル能ハザルヤ。方今蠻夷ノ軍艦銃砲モ次第ニシテ來リタリ、君何等ノ鴻猷有ルヤ、以テ賊冦ヲ席捲シ、國體ヲ恢復センカ。且君自ラ陰陽ノ大家ト稱ス、我ヲ知リ何ノ妖怪タルヤ。彼啞然タリ。
衆生未ダ性命ヲ寳セザル者有ラズ。君見ズヤ、古來ノ隠士モ山林ニ於テ世ヲ避ク。吾一鄉有リ、武陵ノ桃源モ啻ナラズ、君往ク可キナリ、否ンバ則チ余ガ心豈ニ傷マザルヤ。
衛門府ノ衛士俄ニ到來シ、牢檻ノ人有ルヲ察シタルガ如キ。余驚起シ、出デテ衛士等ヲ戮シ、悉ク斯ニ死シケリ。乃チ宮本君ト共ニシテ遁逃セリ。
余輩東ノ國ニ向キテ行ク、朝暮ヲ辨セズ、常ニ聚落ヲ以テ宿所ト爲ス。意ハザリキハ一日彼ハ醇酎ヲ以テ我ニ飲マセキ、余既ニ沈酔ニ乃チ不可說ノ事ヲ行ヒントハ。余曾チ個中ノ荒唐ナルヲ覺ユル能ハズ、剩ヘ羅網ニ從ヒ、蓋シ余夙ニ此等ノ心願有リラクノミ、特ニ當時ノミニ非ザルナリ、乃チ一己ノ宿願ヲ濫行シケリ。余ノ覺醒スルニ及ビ、彼唯我ガ近傍ニ去ラズ、曰ク願クハ死ヲ以テ罪ヲ謝スト、余又豈ニ奈何トモ為ス可キヤ。歸鄉スル時ニ及ビ、已ニ自ラ身有リタリ。
歸來セリテ余乃チ宮古君ニ謂フ、吾ガ姉妹所謂覺ナリ。然レドモ人心ヲ察ス可キ者吾ガ姉ノミ。汝豈ニ之ヲ見ルヲ願フヤ。曰ク、我奸惡ノ心無ク、唯彼ノ心ノ善惡ニ係ル。長姉ト談ズ、長姉大ニ驚ク、曰ク是ノ人焉ゾ在ルヤ、安ヲカ之ヲ磔シテ地獄ニ投ゼザルヤト。余徐々ニ曰ク、若シ我在レバ、決シテ是クノ如キヲ得ズ。我豈ニ婚姻ス可カラザルヤ。長姉太息シテ曰ク、汝ハ是ノ人ト偕クシテ來ヅ可シ、我自ラ之ヲ觀ント。
爾後宮古君出デタリ、長姉我ニ謂ヒ曰ク、是レ寻常ナル人一個ニ過タズ、迂闊ノ意思多ク、汝何ヲ以テカ偏執シテ是ノ如キヤト。余曰ク擧國ハ華鳥風月ヲ知ラズ、彼獄裡ノ人曾チ之ヲ知ル、我其ノ美ナル心ヲ愛ス。對シテ曰ク、夫レ心豈ニ須臾ノ光彩ニ寄ス可キヤ。
是眞ニ鏡裏ノ花ノ如キ。此ノ間覆轍無キニ非ザルナリ。汝一旦心懌バネバ、我ト奈何ゾト。余言フ、、我必ズ堕胎セズ。赤子父無ク、奈何ゾ。長姉黙然タリ。
吾等乃喜悦トシテ、共ニ婚姻ヲ結ビタリ、鄉里ニ於テ居ル。若シ夫レ女童ハ、覺妖怪ナリ。其ノ女童ハ、幸ニ完好ナル第三ノ目ヲ得タリ、不幸ハ亦完好ナル第三ノ目ヲ得タリ。嗚呼。
彼ノ初生、茫然トシテ我ガ懐ニ就キテ哭ク。其ノ長ゼシニ及ビ、猶哭キヲ好ム。余乃チ恨ムラクハ自ラ第三ノ目ヲ閉ヂタリ、其ノ心ニ通ゼンヲ得ズ。其ノ叔母ニ示ス、曰ク世間ノ醜惡ヲ懼レナリト。余輩之ヲ命ジ、常ニ第三ノ目ヲ閉ヂシム。而シテ寺子屋ニ之ヲ送リ、、師匠ハ連日之ヲ開導シタル、、彼處ノ兒童ト偕クス、漸ク回天セシヲ見ルべシ。
彼日々ニシテ長シツツ、身ハ日ニ窈窕ニナル、心ハ日ニ明瞭ニナル、青春ニ至ル甚ダシクハ其ノ叔母等ヲ親近セズ、人心ヲ讀メズ、人間ノ繁華ヲ愛シ、恒ニ里ニ流連シ、乃チ己ヲ以テ異類ト爲サザルナリ。
其ノ何日ヲ知ラズ、彼ノ子大ニ酒ヲ飲ミテ出デ、道中ノ大衆ノ心ヲ窺ヒ、咸ナ曰ク、斯ノ綠髪ノ半妖ハ、美人ナルカナ、何ヲ以テカ之ヲ姦スベキヤ、或ハ麻藥ヲ以テ之ヲ捉ル可シト。乃チ大ニ潸然トシテ、挺身シテ逃ゲテ去ル。終ニ地獄ノ赤熱ノ熔岩ノ下ニ之ヲ得可カラズ、而シテ殞命ヲ告ゲタリ。
嗟乎、往事豈ニ回想スルニ堪フルカ。余悲痛シテ死ヲ欲シケリ、長姉亦心痛シテ我ト宮本君ヲ慰ム。葬儀ノ翌日、余起キテ宮本君ヲ見ズ、其ノ持ツ所ハ唯其ノ從來ノ朝服ナリ。一書曰、我此處ニ於テ人生ノ義ヲ得可カラズ。之ヲ追フヲ欲ス、所謂大結界已ニ前日ヨリ具シタリ斷々然トシテ出入スル難シ。余痛ク叫ビテ昏絕シタリ、長姉來リテ我ヲ救ヘタリ。
余ノ心眞ニ死灰ノ如キ、乃チ己ヲ得ズ而モ苟生ス、數十年ハ一日ノ如キ。
蓋シ無常ノ間、業力ノ下、萬人其ノ情欲ノ爲、余亦脱スルヲ得ズ。世人皆我ヲ忘ル、我亦平生ノ慘痛ノ事ヲ忘ルヲ欲ス、今日乃チ冥々ヨリ之ヲ想起ス、嘆ク可シ、嘆ク可シ。
後書き
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