黄泉ブックタワー
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第一章 それは秋葉原にそびえ立つ魔本の塔
第1話 初めてだった
秋葉原駅から、少しだけ離れた交差点。
平日なのでそこまで騒がしいわけではないが、人はたくさん流れていた。
ここには、大きなタワー型の本屋がある。
……いや、あるはずだった。
なぜか、今日は違った。
アカリは〝それ〟を見た瞬間、本当に現実なのだろうかと思った。
気温は連日の三十五度超え。おまけに最近は体調も悪かった。そんな中で、会社の昼休みに外出した。
なので、自分は熱中症にでもなって、白昼夢か幻覚を見ているのではないか、と。
だが、目の前の〝それ〟は、夢にしてはあまりにも鮮明だった。
そして、夏の幻にしてはあまりにもどす黒かった。
「何、これ……」
アカリの視線の先には――。
見たこともないような禍々しい塔が、天高くそびえ立っていたのである。
圧倒的な高さに、黒色の壁。
中層より上には窓があるようだが、なぜか太陽の光を反射している様子はない。不気味な闇色が並んでいる。
その異様な塔。昼間の秋葉原の景色からは、明らかに浮いていた。
しかし、通行人には誰一人として足を止めて見上げる者はいない。いつものように、うだる暑さの中、早足で塔の前を通り過ぎていく。
「どういうこと?」
その不自然な光景に、思わずそんな言葉が口から出てしまった。
「それは、お前にしかあの塔が見えてないからさ」
「――?」
その突然の声に、猛暑で吹き出していた汗が急に凍ったような感覚がした。
アカリはこわばる体を回し、後ろを振り向く。
「よお。お前、アカリだろ」
人が行き交う中、笑顔で立っていたのは、アカリよりも上背のある若い青年だった。
黒のタンクトップに濃緑のショートパンツだけという、夏らしい恰好。露出している腕や足は程よく筋肉質で、肌は日本人にしては濃く、そしてただの日焼けとは思えないほど、ムラのないきれいな褐色だった。
「あなた、誰」
名前を呼ばれたアカリだったが、この青年に見覚えなどなかった。
「俺だよ。俺」
人差し指を自身の顔に向けながら、青年はそう言った。
バランスよく上がった口角に、薄い唇、やや犬歯が発達した真っ白な歯。とても爽やかな笑顔で、褐色の肌とよくマッチしていた。
「え、オレオレ詐欺?」
「ん?」
形のよい青年の黒い眉毛が、左右同時にわずかに上がる。
「なんだ? 『おれおれさぎ』って。初めて聞いたな」
不思議そうに言うと、自身の左手を胸の前まで挙上させた。
そこでアカリは初めて気づいた。青年は、左手に厚めの黒い本を持っていた。高級そうな模様で装飾されており、一見するとアンティーク洋書のようだ。
たまたま持っていた本が辞書で、今調べる気なのだろうか? と、今度はアカリのほうが不思議に思った。
青年が本を開く。
左手の親指をずらしながら、猛スピードでページを送っていった。
最後まで進むのに、わずか数秒。
「この本には載ってないみたいだな。アカリ、それは新しい言葉か?」
そんな速さでページをめくって、読めるの? とますます不思議に思いつつ、聞かれたことには答えることにした。
「新しいといえば新しいのかな。オレオレ詐欺っていうのは、孫とか子供のフリをして、お年寄りからお金を取る犯罪」
「俺、犯罪者じゃねえよ!」
今度は一転、青年はムスっとした表情になった。
「あっそ。で、とりあえずあんた誰なの」
「俺は悪魔だよ」
「私に悪魔さんなんていう知り合いはいません」
「いや、いるだろ? お前、昨日ツイッターで『死にたい』とか書いただろ。そのときリプしたぞ」
――あ。
心当たりはあった。
たしかに昨日、ツイッターで「もー死にたい」とは書いており、すぐに「悪魔」という名のユーザーから、長々と説教じみた励ましをもらっていた。
ツイートは冗談半分であり、匿名の相手に人生相談などする気はなかっため、大変に困惑していた。
「あの悪魔かー。朝起きて思い出したら気持ち悪くなったから、ブロックしちゃってた」
「んあっ?」
青年はわかりやすく驚いた表情をとると、ショートパンツの右ポケットからスマートフォンを取り出した。
「あ。ここ無料Wi-Fiとかいうやつ、つながってないか。でもお前ひでえな! 俺べつに変なこと言ってなかっただろ!」
「ごめんごめん」
「なんだよ、せっかく励ましたのに」
「でも今までリプくれたことなかったでしょ? いきなり来るとびっくりするよ。というか、ツイッターにリアル情報を出してないのに今日いきなり私の前に現れるとか、おかしくない? ストーカーなの?」
「俺、悪魔なんだから、お前の位置を知っててもおかしくないだろ。ストーカーじゃないぞ」
「ストーカーっていう言葉は知ってるんだ……」
ツイッターやWi-Fi、ストーカーを知っていて、オレオレ詐欺は知らない。
そのバランスの悪さを、アカリはいぶかしく思った。
「で、自称悪魔のストーカーさんは、なんの用で私の前に現れたの?」
「だからストーカーじゃないって。今日は仕事をしにきたんだぜ」
「仕事?」
青年は「ああ」と答えると、少し顎を引いて、胸を張った。
「お前の願いを、一つだけ叶えてやるよ」
人差し指を立て、ニコッと笑う青年。
夏の日差しに照らされた、爽やかなその顔。なぜか汗が光っている様子はないが、見かけだけならずいぶんと健康的で、逞しい若者といった感じだ。
「ふーん。本物の悪魔みたいなことを言うんだね」
「俺は本物だぞ? 悪魔の一種の本魔ってやつ。本に悪魔って書いて本魔」
「本魔だから本を持ってるってわけ? ホンマに成り切り具合が素敵やね」
「お前、信じてないだろ……。俺はあの塔の上層から、空を飛んでここに降りてきたんだよ」
彼が指で示したのは、アカリが驚かされた、黒い塔。
「そう言われても信じられるわけないでしょ。いつ建ったのか知らないけど、あんな高さの塔の上層から飛び降りたら、普通死ぬって」
「じゃあ、飛べることを証明できれば信じるのか?」
犬歯を覗かせながら、少しニヤリと笑い、腕を組む青年。
「は? どうせちょっとジャンプして飛べたとか言うんじゃ…………え?」
適当にあしらうはずのそのセリフは、最後までは言えなかった。
音もなく、彼の背中から左右に、真っ黒な羽が広がったからである。
「ええええ――――?」
アカリの大きな声が、真っ昼間の秋葉原にこだまする。
それは真っ黒で、膜状で。悪魔のイメージそのものの羽だった。
早足で通り過ぎていた人たちが足を止め、顔を向けていたが、アカリの目には入らなかった。
「え、何これ? どういうこと?」
「へへっ。お前みたいな奴のことをな……うん、これかな。『夏虫疑氷』って言うんじゃないか?」
青年は手元の本を見ながらそんなことを言うと、背中の羽を羽ばたかせた。
「えええっ? と、飛んでるし……」
不気味なほど穏やかに上空に昇っていく青年。なぜか風圧もなく、アカリの長めの髪もほとんど揺れることはなかった。
青年は、信号機と同じくらいの高さで止まった。
そして太陽の光をいっそう浴びながら、夏の青空を背に、爽やかに笑っていた。
しばし呆然としたアカリだったが、電車と思われる警笛が遠くから聞こえると、ハッと我に返った。
「あっ! ちょっと! 降りてきて!」
「ん? もっと見なくていいのか?」
「いいから早く!」
青年はゆっくりと羽ばたきながら、ふわっと着地した。
「どうした?」
「どうしたじゃないでしょ! 周りの人たちに見られてるって! その羽も早くしまって! 警察来ちゃったらどうするの!」
いつのまにか、大勢のギャラリーに囲まれていた。
詰め寄るアカリに対し、青年は親指を立てた。
「そのへんはちゃんと考えてるぜ。俺、今は姿消してるから。お前にしか見えてないはずだ」
「は?」
アカリはあらためて周囲を見渡す。
言われてみれば、ギャラリーの視線は悪魔の羽を生やした青年ではなく、アカリのほうに集中しているように見えた。
「も、もしかして、声も?」
「ああ。俺の声も、今はお前にしか聞こえてないはずだぞ?」
そのあっけらかんとした口調は、アカリの頬を瞬時に紅潮させた。
「早く言えこの大馬鹿――――!」
ビンタの音が、秋葉原の道路に響いた……と感じたのは、アカリだけ。
周囲から見れば、やはりそれも若いOLの一人コントだったのである。
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