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ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―

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episode16『泣いた赤鬼』

 胸の奥が、心が、どうしようもなく痛かった。
 これまでずっと『悪』というデコイに押し付け続けてきた罪が、決壊したダムから溢れる水みたいに、シンの心を押し潰してくる。

 紛れもなく、逢魔シンは人殺しだ。
 逢魔シンは、逢魔シンを許さない。

 けど、それでも。
 小指に約束を結んだ銀色の少女が。

 シンが潰れてしまわないよう、命懸けで、背中を押してくれていた。

「――シ、ィーーっ……」

 深紅のアギトは閉じたままに、ゆっくりと肺の中の空気を吐き出していく。続けて冷えた空気を思い切り吸い込めば、体に活力が戻っていく。が、同時に体中の怪我の痕跡が遠慮なしに痛みを主張し始めた。

 内部で粉々に砕けた足が、体中を覆う火傷が、歪に折れた両腕が、泣きたくなるくらい苦痛を叫んでいたのだ。痛みへの慣れなんてとうの昔に無くしてしまった今のシンに、この苦痛はあまりにも重い。

「そう、か」

 逃げ出したいくらい苦しくて、投げ出したいくらい痛い。
 死にたくない。生きていたい。

 今ようやく、逢魔シンは、かつて己が悪と定めた自分自身の気持ち(こころ)を取り戻せた。

「――ごめんよ」

 ヒナミに、家族たちに、そして誰より、ずっと虐げ続けてしまった自分自身に。
 もう傷付き続けるのはやめだ、堪え続けるのはもうやめだ。この罪を一人で背負い続ける必要はないと、ヒナミがそう教えてくれた。

 戦おう。
 皆を護るために、自分を守るために。

 僕たちの居場所を、守るために。

「すぅ」

 深く、息を吸う。
 僅か一呼吸、だがそれは単に酸素を取り込むための呼吸ではなく、同時にシンの全身を包み込む深紅の甲殻がぼんやりと赤い輝きを宿し始めた。
 炎が揺らめき、剥がれ落ちる。教会を焼き尽くす寸前にまで延焼していた炎が形を変えて、シンの体中をキャンプファイヤーみたいに包み込む。

 炎は、鬼の体を焼きはしなかった。
 深紅の瞳が炎の中で揺れ動く、紅蓮は鬼の躰に宿る世界の一部となって、その性質を変化させていく。

 罪を裁く炎、煉獄の炎、悪を灼く炎。
 逢魔シンという“悪”が傲慢にも定めた、“己にとっての悪”のみを撃滅する断罪の熱。
 焼き尽くすべきは、今やただ一人。

 眼前にて立つ、焔の魔人のみ。

「シン兄」

「――マナ?」

 いつの間にやら、野次馬の群をすり抜けてきていたらしい。シンを見上げるマナの瞳の色は、いささか困惑の色も含まれているようであった。
 長く降り注いでいた雪が溶けて、周囲に点々と現れた水たまりの多くは、紅い炎の輝きを反射して爛々と輝いている。その中に紛れる一つが映し出したシンの姿は、いささかシンの記憶の中に在る(おのれ)の姿とは異なっていた。

 生物的な鬼の印象はいささか薄れ、どちらかといえば鬼を象った鎧武者といった印象を受ける。だがやはり、漆黒に染まった結膜や、額から伸びる深紅の双角は人間らしからぬ異物感を際立たせていた。

「シン兄!」

「ケガしてない?」

「手もえてる!あつくないの!?」

 マナを皮切りに、続々と人混みの合間を抜けて兄弟たちが駆け寄ってくる。シンの変貌に驚いていたり、シスターの負傷に駆け寄ったり、眠るヒナミの顔を心配そうに覗き込んだりと、そのアクションは様々で、あんまりにもいつも通り。
 一度はあきらめたもの、永遠に失ってしまう筈だったもの。

 ヒナミが繋ぎ留めてくれたもの。

「わ。わ、シン兄?」

「どしたの……?」

 ぎゅっと、壊さないように。愛おしむように。手の届く限りのきょうだい達をいっぱいに抱きしめる。
 大好きだったのは知っていた。守りたいとも思っていた。

 でも。
 ずっと一緒に居たいと思うことができたのは、紛れもなく今が初めてだった。

「マナ、皆を連れて後ろに下がっていてくれるかな。僕は、あの悪い奴をやっつけてくるから」

「う、ん……出来る。出来るよ、シン兄」

「そっか、マナは偉いな」

 いつものように頭を撫でると、しかしマナの反応は少し違った。困惑と疑問が混じったような視線でシンの姿を見つめている。流石に無理もないか、と苦笑を零した。

「ごめんよ、この姿は怖いだろう」

「ううん、そうじゃないの。そうじゃなくて――」

「変身ヒーローみたい!」

 と。
 マナの言葉に割り込むように、隣に居たまだ幼い(きょうだい)が瞳を輝かせて叫んでいた。
 驚いて目をぱちくりと瞬かせる二人の様子にも気付いた様はなく、それに触発されたのかは分からないが、何人かの特撮好きの弟たちが興奮したように騒ぎ始める。あんまりにも状況を分かっていない様子の幼い彼等に、マナが堪えきれなくなったように「ぷっ」と小さく噴き出した。

 血にまみれた悪の象徴、かつての罪の具現。シンにとって、視界に入れる事すら苦痛にしかならなかった、あまりに醜い怪物の貌。
 その姿を前にして、“きょうだい”達は。
 マナは。

「そうだよ、怖くなんてない――かっこいいよ。シン兄」

 “びっくりしてただけ”なんて笑って付け加えるマナに、『なんだぁ』とでも返そうとして、けれど言葉にならなかった。
 自分でも不思議なくらいに、心が揺れていた。『すげー!』『かっけー!』なんて、子供じみた純粋な誉め言葉が、自分でも不思議なくらいに嬉しかった。

 いや、それもあるけれど、違う。きっと何よりも、この化け物じみた姿を見て、それでもシンを受け入れてくれているというその事実が、何よりも嬉しかったんだ。

「――いつまで茶番やってんだ、なぁ、オイ……!!」

 極光。

 爆炎。

 炎の竜巻じみた熱量の奔流が捻じれ、蠢き、空から地上へと下ってくる。シンだけに収まらない、周辺全てを消炭にしかねないほどの威力を秘めた、超高温の灼熱の竜。紅蓮はそのアギトを大きく広げて、シンたちを容易く吞み込まんと――。

「ぜ、アァッ!!」

 踏み込みを一歩。
 その衝撃は容易く大地を揺らし、足場を形成する魔鉄交じりのコンクリートに大きく亀裂を入れる。シンの強烈なオーバード・イメージに沿って砕けたそれらはシンの眼前で組みあがり、家族たちをすっぽりと覆い隠すほどの大きな壁へと変化を果たす。

 豪ッ!という炸裂音と共に壁は瞬く間に赤熱する。僅か三秒にも満たない時間稼ぎ、だがそれでも十分すぎるほどの対抗策が、今のシンの手には握られている。

 否。
 その握り込んだ拳こそが、この焔を撃ち破る力であると、逢魔シンは知っている。

「シ、ィッ――」

 振り抜いた拳が、残像すら置き去りにして紅蓮の中心を撃ち抜く。
 風圧の鎧は焔の竜の中枢をズタズタに抉り抜いて、その中枢にて灼熱を宿すスルトルを捉える。重い風の弾丸がその鳩尾に突き刺さって、その長身をひしゃげさせた。

 続けて跳躍、風圧の壁を足場に空中で軌道のベクトルを変えて、銃弾みたいな速度で赤い残像が夜空に描かれた。

「は、ァ?」

「オ”オ”オオオォォッ!!」

 握り込んだ拳が、スルトルの頬にめり込む。
 べきゃり、と頭蓋骨が割れる手応えが手に跳ね返ってくる。振り抜いた一撃のまま体を捻って体勢を一転、回転の勢いのままに踵をその背に撃ち降ろせば、スルトルの体はソニックブームじみた衝撃波をまき散らしながらコンクリートの海に突き刺さった。

 聖憐からこちらに戻ってきたときの歪な力の高まり方とは違う。体が軽い、力が溢れる、何処か高揚感すら感じられる不思議な感覚。体の中に熱が滾り、神経の隅々にまで活力の行き渡る実感がある。

 握った手のひらの中には、確かな未来への希望を込めて。

 目の前の絶望を、撃ち破る――。

「こ、の……ッ!!許さねぇ、オレのなにもかもを、オレの全てを、テメェが、テメェ如き餓鬼がッ!!」

「お前が、何を言ってるのか、分からない」

「テメェ如きに理解ができるか、されてたまるか!!この、馬鹿な世界を、オレの炎で、オレの煉獄で!罰するまで、オレは……!」

「――いい。もう、喋るな」

 聞くに堪えない、恨みと怒りの滲んだ咆哮だった。
 この男がこれまでの生で何を見て、何を知り、何を得て、何を失ったのか。そんな事はシンの知るところではないし、知るつもりもない。仮にこの男が過去にでも悲惨な目にあって、その経験からこうなってしまったのだとしても、そんなことはシンには関係ない。

 こいつが誰であろうと、何であろうと。
 スルトル・ギガンツ・ムスペルは、この孤児院の家族たちにとって、ヒナミにとって、シンにとって、ただの害ある敵でしかないのだから。

「ッ、はァ……!12番ッ!!」

「はい」

 スルトルがそう番号を叫ぶと、いつの間にやら傍へとやってきていたらしい、彼の相方魔女が応答を返す。もはやその関係はパートナーのソレには見えない、主と奴隷――いいや、人間と道具だ。

精錬開始(マイニング)この世全てを焔に沈めん(ユア・ブラッド・マイン)ッ!!」

精錬許可(ローディング)世界へ紅き救済を(マイ・ブラッド・ユアーズ)

 それは起動句。製鉄師が己の内に秘めた世界をこの物質界(マテリアル)に現界させんとする際に謳い上げる、約束の祝詞。スルトル・ギガンツ・ムスペルの世界を埋め尽くす紅蓮の炎をこの世界へと溢れ出させるための、始まりの言葉。

「我が後悔、我が苦痛、我が復讐!世界を塗り替え、転覆し、踏み付けにするその時を!我が祈りを以って、この世に貫かん!!」

 スルトルを取り巻く炎が膨れ上がる。ぐんと周辺の熱量が上がって、降り注いだ積雪がより広い範囲で溶けて水になった。
 辺りに広がる水たまりは沸騰をはじめ、数秒もせずに蒸発しきる。冬の寒空とは思えないほど外気温は高まって、じりじりと陽炎が揺らいだ。

有詠唱(フォージブラッド)』――製鉄師にとっての切り札。己が抱える世界の真髄を引き摺り出す、正真正銘の奥の手。

振鉄(ウォーモング)――『世界灼く炎よ、(ムスペルヘイム)生誕の刻だ(ナタリシア)』ァッ!!」

 それは、まさに地獄のような光景だった。

 スルトルと魔女の少女を核として、一対の炎の翼が広がっていく。いや、或いはそれは触れるもの全てを融解させる、滅びの(かいな)でもあるのだろう。
 大地を支えにするかのようにその腕を突いた辺り一帯が、瞬きの内にドロドロに溶けて腕を沈ませる。支えにもならない大地に苛立ったかのようにその両腕を構えた焔の巨人は、巨木ほどもあるそれを乱雑に振り回そうと――。

「まずい」

 あんなものを振り回されては、被害は教会だけに収まらない。今でこそ教会前の広場で交戦しているから被害は抑えられているが、あの様子では辺り一帯の住宅地が消炭になりかねない……と、両の脚に力を込めたその時。
 ――結果から言って、その心配は杞憂に終わった。

「――ぁ?」

 ぶつり、と音でも立てていそうな様子で、両の腕が根元から千切れ飛んだ。

 肩に当たる部位には何かに貫かれたかのように大穴が開いており、炎が晴れて両腕は端から徐々に消失していく。炎の中心に佇むスルトルは呆然と消えゆく腕を見やって、やがて何かに感づいたように空を見上げた。

「来……て――いや、見て、いやがったのか……!すべて見ていて、ダンマリを……ッ!俺を、馬鹿にして……ッ、俺を、俺をッ、嗤っていやがったなァッ!!『嵐の王(スーパーセル)』ッ!!!!」

「ッ、あ、ァ――!!」

 何が起きたのかは分からない、だが、これが決定的な隙である事だけは分かる。
 踏み込みは一歩、加速は一瞬。肺に取り込んだ酸素に熱を灯して、深紅の外殻の内側を通し四肢へ、その先々へと炎を溜め込み、一息に弾けさせた。
 火力を高めて推進力へ、ロケットのブースターみたく炎を収束させて、シンの体は熱線を残像の如く残しながらスルトルへと肉薄する。

 無論、スルトルもただ茫然とはしていなかった。
 即座に有詠唱(フォージブラッド)によって膨れ上がらせたエネルギーを放出して、業火による灼熱の壁を形成する。既に周辺の魔鉄交じりのコンクリート舗装道路は完全に融解して、マグマの如くグツグツと煮えたぎっていた。

 並の製鉄師では、近付くことさえ――否、生存することさえ困難な地獄。踏み込むことは死を意味する筈の、絶対領域。

 けれど。

「ただの、炎だ」

 逢魔シンは、意に介す事もなく進む。
 煉獄の炎は延々と鬼を焼き続け、その雪げぬ罪を裁き続けてきた。逢魔シンという鬼はこれまでずっと、断罪の火にくべられ続けてきたのだ。

 ――ただ熱いだけの炎など、今更何を恐れるものか。

「――ッ!?」

「僕は、お前を許さない」

 全身に真正面から炎を受けて、しかし深紅の怪物に一切の火傷はない。
 紅蓮の輝きの中に、深紅の視線が紛れている。超高温の死地の中に在ってもその瞳の輝きに眩みはなく、恐怖すらそこにありはしない。

 今や炎は、逢魔シンを害するモノではなくなった。

「僕らは、お前を許さない」

 深紅の拳が、がら空きの腹部に再び突き刺さる。その余波はスルトルの体を抜けて、融解した大地を抉り、歪ませる。魔鉄の加護による保護がなければ、今頃スルトルの胴は対物ライフルで撃たれたみたいに真っ二つにはじけ飛んでいただろう。
 内臓のいくつかが体内で破裂して潰れるような感覚だけが、拳から伝わってきた。

「神の許しも、神罰もいらない」

「ッ、が……ば、かな。馬鹿な、オレの炎が、世界が……ッ!!」

 撃ち込んだ拳をそのまま開いて、吹き飛び始める前にスルトルの肉体を繋ぎとめる。衝撃に逆らって繋ぎ留められた肉体は歪に軋んで、炎の魔人の表情が苦悶に歪んだ。

「全部を奪われたヒナミの分も、シスターの受けた痛みの分も」

「やめろ、やめろ、奪うな、俺から、この世界の変革は、この地獄の救済は、まだ……ッ!!」

 掴んだ手をそのまま引き寄せて、その騒がしい面に膝を容赦なく打ち込んだ。
 頭蓋骨が割れて、顎が砕ける。騒ぎ立てていた口は歪にべこりと凹んで、顔面の体裁すら保ててはいなかった。
 何もかも奪っておいて、何もかもを壊しておいて、『俺から奪うな』等と――。

 ――ふざけるな。

「お前の、全部を奪ってやる」

 溢れ返る焔の海で、傷だらけの右腕を掲げた。

 悍ましい腕だ。

 恐ろしい腕だ。

 血潮みたいに紅い外殻に包まれたその腕が、ぐっと拳を握り込む。辺り一帯を燃やし続けていた灼熱は吸い込まれるみたいに彼の右腕に集まって、やがて当たり一帯の炎全てがその拳を強く輝かせる。

 全ての(ほのお)を。

 全ての(ほのお)を。

 全ての(ほのお)を。

 逢魔シンの内に眠る煉獄は、それらを燃やし尽くす為だけに。

「おれ、の、せかいを」

「――お前の世界は、僕らの世界には必要ない」

 振り下ろされる拳が。
 天高くそびえ立った焔の大樹が。空を照らす輝きが。


 ――今、緩やかに、戦いの終わりを告げていた。










 ――――――――――――――











「――?」

 いつの間にか、意識を失っていたらしかった。
 遠くに救急車のサイレンの音が聞こえる。そこに次から次へと警察や消防の音も混じっていって、聴覚に届く情報量が騒がしくなってきた。

 重い瞼をこじ開けて、辺りを何とか見渡す。
 灼熱の気配は既にない、空から降り注いでいた雪はいつの間にやら雨へと変わっていて、赤熱していた周囲一帯は歪ながらもなんとか平熱へと戻りつつあるようだった。

 半ば崩落しかけている教会の中庭には見覚えのない簡易テントが張られていて、きょうだい達はそこで雨風を凌いでいるようだった。奥の方には見切れているが、シスターの姿も確認できる。

「……おっと、案外早く起きちまったな」

「……白崎、さん?」

 シンの顔を覗き込むように見ていたのは、無精髭を蓄えた気だるげな男だった。

 白崎典厩。ヒナミの護衛を受け持っていた、戦乱の時代――第〇世代(ワイルドエイジ)を生き抜いてきた、歴戦の製鉄師。本来であればヒナミを守る任に就いていた筈の男だった。

 気まずそうに頬を掻いて目を逸らす姿に、思考がようやく回り出す。どうして肝心な時に護ってくれなかったのか、という怒り。あの製鉄師達は何なのか、という疑問。だがそれらの思考はすぐに消え去って、衝動のままの言葉が口から飛び出した。

「ヒナ、ミ、は」

「隣、見てごらん」

 優しげな表情でほほ笑んだ典厩はそう短く言うと、顎でシンの隣を示すようなジェスチャーを取る。言われるがままに隣に視線を移すと、すぐに視界の半分ほどが真っ白に埋め尽くされた。

 その時になって、ようやくヒナミがこちらへ寄りかかるように身を預けているのが分かった。脱力状態と疲労で全身の感覚が鈍くなっているのか、肩にもたれ掛かった彼女の感覚が無かったらしい。
 全身にいくつもの傷と火傷こそ残ってはいるが、寝息と鼓動の感覚が確かに感じられる。紛れもなく生きている証が、彼女の無事をシンに示していた。

「智代ちゃんと君ら二人は正直かなりの重傷だけどね、まあ命に別状はない……勿論他の子たちも無事さ」

「……よか、った」

「ああ。君らが頑張ったおかげだよ」

 穏やかな声音に釣られて安堵したのか、今更ながらに全身に負った怪我がズキズキと痛みを主張し始める。ドバドバに出ていたアドレナリンの効力が切れてきたのだろう、特に両足の激痛がひどい。

「あだ、だだ……」

「両脚、バッキバキに折れてるからね。鉄脈術だの魔鉄で補強だのしてたんだろうけど、相当な無茶したそうじゃないか」

 思い出してみれば、馬鹿な事をしたと思う。無意識に魔鉄で補強していたとはいえ、聖憐の巨大な校舎の最上階から身一つで飛び降りたのだ。むしろバキバキに折れた、程度の怪我で済んでいるのが奇跡だろう。
 脚に視線をやれば、心なしか形が歪になっているように見える。これは精神衛生上良くないな、と目線を逸らせば、視界の端で銀色の影がもぞもぞと動いた。

 ん、ぅ、という僅かな身じろぎの声と共に、肩にもたれ掛かった感覚が離れていく。ゆっくりと辺りを見渡した彼女はやがてシンを見上げると、へにゃりと力なく笑った。

「あはは、シン、ぼろぼろだ」

「ヒナミがいうの?それ」

 ヒナミの体もシンに負けず劣らずボロボロで、更に言ってしまえばそれはこの襲撃とは無関係に、シンとの契約によって発生したものだ。

 かつてシンと契約を交わそうとしたした少女を襲った傷は、やはりヒナミにも及んだらしい。頬、腕、足、エトセトラ――そこかしこに出来た傷跡は見ていて痛々しいくらいで、口の端から零れた血は、彼女が言葉を紡ぐたびにぽとぽとと真っ白な服にシミを作った。

 けれど、不思議とあの時のような胸を刺す痛みはなかった。

 ほほ笑んだヒナミが、シンを顔を見上げる。シンもまた彼女の顔を見つめ返して――ふと、不思議な違和感に気が付いた。
 綺麗に透き通った銀色の瞳は、辺りの風景を鮮やかに反射して映し出している。そこにどうにも見慣れないものが見えて、ぱちくりと目を瞬かせた。

「……シン?」

「どうした?坊っちゃん」

 突然フリーズしたシンに、二人が疑問げに首をかしげる。けれどそんな様子に構うこともなく、痛む体に鞭打って両腕を持ち上げた。

「へ、し、シン?」

「――ぁ」

 シンの両手が、ヒナミのほっぺを挟み込むみたいに添えられる。突然の事態に顔を赤くしてヒナミが硬直するが、当の本人はただただヒナミの瞳に視線を注ぎ続けていた。
 ヒナミの瞳には、見知らぬ影が映っていた。小さくてよくは見えなかったけれど、彼女の瞳越しに見知らぬ誰かがこちらを覗き込んでいたのだ。

「――もし、かして」

 やがてヒナミの頬から手を離したシンは、動かない両足を引きずって、屋根の下にまで流れ込んでできた水たまりに近付いていく。暫く呆然とその様子を眺めていたヒナミはようやくその意図を察すると、典厩へ「連れて行ってあげてくれませんか」と声を掛けた。

 典厩もまたその意図を察したのだろう、優し気に頷いた彼はシンの体を抱えると、水たまりのそばに彼を運び――

 シンは、その水たまり(かがみ)を覗き込んだ。

「――あ、ぁ」

 ボロボロの貌だった。
 そこかしこに細かい傷と火傷が出来て、こすれた血で口周りが汚れている。汗と雨と血で額に張り付いた前髪はぐしゃぐしゃで、とても見せられたものではなかった。
 目つきも年にしてはかなり悪い、一見睨んでいるようにも見えかねない焦げ茶色の瞳は、僅かに震えているようだった。

 ただでさえ凶悪な相貌をしているのが、いっぱいに付いた負傷跡でさらに悲惨だ。とても見れたものではない、けれど――。


 けれど、それだけだ。


「ひなみ」

「うん」

 そこに居たのは、傷だらけの子供だった。

 鬼でも、怪物でもない。

 ――ただの、人間の男の子だった。

「ぼくは、ひとだったんだ」

 ぽろぽろと、決壊するみたいに目尻から涙が零れ落ちる。
 ずっとそう言われてはいた、みんなそう言ってくれていた。シンだって生まれてずっとそうだったわけじゃない、分かっているつもりではいた。

 でも、心の奥でやっぱり怖かったのだ。

 自分は本当に化け物で、皆とは違う生き物なんじゃないか。皆と共に生きることなどできない、どうしようもない怪物なんじゃないか、と。

 そこにいた見知らぬ男の子は、シンと同じように泣いていた。ぐしゃぐしゃに泣いて、嗚咽を漏らしていた。

「ぼくは、ちゃんと、ひとだったんだ。ひなみ」

「うん――うん、そうだよ。シン」

 当たり前の事だ、当たり前の事なのだ。
 けれどシンの垣間見る世界が、こことは異なるもう一つの現実が、そうは思わせてはくれなかった。それほど、シンの抱える世界は強烈にシンの認知を曲げ、歪ませ、傷つけていたのだ。

「にんげんだった、にんげんだったんだよ、ひなみ……!」

「うん……うん……っ」

 ヒナミの小さな体に縋りつくように、ぎゅっと強く抱きしめる。とくん、とくん、と鼓動の音が互いの体に伝わって、ヒトの生きている音がするのだ。

 これまでずっと戦い続けてきた――馬鹿正直に優しすぎた子供は、わんわんと、大きな声で泣いていた。泣いて、泣いて、ぼろぼろのぐしゃぐしゃになるまで泣いていた。

 今まで泣かなかった分、ずっと我慢し続けた分。



 ――安心しきったみたいに、ずっと、ずっと、泣き続けた。




 
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