波呼び
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第一章
波呼び
沖縄の古い話である、何でも美里間古謝村でのことらしい。この村に住んでいる漁師名前はここでは渡嘉敷由吉としておく、この由吉が浜で網を引いているとここで網の中から微かな声が響いてきた。その声はというと。
「一波寄せるか二波寄せるか三波寄せるか」
「何だこの声」
由吉はその声を聞いてすぐに嫌なものを感じた、日に焼けた細い目の顔にすぐにそうした感情が出た。背は小柄であるが均整の取れた身体つきだ、漁師の服も似合っている。
声がした網の方を調べるとやけに魚がいた、外見はこの辺りの海でよく獲れるものだ。大きさは段違いであるにしても。由吉も他のものもよく食べているし売ってもいる。
だがその魚が喋っているのでだ、どうにも嫌なものを感じてそれでその魚を逃がそうとした。だがここでだった。
細いというか何か卑しいものを感じさせる光があり垂れていて呆けた中に卑しいものを感じさせる背中の曲がった男が来た、この男の名前を古守吉久としておこう。由吉と同じ漁師であるが強欲かつ吝嗇でしかも強い者に媚びり弱い者は虐げしかも嫌いな相手の根も葉もないことを言い触らす癖があり村の嫌われ者だ。
この者が由吉のところに来て言ってきた。
「どうしたんだ?」
「いや、この魚がな」
由吉は嫌な奴が来たと思いつつもその感情を伏せてそのうえで吉久に応えた。
「喋ってな」
「魚がか」
「聞こえるだろ」
ここで由吉は黙った、そして吉久に魚の声を聞かせた。そうしてからあらためて彼に対してこう言った。
「そうだな」
「一波二波三波って言ってるな」
「寄せるかってな」
「確かに言っているな」
「喋る魚なんて気味が悪い」
由吉はあらためて言った。
「だからこの魚は海に返す」
「おい、美味そうな魚だな」
吉久はその魚を見て由吉に言った。
「しかも大きいじゃないか」
「そうだな」
由吉もそのことはその通りだと返した。
「けれど喋るからな」
「海に返すのか」
「そうする」
「喋っても所詮魚だろ」
それでとだ、吉久は由吉に言った。
「それにそんなに大きくて美味そうなんだぞ」
「だからか」
「ああ、だからな」
それでというのだ。
「その魚海に返すんなら俺にくれ」
「それで食うつもりか」
「ああ、お前はいらないんだな」
「だから海に返す」
「だったらな」
それならというのだ。
「俺が貰う、いいか」
「喋る魚でもいいか」
「ああ、美味そうだからな」
こう言ってだ、そうしてだった。
吉久は由吉から魚をひったくる様にして貰って家に帰った、由吉はその彼の後ろ姿を見つつ何もなければいいかと思いつつ自分の家に帰った。
そうして女房五十子としておくよく日に焼けた明るい顔立ちの女にこのことを話すと女房はこう言った。
「そんなお魚はね」
「海に返した方がいいな」
「そう思うよ」
「そうだよな」
「そんなお魚食べていいとは思えないよ」
「全くだな」
「まあ古守さんだからね」
五十子は嫌そうな顔で述べた。
「別にね」
「どうなってもいいか」
「あんな嫌な人この村にいないだろ」
「皆そう言うな」
「実際にそうだよね、性格が悪いにも程があるよ」
まさにというのだ。
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