ユア・ブラッド・マイン―鬼と煉獄のカタストロフ―
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episode13『せかい』
――逢魔シンという少年を引き取ったのは、本当にただの偶然の結果としか言いようがなかった。
初めて彼を見たのは、東大阪辺りのとある住宅街。今日と同じく、やたらに冷え込む寒い日だった事を覚えている。
轟々と燃え盛る炎が見えて、暢気にも“酷い火事だな”なんて他人ごとに思っていた。近場を通る予定があったので、不謹慎にも野次馬に混じった。想像よりも被害は深刻だったようで、横が空き地だったのもあり延焼こそ免れたが家屋は全焼。当時その辺りは魔鉄建築が行き届いていなかったこともあって、完全に倒壊した。
周囲に推定住人と思わしき者はおらず、生存は絶望的――だと思われていた。
『子供だ、子供は無事だぞ!』
突入した消防隊達は瓦礫と建材の焼け跡を掻き分けて、やがて一人の少年の救助に成功した。
齢にしておよそ10にも満たないような子供だ、全身に大火傷こそ負っているが、しっかりと自分の足で自立している。消防員達に促されて歩く姿はしっかりとしていて、少なくとも歩行に影響が出るような悪影響がないことは見て取れた。
『――。』
『……え』
少年の目は、絶望に染まっていた。
家族を失ったのだろう、居場所を無くしたのだろう。絶望するのもわかる、分かる、が、彼は違う。それとはまた違うものだ。
智代は知っている。
あれは、生に絶望している。失ったことに悲しんでいるのではない、自らの命が未だ在り続けていることに嘆いている眼だ。智代は何度も見たことがある、かつての〇世代の中にも見られた、延々と続く戦いに絶望しきった者の眼だ。
なぜ、あんな子供がその目をしている。終わりの見えない暗黒時代を戦い続けた者が迷い込んでしまうような領域に、この随分と静かになった世界であんな子供が至る筈がない。
『――待ってくれ!』
智代は“立場”を明かし、無理を言って救急車に同乗した。身寄りを亡くした彼に無理を言って、暫くの入院ののち、孤児院へと迎え入れた。少々問題は幾つか生じたが、使える手全てを使って捻じ伏せた。
どうしても、彼をそのままに放置は出来なかった。
『さぁ、ここが君の新しい家だ。シン』
『――?』
彼は、言葉を喋ることはなかった。初めは何かしらの心的障害か何かで言葉を発するのが困難なのかと思ったが、違った。
ただ単に、彼は口を開くことに意味を見出してはいなかった。これ以上自分が意志を持つことに、何の意義も感じてはいなかったのだ、と分かったのは随分と後のことになる。
彼がやってきて、2か月が経った。
本当に、本当に唐突に彼はぽつりと呟いた。
『なんで、シスターは、ぼくをしなせてくれないの』
本当に不思議そうに、心からの疑問がぽろりと零れ落ちたかのように、彼はそう呟いた。
何と答えてやるべきなのか分からなかった。
怒るべきだったのだろうか。そんな馬鹿なことを言うなと、自ら命を投げ出すような真似が許される筈がないと、怒ってやるべきだったのだろうか。
諭してやるべきだったのだろうか。神に仕えるものとして、自らの人生をすべて放棄しようとする彼を導いてやることが救いになったのだろうか。
智代には、そのどちらも出来なかった。
何かを言うこともままならず、ただただ目の前に居る子供の歪みに胸が痛くなって、抱きしめた。訳も分からずされるがままになったシンには悪いとは思ったが、彼に掛けてやれる言葉がなかった。
――逢魔シンが振鉄位階のOI能力者である事が分かったのは、それから二日ほど後の事だった。
彼の抱える世界は、彼自身が鬼に見えるというものであった。そういった自分自身が何か架空の生物であったり、何かしらの特殊な変質が起きた姿に見えるという歪む世界は比較的よく聞く話であったから、歪む世界の事を実体験として知らない智代は、経過の観察のみに留めざるを得なかった。
彼の抱える世界が異常なものであると知ったのは、そこから更に一週間ほど。
気が付けばよく怪我をする子だ、とは思っていた。些細な切り傷、打ち傷、それまではその程度の怪我だったからあまり気にしてはいなかった。慣れない環境なのだ、そんな事もあるだろう、と思っていた。
ある日、当時の最年長だった子が慌てて呼びに来た。
シンが大怪我をしたという。智代は慌てて彼の案内に従ってシンのもとに向かい、絶句した。
だらんと力なく垂れた左腕からは、次々に血が滴っていた。着せていたシャツはどす黒い血で染まって、じわじわとそのシミを広げている。慌てて救急車を呼んだのち、彼の服を脱がせてみれば、またも智代は言葉を失うことになった。
彼の左腕は、まるで刃物で突き刺されでもしたかのように貫通したような傷が出来ていたのだ。
何か危ないものに触ったのか、と問いただしても彼は首をかしげる。痛みなどまるで分らないとでも言うかのようなそのけろりとした様子に、智代は改めて危機感を覚えた。
逢魔シンの抱える世界は、あまりにも歪だ。彼自身その全容を把握しきれていないそれは、現行の人類が至った理解を超えるもの。
彼という人間を壊したのは、彼の中の世界なのだと悟った。
――そしていつか、その地獄から彼を解き放つと、そう心に決めた。
――――――――――――――
紅蓮の世界に包まれた聖堂が、瞬く間に白銀色に染め上げられていく。
水銀のように流動するそれからいくつか分離した、シャボン玉のようにふわふわと浮ぶ不定形の魔鉄は、まるで竜巻の軌跡を描くように激しく辺りを旋回する。
『ぼ、くノ』
随分とくぐもった声だ、シンに纏わりつく魔鉄の鎧は彼の口内にまで侵入し、発声に難が発生しているように思える。ぷち、ぶち、という音は彼の頬辺り――というか、魔鉄が口の端が裂いて強制的に開口を促している。
弾け飛んだ筋繊維と皮が、べろんと魔鉄の牙の上に垂れ下がった。
『ボクた、ちの、いえか、ら、デテい、けェぇッ!!』
あまりに、悍ましい咆哮だった。
これまでの彼からは聞いた事もないような大声、そして聖堂全体が震えるかのような衝撃が拡散する。鼓膜が破れそうなほどの清涼に、ヒナミは苦悶の声を上げて耳を塞いだ。
「……お前は」
『おおオオぉ、ぉおオォォぉぁァッ!!!!』
銀色の怪物が跳躍する。緩んだ床が大きく陥没して、超重量の金属塊が5メートルも上昇する。丸太の如く太い腕を象ったソレは鞭のようにしなると、一直線に床のタイルブロックを粉砕した。
寸前で回避したスルトルを、砕け散った瓦礫片が追撃のように打つ。微小ながらも確かな衝撃を伴ったそれらは、ショットガンのように再び彼の肉体を吹き飛ばした。
「……なんだ、オイ、お前。製鉄師、じゃあねぇな、オイ」
ただし、製鉄師である彼を護る魔鉄の加護は、一切のダメージを通さない。
平然と立ち上がったスルトルは、不機嫌そうに逢魔シンを睨みつける。
逢魔シンは、間違いなくOI能力者である。しかし製鉄師ではなく、ただ歪んだ世界を観測させられ続ける宿命を背負った、ただの人間でしかない。しかし、そのただの人間が振るえる力にしては、今の彼はあまりにも異端が過ぎた。
「カセドラル・ビーイング……いいや、違うな。近ぇが違う、お前は間違いなく人間だ、情報生命体って感じじゃあねぇ。魔鉄を纏っていやがるのか」
『け、ァアぁッ!!』
怪物の腕は、赤熱した断面を晒して落ちていた。
スルトルが焼き切ったのだ。その手を包む超高温の光の刃、1.5メートルほどの射程を持つ熱線。ただ掲げるだけで周囲の床が焦げ付き始めるそれは、あの程度の魔鉄塊を瞬く間に切り落とす事も容易であるのだろう。
だが。
ずるり、と、切り落とされた片腕がひとりでに動き始める。大質量のそれは切り落とされたシンの鋼の鎧に再度纏わりつくと、これも再び巨大な腕の形を象った。
「魔鉄器じゃねえ――魔鉄をそのまま、イメージの力だけで無理やりに纏ってやがるのか、お前」
『ガ、あッ!!』
鬼の姿を模したそれは大きくその脚をしならせると、スルトルの腹部に膝を直撃させる。膨大な質量と速度により振り抜かれたそれは彼の肉体を大きく浮かせると、弾丸の如き速度で瓦礫の山へと叩き込んだ。
異形の怪物、と呼んで間違いない容貌であった。
『か、ヒュ。カぁ、あ、ひュ』
呼吸はあまりにも不自然で、とても満足に酸素を取り込めているとは思えない。僅かに見える逢魔シン自身の肉体は、熱された魔鉄によって火傷の跡がいくつも浮かび上がっていた。
「し、ン……?」
「……ともよ?」
ヒナミの後ろに倒れていた智代が、そんな声を漏らした。
「シ、ン……だめ、だ。それ以上、そっちに、いく、な!」
「ともよ、動いちゃだめ、怪我が……!」
「おまえ、は、化け物なんかじゃ、ない……おまえは、人間なん、だ……!」
ヒナミの静止など耳にも届いていないように、智代は焼き切られた足を引きずって床を這う。それを止めようとヒナミが間に割って入ろうとも、彼女は凄まじい力でヒナミを押しのけ進もうとする。
およそ歩くこともままならない怪我人の力ではない。彼女はきつく噛んだ唇から血を流しながら、決死の形相で瓦礫と化した床を掴んだ。
『――ァ、あ、あァッ!!』
「――。」
やはり、スルトルにダメージはない。どれほど常人なら死を免れないダメージを受けようが、それが同じ製鉄師によるものでない限りは彼らに友好打を与えることは不可能なのだ。
『……かぞ、クを、マモるん、だ』
彼の身に起こっているであろうあらゆる苦痛を無視して、吠える。
それは逢魔シンという罪に溺れた青年がその身に刻んだ贖罪、それ以外に償い方を知らなかった無知な少年が出来る、ほんの僅かな罪滅ぼし。
『みんナを、まモる、んだ』
そして或いは、彼自身の願い。何もかも全てを悔恨と苦痛の海に沈めてしまった彼の持った、数少ない“望み”と呼べるもの。
自ら望みを持つことを悪と断じた馬鹿で思い込みの強い子供が、その心の僅かな隙間に抱え込んだ、唯一とも呼べる願い。
『ひな、みを、まもる、ん、だ――!』
そして。
世界に怯える新たな家族と、必ず果たすと誓った小さな約束。
ごちゃまぜになった彼の全てが、今ああして怪物の姿を突き動かしている。あの化け物の根底に眠る、彼の自意識の中の自称“存在意義”が、彼自身の全てを代償に走り続けている。
ぼろぼろになって、傷だらけになって、歪み切った彼の中の世界の示すままに、その身をズタズタに引き裂きながら、見えもしない本物の世界と戦い続けている。
――不意、に。
『――――――――――――――ぁ。』
「――――――――――――――ぁ。」
逢魔シンが、僅かに、声を漏らす。
宮真ヒナミが、僅かに、声を漏らす。
瞠目、光、炎。
煉獄。
血。
鬼。
瞬きの間に、世界が交錯する。二つの世界が、唐突に、精彩に。
その時になって、初めて、ヒナミは。
逢魔シンという少年を、理解した。
「ともよ、待ってて」
「――?」
ゆっくりと、立ち上がる。
炎の海と化した聖堂を渡り歩く。無論炎は容赦なくヒナミの肉体を焼くが、未契約の状態とはいえ魔女の肉体は魔鉄の加護の片鱗に護られている。苦痛を感じはする、が、前に進めない程ではない。
歯を食いしばって、彼の下へと。
「……ひな、み?」
逢魔シンという少年は、本当に強いんだな、と、ずっと思っていた。
彼はいつだって“皆の優しいお兄ちゃん”で、新しくやってきたヒナミに対してだって常に気をかけてくれていた。皆と仲良く過ごせるように、ヒナミの恐れるトラウマからだって守れるように。
ヒナミだけじゃない、孤児院に住まう子供たちや、智代の事だってずっと気に掛ける事を忘れない。皆が幸福にすごせるように、ずっと動き続けていた。
優しい少年なんだな、と、そう思っていた。
「違うんだ」
彼は、分からなかったんだ。
化け物の自分が生きる理由が、怪物の己が存在する価値が。
自分を家族と呼んでくれる人がいた、大切だと思える人達が出来た。彼はそんな人たちを、罪業の鬼を受け入れてくれた世界を守らねばならない、と思った。
“守らなければ、自分が生きている理由が分からなかった。”
必死だったんだ。
自分の存在意義が欲しかったのだ。
生きている意味が欲しかったのだ。
とっくの昔から彼は、そうすることでしか生きていられないぐらいに、破綻してしまっていたんだ。
『――。』
一匹の鬼が、ヒナミを見ている。
一人の魔女が、シンを見ている。
まだ、一つだけ分かっていない。
たった一つだけ、分かっていない。
彼の世界を、ヒナミは知らない。だから知りたい、彼の抱える世界を。
……ああ、逆だったんだ。すべて、何もかも。
「応えて、シン」
孤独のなかでもがく、罪に呑まれた男の子。
誰よりも助けを欲していたのは、彼だ。
――掘削許可。
もしも、仮に運命というものがあるんなら。
きっと、私は。
「わたしの世界は、あなたのもの」
あなたを救うために、産まれてきた。
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